古典文学の館
                                  更新 2006年 9月10日


 
    ―――「Maekawaの超訳」で読む古典文学

   ※ 「直訳」と断ってあるもの以外は、ニュアンスをつかみやすくした意訳なので、
      試験などではこのまま訳さないようにしてくださいね。

        私の話し言葉のルーツ
          1959(昭和34)年、兵庫県加古郡稲美町生まれ・在住。
          父は稲美町草谷、母は明石市二見町出身。


近代の小説

  舞姫  (森鴎外)                                 2003.2.13訳(Ver.1.2) 

  山月記 (中島 敦) 全訳                           2006.8

    おまけ 山月記 (中島 敦)冒頭部   超訳
 (播州弁バージョン)   2004.5


古文

和歌

小倉百人一首


説話

  検非違使忠明 (今昔物語集 巻十九) 超訳「忠明の告白」バージョン   2001.5訳
  羅城門 (今昔物語集 巻二十九)  超訳

  検非違使忠明の事 (宇治拾遺物語 第95話) 直訳             2004.4
             (宇治拾遺物語 第130話)
  絵仏師良秀、家の焼くるを見て喜ぶ事(宇治拾遺物語 第38話)  超訳 2003.1訳 → 2003.6.8改訂

  児の飴食ひたること (沙石集 巻八)   超訳(日本昔話風)        2001.4訳
                            直訳                 2004.4訳

  安養の尼の小袖  (十訓抄)     超訳                   2005.4.17 
NEW
  大江山いく野の道 (十訓抄)     超訳

  おもて歌 (無名抄)      直訳       2002.10訳


随筆 

  春はあけぼの (枕草子 第一段)        超訳
  上にさぶらふ御猫は(枕草子 第七段)      直訳             2005.4 
NEW 
  除目に司得ぬ人の家 (枕草子 第二十五段 「すさまじきもの」より) 超訳「播州弁」バージョン 2001.9訳
  木の花は (枕草子 第三十七段)         わりと硬めの意訳
  二月つごもりごろに (枕草子 第一〇二段)       かなり直訳
  頭の弁の、職に参りたまひて (枕草子 第百三十段)   超訳 と 直訳   2005.5 
NEW
  五月ばかりなどに山里にありく (枕草子 第二百二十三段)   

  行く河の流れ (方丈記)  超訳           2004.9訳
  安元の大火  (方丈記)  超訳           2004.9訳

  九月二十日のころ (徒然草 第三十二段)  直訳 & 雰囲気訳    2006.9訳   
NEW
  仁和寺にある法師 (徒然草 第五十二段))
  蟻のごとくに集まりて (徒然草 第七十四段)
  奥山に猫またといふもの (徒然草 第八十九段))
  ある人弓射ることを習ふに (徒然草 第九十二段)  超訳「日本昔話」ふうバージョン
  高名の木登り (徒然草 第百九段)  超訳「播州弁」バージョン


日記

  門出 (土佐日記) 直訳
  船旅の不安(土佐日記) 直訳
  忘れ貝 (土佐日記) 直訳

  門出 (更級日記) 直訳
  源氏の五十余巻 (更級日記)  超訳            2003.10

  平泉 (奥の細道)


物語

  なよ竹のかぐや姫 (竹取物語)  超訳「日本昔話」ふうバージョン
  かぐや姫の昇天 部分  (竹取物語)  直訳         2004.5
  かぐや姫の昇天 部分  (竹取物語)  超訳         2004.5〜6

  芥川 (伊勢物語) 直訳
  芥川 (伊勢物語) 超訳                     2003.10
  初冠 (伊勢物語)
  関守 (伊勢物語)

  桐壺の更衣(部分) (源氏物語) 直訳
  葵(部分)  (源氏物語)      直訳            2005.9.11

  虫めづる姫君(部分) (堤中納言物語)   意訳      2002.9訳

  祇園精舎 (平家物語 冒頭) 直訳

  人と河童のはなし (伊曾保物語)  現代語訳       2006.1訳
  狼と犬との事 (伊曾保物語 下 第九)  わりと直訳          
NEW
  土器(かわらけ)、慢気を起こす事 (伊曾保物語)             
NEW
  蟻と蝉のはなし (伊曾保物語)                        NEW





漢文

  愚公山を移す(列子)       直訳             2005.6

  尾を塗中に曳く (荘子)  直訳・意訳              2004.10 訳

  管鮑の交わり(史記)       直訳             2005.6

  鴻門の会 (史記 項羽本紀) 超訳              2002.2.14+2005.1 訳


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検非違使忠明 (今昔物語集) 超訳「忠明の告白」バージョン

 昔、忠明という名前の警察官がいた。その忠明が話したこと。

 俺がまだ若かった頃、ひょんなことから、清水寺の橋殿で都の悪ガキどもと喧嘩になった。悪ガキどもは刀を抜いて俺を取り囲んで殺そうとしやがった。俺も刀を抜いて対抗したが、相手は大勢だ。俺は、相手のほうに刀の先を向けながら、お堂の方に逃げていった。が、先を見ると、お堂の東の端にも連中の仲間が待ち構えていて、こっちへ向かってきた。左右からはさみ撃ちにされ、どうしたものかと途方に暮れたその時、ふと、お堂の「しとみ」(上下に分かれる戸)が目にとまった。そこで、大急ぎで「しとみ」の下側をはずし、脇にはさんで決死の覚悟で前の谷に飛び下りた。助かるという保証はまったくなかったが、このまま舞台の上にいてもむざむざ切られるだけだ。「ええい。」
 結果は……。できすぎだった。うまく「しとみ」の下側に風圧がかかり、上から見るとちょうど谷底に鳥がとまるようにゆっくりと下りられたから、驚いて下を見つめている、がけの上の連中に「あっかんべー」をして、悠々と立ち去ってやった。上の連中の悔しそうなまぬけ顔といったらなかったぜ。
 けど、今考えると、あの連中が刀を抜いて向かってきたとき、お堂の方を向いて「観音様、どうかお助けください」とお願いしたから、まったくそのおかげで助かったんだと思うよ。観音様、ありがとうさん。思い出すたびに冷や汗が出るが……。」 

 忠明がこう話したのを、聞いた人が語り伝えたとかいうことだ。





検非違使忠明の事 (宇治拾遺物語) 直訳

 これも、今となっては昔の話、忠明という警察官がいた。その忠明が若かったとき、清水寺の階段のもとで、京都の若者たちとけんかをした。若者たちはそれぞれ刀を抜いて、忠明を取り囲んで殺そうとしたので、忠明も刀を抜いて、お堂のほうへ上ると、お堂の東の端にもたくさんの若者たちが立って、向かってきたので、内側へ逃げて、蔀(しとみ。戸板)の下側を脇にはさんで、前の谷へ飛び落ちた。蔀は風にあおられて、谷の底に、鳥が止まるように静かに落ちたので、そこから逃げて行った。京の若者たちは、谷を見おろして、驚きあきれ、立ち並んで見ていたが、どうしようもなくて、そのけんかはそこで終わりになった、ということだ。










羅城門 (今昔物語集 巻第二十九)  超訳

 昔々、摂津の国のあたりから、盗みをしようと都に上ってきた男が、日暮れまでまだ間があったので、羅城門の下に隠れていた。朱雀大路のほうは人がたくさん歩いているので、人がいなくなるまでと思って、門の下で待っていた。すると山城のほうから人がたくさん来る音がしたので、隠れようと思って、門の二階にそっとのぼっていった。すると二階では、誰かが火をぼんやりとともしている。
 この男は「これはあやしいぞ」と思って、格子の窓からのぞくと、若い女が死んで倒れていた。その枕もとに火を灯して、髪のまっしろな老婆が、その死人の枕もとに座って、死人の髪をつかんでは抜き取っているのであった。
 男は、事情がわからなかったので、「もしかしたら鬼だろうか」と思い恐ろしかったが、「もしかしたら死人が生き返ったのかもしれない。ちょっとおどかしてみよう」と思って、そっと戸をあけて、刀を抜いて、「やいやい」と言って走り寄った。老婆は、驚きあわてて手をすり合わせる。男は「どういう老婆がこんなことをしているのか」と尋ねた。老婆は「どうかお助けをー。じ、実は、わしがお仕えしていたご主人様が亡くなって、世話する人がないので、こ、こうしてお置きしたのですじゃ。その髪が丈よりも長いほどなので、見ているうちにふと、カツラにしたい、と思い立って抜いていたのですじゃ。許してくだされー」と説明した。
 しかし男は、死人の着ていた着物と、老婆の着ていた着物と、抜いてあった髪とを奪い取り、階段を駆けおりて、逃げていってしまった。
 ところで、その二階には死人の骸骨がいっぱいあった。葬式などをあげられない死人を、この門の上に置いていったそうだ。
 このことはその盗人が人に話したのをこんなふうに話し伝えたのだとかいうことだ。

        (しかしなー、その男が自分でこう言ったとは考えにくい。話が脚色されながら伝わっていったのかな。
         それともこの男の、泥棒としての自慢話?)










猿沢の池の竜のこと (宇治拾遺物語 第130話)

 これも今となっては昔のこと、奈良に蔵人得業恵印(くろうど とくごう えいん)という僧がいた。その僧が若かった時に、(奈良興福寺の南にあった)猿沢の池の端に「何月何日、この池から竜が登るぞ」という札を立てたところ、道を行き来する者は、若い者、年取った者、身分の高い人々もみんな、「見たいものだなぁ」と、うわさしあった。この僧は、「私がしたことなのに人々は騒ぎあっている。ばかだなあ」と、おかしく思ったが、隠し通そうと思い、知らないふりをして、日を過ごしていくうちに、その月になった。およそ、大和、河内、和泉、摂津の国の者まで伝え聞いて、集まっている。
 恵印は「どうしてこんなに集まるのだろう、何かわけがあるのだろう。不思議なことだなあ」と思うが、そんな様子もなさそうに過ごしていくうちに、もうその日になった。周辺では道もよけられないほど押し合いへしあいして集まっている。
 その時になって、この恵印が思うには、「ただごとではないなあ、自分がしたことではあるが、わけがあるにちがいない」と思ったので、「このことはいかにもありそうだ。行って見てみよう」と思って、頭を布で隠して、行った。全く近くに寄ることができそうにもない。興福寺の南大門の壇の上に登って立って、今にも竜が登るか登るかと待っていたが、どうして登るはずもあろうか。
 そうしているうちに日も沈んでしまった。暗くなって、そうかといって、こうしてもいられないので、帰ったということだ。










絵仏師良秀、家の焼くるを見て喜ぶ事(『宇治拾遺物語』第38話)   超訳

 昔々、仏様の絵を描く「絵仏師」の良秀という男がいた。あるとき、隣家から火が出て、その火が風にあおられて自分の家に迫ってきた。良秀は、描きかけていた仏様も、自分の妻子も置き去りにしたままでさっさと逃げ出し、家の向かい側に立って、家の焼けるのを見ていた。近所の人たちが、その火事を知り、見舞いに訪れるが、良秀は落ちついたものである。人々が「大丈夫ですか?」と尋ねるが、良秀は、自分の家が焼けるのを眺めながらうなずいたり笑ったりしながら「ああ、もうけものもうけもの。今まで描いていた炎は今一つだったなぁ」などとつぶやいている。見舞いに来た人たちは、「なんてことだ。このように笑いながら立っておられるとは。家族のこともどうお思いなのだ。あきれ果てたことだよ。物の怪でも取りつきなさったのか」と言うと、良秀は「物の怪などとりついてはおらん! 失礼な。『長い間、不動明王の炎をへたに描いていたことだよ。今こうやって見ていると、こんなふうに燃えるのだなぁ』と、目から鱗が落ちる思いで納得して見ていたのだ。これこそ、もうけものと言わずしてなんと言うのだ。仏を描くことを専門として成功したいなら、仏様さえうまくお描き申し上げられれば、家ぐらい、百軒でも千軒でも建てられる。あんたたちは、たいした才能もお持ちでないから、たかが家の一つにこだわって私を変人扱いなさるのだ。せいぜい数少ない持ち物を惜しみなさることだね」と言って、ばかにして笑っていたということだ。
 後世、良秀の描いた絵は「良秀のよじり不動」と呼ばれて、今に至るまで、人々はほめ合っているということだ。














児の飴食ひたる事 (沙石集)   超訳(日本昔話風)

 ある山寺に一人の和尚さんがおった。この和尚さんは、とてもけちで、水飴を作ってはいつも自分一人で食べておった。この寺には、和尚さんから学問を学んでいる子供が一人いたんじゃが、和尚さんは、水飴を棚から下ろしたり戻したりするところを、この子に見られてしもうた。そこで和尚さんは「これは人が食べれば死ぬ毒じゃ」とよく言い聞かせておいた。じゃが、この子もばかではない。おいしそうなものだということをこっそり見て知っておった。「ああ、食べたいな、食べたいな」と思うていたところ、ちょうどある時、和尚さんが用事があって外出することがあった。しばらく和尚さんは帰ってこないし、この子は、とりあえず、その水飴を棚から下ろしてみようとした。じゃが、失敗してこぼしてしまい、着物にも髪の毛にもつけてしもうた。どうしようかと思うたが、日ごろから、食べてみたいと思っとったから我慢できず、「ええい、食べてしまえ」とばかり、いっぱい食べてしもうた。そして一計を案じ、和尚さんが大切にしていた仏具の水瓶を、雨だれが落ちるところにすえてあった石にぶつけて割っておいたんじゃ。
 さて、和尚さんが帰ってくると、この子はさめざめと泣いておる。「どうして泣いておるのじゃ」と和尚さんが聞くと、この子は「和尚さまが大切にしておられる水瓶を誤って割ってしまいました。どのようなおとがめがあることかと情けなく、いっそ死んでしまおうと思い、和尚さまが、『食べれば死ぬ』とおっしゃっていた毒があったことを思い出し、食べて死のうといたしました。でも、どうしたことでしょう、いくら食べてもいっこうに死にません。最後には着物につけ、髪の毛にもつけましたが、まだ死ねないのです。」と答えたのじゃ。
 水飴は食べられるは、水瓶は割られるはで、この和尚には踏んだり蹴ったりじゃった。けちなばかりにこんなことになったのじゃ。一方、この子は名案を考えついたものじゃ。まったくすばらしい知恵じゃわい。このように知恵が働くのじゃから、学問のほうでも、きっとなかなかの成果をあげたことじゃろうよ。


 おまけ(創作)

 坊さん「それは悪いことをした。あの飴は期限切れで死ねんのじゃ。かわりにわしがそこの崖から谷底へ突き落としてやろう。死に方はひとつとは限らんからな。」子供「ひえー、許してください」坊さん「死ぬんじゃなかったのか?」「いえー、実は…。ごめんなさい、許してください。」
 所詮、子供の知恵は浅はかじゃった。



児の飴食ひたる事 (沙石集) 直訳

 ある山寺にけちで欲張りなおしょうさんがいたが、そのおしょうさんは、飴を作って一人だけで食べていた。じゅうぶん食べて、棚に置くということを繰り返していたが、一人いた、寺で修業している少年に食べさせず、「これは、人が食べてしまえば死ぬものだぞ。」と言っていたのを、この子は「ああ、食べたい、食べたい。」と思っていたが、おしょうさんが、でかけたすきに、棚から下ろしているうちに、こぼして、着物にも髪にも付けてしまった。長い間ほしいと思っていたので、二、三杯よく食べて、おしょうさんが大切にしている水差しを、雨が落ちるところに据えてある石にぶつけて割っておいた。
 おしょうさんが帰ってきたところ、この子はさめざめと泣いている。「どうして泣くのだ?」とおしょうさんが尋ねると、「おしょうさんが大切にしておられたお水差しを誤って割ってしまいました。どんなお叱りがあるだろうかと、情けなく思われて、生きていてもしかたがないと思って、人が食べれば死ぬとおっしゃっていましたものを、一杯食べても死なず、二杯、三杯と食べてもまったく死にません。最後には着物に付け、髪にも付けましたが、まだ死にません。」と言った。
 飴は食べられ、水差しは割られてしまった。欲ばりなおしょうさんは何も得になることはなかった。子どもの知恵はすばらしいことだ。学問の才能もそんなに悪くはないだろうよ。












安養の尼の小袖 (十訓抄)

 比叡山の横川に恵心僧都という有名なお坊さんがいらっしゃったが、その人の妹の安養の尼上と いう人のところに泥棒が入って、衣服や家財道具をあるだけ全部盗み出していった。
 尼上は、しかたなく「紙ぶすま」という、中にわらの入った紙のふとんのようなものだけを着て座っていらっしゃった。
 姉(安養の尼上または、その上の姉)のところにいらっしゃった小尼上という妹が、それを見て、尼上のところへ走り寄り申し上げると、泥棒が「小袖」という着物(肌着)を一枚落としていったのにお気づきになった。
 小尼上はそれを手に取って、尼上に
  「泥棒がこれを落としていきました。せめてこれだけでもお召しください。」
と申し上げなさったが、尼上は、
  「盗み出した以上、泥棒はきっと自分のものだと思っているでしょう。持ち主(=泥棒)が了解しないものをどうして着ることができるでしょうか。まだ遠くへは  行っていないはず。一刻も早くお持ちして泥棒にお持たせなさい。」
とおっしゃったので、小尼上は、門のほうへ走り出して、
  「もしもし、泥棒さん!」
と泥棒を呼び止め、
  「これをお落としになりましたよ。まちがいなく差し上げましょう。」
とおっしゃったので、逃げる途中だった泥棒たちは立ち止まって、しばらく何事か相談している様子だったが、
  「まずいところに参上してしまったなあ。」
と言って、盗んだものをそっくり置いて退散していったということだ。












