傾国

黒と緑が契約する

 薄闇に沈むような、ほとんど黒に近い凝った色を撫でる。それは金属の感触ではなく、なめらかではあったが、爬虫類の肌に印象が似ていた。冷たくも暖かくもない、奇妙な温度が指先に伝わる。それは不快なものではないが、ぞっとさせる雰囲気があった。
 落ちていく陽光を浴びて光るその表面に手を当てたまま、ルルーシュは無意識のうちに呟いた。
「小型なんだな」
「不満か」
「いいや」
 C.C.の問いに即座に否定を返し、ルルーシュは濃色を細めた。
 彼が見上げる先に、魔女の艦があった。ブリタニアで規定されているナイトメアよりも一回りほど小さいが、人間と比べれば巨大であることには変わりない。それは、濡れた土をそこここに付着させたまま、鰐が沼から這い上がるように、陸上に腹を転がしていた。
 曲線と直角が奇妙に混じり合った、平面をそのまま三次元に持ち出したような不安感を煽る輪郭線は、その手触りと同様、生きもののようだ。入り口や砲門が見あたらないくせに、甲殻類のパーツの継ぎ目のような隆起がそこここに見られ、ますます生きものめいている。大気圏内での抵抗を考えてか添えられている翼のような二本の突起だけが、かろうじて、ブリタニア製のナイトメアとの相似を感じさせた。
「壊れているのか?」
 妙な生々しさが、ますますその艦の不気味さを増している。ルルーシュは艦から身を離し、数歩後ずさって距離を置いた。夕闇の中で再び見た全体像は、やはり、ブリタニアのナイトメアを見慣れた彼には違和を感じさせた。
「いや、少し疲れているだけだ」
 眼を細めて、C.C.は自艦を見つめた。そこには情愛はなく、無造作だった。それを見たルルーシュは、改めて、人間と彼女らの種族差に気づかされる。ブリタニアの騎士たちは、自艦に深い愛情を抱く者が多い。しばしば、それによって身を滅ぼす人間もいるほどだ。しかし、少なくともC.C.は、そのようなタイプではないらしかった。
 それにしても、彼女のナイトメアの扱いは乱暴すぎた。これでは、どこかに異常を来して不時着したとしか思えない。
「まだ充分に動くぞ」
 そう言ったC.C.を、ルルーシュは不信感を顕わにして見た。
「…本当に動くのか?」
「なんだ、まだ疑っているのか」
 C.C.は平然として答える。ルルーシュには、その神経が信じられなかった。ナイトメアがいかに強固につくられていると言っても、精密な検査もなしに、沼地に無造作に放置されていたものにそうそう乗ろうとは思えない。何せこれは、宇宙空間での激しい戦闘に使用されるものなのだ。
 彼の様子を見て、C.C.は嫌そうに口元を曲げた。
「問題ないと、何度言えばわかるんだ」
「場所が不自然すぎる」
 自分の足下を見下ろし、ルルーシュは肩をすくめた。
 そこはルルーシュの屋敷がある惑星の、未開発の湿地帯だった。正規の星間交通用の発着場でないどころか、人間に使用されてすらいない場所だ。事故でもない限り着地しようなどとは思いつかないだろう地形である。もっとも、着地しようとしたとしても、惑星政府からは拒否されるだろう。一つ間違えば周囲の森林が焼け、大災害に発展する。
 本来なら、宇宙艦は地表からの誘導なしに着陸することは禁じられているのだ。ナイトメアはその限りではないが、いかな騎士たちでも、なんの設備もない場所に降り立とうとはしない。よほどの緊急事態でない限り、発着管理施設に届け出た時点で却下され、誘導を受けられずに往生することになる。
 しかし、魔女の艦は、大気圏を通過するのに、ブリタニアの現行のナイトメアほどの設備を必要としないらしかった。おそらく、監視システムの網をくぐって、このような場所に潜り込んだのだ。
 彼女のように他の魔女たちもブリタニア帝国圏にやってきているのだろうかと考えると、ルルーシュは落ち着かない気分になった。人間は、いまだ魔女たちの文明圏を見つけられずにいるのである。
 その正体不明の魔女の一員、C.C.は自艦の薄汚れた腹を見て、小さな爪先でそれを軽く蹴った。
「…宇宙船は怪我をしないからな」
「傷はつくぞ」
「細かい男だな」
