神 聖 国 紀 行

「ふぅ、さっぱりしたね」
「訓練のあとの水浴びは気持ちいいよね!」
 この寒い中にカラスの行水的水浴びを敢行した姉弟は、再び外に出て本拠地の玄関あたりを横切ろうとしていた。
 二人の姿をみとめた人々があいさつしてくる。それに愛想よくあいさつを返しながら、姉弟は何をして時間を潰すかを相談していた。もちろん遊びの、である。こんな話を軍師に聞かれでもしたら、ナナミはともかくクウヤは大目玉をくらうだろう。
 と、ナナミが石板のあるホールを覗きこんで言った。
「イオさん、まだいるよ。出かけるんじゃなかったのかなあ」
 義姉の声に、彼女の人差し指の示す直線上の先を見たクウヤは、そこにまだお隣の英雄さんがいることを確認した。
 石板にもたれてルックと何か話している。ふたりとも、やけに真剣そうな顔だ。
 いつもの軽い皮肉の応酬とは違う、どこか深刻な雰囲気に、不謹慎にもちょっとわくわくする。楽しいことは大歓迎だ。戦争などという楽しくないことをしているのだから、たまには娯楽が欲しいと思うのは、世の常人の常である。彼と他人の「たまに」の頻度が天と地ほどかけ離れていることは、この際気にしなくていい。
 ふたりの話は、どうやらこじれ気味のようだった。
 これだけ堂々と見つめているのに、いつもなら気づいているだろうふたりは、そのままシリアス路線につき進んでいる。見たところ、イオがルックに何かを言いより、ルックがそれを突っぱねているらしい。
 これで実は別れ話とかだったら嫌だなと、いつもでたってもそのままのふたりにふと思って切なくなったクウヤだが、そこでふと、大気が変化した。
 風の魔法だ。つまり、ルックのほうが先に限界を迎えたということだろう。
 空気が逆巻き、塵や埃が大気を舞う。それに混じって、捨てられた紙屑までもが巻きあがった。城の汚れが目立つことこの上ない。
 空気がびりびりと振動して、城の壁が震える。
 宙に浮かぶ軽金属製の筒にすぱりとかまいたちによる亀裂が走り、これはかなり危うい状態なのかもしれないと、クウヤはやっぱりわくわくした。
 結構長いつき合いになったと思うが、性格の割には意外に大人しいルックの危険度がここまでいくのははじめてである。
 遠くから、風に運ばれてルックの声が聞こえた。
「……僕に、そんなくだらない用件で、よりによってあの国で、使い走りのような真似をしろと……そう言うのか?」
 微笑んでいるかのような柔らかい声音だ。
 しかしそれをあの彼が言っているとなると、逆に寒気を覚える。常時ステータス険悪のルックだが、実はあまり、声を荒げて怒るようなことがない。いつもつんけんしている彼は、それゆえに怒りの沸点も高いのだ。
 だがおそらく間違いなく、今ルックは怒っている。
 クウヤは、少しルックの顔が見てみたかった。恐怖が自分に関係ない場所にあるとき、人は好奇心を発達させるのである。意味もなく背伸びなどして、渦巻くゴミの向こうに人影を見出そうとする。
「熱…っ!!」
 そうやってクウヤが、この非常事態にもかかわらず台風の目を呑気に見物していると、同じく非常事態にもかかわらず手に汗握って観戦していたナナミが、不意に声を上げた。
 振り返ると、まだ火がついたままの煙草が手の甲に直撃したようで、右手を左手で庇いながら煙草を踏み消している。慌てて覗きこむと、幸い紋章で癒せば痕が残るほどではなさそうだが、場所が場所だけに誤解を生じさせそうな火傷である。
「ナナミ、大丈夫?」
「うん、平気平気」
 気丈にナナミは笑ったが、やはり痛そうだ。それ以前に、女の子の肌に火傷の痕ができるのは、大変よろしくない。
 クウヤは不謹慎に昂揚した気分をしまいこんで、城主として、弟として、一人の男として行動することに決めた。
 あの二人の喧嘩を諫めるのである。
 決然とクウヤは足を踏みだした。
 雄々しく嵐の中心へと歩む弟を、ナナミが誇らしげに見守る。ホールにいた、逃げきれなかった人間達が、人的災害に立ち向かう自分たちの盟主に気づき、その勇姿に涙した。
 あの人こそ我々が求めていた奇跡だ…!
