神 聖 国 紀 行

 遠い馬蹄の音に目を覚ましたクウヤは、慌てて両手で口を抑えた。周囲の冷えた空気に、思わずくしゃみをしそうになったからである。
 目の前で揺れる焚火の炎が風にいっそう煽られ、心許なげに揺れながら、薄い灰色の煙を吐き出した。
 クウヤは咄嗟にその火を踏み消した。火の番だったものの、昼間の疲れが出たのだろう船を漕いでいたルックが、その音に身じろいで目を開ける。
 自分が寝ていたことに気づいて舌打ちしそうになる彼に、クウヤは声をひそめて言った。
「ルック、馬が来てない?」
「…馬?」
 緊張しているクウヤの言葉をまだ幾分ぼやけた声で繰り返して、ルックはそれでも何とか、その微かな音を聞き取ったようだった。風と相性がいいだけあって、彼の聴覚は他の人間よりも数倍たしかだ。
「…イオ、起きろ」
 顔をしかめると、ルックはすぐ側で眠り込んでいたイオを乱暴に揺さぶった。クウヤはその行動に確証を得て、焚火の跡に、一見してもそれとわからないように土をかけた。
 不機嫌そうに小さく唸ったあと、イオが上体を起こして額に手を当てる。
「……何だよ」
「寝ぼけてないで起きろ。誰か来る」
 素早く覚醒すると、イオは目つきを険しくして耳を澄ませた。事実を確認して不機嫌そうな顔つきになると、周りを囲む樹木を見上げる。
「…気づかれてるか」
「そりゃ、気づかれるでしょ」
 燻りからはまだ微かに煙が上っている。苛立たしげに右目を細めると、イオは近づいてくる音の主を見極めようとするかのように、自分たちが昼間歩いてきた方向に目を向けた。
 馬に乗っている人間にろくな者はいない。
 馬は貴重な財産であり、戦場でも一握りの者にしか騎乗は許されない。商業が盛んだった同盟領では軍馬にできるような馬は貴重なので、今の同盟軍では相応の実力を備えた人間が馬を回されているが、この地では異なる。馬に乗る者は貴族であることが多い。
「…こんな時間に単騎で走ってるなんて、何かあるよな」
「巻き込まれないうちに隠れときますか」
 事なかれ主義に徹して、手近な茂みを見たクウヤをルックが制した。無言で眉をひそめ、耳を澄ませる。ややあって、
「…落ちない」
と、ぽつりと呟く。イオが訝しげに眉を寄せた。
「何が」
「…速さが」
 呼吸音や足音がうるさいので、気づかれないよう近づきたいならば、近くに来るまでに馬は降りるだろう。
「こっちに気づいてないのか?」
「そうか、構ってる余裕がないか」
 よほど急いでいるのか。
 今のところハルモニアが手を出しているのはデュナン地域の紛争だけであるはずだが、そちらで新たな展開があった可能性もある。軍主不在のうちにとは、大変望ましくない展開だ。
 しかし、彼らがやむを得ない事情で本拠地を出てくる前には、そんな気配は微塵もなかった。
「あっちで何かあったのかも」
 ルックが耳を澄ませたまま、小さな声で言う。クウヤは首を傾げた。
「ハイランド内でってこと? ジョウイが何かしたのかな」
 もしそうなら、できれば捕らえて、情報を聞き出しておきたい。しかし、関係がないのなら無駄骨どころか藪蛇になってしまう。
 悩むクウヤの頭上で、イオが隣に尋ねた。
「ハイランド王国からは手を引いたんじゃなかったのか? 兵もおおかた引き上げたはずだろ」
「その様子だけどね」
「じゃ、たぶんあっち絡みじゃないだろ。無駄なことはしないタイプだし」
 あっさりと懸念を打ち消した顎の下で、クウヤが呟いた。
「じゃあやっぱり、僕たちのことが漏れたんでしょうか?」
「侮られてるのか?」
「気づかれても構わないと思ってるってことですか?」
 不可解に声をひそめて話している間にも、馬蹄の音はどんどん近づいてくる。相手の考えがわからない以上、嫌でも緊張感が増していく。
「何なんだ、いったい…」
「どうする?」
 馬はもうすぐそこだ。
 態度を決めかねて、焦慮のあまりルックが舌打ちしたとき、クウヤがふと言った。
「…ところで僕らって、何かに追われてるんでしたっけ?」
 空気が凍った。
「……」