 鬱陶しげに顔を歪める女の小柄な身体は、一見無防備である。白い服に身を包み、その身体の形を示すラインからは、何かの武器を携行しているようには見えない。しかしどうやらその格好で、彼女は獰猛な野生動物が横行するこの森を抜けたらしいのだ。体術に長けているとは思えないが、何か人間にはない力でも使ったのだろうかと、ルルーシュは疑っていた。
 ルルーシュが異人種に向ける無遠慮な目でじろじろと見つめていると、何を思ったのか、C.C.は不意に、彼の手を取った。
 小振りな繊手の上に、淑女のように手の甲をさらされ、ルルーシュは不審げな目で彼女を見る。同室に寝起きする間でさえ、戯れにも、女として媚びるような真似をしたことのないC.C.である。これが色めいた感情ゆえの行動とは思えなかったが、柔らかい肌に、ルルーシュは少し落ち着かない気分になった。
「なんだ」
「契約だ」
「何?」
 ルルーシュは眉間に皺を寄せる。脳よりも先に身体が警戒して、身構えた。
「魔女の契約は、いらないんじゃなかったか」
 C.C.は唇の両端を持ち上げ、不自然な笑みをつくった。金色の双眸が鈍く光を溜め、吸い込んでいく。
「そうだ。だが、元来この船は、人を乗せるためのものではないからな。おまえが乗るには、接続のためのマーキングが必要になる」
「マーキングだと?」
 尊厳も何もあったものではない言葉に、頬が歪む。
「刻印。わかりやすく言えば、家畜への焼印だな」
 息をのみ、咄嗟に逃れようとする腕を、細い指が握りしめた。そこに込められた異常な力に、ルルーシュは戦慄する。いくら貧弱なルルーシュであっても、自分よりも小柄な少女から逃れることができないはずがない。それは、彼女がはじめて明確に見せた、人間と魔女との差異だった。
「はなせ…!」
「怖じ気づいたか」
 低く嘲笑ったC.C.は、そして断りもなく、何かをした。
 ルルーシュは身体を跳ねさせた。魔女の指の熱がふれる皮膚のすぐ裏側を、異様な感触が這い上る。ぐ、と情けなく喉が鳴る。平衡感覚が消え失せ、周囲の景色が消えた。蒼いうねりが質量を感じさせずに巨大な虚ろを巡り、ルルーシュの意識を取り囲む。
 左目に、熱を感じる。
 そのまま脳に焼ける道を拓かれた。痛みよりもただ怖気が感じられる。悲鳴を押し殺して、ルルーシュは目を閉じた。こめかみにふつりと汗が浮き、すぐにぐっしょりと髪を湿らせた。
「がっ、……」
 訪れたひときわ大きな波に、全身が緊張し、喉の奥から胃液が逆流した。手で押さえる暇もなく、ルルーシュはえずく。鈍い衝撃が身体に伝わった。急に饐えた臭いが鼻孔をついて、それから逃れようと無意識に身体を動かし、そこでようやく、自分が地面に伏していることに気づいた。黒い土が視界に入る。
 やがて、少しずつ違和感が遠のき、呼吸が正常に戻っていく。判断力が、身体の不調よりも先に回復し、自分の吐瀉物の上に倒れることにならないでよかったと、妙なところでルルーシュは安堵した。
 冷たい影が自分に覆い被さり、ルルーシュは瞳を動かした。
「…どうだ? 調子は」
 僅かに暗くなった夜空を背負って、C.C.がおもしろそうに、彼をのぞき込んでいた。自分に記憶があるよりも長い間、意識を失っていたらしい。彼女に言いたいことは多くあったが、口を開くのが億劫で、ルルーシュはただ、水気を含んだ双眸で睨みつけるだけにとどめた。
 みっともない姿をそれ以上さらすのが嫌で、ゆっくりと上体を起こす。汗を掻いた肌はひどく冷えていて、風にたやすく縮こまった。爪の間に入っていた泥土を不機嫌に落として、それ以上はまだ身体が動かせないことに舌打ちする。服の袖で顔についた汚れを拭うと、ルルーシュは気を取り直して尋ねた。
「この艦の名は?」
 C.C.は肩をすくめた。
「私の艦だ。…必要なのか?」
「名無しでは困るな」
 ルルーシュは目を細める。魔女の正式な地位がブリタニアに用意されていない今、騎士として登録するしかないが、C.C.には騎士資格がないため、それを得させる必要があった。とは言え、ただの異邦人にそう簡単に資格は降りない。スザクのときのような禁じ手ももう使えないとなれば、いっそう煩雑な手続きをしなければならないのだ。
 それをクリアしたとしても、どうせ騎士登録の際には、氏名年齢所属をはじめとしたプロフィールのうちには、戦艦名も書くことになる。
 C.C.は、愛機に執着はないという姿勢を崩さなかった。
「おまえが決めればいい」
