傾国

深紅

2017 a.t.b 19/03 11:42

「くそっ!」
 自室の扉に鍵をかけた途端、睫の重さにさえ耐えられぬとでもいうように伏せられていた瞼をはっきりと持ち上げ、カレン・シュタットフェルト・紅月は悪態をついた。煌びやかな正装を脱ぎ捨て、下着一枚になり、寝台へダイブする。きっちり十秒数えてから、むくりと起きあがり、裸足でドレスを踏みつけ、クローゼットへ向かった。
 士官学校の制服を取り出し、手早く着込む。襟を最上限まで締めると、一度だけ全体像を鏡に映し、鼻を鳴らしてそこから離れた。
 窓の外には快晴が広がっている。朝帰りになってしまったことに舌打ちした。手慣れた様子で、開け放した窓から木を伝って飛び降りると、鳥の囀りが羽音と共に消える。そろそろあの木に止まるのをやめればいいのに、と思いながら、カレンは人に見られないまま屋敷の門を出た。
 向かう先は、先日卒業したばかりの士官学校である。
 サポートセンターのブースに向かい、今はもう役立たずとなったIDカードを見せ、現在の状況を尋ねる。受付の女は、提示された番号をほとんど見ずに即答した。
「カレン・シュタットフェルト・紅月。まだ、配属は決定していません」
「…そうですか」
 すました襟首をひっつかみそうになる衝動をぐっと堪えて、カレンはそこから立ち去った。
 すでに、授業ははじまっている。人影はなく、教官の怒鳴り声だけが、風に乗って運ばれてくる。カレンは、もう通るつもりのなかった中庭を抜け、腰を落ち着ける場所を探した。とはいえ、長居する気はない。知り合いに惨めな姿を見られないうちに、立ち去るつもりだった。
 その時間、カフェテリアには人がいない。無人販売機でホットコーヒーを買うと、まだ肌寒い中、カレンは外のテーブルに座り込んだ。
「はああ」
 苦い液体を行儀悪く啜りながら、腰がずるずると前へ滑る。
 卒業して数日が経つこの段階になってもまだ、彼女の勤務先は決定していなかった。本来は、士官学校生の卒業後の配属は、学校側が提出した成績に従って、軍側から強制的に割り振られる。例えどれだけの落ちこぼれでも、軍務免除というような例外はない。
 士官学校開校以来の天与の才と言われた枢木スザクに次いで、僅差で次席の成績をキープしていたカレンである。それがこうも採用が決まらず、返事が延ばされる理由はわかっていた。
「――クソババア」
 ぎり、と奥歯が軋む。
 カレンが士官学校に入学したことに気づいて以来、今まで、シュタットフェルト家は、彼女の選んだ進路を妨害するために様々な手段を使ってきた。そして卒業間際になってついに、もっとも陰湿で、カレンのプライドを傷つける手に出てきたのだった。皆が歓喜と悲嘆に暮れる中、ただ一人、配属先未定とされた屈辱は、よほどのことがない限り、忘れられないだろう。
「あーっ、いらいらする!」
 艶のある赤毛を乱暴に掻き上げて叫ぶ。
 近くにたむろしていた鳩が、丸い瞳を動かして彼女を見て、それから、白けた様子で餌あさりを始めた。カレンは恨めしげに鳩を睨み、靴先を向けてやろうとして、あまりの情けなさに思いとどまった。
 カレン・シュタットフェルト・紅月は、ブリタニア貴族と、今は侵略され植民星化されたニッポン人の母との間に生まれたハーフだった。十歳まではニッポンに住んでいた。容貌は完全にブリタニア人のものだったし、父親の顔を立てるためにブリタニアの教育も受けていたが、自分自身では、ニッポン人であると思っている。
 その彼女が士官学校に入学したのは、十三歳のときだった。
 兄が反ブリタニア活動中に亡くなる、一年前のことである。兄はカレンと違ってブリタニアの血を受け継いでおらず、しかし憎い敵の血を引くカレンをかわいがった。カレンは彼が好きだった。だから、彼の力になれるようにと、子供なりの浅はかな考えで、ブリタニア人として軍の内通者になろうと思ったのだ――もっとも、結局はそれも、無駄になってしまったわけだが。
 今ではニッポンは、それなりに元の姿を取り戻し、レジスタンスの活動も落ち着いてきている。
 やり場のない衝動を持て余したカレンは、四年間、ひたすら修練を積んできた。そうしているうちに、ブリタニア軍にいても故郷の平穏を守り、その地位を向上させることはできるのだと気づいた。開き直ってからは、彼女にもはや迷いはなくなった。生来の勤勉さと運動神経を活かし、着実に出世への道を歩んできた。
 取得志願者の半分以上が脱落するという騎士資格も取得し、本来なら、カレンの将来は明るいはずだった。
