神 聖 国 紀 行

「確かに、この辺りだったのですが…」
 最初の自信に満ちた口調から、どんどん力がなくなっていく。先刻まで敵将の首をとったかのように得意げに胸を張っていた男は、今やただのしなびた中年男だった。
 一行の隊長格にあたる男は、発言者をじろりと一瞥した。はっきりとした侮蔑が籠もった眼差しだった。
「見間違いではないだろうな?」
「いえ、そんなことは! ……ないと思うのですが…」
 竜頭蛇尾という言葉をそっくりそのまま再現したようだ。最後の言い訳は、ほとんど聞こえないほどの小さな声になっていた。
 辺りを探っていた一般兵士のひとりが、困惑したように彼らの傍にやってくる。彼の背後にも、中腰の間抜けな格好で、草を掻き分けて森の奥を探索している兵士たちがいる。
 その兵士は敬礼して、きびきびとした口調で言った。
「やはり、何の痕跡も見受けられません」
「ふん」
 隊長格の男は、もう一度、嫌味たらしく中年男を睨め付けた。
「おい、もういい、全員集まれ! 帰るぞ」
「はっ」
 兵が背を伸ばし敬礼して、その命令を伝えるために森の中へと分け入った。伝令が飛び、腰を伸ばして欠伸をする声がそこかしこから聞こえた。
 中年男はますます、身を縮めた。

「…何だったんだろうな、今のは」
「さあ…」
 イオの阿呆らしいと言わんばかりの声音に、クウヤが馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの視線で土煙を見送りながら答えた。ルックは特に反応を見せなかったが、大方の感想は二人と同じだろう。
 街道の向かいの木に登って、彼らはその奇妙な一軍を観察していた。
 意気揚々とした案内役の男――クウヤ曰く「地獄耳」であるルックが、昨夜の騎乗者と同一人物である確立が高いと言った――と、同じ時代に生きている人間とは思えないような、趣味の悪い口ひげを豊かに蓄えた男が率いる小隊。古びた鉄の甲冑の端からは神聖国の色である青い布が垂れていたが、もう随分と色褪せて、あの禍々しいまでの冷たさは感じられなかった。
 イオが鼻を鳴らして、地面に降り立つ。
「あれ、正規軍か?」
「なんかやけに親しみを感じたんですけど。ほら、庶民的な感じが」
 彼を見下ろすという珍しい位置に名残を感じながら、クウヤもするすると木から降りた。別の枝にいたルックは風を使って降りてくる。
「農民を駆り出したんじゃないか」
 ハルモニアには、職業軍人である近衛と、戦時に領主に徴兵される農民、金で雇われた傭兵の三つの軍隊がある。先だって王国に派遣されたのは正規軍と、何度か契約を交わして馴染みがある有名な傭兵隊の混合部隊だった。
「わざわざですか?」
「出稼ぎとか」
「それにしては足並みが揃いすぎてた」
 ルックが言うと、イオは眉を寄せた。
「足並みしか揃ってなかったように見えたぞ」
「てかやっぱ、庶民的でしたよね」
 クウヤが首を捻って、街道のほうへ顔を出した。
 人影は消え去り、土煙も収まっている。乾いた硬い大地に微かに馬蹄の跡が残っている程度だ。
 イオはまだ疑問――というより、焦りを覚えた分拍子抜けしたのだろう、八つ当たりのようにだらだらと文句を言っている。
「あのおざなりな調べ方、訓練されたとは思えん」
「正規兵でも探し物の訓練なんかしないと思うんですけど」
「あのへっぴり腰を見ただろうが」
「見ましたけど。…どっかの貴族の私兵とかじゃないですか」
「それなんだがな、ふと思い出したんだが、神殿は…首都の貴族もだが、私兵を雇わないんだ。ここは首都に近いようだから、領主はつまり神官長なんだよ」
 クウヤは訳がわからないといったような顔をした。
 イオが面倒くさそうに説明する。
 ここは地図で言うなら、クリスタルバレーという地域であるはずだ。そしてクリスタルバレーはハルモニアの首都であり、その領主は神官長ヒクサクということになる。ヒクサクは自分が各地に派遣した領主たちには傭兵を雇うことを許可したが、自らは近衛、つまり正規の軍人しか使わない。それに何の意味があるのかはわからないが、もう百年以上前からそうなのだ。
 丁寧な説明を、クウヤは乱暴にまとめた。
「要するに、ここらには生粋の職業軍人しかいないってことですか」
「そういうこと」
 イオが鼻を鳴らす後ろで、ルックがいやそうに顔を歪めている。
 余程ハルモニアの話がお気に召さないらしいと、クウヤは苦笑いをしながら思った。
「僕らを捜してたんでしょうか」
 そうだとすれば、昨日はどうやら、あの馬の持ち主は煙に気づいたうえで素通りしたらしい。それが慎重な判断からなのか、それとも臆病風に吹かれたのかはわからないが。
「理由もないのに?」
 ルックが表情を崩さすに言う。
「理由ができたかな」
 先刻まで部隊に探索されていた、焚き火の跡を覗き込んで、イオが面白そうに言った。
「あーあ、こんなわっかりやすい証拠が残ってんのに『何の痕跡も見受けられません』ねえ…あんだけ調べといて、そりゃないんじゃないか、そろいも揃って間抜けどもが」
「獲物を見つけたって感じだよね」
 クウヤはそっと、不機嫌そうなルックに耳打ちする。
「八つ当たりのね」
「次にあの人たちに会ったら、いきなり探し物の仕方を指導し始めたりして」
 想像して、クウヤは自分で笑ってしまった。
「ものすごい念入りなんだよきっと。おいそこ、きちんと土を掘り返せ、匂いを嗅げ! だいたいちょっと見れば焦げ跡が残ってることがわかるだろうがこの頓馬! とか」
「楽しそうだなお前」
 クウヤが声を抑えなかったため、もちろん一部始終を聞いていたイオは、特に反論をせずにそれだけ言った。折り曲げていた身体を起こすと、頭布を結び直す。
 ルックがそれを見ながら、淡々と言った。
「ここら一帯が禁猟区だとか、火を起こすのが禁じられているとか、旅人を見たら連行するのが規則だとか、そんなものかもしれないけど」
「できればそっちがいいなあ」
 珍しくのんびりとした立場になったクウヤが、期待するように零す。
 イオは不審そうに首を捻ったが、考えても答えが出ないと思ったのか、結果論を口に出した。
「まあ、見つからなかったからいいか」
「でもまた同じようなことが起こらないとも限りませんし、とっとと出国するべきですよね」
「買い物なんてしてる暇はないね」
 珍しく息を合わせて、クウヤとルックが駄々を捏ねているもうすぐ二十歳の元英雄を見やる。
 まだ二十歳なのに痴呆にかかったのか解放軍時代の叡慮を発揮してくださることが少なくなられたともっぱらの評判の元英雄は、街道を囲む常緑樹に視線を受け渡す。
 常緑樹はもちろん、その視線を無機的に優しく受け止めてくれた。
「目を逸らすなそこの馬鹿」
 ルックが容赦なく罵倒した。