大江山いく野の道 (十訓抄)     超訳

  ――やるやん小式部 でもちょっとやりすぎたかも 定くんもいらんこと言うからや の巻

 和泉式部が保昌と再婚し、夫について丹後に下っていた時、京都で左右対抗和歌発表大会があり、和泉式部の娘の小式部内侍がその代表選手に選ばれて歌を詠むことになった。
 その話を聞いた定頼中納言が、控え室にいた小式部内侍をばかにするように、
 「そなたの母上のおられる丹後へ送った使いの者は、母上の作った傑作を持って帰って参ったか。まだなら、さぞ不安にお思いだろうね。」
と、聞こえるか聞こえないかのように言いながら小式部の控え室の前を通り過ぎようとなさった。
 小式部内侍は、「ばかにせんといてよ」とムカッときて、ちょっとお下品かしらとも思ったがそんなことにかまっていられず、部屋の中からすだれ越しに半分ほど身を乗り出して、通り過ぎようとする定頼が動けないようにいきなり定頼の普段着の袖を引っぱって、

   天橋立のある丹後なんかめっちゃ遠いんやから、
   行ってもないし、返事も見てないわよ、
   誰がおかあちゃんの歌をあてにして待ってるって? もう一回言ってみなさいよ

という歌をその場で作って和歌で話しかけた。
 定頼は、小式部内侍がこんな技巧のこんだ歌を、それも即興で詠んだことにひどく驚きあわて、
  「げげ! まさか、そんなはずないやろ」
やっとのことでそれだけ言い、お返しの歌も作れなくて、小式部につかまれていた袖をやっとのことで振り払ってこそこそ逃げてしまわれた。定頼はあとで思った、「かっこわるー、完敗や」
 この話があっという間に広まって、小式部内侍は、歌人の間で、一躍有名になったとさ。











おもて歌  (鴨長明「無名抄」より)   直訳

    ◆印 = 俊恵が鴨長明に話している箇所
    ★印 = 俊恵が俊成に話している箇所
    ●印 = 俊成が俊恵に話している箇所
    なお、筆者は鴨長明である。


    俊恵師匠が私(鴨長明)に言った。
◆  「五条三位入道(藤原俊成様)のところへ参上した折りに、
   (私(俊恵)が俊成様に)

◆★ 『あなたの詠まれた歌の中では、どれをすぐれていると
◆★お思いになりますか。ほかの人はいろいろと判定していますが、
◆★それをそのまま採用することはできません。たしかにお聞きしたいと
◆★思います。』

◆ と申し上げたところ、(俊成様は私(俊恵)に、)

◆● 『夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里
◆●  (夕方になると、野原の秋風が身にしみて、うずらの鳴く声がするよ、
◆●   この深草の里では)
◆●この歌を、自分では代表歌と思っております。』

◆ とおっしゃったので、
◆ 私(俊恵)は、(俊成様に)また言いました。

◆★ 『世間で広く人が申していますのは、
◆★  おもかげに花の姿を先立てていくへ越え来ぬ峰の白雲
◆★  (桜の咲いている姿を幻影として思い描いて
◆★   いくつ越えて来ただろう、白雲のかかる峰を)
◆★この歌をすぐれているように申していますが、どうですか。』

◆ と申し上げると、(俊成様は私(俊恵)に、)

◆● 『さあ、他の人はそのように判定しているのでしょうか。私は存じません。
◆●やはり、自分では先に私が挙げた歌とは比べることはできません。』

◆ とおっしゃいました。」

  と話して、
  このことについて、内輪の話として(俊恵師匠が私(鴨長明)に)申したことには、

◆  「あの歌は、『身にしみて』という第三句がひどく残念に
◆ 思われます。これほどうまくできた歌では、景色をそのまま
◆ 描写して、ただそれとなく身にしみたであろうよと思わせるのが、
◆ 奥ゆかしくもあり優雅でもあるのです。
◆ 言い過ぎてしまって、歌の目玉の部分を、そのようだ、と
◆ 言い表してしまうと、むやみに底が浅い歌になってしまいます。」

  と言って、そのついでに、

◆  「私の歌の中では、
◆   み吉野の山かき曇り雪降ればふもとの里はうちしぐれつつ
◆   (吉野の山が暗くなって雪が降ると、麓の里のほうでは時雨が
◆    たびたび降ることであるよ)
◆ この歌を、私の代表歌にしようと思っております。
◆ もし将来、私の代表歌についてはっきりしないと言う人があったなら、
◆ 『(俊恵は)このように言っていたよ。』とお話しください。」

  と言った。













春はあけぼの (枕草子 第一段)

 春はやっぱりあけぼのよね。とくにだんだん白くなっていく山の際が少しずつ明るくなって、紫がかった雲が細くなびいているのなんかいいわ。
 夏は夜ね。月の出ているころはもちろんだけど、月の出ていない闇のころでもやっぱり、蛍がたくさんあっちこっち飛び回っているところなんかいいわ。
それから、たった一匹、二匹なんて、ほんのり光りながら飛んでいくのもいいわね。
雨なんかが降るのもいい。
 秋は夕暮れね。夕日が射して、山の端に沈みかけたころに、烏が、おうちへ帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽なんて急いで飛んでいく様子なんかまで、すごくしんみりしちゃったりして。そんなときにまた、雁なんかが一列になって飛んでいくのがとても小さく見えるのなんか、すごくいい。日がすっかり暮れてちゃって、風の音や虫の声なんかが聞こえるのも。
 冬は早朝だわ。雪の降っている朝はもちろん、霜がすごく白く降りている朝も、そうじゃなくてもすごく寒い朝に、火なんかを急いでおこして、炭を持って廊下を行ったり来たりするのも、すごくよく合ってる。昼になって気温が上がってきて寒さがゆるんできたら、火鉢の火も白く灰がちになってきてもうひとつね。











上にさぶらふ御猫は(枕草子 第七段)     直訳

 天皇様にお仕えしているお猫様は、従五位の位を授かって「命婦(みょうぶ)のおとど(大臣)」といって、とてもかわいいので、(天皇様は)大切に飼っていらっしゃるが、(そのお猫様が)縁側に出て横になっているので、世話係の「馬(め)の命婦(みょうぶ)」が、「まあ、いけませんね(お行儀の悪いこと)。お入りなさい。」と呼ぶが、(お猫様は)日が差し込んでいるところで眠っている。それをおどろかそうと思って、(馬の命婦は)「翁丸(おきなまろ)、どこ? 「命婦のおとど」にかみついておやり。」と、(犬の翁丸に)言うと、(翁丸は)本当かと思って(まにうけて)、ばか者(翁丸)は、(お猫様に)飛びかかったので、(お猫様は)ひどく恐がって、御簾(みす=すだれ)の内側に逃げ込んだ。
 朝食の部屋に、天皇様はいらっしゃったが、(その様子を)ご覧になって、ひどくお驚きになる。(天皇様は)猫をふところにお入れになって、男たちをお呼びになると、蔵人(くろうど)の忠隆、なりなかが参上したので、(天皇様は)「この翁丸を打ちこらしめて、追い出せ。今すぐだぞ。」とお命じになるので、(人々は)翁丸をつかまえようと騒ぐ。(天皇様は)馬の命婦をも責めて「世話係をぜひ替えよう。(馬の命婦では猫ちゃん(=「命婦のおとど」)が)非常に心配だ。」とおっしゃるので、(馬の命婦は天皇様の)御前にも出ない。
 犬(=翁丸)は見つけ出して、宮中警備の武士などに命じて追い出させた。
 「ああ、ひどく体を揺すって(いばって)歩き回っていたのになあ。三月三日に、頭の弁が、(従者に命じて翁丸に)柳の髪飾りをつけさせ、桃の花をかんざしとして刺させ、桜を腰にさしなどして歩き回らせなさった時、こういう目にあうだろうとは、翁丸も思っていなかっただろう」などとかわいそうに思う。
 「(翁丸は)中宮様のお食事のときは、必ず向かいにお控え申し上げていたのに、ほんとうに寂しいことだよ」などと言って、三、四日たった昼ごろ、犬がひどく鳴く声がするので、「いったいどういう犬がこのように長く(いつまでも)鳴いているのだろうか」と聞いていると、たくさんの犬がその様子を見に行っている。
 御厠人(みかわやうど=トイレ係)という人が走ってきて、「ああひどい。犬を蔵人二人でお打ちになっている。きっと死ぬだろう。犬を追放させなさったが、それが帰って参ったといって、こらしめていらっしゃる。」と言う。つらいことだよ。その犬とは翁丸だ。
 「忠隆、実房などが打ちたたいている。」と言うので、止めにやるうちに、やっとのことで鳴きやみ、「(その犬は)死んだので、詰め所の外に引き出して捨てた。」というので、悲しがったりなどしている夕方、ひどい様子で腫(は)れ、あきれるほど(ひどい様子)の犬で、つらく苦しそうな様子の犬が、震えながらうろついているので、「翁丸か? 近ごろこういう犬が(翁丸以外に)歩き回っているだろうか(いや、いない。=きっと翁丸だ)」と言うので、
 「翁丸?」と呼びかけるが、(その犬は)聞き入れもしない(=呼びかけに応じない)。
 (ある者は)「翁丸だ」とも言い、(ある者は)「翁丸ではない」とも、口々に申し上げるので、(中宮様は)「右近の内侍が見知っている。呼べ。」といってお呼びになるので、右近が参上した。
 (中宮様は)「これは翁丸か?」と(その犬を右近に)お見せになる。
 「似てはいますが、これはひどい様子のようでございます。 また、(翁丸なら)『翁丸か』とさえ言うと、喜んで参上しますのに、(この犬は)呼んでも寄ってきません。(ですから)翁丸ではないようです。(また)『その犬は打ち殺して捨てました。』と申しておりました。蔵人二人で打ったとしたら、生きているでしょうか(いや、きっと生きてはいないでしょう)」 などと申し上げるので、(中宮様は)つらく悲しくお思いになる。
 (あたりが)暗くなって、ものを食べさせたが(=食べさせようとしたが)食べないので、(その犬を)翁丸ではないものと言い決めて、(その犬が翁丸かどうかという議論は)終わった(その)翌朝、(中宮様が)髪をおすきになり、お水で手や顔をお洗いになり、(私に)鏡をお持たせになって(中宮様がご自分の姿を)ごらんになるので(私は中宮様に)お仕え申し上げていたが、(私が)犬が柱の下に座っているのを見やって、 「ああ、きのうは翁丸をほんとうにひどく打ったことだよ。死んだそうだが、かわいそうだよ。どんなものに次は生まれ変わっているだろう。どんなにかつらい気持ちがしただろうよ。」とつぶやくと、
 この座っていた犬が、わなわなと体を震わせて、涙をひたすら流すので、ひどく意外なことでびっくりした。それでは(この犬は)翁丸であったのだなあ。昨晩は、隠して我慢していたのだなあ、と、この上もなく、しみじみ感慨深く、それに加えて、おもしろくもあった。
 (私が中宮様の)鏡を置いて、「それでは(おまえは)翁丸か?」と言うと、(その犬は)ひれ伏してひどく鳴く。中宮様もひどくお笑いになる。(中宮様は)右近の内侍をお呼びになり、「こういうわけだったよ。」とおっしゃったので、(みんな)大声で笑い騒ぎあうのを、天皇様もお聞きになって、こちらへ(渡り廊下を)渡っていらっしゃった。
 (天皇様は)「驚いたことに、犬などでもこのような(情を解する)心があるものなのだなあ」とお笑いになる。天皇付きの女房などもこの話をきいて参上してきて、(翁丸を)呼ぶのにも、(翁丸は)今はもう動く(反応する)。(私が)「やはり、この(翁丸の)顔などがはれているところに、手当てをさせたいわ」と言うと、(周りの者が)「とうとうこれ(清少納言の翁丸に同情する気持ち)を言ってしまったわね」などと笑っていると、(蔵人の)忠隆が聞きつけて、台所のほうから、「ほんとうでしょうか? 翁丸を見ましょう」と言ったので、「まあ、とんでもない。まったくそういうものはいません。」と(人に)言わせると、(忠隆は)「そうはいっても、(翁丸を)見つける時もあるでしょう。そうばかりむやみにお隠しになることもできないでしょう。」と言う。
 そうして、(翁丸は)おとがめ(追放)も許されて、もとのようになった。
 やはり、(犬とはいえ)かわいそうに思われて震え泣き出したのが、この上なくおもしろく、またしみじみ感慨深いことであったよ。
 人間などであれば、他人から(同情的な)言葉をかけられて泣くなどということはあるものだが……。











除目に司得ぬ人の家 (枕草子 第二十五段「すさまじきもの」より) 播州弁バージョン (010912訳)

 国司の任命式で、国司になられへんかった人の家。(これは見とってつらいわー。どんな感じかゆーとな)
 「今年はぜったい国司になれる」ゆーてどっかから聞いてきて、昔おってんけど今はよそで働いとー人らや、今は田舎っぽいとこに住んどー人らなんか、よーけ集まってきて、お殿様が神社なんかにお参りをされる――出たり入ったりする牛車の長い柄(え)が切れ目がないぐらいいっぱい見えるんやけど――そのお供に、「『おれも』『おれも』参上してお仕えするんや」ゆーて(ゆーかそんな名目で)、食べるだけ食べたり飲めるだけ飲んだり、ドンチャン騒ぎしとった。
 けど、けどや。任命式が終わってまう朝方まで、知らせのお使いが門をたたく音もぜんぜんせーへん。「なんでなんで?」とかゆーて、よー聞いとーと、家来のさき払いの声とかいっぱいしてきて、式関係の偉い人らなんかみんな出てきてしもたったやんか。(偉い人らゆーたら、今の場合「上達部(かんだちめ)」や。国司を決める人らや。橋本治さんに言わせたらエグゼクティブや。まーええけど)
 「うまいこと決まってほしいなあ、でもうまいこといくかなあ」ゆーてきのうの晩から寒い中をぶるぶる震えながら待っとった召し使いが、えらいがっかりして帰ってくる。それ見たその家関係の人ら、もうわかるから「どうやった」なんかとてもとても聞いたりよーせーへん。そんなことできる状況ちゃうやん。そんな緊迫した状況やで。そやのにそんな様子を全然知らへんよその人なんか、無神経! にもほどがある(?)、「お殿様はどこの国司になったったん?」なんて聞く奴がおる。
 つらいっちゅーか、やけくそっちゅーか、しょーがないから、「どこそこの国の前の国司やん」て、そんなときは決まって答えてる。(ま、国司は国司やけどな、あーあ、つらー)
 もうちょっとして朝になって、すき間のないぐらいいっぱいおった人ら、ちょっとずつすべるみたいに幽霊みたいにすーって(音させんと平行移動かー、器用やなー)おらんよーになってまう。
 そんな時、ずっと仕えてる人らは困るわなー、そーゆー人らは、よー離れていかれへんから、来年国司が変わるゆーあの国この国、ゆーて指折り数えなんかして、ふらふら歩き回ったりするなんか、ほんま見とって気の毒ゆーか、いややなー。









木の花は (枕草子 第三十七段) わりと硬めの意訳   010928訳

 木の花は、色が濃くても薄くても、紅梅がいい。
桜は、葉の緑が深い中に大きい花びらが、細い枝に咲いているのがいい。
藤の花は、花房が長く垂れ下がって、濃い藤色に咲いているのが、とても立派で
すばらしい。

 橘は、四月の終わりか五月の初めごろ、葉が濃い緑色になったところに、花がとても白く咲いているのがいい。雨が降っている朝なんかはそれが、この上なく風情があっておもしろい。
そんな朝に、前の冬からついたままの実が、花と花の間から黄金の玉かと思うほどとても鮮やかに見えているのなんか、朝露に濡れた明け方の桜に負けない。橘はほととぎすが住む木だと思うからだろうか、やはり今さら言葉では表せないほどすばらしい。

 梨の花は、まったくおもしろくないものとして、身近で扱ったりもしないし、まして、ちょっとした手紙を結びつけて贈るのに使ったりさえしない。顔がかわいくない人を見て、梨の花をたとえに使ったりするのも、なるほど、葉の色からして、魅力もないものに見える。でも、中国では梨の花をこの上なくすばらしいものとして、漢詩にも詠むのは、やはりそうはいっても何か理由があるのだろうと、よくよく見ると、花びらの端にきれいな色がほんのりとついているようだ。唐の詩人白楽天が、その詩「長恨歌」の中で、死んだ楊貴妃の魂が、玄宗皇帝の使者である道士に会って涙を流した顔にたとえて、「梨花一枝、春、雨を帯ぶ」(一枝の梨の花が春の雨にぬれているようだ)と歌ったのは格別だと思うと、やはりとてもすばらしいことはこの上ないと思われた。

 桐の木の花が紫色に咲いているのはやはりおもしろいが、葉の広がり方はひどく大げさだが、他の木々と同じに論ずることはできない。中国で、大げさな名前がついている鳥、鳳凰が、選んでこの木にだけ止まるとかいうのは、とてもすばらしい。まして桐の木で作った琴からさまざまな音が出てくるのなんかは、普通にすばらしいなんて言葉では言えないほど、とてもとてもすばらしい。