「ではギアスにしよう」
 ルルーシュはあっさりと答えた。自分で驚くほどに、その言葉は意識しない場所からやってきた。
 C.C.の髪と同色の眉が上げられた。
「…なぜ?」
「そう聞こえた気がした」
 言ってから、それが先ほどと同じで、自分の理性から発されたものではないことに、ルルーシュは気づく。操られたような感覚に、治まったはずの吐き気が再び舞い戻ってくるのを感じた。支配されるまいと、奥歯を強く噛みしめる。
 適性は充分だな、とC.C.が呟いた。
 頭を振ると、ルルーシュは努めて、違う方向へ意識を向けることにした。髪から土と草が落ちて服につく。それを神経質に手で払って、傍らに佇む女に声をかけた。
「おまえ、俺の妻と娘、どちらがいい?」
「は?」
 そのときのC.C.の顔は見物だった。逆光でぼやけていたのが惜しいくらいだった。その小さな口が、ピザを食べるとき以外でそんなにも大きく開いたのを、ルルーシュは見たことがなかった。
「貴族位でもなければ、いきなり騎士にはなれん。となれば、俺の籍に入れるしかないからな」
 C.C.はしばらく沈黙してから、肩を落として唇を曲げた。
「妹にでもしておけ」
「なぜおまえを妹にしなければならないんだ」
 妹とはかくあるべしという理想型に、彼女はまるでかなっていない。ルルーシュは心底からの嘲笑に鼻を鳴らした。
「だいたいおまえ、俺よりも相当年上だろう」
 魔女はむ、と唇を尖らせた。
「そんな整合性にかまってどうする。それにそう言うなら、娘だっておかしいだろう」
「とにかく、妹はだめだ。妻か娘か、どちらかだ」
 頑として主張すると、C.C.は、ルルーシュにはじめて見せる表情をした。だが残念ながら、彼には、その表情がどんな感情を示しているのかはわからなかった。
 十数秒沈黙し、うぐ、と小さく唸ってから、彼女は声を絞り出した。
「…しばらく考える」
「考えるようなことか?」
 奇妙な様子のC.C.を一瞥して、ルルーシュは立ち上がった。どうにか身体は動いて、自力で歩くことはできるようだ。しかし、普段通りの心地で一歩踏み出したところで、彼は情けなくもよろけ、再び動きを止める羽目になった。舌打ちする。もう一度足を動かすと、今度は思い通りに身体を支えることができた。
 その様子を見て、C.C.は気を取り直したようだった。いつもの皮肉げな笑みを口の端に上らせる。
「さて、では初披露と行くか」
 彼女が首を巡らせると、その視線の先で、平坦な表面に赤い鳥のような文様が浮いた。かと思うと、突如無数の四角いブロックが現れる。それらは中空を支えもなくスライドし、パズルのように入り口が出現した。
 ブリタニア製の艦であれば必要な操作、端末と通して艦へ指示を伝えることを、彼女は一切行わなかった。ルルーシュは薄気味悪く思い、確認した。
「…これは、おまえに頼まないと開かないのか?」
「いいや、おまえでも開く。そのための契約だ」
 左目の下瞼を人差し指でとん、とついて、C.C.は薄く笑みを浮かべた。
 自分が許可もなしに魔女式の手術をされたことを悟り、ルルーシュは苦い思いに口を曲げた。人間と魔女との違いを、この数十時間で何度味わわされたことだろう。それでも、奇妙なほど、彼女との契約を後悔する気持ちはなかった。もしかしたらその感情さえ、すでに魔女の支配のもとにあるのかもしれなかったが。
 C.C.の後に続いてその未知のナイトメアの内部へと進みかけ、ルルーシュは少しためらった。
「…C.C.」
「なんだ?」
 彼を置いてとうに通路に歩み出している女が振り返り、訝しげな顔になる。
「この艦に、俺以外の人間が入ったことはあるか?」
「嫉妬か?」
 即座に返ってきた、笑いを含んだ答えに、ルルーシュはきょとんとして彼女を見た。それから徐々に不機嫌な顔になり、低い声で呟く。
「…なぜそうなる」
「ふん。…あるに決まっているだろう」
 C.C.は吐き捨てると、さっさと来いと言い残して、奥へと去っていく。その小さな後ろ姿をルルーシュは見送り、俯いた。視界には、いまだ地面に突っ立っている自分の足が見える。それを無様に感じた。形容しがたいおかしさと腹立たしさが、腹の底からこみ上げてくる。
 仄暗い笑みを口角に乗せ、眉間に力を込めると、彼は仄暗い艦内へと足を踏み入れた。