神 聖 国 紀 行

「神のお告げというアレかもしれん」
「絶対違いますから」
「この機会を逃したらもう二度とないんだ」
「そんなことありませんから」
「お前何で知らないのにんなことが言えるんだよ」
「神のお告げです」
「愚かしいこと言ってんじゃねぇ!」
「イオさんが言ったんじゃないですかぁ!」
「うるさい」
 不機嫌な声が天魁星たちの口喧嘩を断絶した。
 同時にぴしりと、周囲を取り囲んだ木々のうちの一本に亀裂が入る。みしみしと大きな音を立てて巨木が傾いでいく。隣接していた若木を巻き込みながら、それは重く倒れていった。森の奥底に響き渡る倒木の音に入り混じって、驚いて逃げて行く鳥の羽音が鼓膜を叩く。
 とりあえず黙った二人の前方を、普段なら文句を吐きながら隊列の後ろをたらたらと進むルックは、黙々と歩いていた。伸びた背筋がやけに寒々しい。
 ようやく地面に挨拶した倒木の鈍い音が、地面ごと一行を揺るがした。普段転移に当てている魔力まで攻撃用に回っているのかと思うほど、紋章の効果がいつもよりも数段強烈である。
 そうであれば普段は転移の魔力というのは全体の何割を占めているのだろう、とクウヤは思った。汗をかくのが嫌だという彼のことだ、半分くらい転移に当てて、戦闘時は手を抜いているのではないだろうか。否定要素の乏しさに、クウヤは暗鬱たる気分になった。
 ルックが転移ができないと言い出してから数時間、一行は街道を、看板の示した方向――ハルモニア神聖国の首都、クリスタルバレーに向けてひたすら歩いていた。
 転移で帰れないならば、巡礼者用の乗り合い馬車に潜り込んだり、隊商に荷物持ちにでも用心棒にでも雇ってもらえばいいからだ。
 不都合なのは、イオもクウヤも得物を持っていないということだった。城内をうろつくのにいちいち武器を持っているはずもなく、騒動の時は手ぶらだったのだ。魔物が出たときは素手と変わりない状態で戦うはめになる。もっとももし遭遇したとしても、明らかな八つ当たりで相手が切り裂かれるだろうことは想像に難くない。
 あの看板が偽物でなければ、クリスタルバレーまでは無事に到着できるだろう。旅人用の施設や店は町の外郭にもあるはずだから、うまくいけば、町の中に入らなくとも帰ることができる。
 細々とした問題はあるが、大きな障害はない。今までと少し距離が違うだけで、遠征に出かけたようなものだと割り切れば行動は早かった。
 と、そこまでは順調だった帰還ツアー計画が暗礁に乗り上げたのは、どこぞの元御曹司現英雄が、らしからぬ我がままを言い出したからであった。