 木の見栄えはよくないけれど、あうち(栴檀=せんだん)の木の花はとてもおもしろい。乾いた感じで、風変わりに咲くが、それが、その「あう」という名前のとおり、必ず五月五日の端午の節句に合わせてちょうど咲くのはおもしろい。










二月つごもりごろに (枕草子 第一〇二段)

 陰暦二月の終わりごろ、風がひどく吹き、空もとても暗い上、雪までちらついている時に、私たちのいる黒戸(くろど)の部屋に主殿寮(とのもりょう)の役人がやってきて「ごめんください」というので、近寄ると、「宰相(さいしょう)の公任(きんとう)様からです。」と言って手紙を差し出す。見ると、懐紙(ふところがみ)に

  「少しだけ春がある心地がする」

と書いてある。白楽天の詩を踏まえたこの句(※)は、いかにも今日の天気にぴったり合っていておもしろいが、(これは公任様が私に、上の句をつけよと言ってこられているのだ。)この上の句をどのようにつけたらよいだろうか、と悩んでしまう。
 さて、どのようにつけたらよいだろうか、と悩んでしまう。「殿上(てんじょう)の間(ま)にはどんな方々がいらっしゃるの?」とその役人に聞くと、「だれだれ様やだれだれ様」と言う。どなたも立派な方々ばかりで、そんなところへ、宰相様へのお返事をいいかげんな気持ちでお返しできようか(いいかげんにはお返しできるはずがない)。私一人だけでは不安で心苦しいので、定子(ていし)中宮様にご覧になっていただこうと思ったが、ちょうど、天皇様がいらっしゃって、いっしょにお休み中である。
 役人は「早く早く、お返事を。」とせかす。なるほど、平凡な上に遅いとまでなれば、まったくとりえもないので、「ええい、どうにでもなれ」と思って、

  「空が寒いので、花かと見まちがえるばかりに降る雪のせいで(※)」

と、震え震え書いて渡したが、それを先方の方々がどうお思いになるだろうかと考えると苦しくつらい。この返事の評判を聞きたいと思う反面、けなされるのなら聞きたくない、とも思っていると、
 左兵衛の督(かみ)様――中将でもいらっしゃった――が、私に次のようなことだけを話してくださった。「俊賢の宰相様などが『やはり、清少納言は内侍(ないし)に昇格させるよう天皇様に申し上げよう』と評していらっしゃったよ」と。


※白楽天(本名、白居易)の漢詩、「南秦の雪」の一節、「三時雲冷やかにして多く雪を飛ばし、二月山寒うして少しく春有り。」
   (農業に大切な三つの季節(のうちの、この春)に雲は冷たくて雪をいっぱい飛ばし、二月の山は寒くて、春は少ししかない)。
  …公任はこの部分の後半「寒くて春は少ししかない」の部分を、和歌の下の句にまとめなおして清少納言に送り、受け取った清少納言もまた、
    ここに表れていない「雲冷やかにして多く雪を飛ばし、二月山寒くして(雲は冷たく雪をたくさん飛ばし、二月の山は寒くて)」
    の部分を思い浮かべ、なるほど今日の天気にぴったりだ、と感じている。
  …また、彼女が付けた上の句でも、それらのことを踏まえた上で、「少しだけ春がある気がする」理由として「花」を加えて答えている。












頭の弁の、職に参りたまひて  (枕草子 第百三十段)

【1】超訳

 頭の弁の藤原行成さまが私たちのところへいらっしゃって、いろんな話などなさっているうちに、夜遅くなってしまった。行成さまは「明日は内裏(だいり)の《おこもり》の日で、私もこもらなくちゃいけないから、夜中の二時にもなっちゃうとまずい。」とおっしゃって、あわてて内裏へいらっしゃった。
 翌朝、蔵人所の公用紙を何枚も重ねて、それに、「今日はとても心残りだよ。きみと夜通し、昔語りなどして夜を明かそうと思ったのに、鶏の声にせきたてられてできなかったよ。」などと、工夫して書いていらっしゃるのは、とてもすてきだ。「夜ふけに鳴いたその鶏って、あの中国の孟嘗君の鶏かしら?」って返事の手紙を送ったら、すぐに「孟嘗君の鶏は、《函谷関》を開いて、三千人の居候を逃がした、っていうことだけど、これはわたしとあなたの《逢坂の関》だよ。」って返事が来たから、また私も「一晩中、鶏の鳴きまねをしてだまそうとしても、この逢坂の関は、絶対だまされて通したりしませんよ。私っていうかしこい番人がいますからね。(かんたんには気を許しませんよ)」と申し上げる。それにまた返事が来て、「逢坂の関はかんたんに越えられるそうだから、鶏が鳴かなくても扉を開けて人の来るのを待っているそうだよ(実は僕を待ってるんじゃないの?)。」って。うーん、自信家ねー! 参っちゃうわ。
 そんなふうにやりとりした行成さまのお手紙だが、定子様の弟君の隆円僧都さまが「ください、ください」と土下座しそうにまでしておっしゃるので、最初のお手紙を差し上げた。(なんと言っても、行成さまは当代随一の書道の名人なのだ。)二通めのは中宮様にさし上げた。それで、《逢坂の関》の歌への返歌は、行成さまに圧倒されてできないままになってしまった。言い負かされたって認めてるようで、かっこ悪いわね。
 何日かたって、「きみの手紙、殿上人(てんじょうびと)はみんな見たよ。」と行成さまがおっしゃるから、「私の上手な歌を公表してくださるなんて、やっぱり私のことを思ってくださってたのね。私の《夜をこめて》の歌みたいな、いい歌は、誰かが広めてくれなかったら、作った甲斐がありませんもの。でも、あなたの《逢坂は》の歌みたいな取り柄のない歌なんかは、広まっちゃったらあなたがかわいそうだから、しっかり隠して誰にも見せていませんよ。ほらね、私もあなたと同じぐらいあなたのことを思ってるでしょう?」って言うと、「全部わかって、そんなふうに言うところが、やっぱり他の女房たちとは違うなあ。『何も考えずに、なんてことしてくれるのよ。』なんて、他の女性たちと同じように文句を言うんじゃないかと思ったけど。」などと言って、お笑いになる。
 私は「どうしてそんなふうにおっしゃるの? 逆にお礼を申し上げたいぐらいなのに。」なんて言う。行成さまはまた「僕の手紙を隠してくれたこともまた、しみじみうれしいよ。あれが人に見られたらかっこ悪くて困るところだった。これからもそんなふうに頼むよ。」なんておっしゃった。
 あとで、中将の源経房さまがいらっしゃって、「行成様があなたのことをとてもほめていらっしゃることを知ってる? 先日いただいた手紙に、その時のことなどを書いておられた。好きな君が、誰かにほめられるのはとてもうれしいよ。」などと、まじめな顔でおっしゃるのもおもしろい。
 私が「二重にうれしいわ。一つめは、あの行成さまがほめてくださっているっていうことで、二つめは、あなたの思う人の中に私も入っていることですよ。」と言うと、経房さまはまた「そんなことを、めったにない初めてのことのようにお喜びになるのですね。」とおっしゃった。


【直訳】

 頭の弁(藤原行成卿)が中宮職(しき)の御曹司(みぞうし)へ参上なさって、(私に)いろいろ思い出話 などなさっていたところ、夜がひどくふけてしまった。
「明日は内裏(だいり)の「物忌み」で、(私も)こもらなくてはいけないので、(ここで時を過ごして) 丑(うし)の刻(午前二時ごろ)になってしまうならきっとまずいだろう。」 と言って、(内裏へ)参内なさった。
 翌朝、蔵人所の紙屋紙を重ねて(その上に、) 「今日は心残りが多い気がします。(あなたと)夜通し、昔の思い出話など申し上げて夜を明かそうと 思ったのですが、鶏の声にせきたてられて(お別れしたのです)。」と、言葉を尽くしてお書きになっているのは、とてもすばらしい。
 ご返事に、「たいそう夜ふけに鳴きました鶏の声とは、あの孟嘗君の鶏ですか。」と申し上げると、折り返し、「『孟嘗君の鶏は、函谷関を開いて、三千人の食客がやっとのことで逃げ去った。』とあるけれど、ここでは(わたしとあなたが逢う)逢坂の関なのです。」とあるので、「一晩中、鶏の声のまねをしてだまそうとしても、この逢坂の関は、けっしてだまされて通行を許したりはしませんよ。しっかりした関の番人がいますから。」と申し上げる。また折り返し、「逢坂の関は人が越えやすい関所なので、鶏が鳴かなくても関所を開けて人の来るのを待っているということですよ。」とあったお手紙を、最初の手紙は、僧都の君が、ひどく頭を下げて(譲ってほしい、とおっしゃって)持ち帰られた。後の手紙は中宮様に(さし上げた)。それで、逢坂の関の歌への返歌は、頭の弁に圧倒されてできないままになってしまった。とても体裁が よくない。
 さて、「あなたの手紙は、殿上人みんなが見たよ。」とおっしゃるので、「本当に(私のことを)思ってくださっていたのだと、これでこそわかりました。よく出来た歌(私の「夜をこめて」の歌)などは、誰かが伝え広めてくれなかったら、(作っても)むだなことですから。また逆に、見苦しい歌(あなたの「逢坂は」の歌)が世間に広まるのはつらいので、あなたのお手紙はしっかり隠して、人にはまったく見せてはいません。(そのような私の配慮と)あなたのご厚意を比べると、(私のあなたへの気づかいも)同じぐらいでしょう。」と言うと、「こんなふうに何もかも分かっていて、(そのように)言うのが、やはり他の人とは違う、と思われるよ。『思慮もなく、まずいことをしてくれたわ。』などと、(文句を)普通の女性のように言うだろうと 思っていたが。」などと言って、お笑いになる。
 「これはまたどうして(そんなふうにおっしゃるのですか)。逆にお礼を申し上げたいところですのに。」などと(私は)言う。
 「私の手紙をお隠しになったことは、また、やはりありがたく嬉しいことなのですよ。(もし人に見られたら)どんなにつらく堪えがたかったでしょうか。これからもそのようにお願い申しましょう。」などとおっしゃって(その日はそれで終わったが)、後に、経房の中将がおいでになって、「頭の弁が(あなたのことを)たいそうほめていらっしゃることを知っているか。先日いただいた手紙に、あの時のことなどを語っておられた。(私が)思っている人が、人にほめられるのはとてもうれしいよ。」などと、まじめにおっしゃるのもおもしろい。
 「(私にとっても)嬉しいことが二つで、(一つは)あの頭の弁がほめてくださっているということで、また(二つめは)、あなたの思う人の中に(私も)入れていただいていることです。」と言うと、「そんなことを、めったにない、今初めて知ったことのように喜びなさることだよ。」とおっしゃる。











五月ばかりなどに山里にありく (枕草子 第二百二十三段)

 五月ごろなんかに牛車で山里を散策するのはとてもおもしろくて楽しい。
 草の葉も水もずーっと見渡す限りに見えているが、上からは下に水があるとは見えない様子で草が茂っているところを、ずーっとまっすぐに進んで行くと、草の下には口では言えないほどのきれいな水があり、それは深くはないのだが、供の人などが歩くのにつれてはねあがったりするのはとても楽しい気分になる。
 道の左右の垣根に植えてある何かの木の枝などが、走る牛車の窓などに入ってくるのを、急いで手に取って折ろうとするのだが、もうさっと通り過ぎて窓からはずれてしまったりするのは、とても残念に思ったりする。
 牛車に押しつぶされたよもぎが、車輪が回るのにつれて窓の近くまで上がってきて、よい香りを漂わせたりするのもおもしろい。












行く河の流れ (方丈記)   超訳 (まる数字がついていますが、無視してください)

 @川の水の流れはとぎれることがなく、しかも、流れてくるその水は常に新しい水であって、もとの水ではない。A流れがよどんでいるところに浮かんでいる水の泡は、次々と消えてゆく一方で、新しく生まれ、長く泡のままとどまっているということはない。Bこの世に存在している人間や家も、またこれと同じである。
 C玉を敷きつめたような美しく立派な都で、身分の高い者は高いなりに、低い者は低いなりに、棟(屋根の中央部の最も高い部分)を並べ、屋根瓦の高さ・りっぱさを競って、家を比べあうのは、いつの世でも変わりないものではあるが、本当に変わりないのかと調べてみると、昔からそのままある家はめったにない。D去年焼けて、今年建てなおした家もあれば、E大きな家であったものが小さな家になっているものもある。Fまた、そこに住む人も同じである。G同じ場所にあって、人もたくさんいても、昔から見知っている人は二十〜三十人のうち、わずか一人か二人である。H朝死んだ人があるかと思うと、夕方には赤ん坊が生まれるさだめは、まるで水の泡と同じである。I私にはわからない、生まれる人、死んでゆく人が、どこからやってきてどこへ去っていくのか。Jまた、この世での住まい自体、仮のものであるにもかかわらず、誰のためにりっぱな家を建てようと苦心し、何のために見て満足しようとするのかもわからない。Kその家の主人と、その家とが、無常・はかなさを競う様子は、まるで朝顔に降りる露と同じである。Lあるものは露が落ちてもまだ花が咲いている。Mしかし花が咲いているといっても、朝日を浴びてすぐにしぼんでしまう。Nまたあるものは、花がしぼんでからも露がまだ残っているが、O露が残っているといっても、夕方まで消えないということはなく、はかないものである。












安元の大火 (方丈記)    超訳 (まる数字がついていますが、無視してください)

 @私もものごころがついてから四十年以上たつので、その間には、思いもかけない天変地異に出会った経験がだんだん増えてきました。
 A去る安元三年四月二十八日のことでしたか。B強風が吹いて、風の音がとてもうるさかった夜、八時ごろ都の南東から火が出て北西に燃え広がりました。C最後には、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などにまで燃え移って、一夜のうちに、すっかり灰になってしまいました。D火が出たのは、樋口小路(ひぐちこうじ)と富小路(とみのこうじ)の交わるあたりだとかいうことで、E舞いをまう人を泊める小屋から出火したそうです。
 F吹き荒れる風にあちらこちらと燃え移っていくうちに、火災は扇子を広げたように末広がりになっていきました。G火災から遠いところにある家は煙にむせ、近いあたりでは、炎が地面に吹きつけます。H空には灰が吹き上がっているので、火の光に反射してすべてが真っ赤に見えるなかで、強風に吹きちぎられた炎が、飛ぶようにして一・二町も越えて広がっていきます。Iその中にいる人は、まったく生きた心地もしないでしょう。Jある者は煙にむせて倒れ伏し、ある者は炎にまかれてあっというまに死んでいきます。Kまたある者は、からだ一つやっとのことで逃げおおせても、全財産は失ってしまいます。L珍しい貴重な宝物もすっかり灰になってしまいました。Mその被害総額はどれほど莫大なものでしょうか。Nその時の火災で、高級貴族の家が十六軒も焼けました。Oまして、その他多くの身分の低い人の家などは数えきれないほど焼けました。P都にある家の三分の一が焼けたということです。Q死んだ男女は数十人。R馬や牛なども数えきれないほど死にました。
 S人がすることはみな、ろくでもないことばかりですが、なかでも、それほど無防備な都に、隣の家より少しでもりっぱな家を建てようとして、金をかけ、苦心惨澹するのは、とくにつまらない無駄なことですね。













九月二十日のころ(徒然草)

1、直訳

 旧暦九月二十日(現在の十月〜十一月)ごろ、ある人(Bどの)に誘われ申し上げて、夜が明けるまで月を見て歩き回ることがありましたが、(その時のこと、)その人(Bどの)が、思い出しなさった所(Cさんの家)があって、(家来に)取り次ぎをさせて、(そのCさんの家に)お入りになった。
 荒れている庭で、露がたくさん降りている庭に、特別にたいたようでもない香の匂いがしんみりと薫って、(Cさんが)ひっそりと暮らしている様子は、とてもしみじみと趣深い。
 その人(Bどの)は、適当なころあいで(Cさんの家を)出ていらっしゃったが、(私、兼好は)やはりその様子が優雅に思われて、物陰からしばらく見ていると、(Cさんは)両開きの戸をもう少し押して開けて、月を見ている様子である。
 すぐに(Cさんが)掛け金をかけて家の中に入ってしまったとしたら、残念だっただろう。
 (Cさんは、Bさんが家を出た)あとまで見ている人(私、兼好)がいるとは、どうして知っているだろうか。(知っているはずがない。知らずにそうしたのだ。)
 このような(優雅な)ふるまいは、ただ、ふだんの心がけによるものにちがいない。
 その人(Cさん)は、まもなく亡くなったと聞きました。



2、雰囲気訳(参考)

 雰囲気訳(参考)

