神 聖 国 紀 行

 トランの英雄がデュナン河畔の同盟軍本拠地を訪れたのは、木々がすっかり彩りを失い、冷えた風が広い城内を吹き抜けるころのことだった。
 しばらくは戦をしかける予定も、しかけられる可能性もない本拠地のホールは、奥にある石版が見渡せるほど閑散としている。
「よ」
 イオは石版の前に立つ少年に軽く片手を上げた。風よりも冷たい視線を受け流しながら、石版にもたれかかる。右手の手袋を外し、懐中から煙草と燐寸を取り出すと、隣から細い指が差し出された。
 無言でその持ち主の顔を見ると、彼はいつもの澄まし顔で、さも当然という様子で言った。
「場所代」
「…ここは別にお前の土地じゃないだろ」
「快適な空間作りをしたのは僕だ」
 石版前には、切り裂き怖さに、一般兵士どころか宿星たちでさえ滅多に近づかない。ひとりで歩いていると、「トランの英雄」として敵意と好奇に晒されるイオは、ここを避難所扱いしている。しかし、避難所の管理者は一筋縄にいく相手ではなかった。
 心中で舌打ちして、煙草をくわえたまま懐を示すと、ルックは勝手にイオの手から燐寸を奪い取った。そして慣れた様子で口にくわえた煙草の先に素早く火をつけると、また返した。
「熱ッ!」
 まだ火がついたまま短くなっていたところを返されて、反射的に受け取ってしまったイオは、慌てて燐寸を床に捨てた。開いた口から、まだ火をつけてすらいない煙草が落ちた。
 原因は眉を寄せた。
「あとで掃除していってよ」
 いっそ見事な棚上げだ。相手を恨めしげに一瞥すると、イオは煙草の代わりに火傷した指をくわえて、低い声で唸る。
「お前な、あの婆から人を労る心を教えられなかったのか?」
「人から借りたものはちゃんと返せとは教わったね」
「人には時に、捨てなければいけないものもあるんだぞ」
「あ、そう」
 薬草を燃やすとき特有の、奇妙な色の煙をくゆらせながら、ルックはおざなりに呟いた。彼にしては簡潔な返答である。皮肉のオプションがついていない返答、ともいうが。
 ちょうどつけていた水の紋章で火傷を簡単に治療すると、懲りずに新しい燐寸を擦りながら、イオは来訪の用件を告げた。
「ルック。お前、ハルモニアのお偉いにそっくりさんがいたよな」
「……」
 その沈黙が、不意をつかれて返答に窮したためなのか、そっくりさんなどと軽薄な言い方をされたためなのか、それとも答えたくないだけなのかは、イオにはわからなかった。
 ルックは彼にしては珍しいほど長い沈黙のあと、ちらりとイオを見て、
「何で」
とだけ言った。
 イオは香気を肺いっぱいに吸いこんで、それからわざと、ゆっくりと息を吐いた。別に相手を挑発するためではなく、これから頼もうとしていることが彼にとって、これからの長い人生に深く関わることだったからだ。
「あのな…」
 ためらった後、彼は慎重に声を発した。
 ルックはホールを吹き抜ける風を見ている。互いに目を合わせずに、やけに真剣な顔をしているのを見て、声をかけようとしたどこかの放蕩息子が慌てて回れ右をした。賢明な判断である。
 それには気づかず、ふたりはそのシリアス路線の雰囲気を漂わせたまま、しばらく黙っていた。イオはどうやって切りだそうかと逡巡していたし、ルックは何を言われても表情を変えないために、顔の筋肉をいつにも増して緊張させていたのだ。
 しかしその沈黙は、突如発生した姦しい声によって遮られた。
「あ――っ! イオさん!」
 大きな声を上げて、クウヤがホールを駆けぬけてきた。ナナミも一緒にいる。この寒いというのに、鍛え方が違うのか、姉弟はいつものように無駄に元気だった。息が上がっているのは、どうやら訓練をしていたものらしい。
 イオは真面目な顔を強ばらせた。
 彼はほんの少しだけ、この組み合わせが苦手だったのだ。たいした理由はない。ただ、なんとなく、このふたりといるといたたまれない気持ちになるだけである。
 軽快な足どりで石版前に辿りつくと、クウヤはルックにおはようと挨拶して、無視されたのを無視してイオにも礼儀正しく頭を下げた。それから、
「今日、誘いに行こうと思ってたんです! 一緒に戦ってください」
 半ば以上、断定して言う。追いついたナナミも、一緒になって子犬のような目でイオを見上げてきた。
 イオは煙草を持った右手をさまよわせ、左手で携帯灰皿を探そうとした。と、脇からひょいと捜しものが差しだされる。いつの間に盗っていたのだと、イオは本日何度目かルックに胡乱げな眼差しを向けた。
 煙草の火を消しながら、イオは自分よりもほんの少し背の低い姉弟を見た。姉弟は仲良く並んで、期待の目でイオを見ている。遊んで遊んでと全身で表現しているようだ。とても子犬だ。
 95%犬派と見せかけて実は残り5%は熱烈な猫派とはいえ、その誘いを断るのには罪悪感があったが、イオは無愛想に言った。
「今日はルックと遊びたいから駄目だ」
「僕たちとも遊んでください」
