空はところどころが灰色に曇っていた。白い紙の上にのせた絵の具を大量の水で捌けたような薄い青が、雲の合間に見え隠れしている。
それを見上げて、クウヤはそっとささやいた。
「ああ、空の色は同じなんだ…」
実際には局地の天候だとか気温だとかで見え方は違うのだが、彼はそうとでも思わないとやっていられなかったので、そこらはあえて無視した。
地面には枯れた雑草が点在していて、もうすぐ冬であることを思いださせる。
クウヤは雑草が好きだ。彼らは地上のどこにでも根を張り、温室の薔薇など歯牙にもかけず――この際植物には歯牙などないという事実は無視してもいい――健やかに逞しく成長する。
まるで自分のようではないか。
クウヤはその発想になんとなく力を得て、周囲を見渡した。
彼の座りこんでいる場所の両側を挟むようにして、常緑の木が茂っている。申し訳程度にしか葉はついていない。焦茶色の枝だけが密接して絡み合うように生えていた。枝の檻の奥は、他種の樹木の森に続いているようだ。遠くには深緑が茂っているのが見えた。
察するにここは、森林の中を通る街道なのだろう。しかし、その地肌が剥き出しになった地面の大半には、蔦状の雑草が侵入している。あまり使われていない道のようだ。
意外に冷静に分析できていることをクウヤは自覚した。
彼は自分の、頭がいい感じの思考に何となく悦に浸った。それはほんの一瞬だけだった。暗黒が彼の心に立ちこめ、いい気分を台無しにする。
いったいどうしてだろう。
「和まない…」
彼は原因を故意に無視してそう考えたが、当の原因はさっきから彼の聴覚を刺激して止まず、それらに対して聞こえないふりを行使するのはかなりの勢いで不可能だった。現在進行形で、それはクウヤに多大な精神的圧力をかけていた。
疲労に大きな溜息をつき、地面にうずくまったクウヤの背後では、難しいことを言っているようで実はとんでもなく低レベルかつ馬鹿馬鹿しい責任のなすりつけ合いが行われていた。
「とりあえず悪いのはあんただ、絶対」
「たまには自分の責任を認めるべきだと思うぞ、お前は」
「なんでこんなところに出るんだ。僕はとりあえずグレッグミンスターの城の玉座に鎮座させてやろうと思ってただけなのに」
「…そんな悪趣味なこと考えてたのかよ。言っとくが、何が何でも俺のせいじゃないからな。お前が素直に買いに行けばこんなことにはならなかったんだよ」
「ふざけてるなよ、だいたいハルモニアの限定物なら、専用の裏ルートとかそういうものがあるんじゃないのか。それでも使えよ」
「俺は新参者だから寄せてもらえないんだ、それに下手に所属して年取らないなんてばれたら面倒だしな。だから自力でどうにかするしかないんだよ」
「自力が他力になってちゃ世話ないね」
「人脈は自力のうちだ」
以下延々延々。
クウヤにしてみれば、責任の所在などわかりきったことだった。要するに、自分以外のふたりが原因である。彼にはふたりが、口論することであえて自分からの追求を避けているようにさえ思われたが、いい加減面倒くさくて口を差し挟むのは控えていた。
膝を両手で抱えて座り込み、手慰みに自分の半径右腕あたりの草をむしる。しっかりと大地に根を張った草は抜けず、地面のすぐ上あたりでぶちりとちぎれてしまった。クウヤは物足りなさを覚え、むしった蔦を投げ捨てた。
「何でこんなことになったんだろう」
呟いてみるが、答えが返るはずもない。
「僕は正しいことをしたよね、ナナミ、ジョ」
そこで切って、クウヤは溜息をついた。
「そうか、世の中正しければいいってもんじゃないってことだね、ジョウイ」
君が教えてくれたことだもんね、と親友の無闇に儚げな笑顔を思い浮かべて、彼は呟いた。
そして、背後で嫌味の応酬をし続けている少年を二人ほど無視して、クウヤは灰色の空を見上げた。今度はなんだか目に染みた。
「しかし、ここはどこなんだ?」
舌戦に、疲れたというよりは飽きたのだろう、イオがふと言った。ルックはまだ文句を言い足りなさそうな顔をしていたが、今はそんな呑気なことをしている場合ではないと思い返したのだろう、襟元を掻き合わせながら首を巡らせる。
「さあ……寒いから北のほうだろうけど」
不満げに言うが、普段から異常な厚着をしている彼よりも、布に覆われた面積が狭いイオやクウヤのほうが寒い。もっとも彼らは身体が資本のタイプなので、命令でもない限り外に出て身体を動かさないルックとは鍛え方が違うが。