 十月の後半から十一月のはじめごろ、私、兼好は、Bどのにお誘いいただいて、夜明けまで月見をして歩き回ることがありましたが、その時のこと、Bどのが、ちょうどCさん(女性)の家の近くまで来たせいか、急にCさんのことを思い出しなさって、家来に取り次ぎをさせて、Cさんの家を訪問なさいました。
 Cさんの家の庭はかなり荒れて、露がたくさん降りていましたが、その庭に、今わざとたいたようでもないお香の匂いが、そこはかとなく漂って、Cさんがひっそりと、しかし奥ゆかしく暮らしている様子がうかがわれて、しみじみと趣深く感じられました。
 私が、Bどのを待って時間をつぶしていますと、Bどのはしばらくして、Cさんの家を出ていらっしゃいましたが、Bどのを見送るCさんの様子が、なんとなく優雅に思われて、Cさんを物陰からしばらくうかがっていましたところ、Cさんは、両開きの戸を、さらに少し押しあけて、そのまま月を見ている様子です。
 Cさんが、もしすぐに、掛け金をかけて家の中に入ってしまったとしたら、残念だったでしょう。
 Cさんは、Bさんが家を出たあとまで自分のことを見ている人(私、兼好)がいると知っているはずはありません。知らずに、そのようにしたのです。
 このような優雅なふるまいは、ただ、ふだんの心がけによるものにちがいありません。
 しかし残念なことに、Cさんは、その後まもなく、亡くなったと聞きました。















仁和寺にある法師 然草

 仁和寺に住んでいたある僧が、年をとるまで岩清水八幡宮を参拝しなかったので、それを常々心苦しく思っていた。それで、あるとき思い立って、たった一人で、歩いてお参りに行った。
 僧は、極楽寺、高良神社などを拝んで、これだけで全部だと一人合点して帰った。
 さて、帰ってから、近くの仲間に、「長い間の念願をやっと果たしました。岩清水八幡宮の神様は、聞いていたよりもずっと尊くていらっしゃいました。それにしても、お参りをしている人がみな山へ登っていったのは、何事かあったのでしょうか。見てみたいと思いましたが、神様にお参りするのが目的だと思って、山の上までは行ってみませんでした。」と言った。
 ほんとうは、山の上にこそ、岩清水八幡宮があったのだが。この僧の失敗談からも分かるように、ほんの小さなことでも、そのことを詳しく知っている専門家のような人は、いてほしいものだ。
(そしてもちろん、この僧は、そういう詳しい人に、尋ねるべきであった。)










蟻のごとくに集まりて (徒然草)

  人々は、まるで蟻のように群れ集まって、ある人々は東西に急ぎ、またある人々は南北に走っていく。身分の高い者もいれば、低い者もいるし、年老いた者もいれば若い者もいる。昼間はあちこちに行って働き、夜になれば家に帰る。毎日、決まりきったように、夕方には寝て、朝になれば起きてまた働く。そのようにあくせく働いて生活するのはいったい何のためだと考えているのだろうか。
ただむやみに長生きすることだけを願い、また、どこまでも限りなく利益を願うばかりだ。
 このように自分の身を大切にしているつもりになって、そのあとに何があると期待して待っているのか。しかし、やって来るものの実体は、ただ老いと死とにすぎない。老いと死は、どんどん近づいてき、一瞬でも待ってくれるということはない。これを待つのが楽しいだろうか、楽しいはずがない。
 しかし、迷っている者、つまり長生きと利益だけを願っている者は、老いや死を恐れない。名誉や利益に夢中になって、死が近づいていることなど気にしていないからである。実は、こういう人たちは、老いや死を恐れていないのではなく、老いや死のことを考えていないだけなのである。
 また、老いや死を悲しんでばかりいるのも愚かな人である。自分自身が「いつまでも変わらない」とばかり考えて、「一切のものは変化してとどまることがない」という道理に気づいていないからである。諸行無常の道理に気づけば、無用に悲しむ必要はないことに気づくだろう。
 結局、どちらの人たちも、間違っているのだ。長生きや名声や利益ばかりにとらわれず、悲しむばかりでもなく、この世が無常であることを知り、人間は何のために生きているのか、ということを考え、地に足をつけて暮らすのがよいのである。










奥山に猫またといふもの (徒然草)

 「奥山に猫またというものがいて、人を食うそうだよ。」
と、ある人が言ったところ、
 「山でなくても、このあたりでも、猫が年をとって猫またになって、人を取って食うことがあるそうだよ。」と別の者が言う。
 その話をちょうど聞いていた、何とか阿弥陀仏とかいう行願寺のそばに住んでいた連歌の好きな法師は、M一人で歩き回る私のような者は、気をつけなければいけないなNと思った。
 そんなことがあった直後、その法師は、ある所で夜が更けるまで連歌をすることがあった。連歌の会が終わり、暗い夜道をただ一人帰ってきた時、小川のそばで、うわさに聞いた猫またが出た。
 猫または、ねらいすまして、法師の足もとへさっと近寄り、ぱっと飛びつくやいなや、法師の首のあたりに食いつこうとする。法師は、肝を冷やし、猫またをふりほどこうとするが、腰が抜けて力も出ず、足も立たず、小川の中へ転がり込んで、
 「助けてくれー。猫まただぁー、猫またが出たぁー。」と悲鳴をあげた。
 その叫び声を聞いた近くの家の人々が、たいまつなどをともして走り寄って見ると、このあたりでよく見かける僧である。
 人々は、「これは一体どうしたことか」と言いながら、法師を川の中から抱き起こしたが、ふところに入れて持っていた扇子や小箱など連歌で取った賞品も、水につかってしまっていた。
 法師は、(人々に自分の家まで送ってもらい、)命だけはなんとか助かったという様子で、這うようにしながら家に入っていった。
 この話は実は、法師が飼っていた犬が、暗がりの中ではあるが、主人とわかって飛びついたのだったということだ。

(疑心暗鬼を生ず、とか、幽霊の正体見たり枯尾花、とかいうが、うわさに振り回されたみっともない例である)










ある人、弓射ることを習ふに (徒然草 第九十二段) 「日本昔話」ふうバージョン

 あるとき、弓を習いはじめた人がおった。その人は師匠の前で、二本の矢を持って的に向かったんじゃ。ところが、師匠は、「これこれ、初心者は二本同時に矢を持っちゃいかん!。二本同時に持つと、最初の矢をいいかげんに射てしまうんじゃ。それよりも、一本ずつ持って、一回一回、この一本で決めようと思うことじゃ。」と言うた。
 たった二本の矢じゃ。先生の前で、そのうちの一本をいいかげんに射ようとするじゃろうか。じゃが、手を抜こう、楽をしよう、とする心は、自分じゃ気づかんでも、先生にはそれがわかるのじゃ。
 矢を射るときの教訓はすべての事柄に当てはまるじゃろう。
 学問や仏教の修行をする人でもそうじゃ。夕方になると、「あすの朝があるさ」と思い、また、朝になると「きょうの夕方があるさ」と思い、結局、真剣にやらず、修行を先のばしにしてしまうのじゃ。
 そんなふうなことでのう、朝とか夕方とかの長い時間のことでも気づかんのに、一瞬のことなら、なおさら、自分の「怠け心」に気づくはずがないのじゃ。
 一瞬という短い時間のうちに、すべきことをきっちりするということは、できそうでなかなかできん、難しいもんじゃのう。










高名の木登り (徒然草 第百九段) 播州弁バージョン(99・9・12訳)

 木登りの名人、言われた男が、人に言うて高い木に登らせたんや。えらい危なっかしかったけど、その名人、なんも言わんと、ただ見とうだけやった。さいわい、なんものうて、その人が、ほん軒先くらいまで降りてきたときや、その名人、いきなりや、「落ちたあかんで。木ィだけに気ィつけや(木と気をかけたしゃれ?)」て、言葉、かけよった。
 わし、それ見とってな、名人に、「飛び降りたって降りられるような、こない低いとこまできて、なんでそんなこと言うんや(もしかして、うっかり寝とって言いそびれたんちゃうやろなァ)」ときいたんや。
 そしたら、その名人な、「さあ、そこんとこや。目ェ回りそうな、枝が細うて危ない高いとこは、こわい、いうのん、自分がいちばんようわかっとう。そやから、わざわざ言わんでもええんや。そいより、自分が、楽勝楽勝!、思うぐらいのとこのほうがほんま、落ちやすいんやわ」と言いよった。
 その名人、身分は低いもんやけど、言うことは聖人とおんなじ。りっぱなもんや。
 「まりつき」するときでも、難しいのんが回ってきたとき「ああ、うまいこと蹴れてよかった」と思て安心したら、次の楽なとき、絶対蹴りそこのうて落としてまう、とかいうことやしなァ。










門出 (土佐日記)

 男も書くという日記というものを、女(の私)も書いてみようと思って書くのである。
 ある年の十二月二十一日の午後八時ごろ、出発する。そのいきさつを少しばかり書きつける。
 ある人が、任国での四、五年を終えて、決まりになっている国司交代の引き継ぎ事項などをみな終えて、(次の国司から)解由状(げゆじょう)などを受け取って、住んでいた国司の官邸から出て、船に乗ることになっている所へ移動する。
 あの人やこの人、あるいは知っている人知らない人が見送ってくれる。数年間、親しくつき合った人たちが、別れがたく思って、しきりにあれこれしながら騒ぐうちに、夜も更けた。
 二十二日に、和泉の国までは無事であるようにと、心を静めて神仏に祈る。
 藤原のときざねが、船旅であるが「馬のはなむけ」(=送別の宴)をしてくれる。身分の高い者から低い者まですべて、十分に酔っぱらって、とても不思議なことに塩辛い海のそばで「あざれ」合って(=ふざけあって〔「腐る」をかける〕)いる。










船旅の不安 (土佐日記)

 一月二十三日。日が照って、その後曇った。「このあたりは海賊の出るおそれがある。」と船頭が言うので、(海賊が出ないよう)神仏に祈る。
 二十四日。昨日の所と同じ所である。
 二十五日。船頭たちが、「北風はいけない」と言うので、船を出さない。
「海賊が追いかけてくる。」という噂が絶えず聞こえてくる。
 二十六日。ほんとうであろうか、「海賊が追いかけてくるぞ。」と言うので、夜中ぐらいから船を出して漕いでくる途中で、神仏に「お供え」をする所がある。船頭に「お供え」を差し上げさせると、「お供え」(の、細かく切った布)が東へ散るので、船頭が(神様に)申しあげる言葉は、「このお供えの散る方向へこの船を速く漕がせてください。」と申し上げる。これを聞いて、ある女の子が詠んだ(歌)、
  海の安全を守ってくださる神様にお供えをする、その「お供え」を東へ散らせる追い風よ、
  やまずに吹き続けておくれ
と詠んだ。
 こうしている間に、風がよいので、船頭はたいそう得意になって、「船に帆を上げよ。」などと、喜んで言う。その帆の音を聞いて、子供も老婆も、早く帰りつきたいとばかり思うからであろうか、ひどく喜ぶ。この中にいた「淡路のあばあさん」という人の詠んだ歌、
  追い風が吹いたときは、行く船の帆綱が音をたてる、その音のように私たちも手をたたいて
  うれしく思うことだ
と詠んだ。天気のことに関して神仏に祈る。










忘れ貝 (土佐日記)

 二月四日。船頭が、「きょうは空模様がたいへん悪い。」と言って、船を出さなくなった。
しかし、一日中、波や風は立たなかった。この船頭は天候も予測できないばか者であるよ。
 この港の浜には、さまざまの美しい貝や石が多くある。こういうわけで、ただ、死んだ子だけを思い出しながら、船にいる人(貫之の妻か)が詠んだ歌は、
  寄せる波よ、どうか打ち寄せさせてほしい。(そうすれば)恋しく思う人を忘れさせてくれる
  という「忘れ貝」を、(船から)降りて拾いましょう
と詠んだので、ある人(貫之か)が我慢できずに、船の気晴らしに詠んだ歌、
  忘れ貝をひろったりはするまい。(逆に、きれいな石を拾って)白玉のようにかわいかった娘を
  恋しく思うということだけでもしつづけて、形見と思いましょう
と詠んだことだ。女の子のためでは、親は子供のように(分別がなく)なってしまうのだろう。
「玉というほどではなかっただろうに」と人は言うだろうか。しかし、「死んだ子は美しかった」ということ(=言葉)もある(から親としては無理もないのであろう)。
 やはり同じ場所で、日を送ることを嘆いて、ある女が詠んだ歌、
  手を水につけても冷たくもない泉(=ここ和泉の国)で、水をくむというでもなく、
  無駄に何日も過ごしてしまったことだよ










門出 (更級日記) 直訳

 東国へ行く道の果てよりも、さらに奥のほう(かずさ上総の国=今の千葉県)で生まれ育った私は、どれほどかみすぼらしかっただろうが、どのように思い始めたことか、この世に物語というものがあるそうだが、(それを)なんとかして見たいものだと思い思いして、たいくつな昼間や夜のだんらんのときなどに、姉やままはは継母といったような人たちが、その物語、あの物語、光源氏がどうしたこうしたなど、ところどころを(断片的に)話してくれるのを聞くにつけても、ますます見たさ知りたさがつのるが、(姉や継母なども)私が思うように、どうして暗記していて語ってくれるだろうか(語ってはくれない)。
 (私は)ひどくもどかしく待ちどおしいので、等身大に薬師仏を作って、手を洗ったりなどして身を清め、人の見ていない間に、ひそかに(薬師仏のある所に)何度も何度も入っては「私を早く都にお上げくださって、物語が多くございますというのをあるだけ全部お見せください。」と一生懸命床にひたいをつけてお祈り申し上げるうちに(願いがかない)、十三歳になる年に、(家族が都へ)上ろうということになって、九月三日に出発をして、「いまたち」という所へ移ることになった。
 何年もの間遊びなれた所を、中がまる見えになるほどたてぐ建具類を取り外して、(出発の用意のために)いろいろ騒ぎ立てて、日の暮れぎわでとても寂しげに霧が立ちこめている時に、(いよいよ)車に乗ろうとして、振り返ってみたところ、人の見ていない時に何度もひたいをつけてお参りをした薬師仏が立っておられるのを、お見捨て申し上げるのが、悲しくて、人知れず泣けてしまった。
 出発のために移ってきた所は、垣などもなくて、間に合わせに作ったかやぶ茅葺きの粗末な家で、蔀(しとみ)などもない(家である)。(そこで)すだれ簾をかけ、幕などを引き渡したりした。
 南は遠く野のほうが見渡せる。東西は海が近くてとてもおもしろい。夕霧が立ちこめてとても趣深いので、朝寝坊などもしないで、あちこちと何度も見るにつけて、ここを立ち去ってしまうのもしみじみと悲しいが、同じ月の十五日、雨が空を暗くして降るときに、くにざかい国境を出て、下総の国の「いかた」というところに宿泊した。私達の泊まった草葺きの家などは今にも浮き上がってしまいそうなほど、雨が降ったりなどするので、恐くて寝るに寝られない。
 野原の中に木が三本だけ立っている。その日(九月十六日)は雨に濡れたものなどを干したり、
国(上総)で出発が遅れた人たちを待つということで、そこで一日を過ごした。
 十七日の早朝出発する。昔、下総の国に「まのの長者」という人が住んでいたということだ。
一匹(二反)続きの布を千も二千も織らせ、さら晒させた人の家の跡だという、深い川を舟で渡った。昔の門の柱がまだ残っていると聞いたとおり、大きな柱が川の中に四本立っていた。(同行の)人たちが(これを見て)歌を詠むのを聞いて、(私も)心の中で、
   腐りもしない(で今まで残っている)この川の柱がもしなかったら、
   昔の(「まのの長者」の家の)跡だとどうして知ることができようか、できはしない。
    (川の柱が今も残っているから、昔の跡を偲ぶことができる)
という歌を詠んだ。










源氏の五十余巻(更級日記)  超訳

 私がこんなふうにふさぎ込んでばかりいるので、母は心配して、物語などを探してきてくれる。それを読んでいると、なるほど不思議と気持ちが落ちついてゆく。源氏物語の「若紫」の巻を見て、その続きを読みたく思うが、家族はみんなまだ都になれていない頃なので、人にお願いすることもできず、自分で見つけてくることもできない。とてもじれったく、読みたくてたまらないので、「源氏物語を第一巻からすべて読ませてください。」と心の中で祈る。母親が太秦(うずまさ)の寺にこもっていた時、私も母と一緒にいたのだが、このことだけをお祈りして、寺から出たらすぐに源氏物語を読み終わろうと思うが、その源氏物語自体が見つからない。とても残念に悲しく思っていると、田舎から上京してきて住んでいる、私のおばにあたる人の所に行く機会があった。おばは、「とてもかわいく大きくなったわねぇ」などとほめてくれ、私の帰りぎわ、「何かおみやげにあげようと思うのだけど、実用的なものはあんまりでしょう? あなたがほしがっていると聞いているものをあげましょう。」といって、源氏物語の五十余巻が木箱に入っているのや、そのほか、在中将、とほぎみ、せり河、しらら、あさうず、などの物語もいっしょに袋に入れてくれる。それをもらって帰る気持ちのうれしいことといったらない。
 今まで少しずつ断片的に読むだけで前後のつながりがわからずじれったく思っていた源氏物語を、胸をどきどきさせながら、第一巻から、人も入れず几帳の奥で横になって、何度も何度も引き出しては読む心地といったらもう、誰もがうらやむ皇后の位でさえ眼中にないほど。
 昼は昼じゅう、夜は目が覚めている間じゅう、灯火を近くにともして、これを読む以外のことは何もしないので、自然といつのまにか源氏物語の文言がそらで思い浮かぶようになった。すごいことだなあと思っていると、夢に、黄色の袈裟を着たさっぱりした感じのお坊さんが現われ、「法華経の第五巻を早く習いなさい。」と言う。しかし、それを誰かに話すこともなく、そのお経を習おうという気にもならない。源氏物語のことだけで頭の中がいっぱいで、「今は見かけもよくないけど、年ごろになったら超美人になって髪の毛もとても長くなるだろう。そして、光源氏に愛された夕顔の君や、宇治の大将、薫に愛された浮舟の君のようになるだろう。」などと考えていた心は、いやもう実に幼く、あきれたものだった。ああ、恥ずかしいこと‥‥










