傾国

会議室にて

 スザクは空いた会議室の窓辺に座っていた。仄暗い紫の空を透かすガラスに、白いパイロットスーツのままの姿が映っているが、その表情は窺えない。背筋は真っ直ぐに伸びていたので、彼が起きていることはわかった。
 開け放たれたままのドアの外から、ユーフェミアはその背中を見つけ、安堵して足を速めた。
「ユーフェミア殿下」
 歩み寄る最中に、彼女に気づいた彼は、機敏に立ち上がり、跪いた。その仕草は、優雅というよりは清々しく、案外堂に入っている。
 並んだ椅子の間に潜むようにして蹲ったスザクの前へ、ユーフェミアは急いで向かう。行く手を邪魔するものがもどかしかった。はしたなくドレスの裾をつかみ、それでも足首はさらさない程度に留めて、頭を垂れた前に立った。ドレスの裾が、柔らかく床に触れる。
 努めて穏やかに、腰の前で手のひらを重ねると、ユーフェミアは教えられた名を呼んだ。
「スザクさ…スザク」
「は」
 押し殺された甘い声が短く応える。自分の呼びかけに言葉が返ることが嬉しく、ユーフェミアは微笑んだ。
「ええと、長い時間、ご苦労さまでした。ゆっくり休めましたか?」
「はい。お心遣い、ありがとうございました」
 スザクはかすかに首肯する。茶色い髪が揺れた。
 約38時間、ひたすらランスロットを飛ばし続けたスザクは、目的地に着いてからも疲れを見せず、ユーフェミアが休憩を取るように勧めても、困ったように突っ立っていた。それに焦れたのか、ナイトメア操縦規定だと言って、コーネリアから借り受けた護衛たちが、彼を強制的に休ませた。
 スザクはそれに従ったが、その前にと、懇願して一度、星間通信に接続した。しかしそれは繋がらなかったらしく、悄然とうなだれたまま、彼は仮眠室に押し込まれた。
 ユーフェミアはその後、会議に出席したため、彼がどういう待遇を受けたのか知らなかった。しかしスザクの言からして、それなりに休むことはできたらしい。
「ユーフェミア殿下こそ、あまりご休憩もとられず、お疲れでしょう。自分のことなど気にせず、どうぞゆっくりお休みください」
 スザクは硬い声で言う。それが少し哀しく、ユーフェミアは眉を寄せる。
 疲れているのは事実だった。スザクのナイトメア、ランスロットは、まさしく戦艦で、皇族のための艦としては極端すぎるほど、もてなしの設備がなかった。皇族用の個室でさえ、設備は、シャワー室と冷蔵庫と、強制スリープ装置がついているだけの硬いベッドしかなかった。ユーフェミアは、護衛たちの衝撃的な発言と、会議への緊張と、寝心地の悪さ、すべての理由から、結局ほとんど眠れなかった。
 道楽者のつくったナイトメアは、ときに娯楽のためにビリヤード室やカード室が据えられていることも珍しくないという。そこまでは必要ないが、ランスロットを旗艦にすることになるなら、もう少し自分に向けた内装を充実させてもらわなければと、ユーフェミアは考える。自分には、戦力としてのナイトメアは必要ではないのだ。
 そこで彼に会いに来た理由を思い出し、ユーフェミアは切り出した。
「あの、スザク。あなたのお話をしましょう」
「……」
 無言のまま、スザクはますます低頭した。彼の表情が完全に見えなくなる。
 顔を上げろと命じようとして、それもおかしいとためらい、ユーフェミアは仕方なく、その茶色い髪に話しかけた。
「騎士の件ですが」
「…はい」
「実は、私も、姉から… あ、あなたを私の騎士に任じたのは、姉のコーネリアだと思うのですが、ええと、私も、姉からあなたのことを聞いていなかったんです」
 道すがらまとめておいた、伝えておかなくてはならないことを、ユーフェミアはつっかえながら思い出す。感情を無視して事実だけを話すのは、もともと直情的な彼女にとって、ひどく難しかった。
「姉は…家臣はだめですけれど、騎士は、私に決めさせると、いつも言っていました」
 ユーフェミアの同腹姉、第二皇女コーネリア・リ・ブリタニアは、第四皇位継承者である。士官学校に籍を置いたこともあり、有能な軍人としても名高い。皇族でもっとも武に秀で、帝国でもっとも地位の高い女性だ。
 それだけが理由ではないが、彼女の言うことに、ユーフェミアは逆らえなかった。姉の栄光を分け与えられて皇位継承権を得ている彼女には、そんな権利はないのだ。