そこには追求せず、イオが顔をしかめる。
「おい、まさか本当にハルモニアに飛んだんじゃないだろうな。何の準備もしてないのに」
「北だからハルモニアだなんて安直な」
「それを言うなら、寒いから北だと決めつけるのも安直だろうが」
「あ、あそこに看板が!」
これ以上無為な時間を過ごされるのが嫌で、クウヤが先刻から気になっていた、道沿いの木に打ち付けられた木ぎれを指さした。何故今まで自分で読もうとしなかったのかと言うと、そこに書かれたものが文字なのか、彼には判別できなかったからである。
イオがしゃがみ込んでいる彼を見下ろして一言、
「…クウヤ、いたのか」
と本気の声音で言った。
クウヤは自分の知っている限りの罵詈雑言を天に浴びせようとして、そんな馬鹿馬鹿しくかつ無意味なことを叫ぶのに体力を浪費するのを惜しんでやめた。代わりに、イオの黒髪の向こうに冴える青空に、恨みがましい視線を向けた。イオは嫌そうに顔を背けた。
ルックが看板のほうに歩んで行って、ぐにゃぐにゃと曲がりくねっている線を黙って眺めてから、深い溜息をついた。
空に向かって無言で抗議し続けているクウヤを置いて、イオが近寄ってくる。その彼に向けて、ルックは嫌みったらしく唇の端を歪めて見せた。不審そうな眼差しを受け止めて、煙草の煙を吐くようにゆっくりと言葉を吐き出す。
「『このさき、クリスタルバレー』だってさ」
クウヤの動きがぴたりと止まった。
イオが引きつった笑いを浮かべる。
「…嘘だろそんな安直な」
「僕に言われても知らないけど、書いてあるものは書いてあるんだよ」
「…ジョーク看板とか」
「暦ならともかく、聞いたことないけど、そんな代物」
しばらく沈黙してから、イオは尋ねた。
「…ここ、ハルモニアだと思うか?」
「書いてあるからにはそうなんだろうね」
淡々と受け答えするルックは、一見冷静そうに見えた。しかしよく見れば、現実を直視するのを避けるように目が泳いでいる。
イオは数秒固まった後、硬直した首を巡らせて、看板を見た。
ハルモニアの神官だけが使う、エリート意識の集大成である神聖文字で、はっきりくっきり、先刻ルックが読み上げた通りの言葉が書かれていた。
「帰りましょう」
イオの見事な硬直加減から、文字を読めないまでもルックの言葉が真実であることを悟ったらしい。無表情で歩いてきたクウヤが、無表情のまま口だけを動かした。
「今すぐ」
つけ加え、半眼になってイオを見やる。このうえ買いものなどと、もはや言わないだろうな、という目つきだ。
イオはそこはかとなく顔を背けつつ言った。
「…俺だってそうしたい」
因縁のありあまる国を、物見遊山で見物できるほど巨大な器の持ち主ではないのだ。
いくらハルモニアでも、イオとクウヤの顔を見知っているものに出くわすほど、この国は狭くはないだろう。だが、この国は真の紋章を集めている。普通の人間では真の紋章の具体的なことなど知りようがないし、たとえ権力者でも探索する術もないはずだが、万が一ということもある。捕らえられたら生きて帰れるかも定かではないし、しかも今は大事の前なのだ。用心に越したことはない。
ルックはふたりに輪を掛けて危ないのだろう。どんな事情が介在しているのかは知るよしもないが、いつも人を小馬鹿にするような態度の彼が、先刻から戦闘時のように張りつめている。大気がぴりぴりと音を立て、その圧力だけで息苦しくなるようだ。
「帰ろう」
振り切るようにイオが繰り返して、クウヤとともにルックを見た。しかし、二人分の視線を向けられたルックはそれに答えようとしなかった。
しばらく場に沈黙が流れてから、
「できない」
と、小さく呟きが落とされる。ルックはどこか呆然とした様子で、瞬きもせずに地面に視線を落としていた。イオは訝しげに、クウヤは目を見開いて、異口同音に聞き返した。
「何で」
語尾の上がり下がりが絶妙なハーモニーを見せ、二人はまた、同時に顔をしかめた。ルックはその間抜けな姿にも冷笑を返さずに、似たような意味の言葉を繰り返した。
「…できない」
「だから、何で」
また言葉が重なる。
まるで下手な芝居を下手な役者が演じているように棒読みで、ルックは言った。
「転移できない」