平泉 (『奥の細道』 松尾芭蕉 )

 藤原氏三代の栄華も、一瞬の夢のようにはかなく崩れさってしまい、昔の表門の跡だけが、一里ほどこちらがわ(手前側)に残っている。秀衡の屋敷の跡は田や野原となってしまい、彼が築かせたという金鶏山だけが昔の形をとどめている。
 まず最初に(源義経の居城であった)高館に登ると、北上川(が、眼下に大きく望める。これは)南部地方から流れてくる大河である。
 衣川は、(秀衡の子忠衡の居城であった)和泉が城をめぐって流れ、この高館の下で、北上川に流れ込んでいる。
 (秀衡の子、忠衡の兄)泰衡らの屋敷の跡は衣が関を前に置いて、南部地方側の入口をかたく守り、
えぞ(蝦夷・夷)の侵入を防いだものと思われる。
 それにしても、義経たちが、(ましおのかねふさ増尾兼房ら)忠義の臣たちをよりすぐり、この高館にたてこもって(泰衡の軍と奮戦したのだが)、その手柄もただ一時のことで、今は茫々たる草むらとなっている。
「国は滅んでも、山河だけは昔と変わらず残っている。城は(荒廃してなくなってしまっても、そんなこととは関係なく)春が来て、草は青々としている。」という杜甫の詩を想い、笠を敷いて腰を下ろし、時が経つのも忘れて涙に暮れたことであった。

  夏草や つわもの兵ども が 夢の跡
   (こうして高館から見ると、今では夏草が一面に生い茂っている。ここは昔、義経たち数多く    の兵が功名や栄華の夢を追って戦い、そしてむなしく滅んでいったところであることだ。)

  卯の花に兼房みゆる 白毛かな      曾良
   (白い卯の花を見ていると、義経の家来、兼房が白髪を振り乱して奮戦している姿が
    ありありと思い浮かぶことだ。)

 以前から噂に高い二堂(中尊寺金色堂と経堂)が公開された。経堂は清衡・基衡・秀衡ら三将軍の像を今に残し、光堂は、清衡・基衡・秀衡、三代の棺を納め、阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩の三尊の像を安置してある。(輝いていたはずの)七宝も散逸してしまい、珠玉の扉は風に傷み破れ、金の柱は霜や雪に朽ちて、今にも荒れ果てた草むらになってしまうところだったが、堂の四面を新たに囲み屋根で覆うさや鞘堂を造り、これによって風雨をしのぎ、(こうして)しばらくの間は、千年の昔をしのぶ記念物となっているのである。

  五月雨や年々降りて五百たび
   (光堂の栄華の輝きは、五月雨が五○○回も降りたてて今にも消えそうな細い光を放っている
    ばかりではあるが、まだ残っていることだ)

  蛍火の昼は消えつつ柱かな
   (光堂の柱を照らすのは、今にも消えてしまいそうなかすかな光ばかりである。ちょうど、
    か弱い蛍の光が昼間の明るさにかき消されて見えないように。)










なよ竹のかぐや姫 (竹取物語) 日本昔話ふうバージョン

 昔々、「竹取りのじいさま」という者がおったそうな。そのじいさまは野山に入っては竹を取り、さまざまに加工して売っては生計を立てておった。名を「さぬきのみやつこ」といった。
 あるときそのじいさまが取る竹の中に、なんと根元が光る竹が一本あった。じいさまが不思議に思って近づいてみると、竹筒の中が光っていたんじゃ。その竹を切ってみると十センチほどの人がとてもかわいらしく座っておった。子供がなかったじいさまは、
 《わしが朝晩見る竹の中にいらっしゃるということは、さては私の子供になってくだ  さる人なのじゃろう》
と思って、手の中にそっと囲って、家へ持って帰った。
 じいさまは、その子を妻のばあさまに頼んで育てさせた。その子のかわいらしいことといったらそりゃもう口では言えんほどじゃった。たいそう小さいので、かごに入れて育てた。
 竹取りのじいさまは竹を取るのじゃが、この子を見つけてからは、節と節の間ごとに黄金が入っている竹を見つけることがたび重なった。こうしてじいさまはだんだん豊かになっていった。
 この子は、育てるほどにすくすく大きくなっていった。三か月ほどたつと、ちょうどよい背丈の人になったので、成人の儀式などあれこれ段取りして髪を上げさせ裳という成人用の着物を着せた。じいさまばあさまはこの子を部屋の中の幕の中からも出さずにそれはそれは大切に育てた。この子の顔かたちの美しいことといったらまぁこの世のものとも思えないほど。家の中は暗いところもなく光にあふれておった。じいさまは気分がすぐれなかったり苦しかったりするときも、この子を見るとそんなことも忘れてしもうた。腹の立つことがあってもすぐに心がなごんだのじゃった。
 そんなこんなでじいさまは竹を取る日々が長く続いた。黄金もどんどんたまっていったので、大金持ちになったのじゃ。
 この子もとても大きくなったので御室戸(みむろど)という所に住んでいる斎部(いんべ)氏の「秋田」という人を呼んで、名前をつけさせることにした。斎部氏というのは神事をつかさどる家柄なんじゃ。
 秋田はこの子に「なよ竹のかぐや姫」とつけた。この名づけの式の三日というものみなで歌ったり踊ったりして遊んだ。いろんな歌を歌ったり踊ったり、そりゃもう大騒ぎ。男という男は誰でも呼び集めて、たいそう盛大に遊んだそうじゃ。
 世の中の男は身分の高い者も低い者もなんとかしてこのかぐや姫を自分のものにしたい、結婚したい、と、うわさに聞いては恋い慕い、心を乱すのじゃった。











かぐや姫の昇天(部分) (竹取物語) 直訳

 宵も過ぎて、子の時刻(夜中の十二時)ぐらいに、家の周りが、昼の明るさよりも明るく光った。満月の明るさを十あわせたぐらいで、そこにいる人の毛の穴までもが見えるほどである。大空から、人が、雲に乗って降りてきて、地面から一メートル半ほど浮いたところに立ち並んだ。家の中や外にいる人々の心は、物の怪に襲われるような気持ちで、一戦交えようという気力もなくなった。やっとのことで、気を取り直して、弓矢を取り出そうとするが、手に力も入らなくなって、ぐったりとものによりかかってしまう者がほとんどだが、その中に、心持ちのしっかりした者がおり、我慢して射ようとするけれども、矢は別の方向へ飛んで行ったので、(誰も)戦おうともしないで、気持ちは、ただぼんやりして見守っているばかりである。

 空中に立っている人たちは、衣装の美しいことは比べるものもない。空を飛ぶ車を一つ持ってきている。(席のところに)絹の傘が差しかけてある。その中に、王と思われる人、家に向かって、「みやつこまろ(=竹取の翁の名)、参上せよ。」と言うと、勇ましい気持ちでいた「みやつこまろ」も、何かに酔ったような気持ちになって、うつむいて地面にひれ伏してしまった。王らしい人が言うには、「お前、未熟者よ。少しばかりの善行をお前がしたことによって、お前の助けになるようにと、少しの間と思って、(このかぐや姫を)人間界に下したが、それによって多くの年月の間、多くの金銭を(私はお前に)与え、お前はまるで別人のように裕福になったのだ。かぐや姫は、罪になることをなさったので、このように身分の低いお前のところに、しばらくの間いらっしゃったのだ。罪の(つぐないの)期限が終わったので、このように迎えるのに、お前は泣き悲しむ。どうしようもないことだ。早くお返し申し上げよ。」と言う。
 翁は答えて申し上げる、「かぐや姫をお育て申し上げること、二十年あまりになりました。『少しの間』とおっしゃるので、おかしく思いました。どこか、また別の所に『かぐや姫』と申し上げる人がいらっしゃるのでしょう。」と言う。(続けて)「ここにいらっしゃるかぐや姫は重い病気にかかっておられるので、出ていらっしゃることはできないでしょう。」と申し上げると、それに対する(王の)返事はなくて、屋根の上に、飛ぶ車を寄せて、「さあ、かぐや姫よ、けがれた人間界に、どうして長くいらっしゃるのか?」と言う。(すると)閉め切っている場所の戸が、そのまますぐに、一斉にあいてしまった。格子戸もみな、人もいないのにあいてしまった。おばあさんが抱きかかえていたかぐや姫は、外に出た。(おばあさんは、かぐや姫を)引き止めることもできそうにないので、ただ、空を見上げて、泣いている。

 翁が取り乱して泣き伏しているところへ寄って、かぐや姫は、「私も、本心ではなく、こうしておいとまいたしますのに、せめて天に上るところだけでもお見送りください。」と言うが、翁は「どうして、(こんなに)悲しいのに、お見送り申し上げ(ることができ)るでしょうか。私にどうしろと言って、私を捨てて天にお上りになるのですか。(私も月に)連れていらっしゃってください。」と、泣き伏しているので、(かぐや姫の)お心も乱れてしまう。「手紙を書き置いておいとまいたしましょう。(私が)恋しい時、取り出してご覧ください。」といって、泣きながら書く言葉は、「この国に生まれたということなら、お嘆かせ申し上げないほど(長い将来)まで、お側にお仕えいたしましょう。時が過ぎ別れてしまうこと、返す返すも残念に感じられます。脱いで置いておく衣を(私の)形見と(思って)ご覧ください。月の出ているような夜は、こちら(月のほう)をご覧ください。お見捨て申し上げておいとまいたしますこと、空から落ちてしまいそうな(つらい)気持ちがします。」と書き残す。

 天人の中(の一人)に、持たせている箱がある。(その箱の中には)「天の羽衣」が入っている。また他の箱には「不死の薬」が入っている。一人の天人が、「壺に入っているお薬をお飲みください。汚れた下界のものを召し上がったのだから、ご気分が悪いことでしょう。」と言って持ってきたので、(かぐや姫は)少しおなめになって、(その薬を)少し形見として脱いで置いておく衣服に包もうとすると、そこにいる天人は包ませない。(そして)「天の羽衣」を取り出して、着せようとする。その時かぐや姫は「ちょっと待ちなさい。」と言う。「天の羽衣を着せ(られ)た人は、心が(この世の人とは)違うものになるのだと言います。(帝にも)一言、言い残さなくてはいけないことがありますよ。」と言って、手紙を書く。天人は「遅い。」と、じれったくお思いになる。かぐや姫は「ものの情趣を解さないことをおっしゃいますな。」と言って、とても静かに、帝にお手紙を差し上げなさる。落ち着いたご様子である。「このようにたくさんの人をお与えくださって(私を)とどめ(ようと)なさいましたが、どうしようもない迎えが参って、(私を)連れて行ってしまうので、残念で悲しいことです。宮仕えをいたさないままになってしまったのも、このように複雑な立場でございますので、(あなたさま(=帝)は)納得いかないと、きっとお思いになったでしょうけれど。頑固にお受け申し上げないままになってしまいましたこと、無礼な者と心にお思い残しになったことが、心残りでございます。」と書いて、

 「今はとて……(「今はもうこれまで」と、天の羽衣を着るときになって、あなたのことをしみじみとなつかしく思い出すことでございます)」

と詠んで、壺の薬を添えて、頭の中将を呼び寄せて(帝に)差し上げさせる。(それを)天人が取って、頭の中将に渡す。中将が受け取ったので、(天人はかぐや姫に)さっと天の羽衣をお着せ申し上げたところ、(かぐや姫は)翁を「かわいそうだ」「いとおしい」とお思いになったことも忘れてしまった。この羽衣を着た人は、思い悩むこともなくなってしまったので、(空を飛ぶ)車に乗って、百人ほどの天人を従えて、(月に)昇っていった。










かぐや姫の昇天(部分) 
(竹取物語)   超訳 

 宵も過ぎて真夜中の十二時ぐらいになったとき、急に家のまわりが昼の明るさよりも明るくなった。満月の明るさを十倍にもしたぐらいの明るさで、そこに居並ぶ人々の毛穴までもが見えるほどである。そして、空から天人が雲に乗って降りてき、地上一メートル半ぐらいのところにすーっと浮いたまま静止した。それを見ただけで、家の内外でかぐや姫を守ろうとしている人々の心は、何か物の怪にでも襲われたような気持ちになって、戦う気力もなくしてしまった。やっとのことで気を取り直して弓矢を取り出そうとするのだが、ほとんどの者は手に力も入らなくなり、立っていられなくなってものに寄りかかっている。それでも、気の強い者がおり、気力をなくしかけるのをなんとかこらえて矢を射掛けようとするのだが、矢はまったく違う方向へと飛んで行ってしまう。それを見て、皆いっそう戦う気もなくし、ただもう放心状態で天人たちを見つめるばかりである。

 空中に立っている天人たちは、見たこともないような美しい衣装を身にまとっている。天人たちのそばには、空を飛ぶ車が一台浮かんでおり、座席のところに日傘のように絹の傘が差しかけてある。その中には月世界の王と思われる人が座っている。王らしき人は、かぐや姫や翁たちのいる家の中に向かって言う。「みやつこまろ、出てきなさい」。 翁は、それまでは、追い返してやる、と猛々しい気持ちでいたのだが、急に酒にでも酔ったような気持ちになり、地面にひれふしてしまった。王らしき人が言うには、「浅はかな者よ、お前が少しばかり善行をしたため、助けてやろうと思い、姫を人間界に下したのだ。それによってお前は別人のように大金持ちになったのだ。かぐや姫は、よくない行いがあったために、お前のところでしばらく謹慎中であったのだが、今謹慎がとけて、月に戻ることができるのだ。そのように喜ばしいことであるのに、お前はそうやって嘆き悲しむ。しかたのないことだ。早くお返しせよ。」と。 竹取の翁は答えて申し上げる。「あなたは今、『しばらく』とおっしゃいましたが、私はもう二十年以上もかぐや姫をお育てしてきたのです。どなたか、同名の方との人違いではないでしょうか。また、ここにいらっしゃるかぐや姫は重い病気で、出ていらっしゃることもできないのです。」
 王はもはや答えず、屋根の上に空飛ぶ車をつけて、今度はかぐや姫に言う。「さあ、かぐや姫よ、けがれた人間界に長くいる必要はない。早く帰りなさい。」 王がそう言ったのが合図のように、閉め切っていた家中の戸がいっせいにあいた。格子戸もまた、誰もあけないのにひとりでにあいた。かぐや姫は、おばあさんに抱きかかえられていたが、その腕を離れ、家の外に出ていった。おばあさんは、それ以上何もできず呆然と見送り、ただ空を見上げて泣くばかりである。

 かぐや姫は、取り乱して泣いている翁に近づいて、「月に帰らねばならないことは、私にとっても残念なことです。ですから、せめて、おじいさんも明るくお見送りくださいな。」と言うが、翁は「悲しすぎて、明るく見送るなんて無理だよ。私達を残して月に帰るなんて、私にどうしろと言うのだ。」と、いよいよ泣くので、かぐや姫の心も乱れてしまう。「では、手紙を書き残して、おいとまいたしましょう。私を恋しくお思いになったなら、取り出してご覧ください。」と言って、泣きながら書く手紙に、「私がもし人間なら、いつまでもお側にお仕えして、おじいさんをお嘆かせ申し上げるようなことはいたしません。こうしてお別れしなくてはなりませんことは、ほんとうに残念でなりません。着物を脱いで置いていきますから、私の形見と思って、ご覧ください。月夜などには、こちらをご覧ください。お見捨てしておいとまいたしますことは、これから昇っていく空から落ちてしまいそうなつらい気持ちでいっぱいです。」と書き残す。

 月の王が、一人の天人に持たせている箱がある。その箱の中には「あまの羽衣」が入っている。また別の箱には「不死の薬」が入っている。ある天人が、「壺のお薬をお飲みください。長い間、けがれた下界のものを召し上がっていたのですから、ご気分が悪いことでしょう。」と言って、薬を持ってきたのを、かぐや姫は、ほんの少しだけなめなさって、その薬も形見として、脱いで残す着物に包んで置いていこうとするが、天人は包ませず、いよいよ「あまの羽衣」を着せようとする。かぐや姫は「ちょっと待って。」とそれをとどめ、「あまの羽衣を着た人は、人間の心を持たなくなると言います。帝にも一言、言い残すことがあるんでした。」と言って手紙を書く。月の王は「遅い! もういい加減にせよ。」とじれったくお思いになる。かぐや姫は、「人情のわからないことをおっしゃいますな。まぁ、人間じゃないからしかたありませんけど。」と言って、落ち着いたようすで、帝に手紙をお書きになる。「あなたさまはこのように大勢の兵士をうちにお寄こしになって、私が月へ戻されるのを止めようとなさいましたが、人間には抵抗しようのない強力な迎えの者たちがやってきて、私を月へ連れ帰りますことは、残念で悲しいことでございます。帝にお仕えしないままで今まで来たのも、私がこのように、いずれ月へ帰らねばならない身の上だったからです。でも、あなたさまは私に対してきっと『なぜ私に仕えないのか。けしからん。』とお思いになったことでしょう。宮仕えを固くお受けいたしませんでしたことを、『無礼なやつ』と記憶におとどめになったことが心残りでございます。」と書き、