 彼らの奇跡は、やや小柄な身体を風に吹き飛ばされそうになりながらも器用に空中を転がる障害物たちを避け、一歩一歩、確実に石板に近づいていく。その姿はさながら、吹雪に立ち向かう山男だ。
 風にちぎられた言葉の断片がクウヤの耳に届いた。
「……から! ……を買うだけなんだから、何もそう変に考えずに、兼観光だと思えばいいだろ!」
 肝心なところが聞こえない。
 クウヤは思わず持ち前の好奇心もとい知的探求心を発揮させようとしたが、自分の目的を思い出して頭を振った。
 ルックが彼らしくもなく怒鳴る。
「あんな娯楽も何もない場所、誰が観光なんかするか!」
「聖地巡礼とかそれっぽいのがあるだろ!」
「それなら自分で行ってこいよ!」
「ハルモニア人じゃないと買えないと言ってるだろうが!」
 両者の間には風が渦を巻いているので、近くにいても声を張りあげないと届かないらしい。
「ルック! 風止めてよ!」
「そんなのいくらでもごまかせるだろ!」
「イオさん! なんだか知らないけど謝ってください!」
「確実な手があるのになんでンなことしなけりゃいけないんだよ!」
 両者とも、まったく聞いていない。
 クウヤは彼にしては珍しく青筋を浮かべながら、毎日の鍛錬で鍛えた腹筋をフル活用した。
「ルックっ、イオさんー!!!」
「あぁもう! 送ってやるからどこへなりと勝手に行ってこい!!」
「あ! くそっ、道連れにしてやる!」
「げっ」
「あれ。クウヤ」
「あああっ」
 全員がてんでに、誰が誰だかわからないことを叫んだ、次の瞬間。
「あっ!!」
 一際強く風が吹いて、三人の姿は消えた。

「それで?」
 正軍師の声は氷よりも液体窒素よりも冷たかった。
 ナナミはかわいらしく笑ってごまかそうとしたが、鋭い眼光に、今度はしおしおと項垂れた。
 シュウは厳かに、しかし疲れを隠せない声で言った。
「いかにクウヤ殿が、楽天家であろうと浪費癖があろうと責任感を露ほどしか持ち合わせていなかろうと、脳天気であろうと破壊癖があろうと確信犯的愉快犯であろうと胃が大層丈夫であろうと……」
「はあ……」
 最後のはなんだろうとナナミは思った。シュウは咳払いをして、アップルが哀れそうに運んできた水で渇いた喉を潤した。
「彼は軍主だ。軍に必要な人間なんだぞ。それが……」
 ここでシュウは顔をしかめた。
「行き先も言わずにどこかへ遁走」
 その声は静かだったが、ナナミは肩を竦めた。錯覚にせよ、彼女には、軍師の後ろに轟く雷鳴が見えたのだ。
 シュウは傍らから書類の束を受けとった。低い声でそれを読みあげる。
「先の戦での戦死者は2699。捕虜が投降してきたものも含めて、新兵は4738。これだけ見ればプラスのほうが明らかに多いが……」
 そこで思わせぶりに言葉を切る。
「脱走兵574――まあ、あとで戻らせたが。傷病兵は、1899。もちろん、兵の人数が多ければ多いほどいいとは、糧食の問題があるので言わないが……それにしても、だ」
 今度は別の書類を読み上げる。
「傷病兵の内訳……風の魔法による被害、52件。何だか黒い闇に襲われたと証言する者、65件。白い光に包まれたら気を失っていたという者、82件」
 ナナミはあははと空笑いをした。
 それぞれの特徴から、何の紋章が使われたのかは明らかである。
 シュウはじろりと彼女を睨んで、
「全体から見ればそこまでの数ではない。が、戦時中に戦以外で傷病者が出るなど、言語道断だ」
「う…それはそうですけど……でも」
「これ以上騒ぎを起こされたら、軍のイメージダウンにも繋がる。脱走者の数も、今でも十分異常だ。どこかの紋章使いどもに怯えて逃げだした者が幾人いるのか、確かめる術はない。が……」
 おそらくほとんどが「そう」であることは明白だ、と暗に匂わせる。
 それから深い深い溜息をついた。
「クウヤ殿は軍の要だ。普段いかに放蕩者でも、いなくなると大変困る……もし、大きな怪我などされたら」
「だっ、大丈夫ですよ! クウヤ強いし、ルックもいるし」
 ナナミはいらない責任感にかられた。シュウはとても疲れているように見えた。疲れている人を少しでも元気にしようとしたのだ。考えだけみれあば、とても立派である。
「あっそれにイオさんなんて前に、俺は人の危険を顧みない男だって言ってたし!」
 ナナミは言った。純然たる好意からだった。疲れている人の負担は、少しでも減らさなければならない。
 しかしそれは逆効果だった。
 シュウは眉根を押し揉んだ。眉間に深く刻まれた亀裂は、そんなことではほぐれそうになかったが。彼はひどく重い声で、普段の明快で居丈高な口調からは想像もつかない調子でぼそぼそと言った。
「それはつまり……人は見捨てて自分の危険は顧みる、ということだろうな?」
「……え?」
 ナナミは引きつった笑顔のまま固まった。もう一度、イオがいつだったか言っていた言葉を慎重に思い出す。
 自分の危険を顧みない――命を賭して人を助ける。
 人の危険を顧みない――人は容赦なく危険に晒す。
「……」
 ええと、と意味もなく呟いて、
「……あは」
 ナナミは笑った。
 笑う門には福来たると、どこかの国で言うらしい。何かいい考えを思いつくかもしれない。
 ちくたくと、時計の長身がちょうど一周した。
「……あはは」
 結論は出なかった。
 乾いた笑い声が疲れきった執務室に響いた。