傾国

STAGE 19 / Between the lines

パンくずがなくても

 まだ少し湿っている髪からは、潮の香りがしていた。肩に重いそれに頭をぐらつかせたのを見たのか、ルルーシュは、洗ってこいと苦笑した。それから、服を乾かそうと。
 ユーフェミアはためらった。鏡も櫛もないここでは、自分一人で髪を結い上げることができるかわからない。
 彼女の迷いを見て、ルルーシュは手伝いを申し出た。煩わしい潮気を落とすことよりも、その言葉に惹かれて、ユーフェミアは清流を探すことにした。幼いころ見た、妹の髪を結ってやる彼の姿を思い出したのだ。
 この木を辿れば水場につくと、森の入り口でルルーシュが示した通りに行くと、たしかに小さな川に出た。
 澄んだ水面を覗き込むと、そこに映ったのは、ぼろ切れのような自分だった。ユーフェミアは慌てて、髪を解き、服ごと川に入って、頭頂部までを真水に浸した。冷たさに顔が歪むが、奥歯を噛んで耐える。兄とは言え、みっともない姿をさらしたことが、恥ずかしかった。
 徐々に水温に慣れると、命ではなく、たかだか見栄えのことを気にしている自分に気づき、ユーフェミアはおかしな気分になる。
 ルルーシュも、彼女と同じだと思った。ゼロと会って以来、次に機会を得れば、きっと自分を殺すのだろうと思っていた。そのくせ、その諦念に、どうせ彼は自分を殺さないだろうという甘い予想を混じらせていたことには、自覚がある。傲慢とも卑屈ともつかないそれは、事実、当たっていた。しかし、それでも、彼が自分の髪のことなどを気にするとまでは思わなかった。
 息が続かなくなったところで、ユーフェミアはふらつく頭を水面に出し、髪や服の布を水中に揺らめかせて、海水を落とす。はたしてどれほどの効果があるのかはわからなかったが、それ以外の方法が、彼女には思い浮かばなかったのだ。これだから、人から落胆の溜息しかもらえないのだろうか、と思う。
 自分の白い手を見下ろし、ユーフェミアは目を細めた。
 今ごろ、式根島では、どのような事態になっているのだろう。意識を失う前の完全な記憶は残っていないが、シュナイゼルのアヴァロン――見知った艦のはずだが、なぜだか浮いていた――が来たことはおぼえている。しかし、それ以降の記憶は、霞がかっていた。黒い光を見たような気もするが、はっきりとしない。
 身震いして、ユーフェミアは立ち上がった。
 髪と服をできる限りで絞りながら、川から出る。足を靴に入れて、その足ごと流れに浸して塩を洗った。そうしてから地面に戻すと、蛙の鳴き声のような、奇妙な音が立った。足が靴とぶつかる音だ。幼いころ、離宮の噴水でナナリーと遊んでルルーシュに叱られたことを思い出し、ユーフェミアは口の端に笑みを上らせた。また、怒られてしまうだろうか。
 辿ってきた木を慎重に見定め、水を含んだスカートを土で汚したり枝にかけたりすることのないようにと両手で持ち上げて、来た道を戻る。しっかりと標を確認しながら来たから、迷うことはなかった。
 しかし、森の入り口で、ユーフェミアは青ざめた。
 ルルーシュがいない。
 慌てて周囲を確認する。しかし、人の気配は感じられず、ユーフェミアの視界には、森と、白い砂地と、青空が入るだけである。眉尻が下がるのが、自分でも意識された。泣き出しそうになるのを、軽く喘いでからぐっと堪えて、歩き出す。記憶を探り、流れ着いた場所を目指して進むと、やがてユーフェミアは、風景にそぐわないものを見つけた。
 岩場に、黒い人影がある。
 一つ瞬いて、それから、声もなくユーフェミアは駆け出した。足下で、砂が爆ぜる。
 彼女の姿を見とめると、身体を岩陰に隠すようにしていたルルーシュは驚き、戻ってきたのか、と小さく呟いた。その言葉に肌が粟立つ。しかし、彼がそこで動かずに待っていたことに、心臓が落ち着きを取り戻して行く。上がった息を抑え、微笑んだ。
「髪を結ってくれる約束だったでしょう、ルルーシュ」
 スカートを降ろし、重い髪を持ち上げて見せると、とりあえず服と一緒に乾かせと言って、ルルーシュはマントを肩から外した。黒い布を柔らかく広げ、義妹にかける。そうして彼は岩場の向こうに姿を消し、ユーフェミアの足下には、小さく折りたたまれたゼロの仮面が転がされたまま残っている。
「…ユフィ。仮面を取ってくれ」
 すぐに失態に気づいて、少し慌てた声をルルーシュが投げてきた。
「はあい、わかりました」
 彼が見ていないのを確認して、ユーフェミアはこっそりと、それを靴先で蹴った。