「騎士…か」
 今まで辿ってきた道を振り返り、カレンは思わず呟いた。小さな声は拓けた空間に響かず、弱々しい音になった。
 彼女は騎士になりたかった。
 ブリタニア帝国における騎士とは、皇族の乗艦となることを許される特殊艦ナイトメアの適合者、通称デヴァイサーの資格を持つ者のことである。戦場では皇族に次いでの艦隊の指揮権を得、もっとも前線に出て直接皇族を守ることになる、一般兵として望める最高の地位に当たった。
 皇族はすべて、高位継承者は五人まで、低位継承者は一人の騎士を得ることができる。騎士の資格を得たとしても、彼らに選ばれなくては、騎士にはなれない。戦闘の指揮権を持つ皇族は、戦場に出れば、選んだ騎士の艦に乗船し、彼らに命を預ける。それが、騎士の最高の名誉だ。
 しかし騎士は、貴族の横の繋がりが強いブリタニアでは、その皇族と縁のある貴族たちから選ばれることが多かった。士官学校で騎士の資格をとっても、多くの場合、それは宝の持ち腐れのままに終わる。
 カレンはその点では、他の生徒たちよりも有利だった。貴族の称号を持っているカレンは、他の士官学校生に比べれば、はるかに騎士となれる可能性が高いのだ。
 しかし、もっと根本的な問題によって、それはむしろ、彼女に不利に働いた。シュタットフェルト家は、彼女に、騎士になってほしくなかったのだ。騎士となり、皇族の寵愛を受ければ、もう、彼女を簡単に動かすことはできない。騎士位は個人に与えられる称号であって、家に与えられるものではないのだ。
 義娘がいつの間にか士官学校に入学していたと知ったカレンの継母は、彼女を社交界へ導いた。ただカレンの自由を奪い見せ物にしたいだけの女は、彼女が男たちを受け入れないことを知っていて、わざわざ社交の場へと彼女を引きずり出すのだ。
 カレンの外観にはニッポン人特有の形質がさほど顕れていないため、名門シュタットフェルトの深窓の令嬢を手中にしようと、駆け引きを要求してくる男は多かった。病弱を装うことにかけては筋金入りのカレンには、願書を出した大学さえ知らなかった継母を欺くことは容易かった。
 男たちを袖にし、すぐに屋敷へと引き上げて、鍛錬の時間をつくった。だが、それによって、カレンの出席日数はパーフェクトとは言い難いものになっている。
 それによって、士官学校でまで病弱と判じられなければと、カレンは唇を噛んだ。
「…カレン?」
 聞き慣れた声に、カレンは瞬き、慌てて振り向いた。そこには簡素な黒い衣服を身につけた少年が立っている。ほとんど落ちかけていた椅子から彼女は立ち上がった。
「ルルーシュ、…殿下」
「いい、いらない」
 ルルーシュは素っ気なく敬称を断った。言われるまでもなく、カレンも半分は、礼を取っていない。それでも一応略式の敬礼をしてから、彼が向かいに腰掛けるのを待った。ルルーシュは優雅な動きで腰を下ろした。
「久しぶりだな。卒業式典以来か」
「そうだな」
 カレンも改めて座った。彼と彼女は、決して友好的とは言い難い知人同士だった。しかし、変わらない、気安い遣り取りには、心が落ち着いた。
 この皇位継承権を持つ第十一皇子とカレンとの縁は、入学時にまで遡ることができる。
 そのときカレンは、同科に入学すると聞いた、同じニッポンの出身である枢木スザクと話そうとしていた。彼の実家は、ニッポンの知る人ぞ知る名家で、ブリタニアの侵攻当時は、彼の父がニッポンの代表を務めていた。スザクはブリタニアに、人質として送られてきたのだとカレンは聞いており、彼にだけは、自分の半分がニッポンのものでできていると明かしてもいいのではないかと思っていたのだ。
 しかし、それは、ルルーシュによって阻まれた。
 そのころのルルーシュは、スザクに近づいてくる者は誰彼構わず敵だと認識していた。子を守る母のように緊張し、もともと友好的とは言えない態度はさらに尖っていた。声を掛けた途端、スザクが口を開く間もなく、その連れから害虫のように扱われたカレンは、相手が皇族であると知らなかったこともあり、思わず地を出して激怒してしまった。
 素性を伏せていたもののシュタットフェルト家の令嬢だと感づいていた少女の、社交界とのあまりの落差に、ルルーシュは呆気にとられて絶句した。スザクや教官たちの取りなしもあって、その場は納まったが、それからの二人の仲は順調とは言えなかった。
 しかし、不本意ではあったが、つき合いはいまだに続いている。数少ない高級士官と下級士官の選択制合同講義が、すべて同じだったのだ。ルルーシュがスザクに合わせていたのだろうが、二人の思想が似通っていたこともあって、グループ演習ではよく組んだものだった。