 「今はとて……(「もう帰らねばならない」と、あまの羽衣を着るときになって、あなたさまのことをしみじみとなつかしく思い出すことです)

と歌を詠んで、手紙に壺の薬を添えて、帝にお渡しするようにと、頭の中将に渡す。中将が手紙を受け取ったのを見て、天人はすばやくかぐや姫にあまの羽衣をお着せする。するともう、かぐや姫は今までのことも忘れてしまい、翁を「かわいそうだ、いとおしい」とお思いになったことも忘れてしまった。あまの羽衣を着たかぐや姫は、もう思い悩むこともなくなり、空飛ぶ車に乗って、百人ほどの使者を従えて、月に帰っていった。











芥川 (伊勢物語) 直訳

 昔、男がいた。女で結婚できそうになかった女を、何年もの間、求婚しつづけていたが、やっとのことで盗み出して、とても暗いところに逃げてきた。芥川という川を連れて行ったところ、草の上に降りていた露を、「あれは何か?」となんと男に尋ねた。
 行く先はまだ遠く、夜も更けてしまったので、鬼がいるところとも知らないで、雷までもとてもひどく鳴り、雨も激しく降ったので、荒れ果てた蔵に、女を奥に押し入れて、男は、弓と「やなぐい」を背負って戸口にいて、早く夜が明けてほしいと思いながら、座って待っていたところ、鬼が早くも一口で食ってしまった。「きゃあ」と言ったが、雷が鳴る音のうるささで聞くことができなかった。しだいに夜も明けてくるので、見ると、連れてきた女がいない。
 地団駄を踏んで泣いたが、どうしようもない。

  「真珠か、それとも何か」とあの人が尋ねたときに、「露ですよ」と答えて、
  消えてしまえばよかったのになあ」

 この話は、二条の后がいとこの女御のおそばにお仕えするようなかたちでおられたのを、容貌がとてもすばらしくていらっしゃったので、盗み出したが、后の兄ぎみの、堀河の大臣(基経)と、ご長男、国経の大納言が、まだ位が低くて、宮中へ参上なさる時に、ひどく泣く人がいるのを聞きつけて、引きとどめて、お取り返しになった。それをこのように、鬼と言ったのであった。まだとても若くて、后が普通の身分でいらっしゃった時のことだとかいうことだ。



芥川 2(伊勢物語)   超訳

 昔、一人の男がいた。その男は、ある女に恋をしていた。その女は身分の高い女で、普通では自分のものにできそうもないような女だったが、男はその女に長い間、プロポーズしつづけていた。
 男は女をやっとのことで家族のもとから連れ出して、とても暗い中を逃げてきた。いわゆるかけ落ちである。
 芥川という川のほとりを連れて逃げていると、女は、草の葉の上に降りている露を見て、「あれは何?」と男に尋ねた。女は露を知らなかったのだ。さすがは深窓の姫君 ?!
 目的地はまだ遠く、夜も更けてしまったし、また、雷までもがとても激しく鳴り、雨もひどく降っていたので、鬼が住んでいる所だとも知らずに、男は粗末な蔵に女を押し入れて、弓を入れた弓入れを背中に背負って、戸口で見張り番をして座っていた。男は「早く夜が明けてほしい」と思いながら座っていたが、そこの鬼はもうすでに一口で女を食ってしまった。女は「きゃー」と叫んだが、雷が鳴るうるささで、男はその悲鳴が聞こえなかった。
 だんだん夜も明けていくので、男が様子を見てみると、連れてきた女はいなかった。男は、じだんだを踏んで、悲しがって泣いたが、どうしようもなかった。男はこんな歌を詠んで、嘆き悲しんだ。

  白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを

  ( 「真珠ですか? 何ですか?」とあの人が尋ねたとき、「すぐに消えてしまうはかない露です」と私は
   答えたが、私もあのとき、あの露のように消えてしまえばよかった。そうすれば、今こんなに悲しい思い
   をしなくてすんだのに。 )










初冠 (伊勢物語)

 むかし、ある男が、成人式をすませ、奈良の都の春日の里に、領地を持っていたという縁があって、鷹狩りに出かけた。その里に、とても若く美しい姉妹が住んでいた。この男は物陰からこの姉妹をのぞき見てしまった。さびれたかつての都にひどく不似合いな様子だったので、思わず心が乱れてしまった。その男は、ちょうど、しのぶ草の乱れ模様の狩の服を着ていたので、その服のすそを切って、そこに、こんな歌を書いて送った。

  春日野に生えている若い紫草の根をすりつけて染めた、このしのぶずりの狩の服の乱れ模様の
  ように、私の心は、あなたを恋する気持ちで乱れに乱れています。

と、すぐに詠んで送ったのである。折りにかなった興味深いことと思ったのだろうか。
 この歌は、次の

  今の私の心は、まるで陸奥(ミチノク)の信夫(シノブ = 今の福島県福島市)にゆかりのある
  しのぶ草をすりつけて染めた乱れ模様のようですが、いったい誰のせいで乱れはじめて
  しまったのでしょうか、私自身のせいではありませんのに(あなたのせいなのですよ)

という歌(古今集にある八〇〇年代の源融の歌)の趣旨を踏まえたのである。
 昔の人は、このように積極的で風流な振る舞いをしたということだ。










関守 (伊勢物語)

 昔、ある男がいた。その男は、平安京の東半分にある五条のあたりに、ひっそりと隠れてある人に逢いに行っていた。ひそかに通う場所であったので、門からもはいれないで、子供たちが踏んで破った土塀の崩れたところから通っていた。人通りは少なかったが、やはり度重なったので、主人がそのことを聞きつけて、その通い道に、毎晩人を立たせて番をさせたので、行っても会えなくて帰ることが続いた。
 そこで、詠んだ歌。

   人に知られないように私が通っていく道の番人よ、
   毎晩ぐっすり寝込んでしまってほしい。そうすれば逢えるのに)

と詠んだので、主人はとてもひどく心を痛め、二人の仲を許したのであった。
 これは、二条の后(注)のところへ、隠れて参上していたのだが、世間の噂になったので、后の兄たちが守らせなさったということである。

 注 二条の后……藤原高子(フジワラノタカイコ) = のち清和天皇の妻となり、陽成ヨウゼイ天皇を生む。
             承和九年(842)〜延喜十年(910)。藤原長良(ナガラ)の娘。『伊勢(イセ)物語』に
             在原業平(アリワラノナリヒラ)との恋愛譚(タン)が見える。〔古典文学辞典 人名編〕












桐壺の更衣 (源氏物語)  直訳

 どの帝の御代であっただろうか、女御・更衣たちがたくさんお仕えしていらっしゃった中に、それほど高貴な身分ではない方で、とりわけ、帝の御寵愛を受けて栄えていらっしゃる方があった。
 もともと「私こそは(帝のご寵愛を受けるのだ)」と思い上がっていらっしゃる方々は、(その更衣(以下、桐壺の更衣)を)気にくわないものとして、さげすみ、ねたみなさる。同じくらいの身分やそれより身分の低い更衣たちは、まして心中穏やかでない。(桐壺の更衣の存在は)朝夕の宮仕えのときなども、そのような方々の心を揺り動かし、恨みを負うことが積もったためであったのだろうか、(桐壺の更衣は)ひどく病気がちになってゆき、何となく心細そうで実家に帰ることが多くなってゆくのを、(帝は)ますます物足りなく、いとしくお思いになり、人々の非難に対しても、遠慮することがおできにならず、後の世の話の種にもなってしまいそうな、(桐壺の更衣に対する)御待遇ぶりである。上達部や殿上人なども、気にくわない様子で目をそらしそらししながら、「まことにまぶしいほどの、桐壺の更衣の御寵愛の受けようだ。中国でも、このようなことが原因で、世の中が乱れ悪くなったそうだ」と、しだいに世間でも、にがにがしく人々の心配の種になって、(玄宗皇帝を堕落させた)楊貴妃の例も、引き合いに出しそうになってゆくので、(桐壺の更衣は)とてもきまりの悪いことが多いが、(帝の)もったいないお心遣いが比べようもないのをたより(心の支え)にして、宮仕えをなさる。
 (桐壺の更衣は)父である大納言は亡くなって、(桐壺の更衣の)母であって(大納言の)奥方である方は、旧家の出身であって教養のある方で、両親がそろっていて現在世間の評判が高い他の方々にもそうは劣らずどんな儀式でもとり行いなさったが、特別にしっかりした後見人がないので、何か特別なことのあるおりには、やはり頼りとするところがなく、心細そうな様子である。
 (帝と桐壺の更衣は)前世でも、ご縁が深かったのであろうか、またとなく美しい玉のような皇子までもがお生まれになった。(帝は)「早く(見たい、会いたい)」と、待ち遠しくお思いになって、(桐壺の更衣を)急いで参上させてご覧になると、めったになくすばらしい、赤ん坊のお顔だちである。
 第一皇子は、右大臣の娘である女御(=弘徽殿の女御)がお生みになった方で、後ろだてがしっかりし、「まぎれもない世継ぎの皇子」と、世間で大切にお育て申し上げているが、(第一皇子は)この(桐壺の更衣の子(以下、光源氏)の)はなやかなお美しさにはお並びになることができそうにもなかったので、(帝は第一皇子に対しては)通りいっぺんの大切な扱いをしようとお思いになるだけで、この皇子(光源氏)ばかりを、秘蔵っ子とお思いになり、大切に世話をなさることこのうえもない。





「葵」部分   (源氏物語)       直訳

御息所のもの思い

 物の怪がひどく取りついて、葵の上はたいへんお苦しみになる。
六条の御息所は、これが自分の生き霊だとか、なくなった父上の霊だとか言う者がいるとお聞きになるにつけて、お考え続けなさるが、自分一人のつらい嘆き以外に、葵の上に対して「悪くなれ」と思う心もないが、苦悩のあげく体から抜け出すという魂(私の魂)は、そのように葵の上に取りついているのであろうかとお感じになることもある。
 この何年間というもの、様々に物思いを続けて日々を送ってきたが、こんなに思い悩むこともなかったが、つまらないあの事件の時に、葵の上の側の人たちが私たちを軽く見、無視する態度をとる様子であった、あの「みそぎ」の日の後は、あの一件で落ちつかなくなってしまった心が静まりそうになくお思いになるせいだろうか、六条の御息所が少しうとうとなさる夢の中では、葵の上と思われる人がとても美しくしていらっしゃる所へ行って、あれこれと引っかき回し、起きている時らしくもなく、猛々しく荒々しい思いつめた心が出てきて、葵の上を荒々しく打つなどという場面をごらんになることがたび重なった。
 「ああ、つらいこと、なるほど世間の人が言うように私の魂がこの身を離れて行ってしまったのだろうか」と、正気でなくお感じになる時もたびたびあるので、それほどでないことでさえ、他人のことについては良いことは言い出さない世間なので、なおさらこんなことはとてもひどく言いたてることのできる機会だとお思いになるにつけ、ひどくうわさになりそうで、「死んだ後も一心に現世に恨みを残すのは世間でよくあることだ。それでさえ、他人の身の上のことであっても、罪深くいまわしいことであるのに、現に生きている私でありながらそのような嫌なうわさを立てられるのは、自分の前世からの縁とはいえ、情けなくつらいことだ。あの冷たい人(=光源氏)のことは、どうあろうともまったくお思い申し上げるまい。」と何度もお思いになるが、古歌にあるように「思うまいと思うのがもう思っている」のである。(六条の御息所は光源氏のことを忘れることができないのであった)。

病床の葵の上

 「まだ出産があるはずの時ではない」と、どなたも気をゆるめていらっしゃったが、葵の上は急に産気づかれてお苦しみになるので、いっそう重々しいご祈祷(きとう)をある限りさせなさるが、例の執念深い物の怪ひとつだけはまったく動かない。尊い修験者たちは、こんなことは珍しいと、その扱いに困っている。物の怪はそうはいってもやはりひどく力を弱めさせられて、苦しそうに泣きつらがって、「(祈祷を)少しおゆるめくださいよ。大将(光源氏)様に申し上げたいことがあります。」とおっしゃる。
 側近の人たちは「思ったとおりだ。何かわけがあるのだろう(葵の上様がおっしゃりたいことがあるようだ)」といって、光源氏を近くの几帳のそばにお入れ申し上げた。
 葵の上はひどく最期の時であるような様子でいらっしゃるので、父である左大臣、母である宮様は「何か申し上げておきたいことがおありなのだろうか」と思って、少しその座をお離れになった。加持祈祷の僧たちが声を低めて法華経を読み続けている様子はひじょうに尊い。
 光源氏が几帳の布を引き上げて葵の上を拝見なさると、葵の上はひじょうに趣のある様子で、お腹はひどく大きくなって横になっていらっしゃる様子は、関係のない他人でさえ、拝見したとしたら、心が乱れるにちがいない。まして、夫である光源氏がご覧になるのだから、(妻の苦しげな様子を)残念に悲しくお思いになるのは道理(当然のこと)である。

 お産のときの白いお着物に、黒髪の色の対比がきわだって、その髪がとても長く多いのを束ねて添えてあるのも、「(葵の上は)このように自然な様子でいてこそ、かわいげがあってしっとりした趣きも加わって美しい」と(光源氏には)感じられる。
 光源氏は葵の上のお手を取って、「ああひどい。私につらい目をお見せになりますね。」と言って、何も申し上げなさらずお泣きになるので、葵の上は、いつもは気を使わせられ気詰まりに感じられる目つきであるが、今日はとても疲れた様子の目で見上げて、光源氏をお見つめ申し上げなさっているうちに涙がこぼれるのを光源氏がご覧になる様子は、どうして夫婦の愛情が薄いことがあるだろうか。

物の怪の出現

 葵の上があまりひどくお泣きになるので、光源氏は、「後に残される気の毒な父母たちのことをお思いになり、また葵の上がこのように自分(光源氏)をご覧になるにつけて、心残りにお思いになっているのであろうか。」とお思いになって、「何事もこう思いつめなさるな。今このような苦しい様子であっても、大したことではおありではないでしょう。また、どうであっても(万一のことがあっても)、夫婦はかならず来世で出逢う機会があるそうだから、きっと会えますよ。お父さん、お母さんなども、深い宿縁がある関係の人は、生まれ変わっても、つながりはとぎれないそうだから、きっと会う機会があろうとお思いください。」と慰めなさると、
 「いえ、そうではないのです。調伏されて体が苦しいので、祈祷をしばらくお休めくださいと申し上げようと思って(そう言ったのです)。このようにあなたのもとに参上しようとはまったく思わないのに、『ものを思う人の魂』は実際こんなふうに体から離れてさまよい出るものであったのですね。」と親しげに言って、「嘆き悲しんで空に迷っている私の魂を、着物の下前の端を結んで、元に返してください」と歌をお詠みになる声、様子は、葵の上ではなく変化していらっしゃる。
 たいそう不思議だとあれこれお考えになると、まさに六条の御息所であるのだった。
 光源氏は驚きあきれて、これまで人があれこれ言うのを、身分の低い者たちの言っていることだと、聞き苦しくお思いになって否定していらっしゃったのに、現に今、目の前で見せられ、「世の中にはこんなことがあるのだなあ」と気味悪くお思いになるのだった。