あけすけな椅子

 その椅子を見た男の第一声は、気が抜けるような驚声だった。
「はァ、簡素ですねェ」
「そうかな」
 シュナイゼルは、意外とも思わぬ様子で訊いた。しかしその声には構わず、ロイドは上半身を猫のように伸ばして、椅子の裏側を覗き込んでいる。何か興味を引くものを探しているようだ。それは、昆虫採集に勤しむ少年を連想させる様子だった。
 その態度には腹が立ったが、彼の疑問は、バトレーも得たものだった。
 シュナイゼルが用意させた椅子、アヴァロンにおいては司令席に当たるそれは、その指先までを優雅で満たした男のものとしては、質素だった。装飾の一つもない。その清廉さはバトレーの好むところでもあったが――というより、シュナイゼルのすることならバトレーにはすべてが神聖なことのように思えたのだが、しかし、彼にはそぐわないもののように見えていた。
 バトレーの密かな疑問を湛えた眼差しの前で、シュナイゼルは微笑んだ。
「あまり仰々しいと、使いにくいだろう?」
「ふゥん。いやらしいですねェ」
 白衣の男はそれだけを言った。そしてバトレーがその意味を理解する前に、さっさと興味を移し、今度は肘掛けを弄り始めた。
「なんかおもしろい機能とかついてませんー?」
 男にしては華奢な手が、べたべたと吟味するように触れる。指紋がつくだろう、と怒鳴りつけたかったが、主が許して静かに見守っている前ではそうもいかない。バトレーは、ぐっと怒声を飲み込んで、震えた。
「君がそこまで、そんなものに興味を示すとは思わなかったな」
 ロイドの背後に佇むシュナイゼルは、柔らかい笑みを浮かべている。少し苦笑に近いかと、バトレーは思う。
「座ってみるかい?」
 主のおもしろがっている声に、バトレーは悲鳴を上げたくなった。至高の座――もちろん、皇帝のものに比べれば、取るに足りないものなのかもしれないが、そこを、このような変人に明け渡そうとするなど、と焦った。彼がしないのならば、自分がこの間から追い出そうと、一歩踏み出す。
 しかし、あっさりと腰掛けるかと思ったロイドは、薄ら笑いを貼り付けたまま口早に応じた。
「遠慮しまァす」
「そうか」
 その言葉を聞いて、シュナイゼルの柔らかな紫は、満足げに細められる。その声の響きは、飼い猫の躾に満足する飼い主のもののようだった。バトレーが何かを感じる前に、すべてを断ずる白い手袋が、胸の前にすっとかざされる。
 従順に退いた男に笑みを深め、彼はゆったりと玉座に着いた。