 本来なら皇位継承者には、騎士とは別に、家臣団を構成する特権がある。
 家臣団、つまり貴族の派閥は、騎士とは異なる皇族の手だ。皇族に仕えその利便を図るという点では、騎士と家臣は存在意義を同じくしているが、絶対的な立場を背負う騎士とは違い、家臣の忠誠は流動的で、常に駆け引きの上に成り立っている。貴族たちは、家臣の額縁を得ることで、内外にはっきりを去就を示すことになる。
 これも騎士とは違い、家臣には、数に制限がない。もともと皇位争いについては、戦場と己の身辺のために頼る騎士ではなく、どれだけ有用な家臣たちを集め、支配し続けられるかが重要になってくる。そのため、皇族のうちには、第二皇子のように、家臣を縛りつけるためだけに、彼らに騎士資格を与えて騎士とする者もいた。貴族は、功績を立てることで、ナイトメアフレームの操縦技術が本来の規定に満たなくても、騎士位を下賜されることがある。第二皇子はその形骸化していた制度を動かし、有能な人材を手元に留めていた。
 だが結局、どのような形であろうと、家臣を望み売り込む権利は貴族側にあり、家臣を選び定める権利は皇族個人にある。
 しかしユーフェミアは、自分の家臣を、コーネリアの意思によって決められていた。それがコーネリアにとって得になることなのか、彼女にはわからなかったが、自分が皇女であると意識したときにはすでに、家臣たちは彼女を見向きもしなかった。彼らは彼女にではなく、彼女の姉に跪いているのだから、それが当然なのだろう。
 それについて、不満を持たないわけではない。しかし、コーネリアが妹を慮ってそれをしていることも、ユーフェミア個人につく家臣がいないであろうこともわかっていた。だから、ユーフェミアは何も口出しできなかった。
 それにコーネリアは、騎士はおまえがおまえのためだけに選べと、そう言ったから、それだけでも恵まれているのだと、自分に言い聞かせていた。
 それなのに、枢木スザクをユーフェミアの騎士になったことを、ユーフェミア自身は知らされていなかった。それは、妹として知るコーネリアの性格からすれば、奇異なことだった。
「…姉があなたを選んだのは、どうしてかわかりません。その、あなたの操縦技術は、とてもすばらしいものだそうですね? でも、それだけではなくて、お姉さまには、何か、お考えがあるんだと思うんです。あなたを騎士にすることに、何か…」
 言い募りながら、少しずつ混乱してくる。実際にはユーフェミアとしては、姉が何か打算あってスザクを自分の騎士にしようとしたとは思えなかった。コーネリアから騎士の任命権を、口約束とはいえ渡されたとき、彼女の顔には偽りはなかったのだ。
 直接会って問うこともできる。しかし、姉がどれだけ真実を口にしているのか、彼女には判断できる自信がない。
「…ですから、お姉さまの目的がちゃんとわかるまで、私は正式には、あなたを騎士とは認めることができないと思います」
 そこで、少し息をつく。本当に言いたかったことは、その先だった。
 腰の前に置いていた手を、握り合わせ、ぐっと力を込める。
「でも、私はあな」
「ユーフェミア殿下、」
 用意した言葉を一気に言おうとしてくじかれ、ユーフェミアは、きょとんと目を見張った。
「…はい?」
 首を傾げる。
 その前で、スザクはいつの間にか、顔を上げていた。そこには明るい笑顔が浮かんでいる。まだユーフェミアがユフィとだけ名乗っていたときに見せていた、負っていたものを下ろしたような表情だった。
 つられて自然に笑んだユーフェミアに、彼は穏やかな声で語りかけた。
「そう言っていただけて安心しました。実は自分は、ある人と約束をしているんです」
「……約束?」
 ユーフェミアは瞬く。その単語と、今の自分の言葉が、どうつながるのかわからない。
 少しくすぐったそうに、スザクは目を細めた。
「はい。その人の騎士になると」
「…え?」
 視界がぼやけ、ユーフェミアは口を軽く開いた。
 思わず漏れ出た間の抜けた声に、彼女自身が驚き、恥じた。スザクはそれを、慎ましく聞こえないふりをしたのか、それとも聞き取らなかったのか、無反応だった。