虫めづる姫君(部分)(『堤中納言物語』)  意訳

 蝶の好きなお姫様が住んでおられる隣に按察使の大納言の娘のお姫様が住んでいらっしゃった。両親の大納言様たちは、奥ゆかしくてすばらしいそのお姫様をとても大切にお育てになっていらっしゃった。
 このお姫様のおっしゃることには、「人々は、花よ蝶よとかわいがるけれど、むなしくおかしなことです。人は誠実にものの本来の姿を追求するのが立派なのです」と言って、この虫が大きくなる様子を見るのだといっては、気持ち悪そうなさまざまな虫を集めさせていろんな虫かごに入れさせなさるのだった。
 変な虫たちの中でも、「毛虫は意味深そうなのが奥ゆかしい」といって、朝から晩まで、髪を耳にはさんで、手のひらに毛虫を乗せて見つめていらっしゃる。若い女官たちは、怖がって逃げまどうので、怖がらず身分の低い男の子の家来をお呼びになって、箱の中の虫たちを取り出させ、名を尋ね、新種の虫がいれば名をつけて、おもしろがりなさる。
 「人はみな化粧をしたり、格好をかまったりするのがよくない」といって、眉はまったくお抜きにならず、面倒だ、きたない、と言って、お歯黒もまったくおつけにならず、とても白い歯でほほえんでは、この虫たちを朝も夜もかわいがっていらっしゃる。お姫様は、このように虫を恐がる人を「いけません」と、とても黒い眉でにらみなさるので、女官たちはますますうろたえてしまうのだった。
 親たちはこんな姫を見て、「たいへん困ったことに、変わっていらっしゃる」とお思いになったが、「そうはいっても、悟っていらっしゃることがあるようだ、こちらが『具合が悪い』と思ってご注意申し上げることに対しても、内容の深い返事をなさるので、まったく恐ろしいことだよ」と、このことに対しても、とてもきまりが悪くお思いになるのだった。
 大納言が「そうはいっても、人聞きが悪いよ。人は、顔かたちが美しいことを好むのだ。『気味の悪い毛虫をかわいがっているそうだ』と世間のうわさになったりしたら、まことに具合が悪い」と申し上げなさると、姫は「大丈夫、大丈夫。いろんな事を探求して、行く末を見るからこそ、物事の深い道理がわかるのです。それがわからないのはとても幼くて浅はかなことです。毛虫が蝶になるのですよ、ほら」といって、その様子を親たちにお見せになるのだった。
 「絹だといって人々が着る糸も、蚕がまだ羽根のない時に作り出し、蝶になってしまうととてもいい加減に扱って無用のものになってしまうのですよ」とおっしゃるので、親たちは言い返すこともできずあきれるばかりである。姫君はそうはいってもやはり体面も考え、直接には親たちと対面なさらず「鬼と女とは人に見られないのがよい」と気を遣っていらっしゃる。
 部屋の簾をすこし巻き上げて、几帳(移動式の仕切り)を立てて、このように賢そうにお話しになるのだった。
 お姫様は、子どもの召し使いたちが変わった虫を集めてくれば、おもしろいものやほしがる物をくださるというので、子どもたちは、いろいろな恐ろしそうな虫を集めてきてお姫様に差し上げる。お姫様は「毛虫は、毛の様子などはおもしろそうだけど、それにまつわる故事や歌などがないから、つまわないわ」と言って、カマキリやかたつむりなどを集めさせて、子供たちや女官たちに大声で歌わせて、それをお聞きになって、自分も声を張り上げて、「かたつむりの角(つの)の上の争い、云々」というような句を、節を付けてお歌いになる。
 子どもたちの名前も、当たり前じゃつまらないといって、虫の名前をおつけになる。けらお、ひきまろ、いなかたち、いなごまろ、あまひこ、などとつけて、召し使っていらっしゃる。
 こんな話が、世間でうわさになってとても人聞きが悪い。その中に、血気盛んでものを恐がらず明るく利発な貴族の息子がいた。この若者が、このお姫様のことを伝え聞いて、「変な虫をかわいがるというが、いくらなんでもこれは恐がるだろう」といって、きれいな帯の端を、蛇そっくり、しかも、今にも動きそうに仕立てて、うろこ模様の袋に入れて、送ってきた。その袋に結びつけてある手紙を見ると、

  這いながら、あなたのまわりについて回りましょう。
  私はいつまでも変わらない長い心を持っている蛇ですから

と書いてある。それを女官が何気なくお姫様の前にお持ち申し上げて、「持ち上げるのでさえ妙に重い袋ですこと」などと言いながら開けると、蛇がかま首を持ち上げた。女官たちはうろたえて大騒ぎするが、お姫様は「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」とお祈りをして、「生まれ変わる前の親かもしれませんよ。騒いではいけません」と、平然としたそぶりで言うが、声はふるえ、顔は別のほうを向いている。「美しい姿のときだけ、自分の縁つづきだと思うのは、よくない考え方ですよ」とつぶやいて、近くに引き寄せなさるが、そうはいってもやはりこわくお思いになり、立ったり座ったり、蝶のように落ちつかず、無理に出すかすれ声がひどくおかしいので、女官たちは笑いをこらえて控え室に逃げ帰り、そこで大笑いしている。父の大納言がそれに気づき理由をきくと「これこれこういうわけです」と女官の一人が申し上げる。
 大納言は「なんとあきれた、気味の悪い話があるものだ。そんな蛇を見ていながら、おまえたちみな逃げ出したというのも、けしからん話だ」と言うなり、大納言は刀をひっさげて、蛇のいる部屋へと駆け出した。しかし大納言がよくご覧になると、とても上手な蛇の作り物だったので、それを手に持って、「この蛇の作り物、うまくできているなあ」と言い、また、「この人は、お前がかしこぶって変な虫ばかりかわいがっていると聞いて、こんなことをしたんだろう。お前も悪いんだよ。とにかく、歌といっしょに、早く返してしまいなさい」と言って、廊下を帰っていかれた。女官たちは、作りものだと聞いて、「ひどいことをする人だわ」と非難し、「返事をしなければ、相手や世間からどう思われるか心配でしょう。」と言うので、お姫様はしかたなく、固くてごわごわした紙に返歌をお書きになる。ひらがなはお書きにならなかったので、カタカナで、

  エンガアッタナラ、ゴクラクデオアイシマショウ
  ナジミニクイヘビノスガタデハチョットネ
   (縁があったなら、極楽でお会いしましょう
    なじみにくい蛇の姿では、ちょっとね……)

    とお書きになった。













祇園精舎 (平家物語 冒頭) 直訳

 祇園精舎の鐘の音には、諸行無常という響きがあり、(釈迦入滅のときに白色に変じたという)娑羅双樹の花の色は、勢い盛んなものもいつかは必ず衰えるものだという道理を表している。(人の世もまた同様で)権勢におごっている人も、その栄華がいつまでも続くわけではなく、まさに春の夜に見るつかのまの夢のよう(にはかないもの)である。勇猛な者も最後には滅んでしまう、(それは)まったく風にあって軽々と吹き飛んでいく塵と同じような(はかない)ものである。
 遠く中国に例をたずねてみると、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱  、唐の禄山などがあるが、これらの者は、みな昔の主君や先代の皇帝にしたがってよい政治を行おうともせず、栄華の限りを尽くし、臣下の諫言(かんげん:いさめる言葉)をも心にとめようとせず、世の中が乱れそうなことも悟らず、庶民が憂い嘆くことを関知しなかったので、長続きすることなく滅びてしまった者たちである。
 また、身近なわが国の例を探ってみると、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼(などがいるが)、これらは、そのおごり高ぶる心も、たけだけしい振る舞いもみなそれぞれに大変なものだったが、ごく間近なところでは、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し上げた人の(栄華・驕慢の)ありさまは、伝え聞くところによると、想像することも言葉で表現することもできないほど、たいへんなものである。














伊曾保物語 「人と河童のはなし」現代語訳

直訳
A  ある山のふもとを馬に乗って通る人がいた。そのそばに一匹の河童が、
B 水場から遠い陸地で、苦しんでいたが、その人が通りかかったのを見て言った。
C 「わたしは水場から離れて、どうしようもありません。
  どうか、水のある所まで送ってくださったならば、
D お金でも何でも、お望みのものを差し上げましょう。」と言うので、
E その人は、本当だと思い、「それならば、この馬に乗せてお送りしましょう」と、
F そのまま、河童を馬に乗せて(河童を馬に)くくりつけ、水のある所へ連れて行き、
G (男が)「さて、約束だから、お金をください。」と言うと、河童は非常に怒って、
H 「どうして金をおまえにやるだろうか(やらない)。
  ここまで連れてくる途中、おれを馬にくくりつけて、
I 痛めつけたのでさえ許しがたいのに、金(までやる)などとは、
  思いもよらない(とんでもない)ことだ。」と言い争う所へ
J 狐がやってきて、「河童どのには、何を言い争っていらっしゃるのか?」と言うと、
K 河童は、先ほどの(事件の)いきさつを言ったところ、狐はうなずいて、
L 「それならば、私が、どちらが正しいかを判定しましょう。
  まず、河童殿は『(この人が)締めつけた』とおっしゃるが、
  (この人は)どのようにしたのですか?」と尋ねると、
M 河童は、「このようにしたのです」と、また馬に乗ると、狐はまた人に向かって、
N 「どれぐらい(河童殿を)お締めになったのですか?」と尋ねると、
  (その人は)「これぐらいです。」と縄で締めるのを、
O 河童は納得せず、「いやいや、もっとです。」と言うので、
P 狐は思うままに河童を縛り、「このような無法者は、元の場所へ連れてお行きなさい。」
  と言うと、
Q その人は「なるほど、もっともです」とうなずき、(河童は)また水のない場所へ
  連れていかれた。
R (河童は)その時後悔したが、どうしようもなかった。
  そのまま、人と狐に、河童は滅ぼされたということだ。

意訳
 ある山のふもとを、ある人が、馬に乗って通りかかった。ちょうど一匹の河童が、水がなくて苦しんでいたが、人が通りかかったのを見て言った。「もしもし、そこのお方、わたしは水場から離れたところにきてしまい、もう自分ではどうにもできません。どうか水のある所まで連れて行ってください。そうすれば、お金でも何でも、お望みのものを差し上げましょう。」
 その人は、河童の言葉を信じ、「それなら、この馬に乗せてお送りしましょう」と、そのまま、河童を馬の上にくくりつけて水のある所へ連れて行ってやった。
 「さて、約束です。お礼のお金をいただきましょう。」と男が言うと、河童は、「お金なんかやるもんか。ここまで連れてくる途中、おれを馬にくくりつけて、痛い思いをさせただけでも許せないのに、金までやるなどとは、思いもよらないとんでもないことだ。」と怒りだし、言い争いになった。
 そこへ、狐がやってきて、「河童さんは、何を言い争っていらっしゃるのですか?」と尋ねた。河童は、先ほどのいきさつを説明した。狐はうなずいて言う。「それなら私が、どちらが正しいかを判定してさしあげましょう。まず、河童さんは『この人が締めつけた』とおっしゃるが、この人はどのようにしたのですか?」
 河童は、「このようにしたんです」と、また馬に乗ると、狐は今度は人に向かって、「どれぐらい河童さんを締めつけなさったのですか?」と尋ねる。その人は「これぐらいです。」と河童を縄で締めてみせる。が、河童は納得せず、「いやいや、もっと強く締めつけました。」と言うので、狐は、これでもかと河童を縛り、「こんなならず者は、元の場所へ連れ戻しておやりなさい。」と提案した。その人は「なるほど、もっともなことです」とうなずいて、河童を、もとの水のない場所へ連れ戻してしまった。
 河童は、後悔したが、どうしようもなかった。そのまま、人と狐に、滅ぼされてしまったということだ。



狼と犬との事 (伊曾保物語 下 第九)

 ある羊飼いが、放牧している羊を野獣から守るために番犬を飼っていたが、えさを必要なだけ与えていなかったので、その犬はやせ衰えていた。狼がその様子を見て、犬に「あなたはなぜ痩せていらっしゃるのですか。(名案があります。)私に羊を一匹下さい。私があの羊を盗んで逃げる時、
追いかけるふりをして、お転びなさい。このことを羊飼いがご覧になったなら、あなたにえさをくださるでしょう。」というので、「なるほど。」と犬は賛成した。
 相談どおり、狼が羊をくわえて逃げる時、犬は後から追いかけわざと転んで、みすみす帰ってきた。 羊飼いは怒って「どうして狼に羊を取られたのか。」と言ったので、犬は答えて「このごろ餌が足りなくて非常に疲れ切っております。そのために羊を取られてしまいました。」と言うので、羊飼いは「なるほど。」と思い、それからえさをしっかり与えるようになった。
 再び狼が来て、「私の計画は少しも間違っていなかったでしょう。そこで、もう一匹、羊をください。今度も私を追いかけなさい。そして、今度は私に少しだけ傷を負わせなさい。とはいっても、けっして深い傷は負わせなさるな。」と固く約束して、犬は、狼が羊をくわえて逃げるところを追いかけ、狼の皮膚を少しだけ噛み切って帰ってきた。主人の羊飼いは、これを見て、「よしよし。ざまあみろ。」と思って、ますますしっかりえさを与え、番犬を丈夫にした。
 さて、また狼が来て、もう一匹羊をくれることを希望した。犬が申すには、「このごろは、主人から十分えさを与えられ、体も丈夫になったので、もう差し上げることはできません。」と、狼の申し出を拒否した。狼は「そうはいっても何かいただきたいものです」と望むので、犬は教えて「主人の蔵にいろんな食べ物があります。勝手に行ってお食べなさい。」と言ったので、狼は「それなら」と蔵へ行き、まず酒の壺を見て、思う存分これを飲んだ。酔っぱらって、あちこちふらふら歩き回るうちに、羊飼いが歌を歌っているのを聞き、「あの下品で見苦しい者(=羊飼い)でさえ歌っているのに、俺も歌わずにいられようか(歌うぞ)。」と言って、大声を上げてわめくうちに、村の人たちがその声を聞きつけて、「たいへんだ! 狼が来るぞ!」と言って、弓矢を持って集まった。こうして、狼はとうとう殺されてしまった。
 この話のように、召し使っている者にちゃんと報酬を与えなければ、その主人の財産などを無駄に使い減らすということがわかる。



土器(かわらけ)、慢気を起こす事 (伊曾保物語)    訳

 ある人が土器を作って、焼く前に乾かした。この土器が思うには、「なんとまあ、私は幸運な生まれつきであることよ。土器でなければあるいは、いやしい田舎の農夫の踏む田畑の土であるが、このような喜ばしい機会に生まれて、人にかわいがられることのうれしいことよ」とうぬぼれていたところに、夕立が、その土器のそばに来て申す。「あなたはどういう人でいらっしゃるのか」と、尋ねたところ、土器は答えて言う。「わたしは帝王の土器である。賤しい者の家にあることはない。」と申したところ、「あなたは根本を忘れた人だ。いまそのように、非常に誇っていらっしゃっても、一雨、頭にかかるなら、たちまち元の土になって、炊事場や土塀の土として塗られてしまうだろう。人を人とも思わずに、うぬぼれていらっしゃることよ。」と言って、急に夕立は降り、雷は鳴り騒いで、その土器を崩したので、元のただの土に戻ってしまった。
 そのように、人の世でも、立身出世をして富み栄えるといっても、たちまち土器が雨に降られて砕けるように、はかない運命のいたずらで、野の土になってしまう。自分自身をよくよく観察すれば、その土器と同じである。情愛の深い夫婦の仲でも、そう考えれば根本は土と同じである。けがらわしい土のみを愛して、本来すべき精進をしない人は、容赦なく夕立に打たれること、何度悔やんでも、(後からでは)どうしようもない。あらかじめこのことを考えておくことが大切である。



蟻と蝉のはなし (伊曾保物語)   直訳

1  冬の初め、暖かな日差しがほしい頃であったが、ある日、一匹のアリが穴から出て、保存用
  の食糧を干している所へ、あちらの木の枝から、セミが一匹飛んできて、アリに向かって、
2 「さて、あなたはこんな冬枯れの頃まで食糧の蓄えがあるというのは実にうらやましいこと
  です。私にも少し分けてくださいませんか?」と言うと、
3 アリが答えて、「セミさんは、春・夏の仕事としては何をなさっているのですか?」と言うと、
4 セミが答えて、「夏・秋の仕事といっても、ただ木の梢で歌い暮らすばかりですが、
  他のセミたちに負けまいと、歌ってばかりいるので、ほかに仕事といってもありません。」と
  言うと、
5 アリは答えて、「それならば、今でもお歌いにならないのですか?(ずっとお歌いになって
  いらっしゃったらいいのに)(それなのに)『食糧を分けてください』とは、あまりに情けなくて、
  セミさんが、最初歌い暮らしていらっしゃった優雅さにも似合わないことです。」と言って、
  穴に入ってしまった。
6  その話のように、人間の世界でも、自分の力でなんとかできるうちは、自分の仕事を
  するべきだ。その立場が豊かである時、倹約して暮らさないと、貧しくなってから後悔して
  も、セミが食糧がなくな(って困)るのと同じになってしまう。













愚公山を移す (列子)   普通の口語訳

 太行山・王屋山の二つの山は、(すそ野は)七百里四方あり、その高さは一万仞(じん)もあった。もともとは冀州の南、河陽の北の土地(※黄河の北側)にあった。(その山の北側に)「北山の愚公」と呼ばれている老人がいて、年齢は九十歳になろうとしていた。(愚公は)山に面して住んでおり、山の北側がふさがって邪魔されたような状態で、(南へ行くときに)遠回りしなければならないことに困っていた。そこで家族を集めて相談して言うには、「私とお前たちとで力を尽くして山の険しい部分を平らにし、予州の南まで道を通じさせ、漢水の南まで達するようにしたい。よいだろうか。」と。
 家族みんな、そのとおりだと賛成した。(けれど)その妻が疑問を呈して言った。「あなたの(弱い)力では、あの魁父の丘(低い丘)でさえ平らにすることはできません。(それなのに、はるかに大きな)太行山・王屋山をどうできるというのですか(どうにもできないでしょう)。その上、削り取った土砂をどこに捨てようというのですか(捨て場所もありませんよ)。」と。(妻以外の)みんなは言った、「土砂は渤海の端や隠土の北の地に捨てよう。」と。
 こうして、(愚公は)子や孫で担ぎ手を引き受けた三人を引き連れ、石を叩き割り、土を掘り起こし、「み」や「もっこ」で、渤海の端まで(土砂を)運んだ。
 隣家の京城氏の未亡人には亡夫の残した男の子がいて、始めて歯が生え替わる年ごろ(七歳ぐらい)であった。(その子は)喜んで山に跳んで行って手伝い、暑さ寒さが入れ替わる頃(半年かかって)はじめて(渤海まで土砂を捨てに行って)戻ってきた。
 「河曲の智叟(知恵のあるおじいさん)」と呼ばれる老人が、笑って、愚公の計画を止めさせようとして言うには、「何と、大がつくよ、あんたの馬鹿なのは。あんたの老い先短い力では、なんと、山の一本の草でさえ取り除くことはできない。(大量の)土砂をどう始末するというのだ(できまい)。」と言った。
 北山の愚公は、長いため息をついて言うには、「あんたの心の頑固なことといったら、まったく取り除くことができない。なんとあの未亡人の幼子以下だね。私が死んだとしても、子がいて生きている。子はまた孫を生み、孫はまた子を生む。その子にまた子ができ、孫ができる。(こうして)子々孫々人は尽きることがないのだ。しかし山はというと高くなることはない。(だから)どうして平らにできないことがあろうか(必ず平らにできるのだ)。」と。河曲の智叟は言い返すことができなかった。
 山の神がこの話を聞いて、愚公が山を崩すのをやめないのに恐れをなして、これを天帝に報告した。 天帝は、愚公の誠意に感動して、夸蛾氏(伝説上の仙人)の二人の息子に命じて二つの山を背負わせ、一つは朔北の東の方に置かせ、もう一つは雍州の南の方に置かせた。
 このことがあってから、冀州の南から漢水の南にかけて、高く盛り上がった山がなくなったのである。