 無表情になっている一行のすぐ側を、高らかな足音が通り過ぎ、遠ざかって行く。それが闇に紛れ、消えてしばらくしてから、イオが阿呆らしそうに嘆息した。
「焚火が禁止されてるわけでもなし、街道にいる旅人なんて普通誰も気にせんな」
「まして貴族さんが平民のことを気にするわけないし」
 ルックは声も出さず、ぐったりと肩を落として重い空気を背負っている。やっと緊張が和らいだところにまた神経を削るようなことがあって、安堵した分反動が大きかったらしい。
 新たに火を起こすと、馬鹿馬鹿しくなって、火の番も立てずに彼らは今度こそ眠りについた。

「……――馬だ」
 明け方、クウヤは再び目を覚ました。
 健気に燃え続けていたひと摘みの火が、彼がまぶたを上げると同時にふつりと消える。
 他のふたりはまだ眠っている。彼らの中で一番野戦に慣れているのはクウヤだ。だから、物音や気配、というよりも敵が来る空気に気づくのも、彼が一番早い。
 深く眠り込んだためにすぐには脳が働かず、のろのろと体を起こすと、彼は野生動物の習性のように焚火の跡を消した。それから大きく伸びをして、ふと眠気覚ましを兼ねて瞬いた。
 馬が来る音が聞こえる。それも、昨日よりも数が多い気がする。
 起きてすぐに活動時間帯に入るクウヤは、とっさに声を上げた。
「起きて、ルック! 馬が」
「――は…?」
 そうはいかないルックは、まだ5分の4ほど夢の中にいる。彼はきつく眉を寄せて、それから、面倒くさく思っていることを隠そうともせずに目を閉じたまま言った。
「この辺りでは…軍用馬を食肉として扱うことは禁じられてるから、捕まえても食べられないよ」
 整然とした語り口だが、内容からして、半分以上は寝言である。寝ているくせによくこうも頭が働くものだと感心しながら、クウヤは声を大きくした。
「昨日の人が戻ってきたのかもしれないよ、しかも、何か増えてるし」
「…気のせい」
「いやそんな勝手に断言されても、気のせいじゃないって!」
 なおも言いつのろうとしたクウヤの鼻先を掠めて、何かが飛んだ。咄嗟に背を反らせたから免れたものの、そのままその位置にいたらまず間違いなく傷を負っていた軌道だった。
 硬直しているクウヤの横手から声がかかる。
「…あ、悪い…寝ぼけた」
「へえ――え寝ぼけたんですかそれはそれは」
 イオが投げて幹に突き刺さった短剣を引き抜くと、クウヤは無造作にそれを投げ返した。どすっ、と腹に響く音がした。
 自分の背後の木に突き刺さったそれを抜くイオに、
「すみません、手が滑りました」
「そこで止めとかないと切り裂く」
 絶妙のタイミングでルックが割り込み、二人は渋々矛を収めた。かと思えば、次には仲良く隠蔽工作に従事していたりする。喧嘩はじゃれ合いのようなものなので、そこまで深刻には発展しないのだ。ルックは理解できないという風に額に手を当てて嘆息した。
「それで、何?」
 靴の裏で器用に土をそこらにかぶせているクウヤに尋ねると、彼は一瞬、何の話だと言うように顔をしかめた。低血圧の魔術師は、据わった目で睨み付ける。
「起こしたくせに何、その顔」
「あ、そうそう。馬の気配がしない?」
 けろりとしてクウヤは言った。たいして深刻そうでないのは、昨日の出来事が尾を引いているのだろう。
 ルックは目を覚ますために無理矢理欠伸をすると、耳を澄ませた。確かに馬の気配がする。それも複数、というよりも、小隊ほどの人数がいる。
 しばらく目を眇めてそれを聞き分けていたルックが、やがて呟いた。
「…。隠れたほうがいいかもしれない」
「でも、うまく話せば町まで連れて行ってもらえるかもしれないよ」
「乗ってるのは多分、かなり訓練された職業軍人だ」
「隠れよう」
 トラウマでもあるのか、軍人嫌いのイオが即座に言い放つ。
「もしくは破滅させよう」
「なんでそんな得にならないことをしなきゃいけないんですか」
 突っ込みを入れてから、クウヤは感心したように頷いた。
「けどそんなことまでわかるなんて、ルックって地獄耳だなあ」
「意味が違うぞ」
「……」
 寝起きで気が短くなっているルックが無言でさっさと行こうとしたので、彼の元上司と現上司はそれぞれの仕草で首を竦めてそのあとを追った。