 それに眉をひそめ、ユーフェミアは何度か瞬いたが、視界には靄がかかったままだった。彼女は困惑し、力の抜けた腕を上げて耳にかぶさる髪を掻き上げようとした。そして、スザクがまだこちらを見ていることに気づいてやめる。
 彼はユーフェミアと目が合ったことで、自分が顔を上げていたことに気づいたらしい。素早く俯くと、呟くように話し始めた。
「…あの、自分にはまだ、力もなくて、今回は幸いにも旗艦を得られましたけれど、名誉ブリタニア人ですし、一兵卒ですし、人脈や政治力があるわけじゃなくて、ナイトメアの操縦以外には、騎士として取り柄のない人間です。けれど自分は、その人の騎士になると、その人に言ったんです」
 その声は低く床に落ち、聞き取るには耳を澄ませなければならなかった。聞きたくもないのに、と、遠く思う。
「もしかしたらもう向こうは忘れているかもしれないのですが、でも」
「わかりました、スザク」
 上擦った声で、ユーフェミアは遮った。
 自覚できるほど、声が震えている。スザクが気づいて驚いたのではないかと、そればかりが気にかかった。ユーフェミアは一度大きく息を吸い、動揺を表に出さないよう、腹に力を込める。腹の前で組んだ両手を、きつく握りしめた。
「…あなたのその志、尊く思います。騎士登録はまだ完了していないはずです。お姉さまには、私から断りを入れておきましょう」
 従順に沈黙していたスザクの、肩が降りた。それを見たユーフェミアは、彼が見た目以上に緊張していたことを悟った。そのことにも、ひどく衝撃を受け、ユーフェミアはうなだれる。
「ありがとうございます、ユーフェミア殿下。勝手なことを申し上げて…」
「いいえ、謝らないでください。騎士にも、主を選ぶ権利が許されています」
 吹けば飛ぶような儚い権利ではあるが、ユーフェミアはそれを、スザクから取り上げる気にはなれなかった。
 彼が視線を落としているのを確認し、そっと両腕を上げた。頬を押さえると、汗の滲んだ手のひらよりも、少しだけ熱い。そしてその熱が、すうっと引いていくのを感じた。
 ぐっと目を瞑ってから、再び開けて手を下ろすと、ユーフェミアは問いを落とした。
「あの、スザク、聞いてもいいですか」
「はい。何なりと」
「では、どうぞ、顔を上げてくださいな」
 少し肩を揺らしてから、スザクは窺うように目を見せた。
 上品ではないという気がしたが、それを知りたいと願う思いを、ユーフェミアは止められなかった。
「あなたが仕えようという皇族は、私の知っている方ですか?」
 できるだけさりげなく尋ねたつもりだったが、緑の目に警戒の光が宿るのを、不運にもユーフェミアは見てしまった。胸が絞られるように疼き、漏れかけた呻きを堪えるために、喉の奥を閉じる。
 スザクは不安げに、隠すように瞼を伏せた。唇が、ためらいがちに何度か開閉する。
「あ…それは…」
 おそらくは主の処遇を気にしてだろう、哀れなほどにうろたえる様子を、それ以上見ていられなくなり、ユーフェミアはそっと唇を湿した。先ほどのスザクのように、ゆっくりと肩を落とし、息を吐く。その音に、スザクが少し反応する。ユーフェミアは慌てて取り繕った。
「…いいわ、いいです、スザク。その方に嫉妬してしまいそうですもの」
「お戯れを」
 途端、スザクが安堵した顔になるのを見て、ユーフェミアは寂しく笑った。
 今さらながらに、旅程と会議の疲れが思い出され、どっと身体が重くなる。もう何時間も、まともに睡眠を取っていないのだ。他の皇女たちに比べれば、体力には少しは自信があったが、温室育ちを自認しているユーフェミアは、この会議のために体調管理には気をつけていた。そのための緊張状態が、意識せずとも疲労として溜まっていたのだろう。
 すべてを投げ捨てて柔らかいベッドに籠もってしまいたいと思いながら、それでも重い口を開き、ユーフェミアは冗談めかして笑った。
「…ふられてしまいましたね。私、自信がなくなってしまいました」
「そんな。殿下はすばらしい方です」
 スザクは微笑む。大きな緑色の双眸が柔らかく和む。本心からそう言っているのだと、彼の率直な瞳は告げていた。
「きっと、たくさんの人が、殿下に仕えたいと願うと思います」
「…ありがとう、…スザク」
 ユーフェミアは、それだけしか言えなかった。