そこは酷く暴力的な光に満ちていた。
ルックは目を細めて、長く量の多いまつげの隙間から、己の周囲を見た。
視界に広がるのは白い靄だった。二酸化炭素が凝固したときに出る白い煙のようなものが、足下からひたひたと立ちこめ、世界を浸食している。
まるで雲の上にいるようだった。
――眩しい…
掌を両眼の前にかざして、影を作り出す。そんなはずはないのに、眼球の奥までが安らいだ気がした。鈍い痛みが遠くへと引いていく。
不意に、自分が光よりも闇に救われることを、純白よりも漆黒に心を惹かれる人間であることを思い知らされた気がした。
そう、彼の瞳も夜の空が濡れたように黒いのだ。
黒かった、のだ。
ルックはふと眉間を押さえた。すると額から流れ落ちたらしい汗が指先に絡みつき、それがあまりにも冷たいのに、彼は軽く目を見開いた。その目に、降りてきた汗が入り込み、痛みに顔をしかめる。
目を閉じて、しかし痛みは引かず、薄い瞼一枚では光を遮断することはできなかった。
極彩色の光がちらちらと煩く煌めき、
――眩しい、
ルックは泣きたくなった。
――ここはきっと天国なんだ。
光に満ちた世界。
天国だ。ルックは口中で密やかに呟き、唇を噛み締めた。
天国でなければ、こんなにも痛い光があるはずがない。吐き気がするほどの眩しさ。身体を灼かれるような激しい光。浴びていると熱くて溶けるような気さえする。
すべて溶けてしまえればいい、ルックはそう思う。
――こんなところには来たくなかった。
子供のように零しそうになった涙を堪えようとして失敗し、面倒くさくなって、流れるままにした。 何も思わなければ、ただの水に過ぎなかった。
白い靄に包まれて、視界にはそれしか映らない。
――こんなところには来たくなかった。
「…じゃあ、どこに行きたかったって言うんだ」
自嘲気味に呟いて、ルックは濡れた頬を拭った。
汗と混じった涙が掌にこびり付き、ふと、それは汗でも涙でもない、自分が溶けているのだと気づいた。
* * *
鳥の声が煩い。
せわしなく鼓膜を刺激するそれらから逃れようと、耳を塞いで寝返りを打つ。寝起きで上昇した自分の体温が濡れて冷えた頬に触れ、その不快に目を覚まされた。
自分が泣いていたことを知って、ルックは舌打ちした。瞼を半分下ろしたままで、証拠をなくすように夜着の袖で目元や頬を擦る。目の粗い布で乱暴に拭うと、弱い肌が淡く染まった。
どうやら夢を見ていたらしい。
ひとつ息をつくと、乱れた髪を掻き上げ、手櫛で梳く。しなやかに指の狭間を流れていく細い髪が鬱陶しく、指に絡めて強く引いたが、留まることさえなくすり抜けていった。
苛々ともう一度試そうとして、ルックはふと我に返る。そして、馬鹿馬鹿しくなって手を離した。
頭が重い。気を抜けば途端に落ちてきそうな瞼をこじ開け、裸足を石の床に着けると、じわじわとはい上がる冷気がどうにか視界を澄んだものにした。
濁った涙の膜を瞬きで払い、いまだに晴れない眠気を振り切ろうと頭を振る。手を伸ばして枕元をまさぐると、指先に鎖が触れた。引き寄せてその先に繋がった時計の文字盤を見ると、まだ大抵の軍関係者は起き出していない時間だ。
もっとも周囲がどうあろうと、彼には関係ない。いつも同じ時間に起き出して、石板の前に立っているだけだ。一日に二度食事を摂り、時間があれば本を読んで、眠る。その繰り返しだ。
布の多い法衣を身につけ、肩の飾り紐を結ぶと、革靴を履く。膝の下まで紐を編み込み、神経質にきっちりと縛ると、寝台から腰を上げ、おざなりに髪を梳く。
今日もまた、石板の前は騒がしいだろう。そう考えると気が重かった。
別に石板前にいることはルックの義務ではない。しかしもし誰か――主に体力が有り余っているわりには戦場で役に立たない宿星たちだが、彼らが暴れて石板に何かあったらと思うと、おいそれとあの場所を離れるわけにはいかないのだった。
ルックにとって大事なのは、石板それ自体ではなく、それが師からの預かりものであるという点だったが、ずいぶん長い間を共に過ごすと愛着というものが出てくるのである。
――その程度のものなんだろうな、つまり。
机の上に置いた額飾りをとると、溜息をつく。外気に冷やされた金属が額に触れて冷たかった。