尾を塗中に曳く(荘子)

直訳

 荘子が濮水という川で釣りをしていた。楚の王は、大臣を二人、先に行かせ(て交渉させ)た。(大臣たちが)言うには、「できるなら、(楚の)国内について、面倒をおかけしたい(=国の政治をお任せしたい)のですが」と。荘子は、釣り竿を持ったまま、振り返りもしないで言った。「私は(次のように)聞いています。『楚の国には、吉凶を占う貴重な亀の甲があり、その持ち主だった亀は、死んでもう三千年になる。王は(それを大切に)布で包んで箱に入れ、霊廟の(祭壇の)上に置いている』と。この亀は、死んでから骨を残して敬われるのがよいか、それとも生きて、その尾を泥の中に引いているほうがよいか。」と。二人の大臣は言う。「それはどちらかといえばやはり、尾を泥の中に引いているほうがよいでしょう。」と。荘子は言う、「お帰りください。私も(これから)尾を泥の中に引きずっていたいのです。」と。

意訳

 荘子が濮水という川で釣りをしていた。楚の王は、大臣を二人、荘子のもとに行かせて交渉させた。大臣たちが言うには、「楚の国の政治をお任せしたいのですが」と。荘子は、釣り竿を持ったまま、振り向きもしないで言った。「私は、こう聞いています。『楚の国には、吉凶を占う貴重な亀の甲があり、その甲羅の持ち主だった亀は、死んでもう三千年になる。王はそれを大切に布で包んで箱に入れ、霊廟の祭壇の上に置いておられる』と。ではうかがいますが、あなたが亀なら、死んで骨になって敬われるのがよいでしょうか、それとも生きて泥の中を自由に歩き回っているほうがよいでしょうか。」と。二人の大臣は言う。「それは選ぶとするならやはり、泥の中を自由に歩き回っているほうがよいでしょう。」と。荘子は言う、「お帰りください。私もそのように自由に生きてゆきたいのです。」と。












管鮑之交   とくに芸のない普通の口語訳

 管仲夷吾(かんちゅういご)は、穎水(えいすい)近くの人である。若いころ、いつも鮑叔牙(ほうしゅくが)と交遊していた。鮑叔は管仲が賢いことを見抜いていた。管仲は貧乏で、いつも鮑叔をだましていた。鮑叔は最後まで手厚く彼に接し、愚痴を言わなかった。
 やがて鮑叔は、斉の国の諸侯の子、小白に仕え、管仲は、糾(=小白の腹違いの兄)に仕えた。小白が即位して桓公となると、(これと争った)糾は殺され、管仲は捕らえられた。鮑叔はそのまま管仲を(桓公に)推薦した。管仲は採用されてから、斉の国の政治を任された。
 斉の桓公はそのおかげで覇者となった。諸侯を集め合わせ、天下を統一して秩序だてたのは、管仲の策略によるものである。
 管仲は((のちに回想して)言った。
 「@私は以前、貧困に苦しんでいたころ、鮑叔といっしょに商売していた。その際のもうけを分配するのに多く自分で取っていた。(しかし)鮑叔は私を欲張りだとは見なさなかった。(それは)私が貧乏であることを知っていたからである。
 A(また)私は以前、鮑叔のために、ある計画を立てたが、(失敗して)さらに困窮してしまった。(しかし)鮑叔は私を愚かだとは見なさなかった。(それは)時というものには運不運があることを知っていたからである。
 B(また)私は以前、幾度か主君に仕えたが、そのたびに主君に追放された。(しかし)鮑叔は私を愚かだとは見なさなかった。(それは)私がよい時勢にめぐり合えずにいることを知っていたからである。
 C(また)私は以前、幾度か戦い、そのたびに敗走した。(しかし)鮑叔は私を臆病者だとは見なさなかった。(それは)私に年老いた母がいることを知っていたからである。
 D(また)糾が(小白(=のちの桓公)と後継者争いをして)敗れ(た時)、召忽は公子糾に殉じて死んだが、私は(捕らえられて)牢獄に入れられ恥をさらした。(しかし)鮑叔は私が恥知らずであるとは見なさなかった。(鮑叔は)私が、小さな節義(を守らないこと)を恥とせず、功績や名誉が天下に知れ渡らないことを恥と考える、ということを知っていたからである。

 私を生んでくれたのは父母であるが、(このように)私を本当に理解してくれた者は鮑叔氏である。」と。














鴻門之会(史記、項羽本紀)    超訳

    項王=項羽  范増(はんぞう)=項王の参謀  項荘=項王の従弟(項王軍の将軍)
     項伯=項王のおじであるが、張良の親友でもあり、なりゆきで、なんと前日、沛公と義兄弟の契りまで
          結んでしまった
    沛公=劉邦  張良=沛公の軍師  樊かい(はんかい 「かい」は口+會)=沛公の部下(沛公軍の将軍)


 (項羽の率いる)楚軍は、進軍しながら(次々と)秦の土地を攻略し平定してゆき、函谷関に至った。(函谷関には、沛公の)兵がいて函谷関を守っており、(項羽は、函谷関を通って関中に)入ることができなかった。(項羽は)また、「沛公がすでに(大将である自分より先に)咸陽を陥落させた」と聞き、非常に怒り、(配下である)当陽君たちに命じて、函谷関を攻撃させた。
 項羽はついに(関中に)入り、戯西《地名》に至った。沛公の軍隊は、覇上《地名》に駐留しており、まだ項羽と面会することができなかった。
 沛公の左司馬《職名》である曹無傷《人名》は、人を通じて項羽にこう言った。
  「沛公は関中で王であろうとし、(秦の皇帝であった)子嬰《人名》を大臣とさせ、珍しい宝物はすべて自分の物としています。」と。
  (それを聞いた)項羽は激怒して言った。「明日の朝、(宴を開いて)兵たちをもてなせ。(そして、兵たちの士気を高めて)沛公の軍を撃破するのだ。」と。
 この時、項羽の兵は40万人、新豊《地名》の鴻門《地名》に駐留していた。(一方)沛公の兵は10万人、覇上《地名》に駐留していた。
  (さて、項羽の参謀である)范増《人名》は、曹無傷の讒言(ざんげん)とは別に、沛公が覇上に引き返したという情報を得ており、項羽にアドバイスして言うには、
  「(かつて)沛公が山東《地名》にいたころは、金銀財宝をほしいままにし、また(女好きで)美人を好みました。(しかし)関中に入った今は、財宝にも手をつけず、女性を愛することもしなくなりました。これは(なぜそうしているのかといえば)、沛公の目的が小さくない(=大きい=天下を取ることを狙っている)からです。(そこで)私が、望気術の専門家に命じて沛公の(頭上に現れる)雲気(雲の様子=雲の色や形で、吉凶などが判断できるという)を判定させたところ、その雲はみな竜や虎の形となり、五色の美しい模様を形作っていたといいます。これは(まさしく)天子(=皇帝)の雲気です。(沛公をそうさせないために)急いで(沛公を)攻撃して(殺し)、(ここで)逃してはいけません。」と。

 沛公は翌朝、百騎あまりを従えて、項王(=項羽)に面会しようとやって来て、鴻門に至り、(項羽に)謝って言うには、
  「私め(=臣下である私)は、将軍様(=項羽)と力を合わせて秦の国を攻撃しました。将軍様は河北《地名》で戦い、私めは河南《地名》で戦いました。しかし、自分でも思ってもいませんでしたが、(私めが)先に関中に入って秦軍を破り、再び将軍様にここでお会いすることができるとは。今、つまらない者の讒言(ざんげん=人をおとしいれるための悪口)があり、将軍様を、私めと仲たがいさせています。」と。
 項王は言う、「この(私が沛公を滅ぼそうとした)ことは、沛公の左司馬《職名》である曹無傷《人名、沛公の部下》が、その讒言をしたからだ。そうでなければ、自分はどうしてこのような(沛公を攻めるという)行動に及んだであろうか。」と。

 項王は、(さっそく)その日、沛公に対する疑いが解けたので、沛公を引きとめていっしょに(和解のための)酒宴を催した。その酒宴では、項王・項伯は東向きに座り、范増は南向きに座った。沛公は北向きに座り、張良は沛公のそばに控えて西向きに座った。
 酒宴が行われている間、范増はしきりに項王に目くばせし、さらには、腰につけていた玉環(一部がとぎれている)を項王に三度も指し示した。意味するところは「ご決断を!」つまり「今こそ沛公を討つのです。」ということである。
 しかし、項王は沈黙を守り、范増の合図に応えようとはしなかった。しびれをきらした范増は席を立ち、会場から出て項荘を呼び、言った。「我が主君は残酷なことができないお方だ。そこで次のようにせよ。お前は宴会場に入り、項王の前に進み出て健康を祝し、剣舞を願い出、剣舞に見せかけて沛公を殺せ。そうしなければ、お前の仲間はみないずれ近いうちに沛公にとらえられ捕虜とされてしまうであろう。」
 項荘はそこで宴会場に入り、范増の命令どおり杯をすすめて健康をたたえる言葉を述べ、それを終えて言う、「酒宴の席でございますが、陣中のこととて、余興もございません。そこで、つたないものですが、剣の舞などご披露しとうございます。」 項王、「おもしろい。やってみせよ。」 そこで項荘は立ち上がって剣舞を始めた。項伯はそれを見るや殺気を感じ取り、彼もまた剣を抜き、舞い始め、項荘が沛公に近づくたびに自分の剣で沛公をかばい守った。そのため項荘は、范増から与えられた命令を実行することができなかった。
 その様子を見、危険を感じた張良は、その場を抜け出して、沛公の従者たちの控えている項羽軍の軍門の外にとって返した。様子を心配して待ち構えていた樊かいは、張良を見るや、言った。「主君(沛公)は大丈夫ですか。」 張良、「事態は非常に緊迫している。今、項荘が剣を抜いて舞っているが、そのねらいは、沛公を切ることにある。」 「それは一大事だ。俺は、我が主君と生死をともにするぞ。」 言うが早いか、樊かいはすぐに剣を腰につけ、盾をかかえて項王軍の陣営に飛び込んでいった。
 ほこを交差させて陣を守っていた番兵たちは、突然の乱入者に驚き、彼を制止して入れまいとした。樊かいはその番兵たちを、盾のへりで突いた。番兵たちは一突きであっけなく地面に倒れた。
 樊かいはそのまま会場に入り、テントの布を押し開けて西向きに立ち、恐ろしい顔つきで項王を睨みつけた。髪の毛は逆立ち、目じりは裂けるほどのすさまじい形相であった。項王はとっさに片ひざを立てて応戦態勢をとり、刀の柄(つか)を手でつかんで言う、「お前は何者だ。」 張良が樊かいに代わって答える。「沛公の護衛の者で、樊かいと申す者でございます。」。項王は応戦態勢を解いて言う。「なかなか勇ましい奴。この者に大杯についだ酒を与えよ。」 そこで、一斗(一中国斗=約二リットル)の酒を与えた。樊かいは礼をして立ち上がり、立ったままでこれを飲み干した。再び項王、「この者に豚の肩肉を与えよ。」 そこで樊かいにひとかたまりの生の豚の肩肉を与えた。樊かいは盾を地面に伏せて置き、豚の肩肉をこの上に乗せ、剣で切り裂きながら豪快に食った。項王、「まことに勇ましい奴。もっと飲めるか。」
 樊かいは言う、「私め、死ぬことすら怖がるものではございません。まして酒ごときいくらでも飲んでみせましょう。しかしそれはそれとして、お聞きください。そもそも、秦王は虎や狼のように残忍であり、数えきれないほど人民を殺し、処刑しきれないほど、人民を処刑しました。ですから天下の民は皆、秦王にそむいたのです。今回、我らが楚の懐王は将軍たちと約束して、『まっ先に秦を破って(秦の都)咸陽に入った者は、この者をその地の王としよう』と言われました。そして今、沛公がまっ先に秦を破って咸陽に入りました。ですから、沛公がその地の王となるべきところです。しかし実際は、咸陽城の金品財宝など少しも近づけないで、咸陽城を閉ざし、引き返して覇上の地に待機し、そして項王様の到着をお待ちしていたのです。王様の指示を仰ぐためでございます。さらに、函谷関を閉ざしたことについてのお疑いがありましたが、私たちがわざわざ兵を送って函谷関を守らせたのは盗賊どもの出没や非常事態とに備えるためでございます。
その労力は大変なもので、功績の高いことは先ほど述べたとおりであります。それにもかかわらず、沛公はまだ諸侯に取り立てていただくという恩賞をいただいてはおりません。そのうえ、つまらぬ者の告げ口をお聞き入れになり、今このように功績の高い沛公を殺そうとなさっておられます。このようなことをなさっては、項王様こそ、暴虐をはたらき滅んだ秦国の二の舞いとなるだけでございます。そのようなわけで、今しようとなさっていることは、僭越ながら、大王のために賛成しかねます。」と。
 項王はそれについてしばらく何も答えなかった。代わりに言った。「まあ、すわれ。宴席に加えてやろう。」 樊かいは腰かけた張良のあとについて横にすわった。しばらくすわっていた後、沛公は便所に立ち、その帰りに宴会場の外から樊かいをそっと手招きし、そして、その場からの脱出に成功した。
















山月記 冒頭部   超訳(播州弁バージョン)

 隴西出の李徴さん(隴西の李氏ゆーたら名門の一族で、家柄のブランドやねん)は、なんでもよー知っとって頭もよーて天才や、ゆーて評判で、天宝年間の終わりごろ、若いのに一番難しい国家公務員の試験に受かって、そのあと、江南地方の警察官に任命された。そやけど、頑固で人と協調してやっていこうゆー気なんかまるでないのと、プライドがめっちゃ高いのとで、下っぱの役人なんかでは全然満足せんかった。
 そやから、なんぼもせんうちにやめてもた。なんでかゆーたら、役人ゆーても下っ端やから、いっつも程度の低い上役の言いなりにばっかりなっとかなあかん。それより、有名な詩人になって、死んでからもずーっと名前を残そ、思たからや。そいで、故郷のかく略に帰って、人とはまったくつきあわんと、明けても暮れても漢詩ばっかり作っとった。
 けど、詩人として有名になるゆーのもたいていやない。お金もなくなってくらしはだんだん苦しなっていった。
 李徴さんは、その時分になって焦ってきた。
 このぐらいから、その表情も暗うこわーなって、ほっぺたの肉も、むちゃな減量した力石徹みたいになくなったもんやから頬骨だけ目立つようになって、目つきばっかりぎらぎら鋭うなって、ああ悲しいことやねぇ、昔、国家公務員の試験に受かった時分の、あの、じょうずに炊けたこしひかりのごはんみたいにふっくらつやつやしたほっぺたの美少年の姿は、もう見る影もなかった。
 何年か経ったけど、貧乏すぎてこらもうあかんゆーて音をあげて、妻子を食わせるために(妻子がおったんやな、もっと早うもうちょっと楽なくらしさせてやったらえーのにな)、やっと妥協して、また都へ行って、まあなんとか地方公務員の仕事がもらえた。
 でもな、これは半分は暮らしのためやけど、もう半分は、自分が詩人の才能ないんちゃうかゆーて半分あきらめかけとったからでもあるんや。
 昔、いっしょに国家公務員になった仲間は、あたりまえやけど、もうずーっと高い役職になってて、李徴さんが昔「なんちゅーにぶいやっちゃ」思てぜんぜん相手にもせんかったやつらの言うことを「ははーっ」ゆーて聞かなあかんかったことは、昔秀才や天才やゆーてもてはやされた李徴さんの自尊心をめちゃめちゃ傷つけた。
 李徴さんは、ますます陰気になって何してもおもしろない。あやしーてわがままな性格はますますどないもならんよーになっていったんや。
 一年後のことや。仕事で出張中、汝水ゆー川の近くに泊まってた時、李徴さんはついに気が狂てもた。
 ある日の夜中、急にこわい顔してベッドから起き上がったか思たら、なんかわけの分からんこと、わーわー言いながら、そのままベッドから飛び降りて、まっくらい闇の中へ走り出した。
 李徴さんは二度と帰ってこんかった。近所の山や野原を探しても、なんの手かがりらしいもんもなかった。
 さー、そのあと、李徴さん、どないなったか、知っとーもんはだれもなかったゆーことや。








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