傾国

緑光

2017 a.t.b 18/03 14:57

 静かに絨毯を踏む音が、扉の向こうを遠ざかって行った。C.C.は乱れたシーツの上を泳ぐように身じろぎ、上体を軽く起こした。
 しばらくして、唐突に扉が開く。妹に接していた柔らかさの名残を目元にまとわりつかせたまま、ルルーシュが立っていた。だらりと寝そべるC.C.の姿を見とめて、目尻が吊り上がる。険しい声で命じた。
「片づけろ」
 C.C.はそれには答えなかった。枕の上に置いていたピザの箱をどかせ、わざとらしいのんびりした声を出す。
「おい、さっきから、騒がしいようだったな。何かあったのか」
 この部屋にまで届いたのは、何か大きなものを動かす音と、その後の、自動車の発進音だけだった。さすがにそれだけでは、この屋敷から何かを運んだのだろうということ以外、何が起こったのか知りようがない。
「…うるさい、押しかけ居候」
 下瞼をひくつかせ、ルルーシュは苛立たしげに吐き捨てた。
 白い手が乱雑に動き、鋭角的なデザインのジャケットを脱いで、床に叩きつける。どうせ、それを拾い、皺を伸ばしてハンガーにかけるのは彼自身である。C.C.は呆れて、その奇行を見守った。この男は、悪知恵は働くが、感情表現は子供のままだ。
 思い出す一人の子供を胸に、C.C.はルルーシュを眺めた。
 彼は、白いシャツに黒いスラックスを合わせただけの、簡素な服装である。その生地も、ごく一般的なもので、それだけをとれば、彼を皇族だと思うものはいないかもしれない。
 しかし、その品と華のある動きは、彼の血族の地位の高さを偲ばせた。事実、彼の指先を見て、C.C.はルルーシュに目をつけたのだ。
 もう、三週間も前のことだ。
 路頭に迷っていたところを、C.C.は、雑踏の中を歩いていたルルーシュに狙いをつけた。彼を選んだ理由はいくつかあるが、一番のものは、身のうちから出る雰囲気が、もっとも裕福そうに思えたからである。強攻策であれ懐柔策であれ、そういう人間から金品を奪うことには慣れていた。
 話しかけると、彼はうろんな目で彼女を見返してきた。
 その傍らには連れがいて、人の好さそうな少年は、腹の音を響かせたC.C.に同情し、何かを奢ろうと提案した。しかしルルーシュはそれを断固としてはねつけ、少年は申し訳なさそうに何度も振り返り、そして連れの目を盗んで、彼女に財布を投げて寄越した。財布には、そこそこの厚みと重みがあった。
 その数秒後、ルルーシュだけが戻ってきて、感心して見送っていた彼女から財布を取り戻した。そして代わりに、ピザの無料券を五枚ほど押しつけた。街頭で配られているのではなく、支店で買う食券のようなもので、多少安上がりになるが金に戻すことができない。おそらく、ルルーシュがわざわざ購入したものだろう。
 彼は無言でその一連の行動を行うと、颯爽と踵を返して去っていった。彼の行く先にはうなだれた少年がいて、ルルーシュがその元へ辿り着くと、ごく自然にまた連れだって歩いていった。
 あれはなかなかおもしろい見物だったなと、C.C.は回想する。
 それから数日後、彼女はルルーシュと再会した。
 そのときも、やはり、C.C.は腹を減らせていた。ルルーシュは、今度は一人で歩いていたが、彼女を見て嫌そうな顔をし、腹の音を聞かされて、さらに眉を寄せた。連れがいなかったためか、その表し方は露骨だった。しかし、彼は、不意に消えたかと思うと、なぜかまた、ピザの無料券、それも今度は十枚綴りのものを渡してきたのである。非常に不愉快そうではあったが。
 カモだ、と思った。
 雛のようについてきたC.C.を彼は邪険に扱ったが、結局、放り出すことはしなかった。