朝日が山頂から顔を覗かせ、鮮烈な光を撒き散らし始める。明かり取りの窓から槍のように直ぐに差し込む光が廊下に溢れ出し、切り取られた光の空間に埃が舞う。
壁づたいに影になった部分を歩いていくと、しんとした狭い廊下に、聞こえるか聞こえないかの微かな足音だけが響く。その小さな音さえ気に障る。世界に必要のない雑音だ。
一点の曇りも許せない子供のように頑なに、ルックは光を拒んだ。
その理由には様々なものがあるが、おそらく一番の原因は――
ふと人の話し声に俯けていた顔を上げ、ルックは耳を澄ませた。馴染んだ低音が流れ込む。
同時に意識せず跳ね上がる鼓動に気づいて、むっとして胸の辺りの布を握る。目元が和みそうになるのがいやで、頬の筋肉を緊張させる。
それらが無意味な行為であることを悟りながら、指先まで張りつめる何かを止めることができない。
角を曲がると、見慣れたはずなのにどこか遠い後ろ姿と、僅かに頬を上気させて笑う少女――というにはもう大人びた、隣国からの義勇軍を率いる忍と、彼女の弟のような少年が揃って何かを話していた。
彼らの頭上から、日の光が雨のように降り注いでいる。
ルックは咄嗟に目を細めた。狭くなった視界に、その髪と瞳の暗い色彩と裏腹に、まるでそのためにこの世に生を受けたかのように微笑む姿が入り込む。
さっきまでの少しだけ弾んだ気分が、急に沈んでいくのをルックは感じた。それに苛としたのと同時に、どうにも居心地が悪くなって顔をしかめる。
声を掛ける義務はないし、その道を通らなければ石板の前までいけないということでもない。ルックは足を止めると、そのまま何事もなかったかのように踵を返そうとした。
しかし、それよりも早く、気配を感じていたらしいサスケが視線を向けてきた。
「おい、なんでそこで何もなしに行こうとするんだよ」
ぞんざいな口調で、彼が鋭く叫ぶと、味方の中だからと油断していたのかそれとも話し相手の人選ゆえか、周りの状況を失念していたらしいカスミが驚いたように目を見張った。
忍者がそんなことでいいのか、とルックは皮肉に考えたが、最近ではあの隠れ里の役割もずいぶん変わってきているようだし、そもそも彼が口を出すことではない。それよりも、自分の思考がいつもと違う回路を伝ってその結論に辿り着いたことが忌々しかった。
「別に声をかける義務なんかないだろ」
数瞬前の自分の思考から引用して、ルックは不機嫌な声音で言った。途端にサスケがむっとして唇を尖らせ、その幼い率直さに羨望を覚え、目を伏せる。
彼のようになりたいわけでは無論なかったが、微かな嫉妬が頭をもたげた。
「おはようございます」
少し戸惑い気味にカスミが挨拶を寄越す。目の前に立つ相手の視線を気にしているのか、いつものあっさりとした空気がない。それは不愉快だったが、それが彼女ではなく彼女をそうさせる相手に向かった感情であることにルックは安堵した。
「…どうも」
「いつもお早いですね」
老人のようなことを言われて、ルックは失笑しそうになり、慌てて自制した。彼女とは朝に顔を合わせることが多いのでそう思ったのだろう。確かにルックは朝早くから石板前に突っ立っているが、別に彼女のように早朝訓練をするためではない。ただの習慣だ。それをこんなふうに、ご苦労様、と同じような意味合いで労られるとは思わなかった。
「そちらこそ、いつもご苦労様」
気遣いと嫌味、どちらともつかない口調で言って、ルックは口角を緩めた。
サスケが喧嘩で振り上げた拳の行き場に困ったような表情で、隣に立つ年長の幼馴染みを見上げる。彼女が微笑んでいたのに、とりあえず怒りのやり場は拡散させたようだ。
セオが少しだけ身体を傾け、右目の視界のほんの隅にルックの爪先あたりを入れたようだった。
「おはよう」
この光が溢れる朝に馴染んだ、穏やかな声だ。
ルックは無言で顔をしかめることで返事に代えた。そんな些細な動きは、おそらく、セオにはわからなかっただろう。そして、返事がないことを気にすることもないだろう。
カスミが和らいだ笑顔で、また何か言いかける。
その言葉が発せられる前に、ルックは今度こそ踵を返した。拍子抜けしたような空気が背後に漂うのを感じながら、さっさと角を曲がってしまう。
彼は何事もなかったかのように歩を進める。しかし、自分の足音がいつもより高く大きく聞こえ、それが虚しくて速度を緩め、やがて立ち止まる。