蹲る熱

 寝転んで、薪が爆ぜる音を聞きながら、カレンは息をついた。
 火の粉の向こうでは、スザクが黙々と、魚に木の枝を刺していた。えらの部分に尖った先端を押し込む彼の真剣な表情は、生徒会室で苦手な書類を見つめているのに似ている。同一人物なのだから、当然だ。そのうち、彼の手元で魚の尾が跳ねるのをやめたので、カレンはそこから目を逸らせた。
 思いを馳せるのは、揺らがぬ指針と決めた人だった。
 ゼロはどうなったのだろう。スザクは何も知らないようだったから、ゼロが彼の手にかかったということはなさそうだった。そして彼が生きている以上、ゼロも生きて、この島に漂着している可能性は高い。カレンは安堵して、頬を緩める。
 ゼロの無事を知ることができた点に関しては、彼女は、スザクと遭遇したことに感謝していた。あとは、拘束を抜け出し、ゼロの無事を確認して、仲間の元へ帰るだけである。たった三つのことだった。
「楽しそうだね、カレン」
「そうか?」
 その三つを不可能にしている人間から、不意にかけられた声に、カレンは素っ気ない返事をした。スザクは苦笑して、また視線を落とす。
 しばらくそれを見つめてから、いつの間にかまた奪われていた視線を戻した。すると、まだ盛大に開かれたままの自分の胸が目に入り、カレンは鼻の頭に皺を寄せた。
 軍人なんて、と彼女は内心で呟く。あのいけすかない彼の友人だって、カレンの肌には動揺を見せたのだ。それを、押し倒し、さわっておいて、平然としている。殺し合った敵同士で戦場にいるのだから、妙な反応が欲しかったわけではないが――
 カレンは、もう一度、今度は口の中で呟く。軍人なんて。
「何か言った?」
 異常な耳聡さでそれを聞きつけたのか、スザクが訊いてきたが、無視した。目を閉じると、数秒経ってから、嘆息が聞こえる。
 気づかれないように薄く目を開くと、スザクは、魚を焚火の周りに並べ始めていた。手際がいい。彼は、火を起こすのも速かった。どこでサバイバルの知識を学んだのだろうと疑問をおぼえ、それからすぐに合点した。軍に決まっている。
 自分で出した結論に不愉快になって、カレンはふてくされた。また、目を閉じる。
 先ほどの問いを無視されたからか、スザクはもう、何も言わない。二人の間には沈黙が落ち、カレンの瞼の裏には暗闇があるだけだ。そうすると、その状況を望んでいたはずなのに、次第に居心地が悪くなってくる。
 スザクの相手をしてやろうと自分に言い訳して、仕方なく瞼を上げ、カレンはぎょっとした。
 後ろ手に拘束されたまま上体を起こそうとして、バランスを取ることに失敗する。無様に頬までを地面に這わせてから、叫んだ。
「おいスザク、何してる!」
「え?」
 スザクはきょとんとして見返してきた。しかしその不思議そうな眼差しに答えを返すこともできず、カレンは口を開閉させて、彼を、正確には彼の脚を凝視する。
 パイロットスーツに包まれたふくらはぎを、あぶるように、スザクは焚火に寄せていた。
 白に炎の色が僅かに移り、橙色が滲んでいる。あともう少しで、炎が移りそうな場所だった。そう思う目の前で、空気に融ける先端がなめらかな表面を掠めるように舐め、カレンは身をすくめた。
「…ああ、いや」
 カレンの視線を追って、彼は自分の脚を見下ろし、瞬いた。首を傾げ、しばらく口を噤む。少しずつ眉が寄る。その間も、赤や黄色が彼の脚近くに踊りかかり、カレンは気が気でない。
「なあ、」
「少し前まで、僕の足に何かあった気がする」
「はァ?」
「なんだか、寒いんだ」
 忠告を間の抜けた言葉に遮られ、莫迦にしたような、呆れた声が意識せず上がった。しかしスザクはそれにも顔を上げなかった。明かりに照らされた、途方に暮れた彼の顔に浮かぶのは、迷子の犬のような表情だ。
 困惑するカレンを余所に、スザクはいっそう目を伏せた。
「…どこに行っちゃったんだろう」
 眇められてなお大きな双眸には、揺らめきが映り、緑の炎を思わせる。
 ずっと涼しい顔をしていた彼が、どこか必死になっているように見えて、同情しそうになる。そんな自分に気づいて、慌てて、スザクは敵、と心の内で唱えると、今度は、痼りを残しつつも、胸が空くような気分になった。そのことに、カレンはほっとする。
 少しもがいて身を起こすと、さすがに気づいて、スザクが不思議そうにこちらを見てくる。彼に向けて、カレンは唇を意地悪く歪めた。
「きっと、おまえが蹴り飛ばしたんじゃないか?」
「…ひどいなあ」
 スザクは苦笑して脚を畳むと、手を伸ばし、目を見開いたカレンの頬から土を落とした。