 ルルーシュは、自室に招き入れた彼女を、うっかり拾ってきてしまった猫のように遇し、屋敷の他の住人にその存在が知れることを恐れていた。自分がらしからぬ行動をとっていることを自覚していたのだろう。食事はC.C.が勝手に奪い取るか、もしくは人目を盗んで差し入れられた。急な来客に、寝台の下に潜んだ経験もある。
 不快なことがまったくないわけではないし、予想していたよりも、彼は締まり屋だったが、それ以外では、今のところ快適な環境をもぎ取ることに成功している。C.C.はこの生活が、そこそこ気に入っていた。
 しかし、ここ数日、屋敷の主の様子はおかしかった。
 しばらくは驚くような上機嫌で、C.C.に何か買ってやろうかとまで言ったのに、翌日の昼過ぎには、別人のように消沈していた。C.C.が服を破いても、コップを割っても、何も言わず、鬱陶しげな目で見てきただけである。
 盗み聞きにさほどの苦労を要しない彼女には、その間にルルーシュがかけ続けていた電話や、彼の妹と世話係の女の会話などから、もうだいたいの事情はつかめている。
 しかし、それをストレートに切り出したりはしない。普段通りの無表情を装って、嘯いた。
「ああ、そう言えば、クルルギスザクはどうした? 近頃見かけないな」
「……」
 睨みつけようとして、ルルーシュは失敗したようだ。彼は黙ったまま瞼を伏せた。白い歯が、薄い唇を噛んだ。その容貌は、憂いに沈む美姫のようだったが、紫の瞳の奥に揺れた感情は、とても無垢とは言い難かった。
 C.C.は鼻で笑った。
「ルルーシュ、おまえ、騎士に振られたのか」
「…黙れ」
 ルルーシュは低い声を出したが、生憎、もともと甘い声の持ち主である彼が凄んでも、C.C.は一向に恐怖を感じない。今は情けなく歪んだ顔もあって、いっそ哀れを誘う。
 C.C.はついに、確証を手に入れた。
 枢木スザクは、もう、この屋敷にはいない。そしておそらく、戻っても来ないのだろう。
 ルルーシュは淀んだ瞳で口を開いた。
「スザクは…俺の騎士じゃなかった、もともと」
「そうだな、もともと」
 追従してやると、彼は、ぐっと言葉を呑んだ。目元が淡く染まり、それを恥じたように、彼はC.C.から、ふいと顔を背けた。弱っているときに、強がる仕草だ。
 それはC.C.にとっては、絶好の隙だった。
 ルルーシュは、あの少年に依存していた。彼の要望を察して叶えることや、逆に彼に我が儘を通すことで、常に何かを探り、安堵を見つけていた。なぜ二人がそのような関係になったのかをC.C.は聞いたことがない。だが、知らないなりに、二人が強く執着し合っていることはわかった――互いが互いを、終のつがいとして違えないと、錯覚させられるほどには。
 C.C.はほくそ笑んだ。
 スザクには、感謝していないでもない。あの出会いのとき、彼がC.C.に構わなければ、ルルーシュは彼女を無視しただろう。そして、二度の邂逅も、なかったかもしれない。だから、同じ屋敷に住むようになってからも、彼らに、C.C.は何もしかけたことはなかった。
 しかし、もうその義理も消えた。
 C.C.は、内心舌なめずりしながら、ルルーシュを見た。結局律儀にジャケットをしまっている背に、声をかける。
「私が魔女になってやろうか、ルルーシュ」
 ルルーシュは、ぴたりと手を止めた。
 しばらくその体勢のまま固まっていたかと思うと、やがて、能面のように表情が刮げ落ちた顔が振り向く。その機械的で急な動きに、散らばる黒い髪が軌跡を描いた。
「…おまえ、魔女だったのか?」
 ルルーシュはぼんやりと彼女を見つめた。
「おまえたちが呼ぶところではな」
 C.C.は淡々と言う。
 魔女とは、比較的ブリタニア帝国圏の人間と近しい外見を持つ他星系人の、ある少数の一族の総称だった。帝国発祥のころに滅亡させられた星の住人が他星に逃れた末裔と言われており、ブリタニアとの友好関係は絶えて久しい。