「僕は嫌だからな」
 クウヤがやけにきっぱりとした口調で言うのに、ルックがすかさずつけ加える。ここぞとばかりにクウヤもそれにのった。
「ほら、ルックもこう言ってます」
「嫌よ嫌よも好きのうちというだろ」
「あんたと遊ぶ気はない」
「俺にはある」
 嫌そうに横から口を挟むルックに、負けず劣らずきっぱりとイオは断言した。
 今日は彼にとって、人生重要度ランキングベストハンドレットに入るくらいには重要な日だった。そのためにわざわざ自分からここに出向いて、ルックに場所代その他諸々を請求される覚悟でいるのだ。したがって、本日は彼らに構っている暇はない。
 というような意味のことを婉曲的話法を使って述べてみたのだが、子犬ふたりは首を傾げるばかりだった。婉曲的すぎて意味がつかめなかったらしい。ルックはと言うと、わざとらしくそっぽを向いて聞こえないふりを装っていた。
「とにかく、今日は用事があるから駄目だ」
 仕方なく直接的に言うと、二人の子犬は耳を垂れた――というのは、イオだけに見えた幻覚だったかもしれないが。
「じゃあ、今度は遊んでくださいね」
「ああ、またな」
「絶対ですよ!」
 子犬たちは何度も念押しして、汗で濡れた服を着替えに行ってしまった。それを見送って、イオは首を傾げる。
「いつも思うんだが、何であいつらはあんなに俺に懐いてるんだ?」
「棍が幼なじみを連想させるからじゃないか?」
 得物で判断されても、とイオは思った。
 彼らの幼なじみのことはよく知らないが、話を聞くかぎり、得物以外はさっぱり似ていないのではなかろうか。少なくとも思想的には相いれないだろう。
 ふたりが行ってしまったので、ホールはまたがらんとした空気に満たされた。イオはルックの様子を窺う。しかし、やや俯いている彼の表情は、髪に隠されて見えなかった。
 イオは迷った末、玉砕覚悟で直球爆弾を放り投げることにした。
「今日の機嫌は?」
 間髪入れずに返ってきた答えは「最悪」だった。どうやらそこまで機嫌が悪いわけではないらしい。天の邪鬼とは、意外にわかりやすい性格である。
 瞬間冷却されて返された爆弾を投げ捨てると、イオは今度こそ目的を果たそうとした。口を開きかけ、唇が乾いていることに気づいて舌で舐める。
「ルック…」
「何?」
「頼みがある」
 新しい煙草に火をつけながら、イオは慎重にそれだけを言った。ただし、ルックからは目を逸らして。
 彼はこちらを見たようだったが、またすぐに視線を前に戻した。
「だから、何」
 ゆっくりと、言葉の響きを確かめるようにルックは問いかえした。イオはまた唇を舐め、火はつけたものの結局吸わなかった煙草を灰皿に押しつけた。
「買ってきてほしいものがある。…ハルモニアで、だ」
 その名前に、意識しないままにルックの頬が微かに歪んだ。それに自分で気づき、不快だったのだろう、眉をひそめて、彼は皮肉気な笑みを口元に浮かべた。
「なんで、僕がそんなことをしなくちゃいけないんだ?」
 再び灰皿を奪うと、煙草の火を消して、ルックは腕を組んだ。
「あそこには行きたくない。名前を聞くだけでも不快だ」
「そこをなんとか」
「ならない」
 間も置かずに返答するルックは、新しい煙草を求めて手を差しだしてきた。イオが素直に煙草を渡してやると、ルックは燐寸を請求せずに、細い紙筒を繊細な指で弄んだ。白い紙の間から、乾いた薬草がぱらりとこぼれた。
「それに、何で自分で行かないんだ。君はハルモニアと戦争したわけじゃないんだから、あそこに入れないわけじゃないだろ」
「ハルモニア人じゃないと買えないんだ」
 色素が薄い髪と瞳に白い肌の、すぐに北方の出だと知れるルックと違い、イオはデュナン以南に多い黒瞳黒髪だ。
 ルックは嫌そうな顔になって、半眼でイオを見た。
「…もしかして、僕にアレのふりをして何かを買ってこいと言うつもり?」
「…そうだ」
 ルックの声は氷点下どころか触れるだけで粉々に砕けそうなほど冷えていて、イオは心の中で三枚の外套を纏った。
 再び沈黙が二人の間に流れ、イオはそれこそ三年前、帝国の城を落とす方法を練ったときのような気分でルックの攻略法を考えた。ルックは目を細めて煙草を揺らしている。
「何を買ってきてほしいんだ」
 やがてぽつりとルックが言い、イオは訝しげに、というよりははっきりと驚愕を込めて彼を見やった。それにむっとしたのか、ルックは煙草を挟んだ指をぴし、とイオの額に向ける。
「別に買ってきてやるとは言ってない。内容次第だよ」
 それでは内容次第では買いに行ってもいいということだろうか。
 イオは真剣に悩んだ。彼の中でのそれの価値と、ルックの中でのそれの価値は大きく違う。内容を言ったところで、ルックが怒らない確率はゼロに等しい。しかし、内容を言わないことには話が進まない。
 迷ったあげく、イオは真実をありのままに話すことにした。
 これがそのあと起こる騒動の始まりだった。