傾国

彼が見た少年

 マリアンヌ皇妃に似ているな、とまず思った。
 ロイドが知っている、黒髪のブリタニア人が、彼女しかいなかったからかもしれない。まだロイドが幼かったころ、ブリタニア皇帝に嫁がされた女。広大な広間の中を、揺らめく炎のような笑みを湛えて泳いでいた女。
 別段、彼女のことだけをおぼえているわけではない。彼女の印象は、他の人間たちと比べるとそれなりに強くはあったが、もともと彼は、一度見たものは忘れないでおくことができる性質だった。その上に、流れやすい貴族の話題に長く留まり続け、その容貌を見た回数が多い分、よりはっきりと記憶に残っているのだろう。
「あーもー、やってらんないよぉ」
 自分がちゃんと、ランスロットと関われない退屈な仕事をこなしているうちに、二人で、おもしろいことを独占しようとするなど。
 さて、と空を見上げた。
 先ほど遠目に見た映像をそこに浮かべる。随分と女子の制服を着こなしているが、その骨格、骨張った肩や細く伸びた両脚は、女というよりも、男のそれに近い。まろやかさが足りない。もちろんそういう女もいるが、それとは違う。セシルは近距離にいて気づかないようだが、脚の開き方が、女のものではないのだ。
 これは女装した少年であると、ロイドは結論づける。眼鏡とマフラーから、その上に変装を重ねていることが知れ、つまり彼は、誰かに素性を知られれば困るような境遇にあるのとわかった。もちろん、あの呑気な学園の、ただの罰ゲームという可能性もまだ残っているが。
 二人の部下を見れば、セシルはいつも通りの様子を保っていた。なぜか少し動揺した後のような気配が感じられたが、日常の範囲内に留まっている。
 しかし、スザクには、おかしな点が見られた。いつも直立不動を保つ彼の左腕が、微妙に少年の前に出ている。身体も少しだけ傾いていた。どこか、庇うように。
「…おめでとーぉ、外殻の値が本国で吊り上がってて、予算ダメ出しだって」
 ロイドは適当な機密を口にする。セシルが眉を吊り上げかけて、こちらの様子に気づいて言葉をすり替えた。
 二人の会話を、ためらいながらも、スザクは止めない。――ふつうなら、一般人の前で、と言うだろう彼が。つまり、この少年は、彼の中では一般人には分類されないのだ。
 あの侵攻の直前、マリアンヌ皇妃はテロによって暗殺された。彼女には息子と娘がおり、二人は日本侵攻の足がかりとして、この国に送り込まれた。迎えたのはおそらく、当時の首相であった枢木ゲンブの家、つまりスザクの実家である枢木家。
 マリアンヌ皇妃の息子は、スザクと同年代だったはずだ。二人は、仲良くとまではいかなくとも、それなりに近しい関係となっただろう。
 マリアンヌの二人の子供は、侵略戦争の前に、日本人の手によって行方不明になったとされ、国民の感情を煽った。戦後しばらくして、ささやかな国葬が行われたが、それはもう、ブリタニア人のほとんどから、すでに忘れられた記憶だ。
 しかし、ロイドは覚えている。終戦後に一応の捜索が行われたとき、遺体は見つからなかったままだった。おそらくはスザクを含む、失踪当時のことを知る者は、口を閉ざした。だから、彼らは確認から五年で死亡扱いとなって、国葬は時機を逸した間の抜けたものに終わったのだ。
 アスプルンド家はマリアンヌとつながりがなかったため、葬儀には代理の者を遣わせただけだった。しかし、その葬儀を手配したのは、ロイドの上司だったはずだ。
 ふと思いついて、惰性で動いている舌に言葉を上乗せた。
「――でなけりゃ、なんのためのスポンサーなのさ」
 軍のスポンサーと言えば、ふつうは貴族、もしくは皇族だ。
 少年が耳を澄ませる気配があった。興味深げに、静かに佇んでいる。この年代の人間は、このようなことに興味は持たないものだ。何か、特殊な事情でもない限りは。
 ロイドはセシルの小言を受け流し、スザクに話を振る。彼が、少年を窺う。少年は、それに気づいただろうに、素知らぬふりで話に聞き入っていた。そこには暗黙の了解じみた、親密な空気が流れている。スザクがこちらに親しげな気配を見せると、少年は少し不愉快そうにした。
「ロイドさん。こちらは、スザクくんのお友達だそうです」
 セシルが少年の様子を見て、会話への参加を促した。少年は、はっとして俯く。
 スザクが通う学園には、ブリタニアの騎士階級の子女のみが通うことを許されている。イレヴンはいないはずだ。しかし、いつか聞いたセシルの言によると、スザクはそこで、旧友と会ったらしい。妙なことを言うな、とは思っていたが、その違和感を拭う機会を得られるとは思っていなかった。
「変なことしちゃだめですよ?」
 セシルが何か言っているが、ロイドには気にならない。
「仕事を置いて密会はいけないねぇ」
 会うなら、こそこそ警戒してでなく、堂々としていればいいのだ。ただの友人ならば。
 アッシュフォード家は、マリアンヌ皇妃の後見だった。彼女に寄生し、同時に助け、支え合いながら、宮廷に根を張ろうとしていた。彼女の死によって爵位を剥奪され、ただの貴族に逆戻りしたが、彼らはまだ、あの栄光を忘れてはいないだろう。皇位継承者に渡される数々の特権、そのこぼれた輝きが、どれだけの富と権勢をもたらすものか、ロイドはよく知っている。
 セシルの出した気配に、経験と本能で腰を引きながら、ロイドは脳の引き出しを漁った。
 たしか昔、一度だけ、上司がこぼしたことがあった。すぐ下の弟が、一回り年下の皇子に、チェスで負け続けているのに懲りないと。呟いた言葉は、どんな響きだったか。彼の弟の名はクロヴィス、そして、もう一人の弟の名は、たしか――
「…そうだ、名前を聞いていなかったわね」
 セシルがおそらくはロイドの思惑を察してだろう、少年に声を掛ける。その問いに、か細い声が、白い喉からこぼれた。高いが、しかし、やはり、女の声ではない。ロイドは目元を緩ませた。
 少年がこちらを見る、そこでようやく、ロイドも彼を見た。はっきりと目が合う、その瞳は鮮やかな紫だ。ブリタニアの血統に多く見られる色。
「スザクくん、」
 そう呼んでちらりと見やると、引き結ばれていた唇が、無意識のうちだろう、小さく動いていた。その形に、遠い名が喚起された。ロイドは、その皇子の名を思い出した。
 腹の底から爆発的な笑いが沸くのを抑えて、ロイドは少年に顔を近づけた。
「…ルルーシュ殿下は、どうしてスカートなんか履いてるんだい?」
 眼下にある、黒く短いスカートと、そこから生えた、人形のようになめらかな肌に包まれた脚を見下ろす。非常に捨て身の変装だなと感心し、そしてもう一度視線を上げたところで、目の前の紫が不意に紅く染まり、