 歴史に残されている中で、ブリタニア帝国と友好的な関係を築いた魔女は二人だ。二人とも、帝国が母星を滅ぼす前にブリタニア人と婚姻関係を結び、そのうちの一人は、騎士の代役として、皇族だった夫に尽くしたという。魔女の力を得て宰相の地位にまで上り詰めたとして、その恋物語は、ブリタニアの伝承にも残っている。
 以来、ブリタニアでは、魔女を得ることは、百万の騎士を得ることであるとされていた。
 C.C.は厳かに繰り返した。
「私が、お前の、魔女になってやろう。百万騎士力だぞ」
「…大きく出たじゃないか」
 自失から醒めたルルーシュはふ、と笑った。
 C.C.に向き直り、寝台に寝転ぶ彼女を見下ろす。その顔には、すでに、いつもの不遜な表情が戻っていた。紫の瞳が細められる。
「そうだな。ふさわしい…慈愛の姫には清廉な騎士が、ひねた皇子には、素性の知れん魔女が」
「自分で言うとは、本当にひねた奴だな」
「いいだろう。結ぶぞ、その契約」
 呆れる言葉は無視し、ルルーシュは素早く決断する。
 C.C.はそれを聞いて、寝台から立ち上がった。直立しても、二人の間には、まだかなりの身長差がある。少し高くへ、彼女は差し伸べるように手を出した。
 ルルーシュは迷ってから、そろえられた指に、そっと触れた。C.C.の指先に、彼の体温が触れる。
 跪くことはしなかった。皇子と魔女の契約は対等であり、それは必要ではなかったからだ。もともと敬意を払われることの少ない皇子であるルルーシュは、それについてではなく、ただ、挙措に困ったように尋ねてきた。
「…騎士との契約は誓約の口づけと書類提出だが、魔女との契約はどうすればいいんだ」
「何も」
 指の関節を少し曲げて、ルルーシュの指先に引っかけるようにして弄びながら、C.C.は答えた。
「おまえにとってもっとも重要なのは、旗艦だろうが、それは心配するな。私にとっても必要だからな」
 そこまでを語ったのは、魔女である彼女にとっては、破格の慈悲だった。必要の内容までは、さすがに明かしはしないが。ルルーシュの訝しげな顔には構わず、言葉を続ける。
「…それ以外に何かをしてほしいなら、言え。それに対する対価を糧に、おまえを守ってやる」
 ルルーシュはますます首を傾げた。
「一括払いはできないのか」
「騎士は、寵愛の一括払いか」
 彼の言い方がおかしくて、C.C.は少し笑う。
「魔女にはない。そもそも、どうせ口約束だ、別に契約する必要もないしな。おまえが私の共犯者である限りは、 一緒にいてやろう」
 ルルーシュはまじまじと彼女を見つめた。C.C.は唇をすました形に保ったまま、ルルーシュの指をつまむ。女のもののように白く細いが、両方の手のひらにかすかに、銃器を扱う者特有の痼りができている。
「…随分と甘いんだな」
「騎士との契約だって、本当はそんなものだろう。おまえたちが勝手に形式化しているだけで、本来、約束は、誠意で成り立つものだ」
 刺すように言うと、ルルーシュは顔を歪めた。誰のことを思い出しているのか、瞳が焦点を失う。
 しばらく勝手にさせた後、不意に彼は手を引いた。C.C.の指から熱が逃げる。それに別段、名残を感じるわけでもなく、C.C.は再び寝台の上に沈んだ。ルルーシュが、彼女の足下に腰掛ける。スプリングが重く軋んだ。
「…一応、騎士の書類は提出しなければな。誰に頼むか…」
 額に手を当て、軽く開いた口から、気鬱そうな溜息が漏れる。C.C.は唇をすぼめ、魔女そのものの様子で囁いた。
「案外簡単なんだな。クルルギスザクを、捨てるのか」
「…俺があいつを捨てるんじゃない」
 C.C.をちらりと見て、ルルーシュは呟いた。
「あいつが俺を捨てたんだ」