「せっかく近くまで寄ったんだから、この際、用事をすませたい」
 鳩尾の前で腕を組んで、イオはそう宣った。
 先ほどまで買いものなんかするか、とか言っていたのは誰だ、とルックが突っ込まないので、仕方なくクウヤが応戦する。
「独身無職のイオさんと違って僕は忙しいんですが」
「ほーお、どこが」
 台詞の前半を無視して、イオが嫌味たらしく口の端を吊り上げる。クウヤは対抗して、僅かばかりの良心と後ろ暗いところのある人間が見たら、罪悪感で押し潰されそうな純真な笑みを浮かべた。
 怒るなかれ、彼は理解していないのだ。
 クウヤは慈母の心を持って、自分のスケジュールを頭の中に出すと、懇切丁寧に、かつ事務的にそれを読み上げた。
「朝はナナミと訓練十時から軍の会議十一時から引き続き兵法の勉強十二時から十五分の昼休みにナナミの手作りの昼ご飯を食べて」
「すまん俺が悪かった」
 もう一度台詞の前半を無視して、イオは率直に謝った。自分の誤りを認める判断が迅速で、しかも正確なのは、たしかに彼の美徳であった。
 クウヤは満足そうに、と言うか半ば遠い目をして、微笑んだ。が、すぐに次の台詞に顔をしかめる羽目になる。
「だがどうしてもこれは譲れん。俺のこの先の長い人生を左右するものなんだ」
 イオは真剣な顔でそう言うと、わざとらしく憂いを帯びた表情を伏せた。
 確かに彼に残された時は、もし真の紋章にまつわる伝承が真実であれば、有意義な時間よりも無為な時間のほうが多くなるだろうと容易に想像できるほど、無駄に膨大である。
 しかし、クウヤは愉快なことが好きではあったが、それ以上に姉思いであった。
「いやです。ナナミが心配してますから」
「大丈夫。軍主になったほどの男だぞ、お前、信頼されてるだろ」
「なに調子のいいこと言ってんですか、寒いからやめてください」
 クウヤはうそ寒くなって、剥き出しの二の腕をさすった。
 イオはふと半眼になって、その仕草を見守ってから一言、
「そもそもお前が瞬きの手鏡を持ってないのが悪いんだろうが」
と言った。クウヤはう、と詰まって、ごにょごにょと言いわけする。
「それはだから僕だってでもシュウが、てか自分の故国の国宝を何だと思ってるんですか」
 第一手鏡はトラン共和国の国宝で、おいそれと個人で使用するのものではないのだ――たとえ、昔は宿に置き忘れることさえあったとしても。遠征時にはもちろん携帯するが、普段は倉庫番が、宝物倉に大切に保管している。軍主が普段から持っていたら壊す恐れがあるからである。
「あーあ、三年前置いていくべきじゃなかったかもな」
「持ってても役に立たなかったんじゃないですか。過去より現在を考えましょうよ」
「現在なあ」
 ふっと息をついて、イオは前方を見やった。つられたようにクウヤも顔を向ける。
 張りつめた背中が、淡々と先を行っている。他は正常とは言え、転移が使えなくなったことにかなりの衝撃を受けたのだろう。彼は先刻からほとんど口をきいていない。
「ゴキゲンナナメだからな」
 呪文のように口ずさむと、イオは少し足を速め、ルックの隣に並んだ。
「おい、そろそろ休憩するぞ」
「…バカにしてるのか」
 彼の機嫌は斜めどころではない、地面に対して垂直に突き刺さっているようだった。いつもなら、体力がないことを慮られると渋々でも従うのに、突っぱねる言葉にも余裕がない。
 イオはなるべく気遣いととられないように言った。
「気力があっても体力が追いつかんだろ、お前貧弱なんだから。ここらで休憩とっといたほうが利口だ」
「そんな暇はない」
「暇じゃなくて、必要な時間だろうが。言っとくが、お前が倒れても、俺たちは回復できんからな」
 ルックは足を止めて、いつもよりさらに白い顔でイオを見た。
「…そんなことを言うなら、駄々を捏ねるんじゃないよ」
 イオは顔をしかめて黙り込んだ。
 クウヤがどう意見を出そうかと迷っていると、ルックはふと溜息をつき、一人でさっさと木陰に歩き出した。天魁星たちは顔を見合わせる。どうやら休憩をとることには同意してくれたらしかった。

「とりあえず、どうやって帰るにしても、武器は必要ですよね」
「そうだな」
「イオさんが素手で熊を倒すくらいのパフォーマンスをしてくだされば、楽に雇ってもらえる気がするんですけど」
 クウヤが半分以上本気の目で言った。
「お前は俺に何を求めてるんだ?」
 イオは疑わしげに後輩を見やる。
「熊はそろそろ冬眠準備してるんじゃないか」
 ルックが自分こそ眠り込んでしまいそうな声で突っ込んで、小さな欠伸をした。小休止で気が緩んだらしい。
「でも城の熊は動いてたよ」
「それで話を戻すが」
 クウヤの失礼千万な言葉を無視して強引に話題を修正すると、イオが再びツアー企画を持ち出す。
「武器なら城壁の外でも売ってるだろうが、問題は俺たちの外見だ。こんな子供じゃ雇い手がいるかわからんし、どちらかというと旅芸人あたりに変装した方がいい気もするが」
「いやだ」
 ルックが瞼を閉じながら拒否した。眠気を覚ますためか頭を振りながら、独り言のように呟く。
「だいたい男三人の旅芸人なんてむさ苦しいだけじゃないか」
 何となく奇妙な沈黙が落ちた。
 クウヤは視線をさまよわせたが、間の悪いことに、同じく視線を泳がせていたイオと目が合ってしまった。衝動的に共犯者の笑みを浮かべる。
 途端にルックの怒声が飛んだ。
「そこのふたり、何だその笑いは」
「そこのふたりっていうか」
「ふたりしかいないしな」
「そんなことはどうでもいいんだよ」
 中途半端に乾いた笑い声をあげたクウヤの向かいで、イオが肩を竦めた。
「そうだな、ま、どうでもいいだろ?」
 ルックは唇を気難しげに結んだまま黙り込む。
「はい、閑話休題。で、とりあえず武器を買って、」
「ところでクウヤ、お前、剣は使えるのか?」
 クウヤは首を傾げた。
「どうでしょう、まあなんとかなるんじゃないのかとかはそこはかとなく思ったりもしないでもないですけど…」
「使えないならそうと簡潔に言え」
「もう何でもいいから早くしなよ。日が暮れる」
 もう何十度目かの脱線を修正しようと試みながら、ルックは嘆息した。空はすでに茜色に染まり始めている。目の前で交わされる会話を聞いていると、なんだか気が抜けてくる。
 今夜は野宿になりそうだった。