「たまたま川の近くに辿り着いたところその対岸にちょうど探していた貴重な薬草が生えていたら採取するもんだろ。これぞ天の思し召しに違いない」
「川の流れは速いうえに、橋も見あたらないのに?」
「しかしそれを持ち帰ることによって全人類が救われるんだぞ」
「僕の知らないうちに、人類は滅亡の危機に瀕してたんだな。どこかの馬鹿一人しか残ってないなんて」
 ルックはこれぞ公式と言わんばかりの、異常に堂に入った嫌味な態度を披露した。
 吹き出したクウヤをはたいてから、イオはまた、そろそろ惰性になり始めた説得作業を繰り返す。
「そもそもお前が断らなけりゃな…」
「人のせいにするな」
「そろそろ台詞がワンパターンになってきてますよイオさん」
「喧しい」
 イオはまたクウヤをはたこうとしたが、今度は見事に避けられた。クウヤはイオとの間にルックを挟む位置に回り込み、憎たらしく手を振る。
「あっはは、ほらワンパタ!」
「お前、姉弟二人一組でいるときと態度が違うぞ!」
 元々決していいとは言えない目つきを更に悪化させ、イオは吐き捨てた。
「そうですか?」
 クウヤはいちいち癪に障る、ぶったような仕草で首を傾げる。心なしか瞳の煌めきが増していっそう少女じみて見え、イオはげんなりと肩を落とした。これは、普段からわかっていてやっているのだろう。
 頭の両脇から交互に喋られて、ルックは疲れたように顔をしかめている。
 街道は相変わらずだらだらと続いていた。左右に見える常緑樹の群れも変わらない。進むにつれてだんだんと種類を変え、いまや鬱蒼と茂る高い木々に遮られて、行く手に何があるのかも見通せない。
「あー、まだ着かないかなあ…」
 平気そうに見えてもそろそろ歩くのに飽きてきたらしいクウヤが、そう嘆息する。
 昨日も歩きづめで、朝起きて、部隊が走り去ったあとから朝食もとらずにまた歩き続けているのだ。最近ようやく安定した食生活を送っていたというのに、災難なことだった。
「お腹空いた…」
「我慢しろ」
「してますよ! う、叫んだらまた」
 クウヤは腹を押さえる。虫が疼いたらしい。
「あの中年が戻ってきた時間からして、もうそろそろ町に出るだろ…と」
 イオがふと、歩みを止めた。
「なんだ、ありゃ」
 彼の視線を追って、他の二人も似たような反応を返した。
 深い緑が幾重にも連なる向こう、白い空に映えて、石造りの城壁と尖塔がそびえていた。