そして立ち止まってしまった事実に苛立ち、また、音を立てて歩き出す。
明けつつある世界はよりいっそう眩しさを増していく。瞼を突き破って侵入してくる光に、全身を侵され、内側からぐずぐずと溶かされる。
ルックは光の中に立ち止まり、自分が崩れていく様を見ようと腕を上げたが、細い白い腕は光を浴びているだけで、一向になくならなかった。
* * *
光など不要なのだ。
そう考え、ルックは誰もいない石板前の広間で一人苦笑した。酷く虚しい行為だった。
酸っぱい葡萄の寓話を思い出す。狐は葡萄を貶めることで葡萄への渇きを癒したが、ルックは、光を貶したいわけではなかった。光を求めているわけでもない、光になりたいわけでもなかった。ただ、途方もなく遠いものに感じているだけだった。近しく感じたくないだけだった。
こんなにも溢れている光が厭わしい。
今朝の夢のあの眩しさを、ルックは恐れた。否、それ自体を恐れるというよりもむしろ、あの眩しい世界に行かなければいけないことが怖かった。
それはつまり、受け入れられなかったことを示しているのだから。
――だって、あの世界が明るいはずがない。
行ったことがあるわけではなかったが、おそらくはこの予想は間違ってはいないだろう。
悔しくて辛くて痛くて、叫び出したい衝動を、重苦しい溜息に変えて押し出す。名残のように指先が震えて、それが癪で、爪ごと噛んだ。
恐れの由縁を転嫁して痛みを紛らわせようとする愚かしさに吐き気がする。分かり切っていることをわざわざ確認して自傷する間抜けさに泣きそうになる。
ルックは冷たい石板に頭をもたれかけさせ、こみかみに触れる低温に息をついた。
――行けなくても構わないんだ。
涙を奥底に匿うと、そう言い訳する。
静かな空間には、自分の呼吸の音だけが微かに響いている。遠くに足音が聞こえ始めたが、それは今のルックには本当に遠かった。隔離された感覚、それはきっと思いこみでしかなく、彼とてこの世界の住人に過ぎない。そして遠い未来に息絶える瞬間まで、光に包まれているのだろう。
正面の開け放たれた扉や、天井の近くにある明かり取りの窓から、光が降り注ぐ。主の紋章が影響しているということもないだろうが、3年前と違い、この城には、光のない場所などない。
この世界に、真に闇だけの世界など有り得ないのだ。あるとすればそれは、
「ルック?」
唐突に名を呼ばれて、ルックはびくりと肩を震わせた。
今までの思考の軌跡が浅ましいほどにすぐさま遠く追いやられ、薄皮一枚の外側に存在する空気の流れが鮮明に脳に伝わってくる。
声の持ち主を振り返ろうとする身体を押しとどめ、か細い呼吸を継ぐ。せわしなく瞬いて先刻までの考えを払い、彼はきつく唇を噛んだ。
何故こちらに、と考える余裕はない。
鬱陶しいほどに光に満ちた空間で、ルックは少しでも自分の存在を減らそうと身じろいだが、もちろんそうしたところで何かが変わるわけではなかった。
逃げろ、と誰かが叫んで、他の誰かがそれを詰る。言われなくても逃げたいと思ったし、止められなくても逃げられないと思った。足が動こうとしない。
また呼ぶ声がして、遠かった足音が近づいてくる。
ルックは拳を握りしめた。せわしなく瞬いて、何故自分がこんなにも緊張しなければならないのかと冷静に焦がれる気持ちを貶めながら、熱を孕んでいく空気を吸う。息苦しいのは、きっと光が満ちているからだ。不要な弁解をして、それにまた苛立つ。
感じるはずのない圧迫感を覚え、心臓がどくどくと喧しく脈打つのを抑えようと冷水の役割を果たす思考を模索し、
――どれほど闇に焦がれようと、永遠に、それに喰らわれることはない。
冷えた感覚が背筋を一瞬で染め変え、凍り付いたようにすべてが終わる。
器用になったものだと自分を嗤うと、何か大切なものを捨ててしまった気分に陥り、それすら捨てて、常の表情を浮かべる。おそらく一筋の乱れもないだろう、やけに巧く表情を作ることができた。それが無性に哀しかったが、その感情も捨てることができた。
しかし光だけはいかんともしがたく、眩しい世界で、ルックはただ、光に押し潰されるように目を閉じた。
次に視界が開けたら、すべてが闇に呑み込まれていればいいと思った。