 そう言えば、今日はひとりだ。
 カレンは、無意識に、視界に茶色い癖毛を探した。
 科が違うというのに、ルルーシュは、スザクとできるだけ行動を共にしていた。それはルルーシュが、植民星出身であるスザクを心配したことが背景にあったが、スザクは別段それに文句を言わず、逆に忠実な犬のように彼に付き添った。
 皇族は、自ら騎士を選ぶ。二人の姿は、暗に、スザクがいつかは彼の騎士になるのだろうという予想を周囲に抱かせた。
 肌を冷やす風の中、ルルーシュは、いつもの覇気が少し衰えているようだった。よく見ると、目元に薄く隈ができている。
 少し心配になったが、自分も今は、そんな風な顔をしているのかもしれない。
「ルルーシュは、もう軍務に入ってるのか?」
「いや、やっと引き継ぎが終わるところだ。おまえはどこに行くんだったか、…ああ」
「まだ決まっていない」
 瞬いた彼を直視できず、少しだけ視線をずらして、カレンは嘆息した。
 ルルーシュは困ったような、からかうような微苦笑を浮かべた。この顔を見るまでになるのに、随分と時間がかかったように、カレンは思う。
「シュタットフェルト家は、まだ認めていないのか?」
「言っておくけど、枢木スザクのせいだぞ」
 もし一位を取ることができたなら、シュタットフェルト家も、カレンを戦場に送り出したかもしれない。体のいい厄介払いも兼ねているだろうが。
 カレンがトップを立つことを阻害した、彼の友人の名を出すと、ルルーシュは不思議な表情になった。自嘲に似た奇妙な口元の引きつりに、カレンは不審を感じたが、彼は話題を逸らした。
「そうだな。あいつはちょっと、おかしかったから」
「ちょっとじゃなくて、すごくおかしかったよ」
 ふうん、と相槌を打つルルーシュは、少し嬉しそうだった。カレンは舌打ちしたい気分だ。ここは喜ぶところではないはずだ。
 単騎の模擬格闘での枢木スザクは、生身であろうとナイトメアのシミュレーションであろうと、とにかく無敵、無敗だった。誰もが、気がつかないうちに、くるりと回転したり、地に伏して腕をねじり上げられたり、あるいは四肢をもぎ取られ、シミュレータの自動脱出装置が作動していたりしていたのだ。カレンにはニッポンの武術の心得があったから、他の生徒たちのように完全に一方的な試合になったわけではない。教官からも評価を得る、レベルの高い演武を演じることができた。しかし、彼女が彼に圧勝したのは、生身での銃器の扱いと、詐術や戦術案、ナイトメアのOS構成などの、学力が必要な項目だけだった。
 騎士は、その動力源であるユグドラシルシステムの核・コアルミナスと、その伝達物質であるサクラダイトとの適性の他に、操縦、整備、その他ナイトメアのすべてに精通している必要があった。さらには生身の状態でも、一級の護衛や戦術参謀として主に利する能力を有していなければならない。
 その点では、スザクは護衛の能力に長け、騎士として最適な存在だと言えた。
 ルルーシュはしみじみと慨嘆した。
「あいつは体力バカだから」
「でも配属先は決まった」
 というより、入学した時点から、すでに決まっていたのだ。この少年の手元で、彼に尽くすという道が。正式な皇妃の皇子としては低位とはいえ、二十位以内に入る皇位継承権保持者にもっとも傍近くかしずくことを許されているのだ。それは、栄光を約束された騎士の道だ。
「…うらやましい。このままだと、私は実家の寄生虫になってしまう…」
 自分で言った言葉に打撃を受けて、カレンは頭を抱えた。
 そして一生、嘲られながら飼い殺しにされるのだ。やがて、適当な男を押しつけられ、騙すことを強要され、いずれは嘘がばれて詰られ――想像するだけで鳥肌が立ち、首をすくめる。
 ふと、ルルーシュが迷う気配があった。彼の癖、考え事をする際に顔の一部に触れるというものだが、唇に人差し指の関節を当てる。しばらくそうしてから、彼は唐突に提案した。
「カレン。事情つきでよければ、私の騎士になるか?」
 カレンはがばりと顔を上げた。冗談かと思ったが、ルルーシュは真面目な顔をしていた。カレンの鬼気迫る表情を見て、なぜか頬を染め、ふいと横を向く。
「いや…俺たちは別に仲がよくはないし、だめならいいが、その、こちらにも事情があって。よければ、少し話を…」
 その内容をほとんど聞かず、カレンは勢い込んで頷いた。就職、内定、独立の文字が、彼女の脳裏で点滅した。
「なる!」