傾国

右手の行方

 非常に、うつくしい少女だった。
 彼は満悦の体で、にやにやと口元を歪めていた。いつもなら、守衛室の仕事には有意義さが欠片も感じられず、できるだけ避けたい仕事だった。しかも今日は、同僚が一人無断で欠勤し、もう一人が呼び出されて席を外し、今、室内には警備の資格も持たない彼一人だけしかいない。少し前までは鬱々としていたが、今はいない同僚たちに感謝したかった。
 アッシュフォード学園大学部の事務員を続けてきて、もう七年が経っている。
 その間、彼は多くの美少女を見てきた。髪の色、肌の色、瞳の色、顔立ちや体つき、雰囲気、多彩な花々は、彼の記憶に残っていた。彼女たちのうちには、モデルや女優として活躍したものもいる。しかし、その中でも、先ほど訪れたあの少女は、殿堂に入れていい。
 マフラーや眼鏡でごまかそうとしていたようだが、それで騙されるような浅い経験ばかりを積んできたわけではないのだ。むしろ、固く覆われた上半身に比べて、下半身のスカート一枚という無防備さが強調され、彼のフェチシズムを満足させた。
 憂いと警戒を帯びた鮮やかな色の瞳に、被せて伏せた瞼は白く、長い睫は濡れて黒い。淡い色を帯びる唇には性的な匂いが薄く、そのくせ、内側に除く舌は紅く閃いて扇情的だ。時折のがさつな動きは、逆に、少女らしさを垣間見せ、高貴ささえ忍ばせていた。
 唯一の難点は、全体的に痩せていて、胸がなさそうなところだったが、彼は大きさよりは、形や感度が大事だと考えている。もちろん大きいに越したことはないが、目をつむれる欠点ではあった。それに、すらりと伸びた脚の白さとなめらかさで、それも帳消しに出来る。
 もう一度、この守衛室を訪れることになる時間が、楽しみだった。
 そして妄想の中でその脚を開こうとしたところで、当の本人が陸上選手のような勢いで走ってきたので、彼は慌てて顔を引き締めた。大きく椅子の音を立て、窓辺に寄る。
 少女は受付け窓の前で立ち止まると、作りものじみた白い手をカウンターにかけた。息を荒げながら、細い声で訴える。
「かっ、えります… ありがとうございました」
 レンズの奥、目尻に浮いた雫が、紅い肌の上で震えている。
 いったいどうしたのかと、彼は驚いて、少女を凝視した。しかし、近くからの鑑賞に耐え得るうつくしい顔立ちをしていること以外、そこからは何も読み取れなかった。
 枢木は彼女にいったい何をしたのだ。憤りとともに、思わず不埒な妄想を脳が展開し始め、そのため、彼は身を翻した少女を、即座に追うことができなかった。
「あ、ちょっと!」
 慌てて呼び止めるが、彼女が止まる気配はない。
「え、どうすればいい俺!?」
 自問して、すぐに自答した。
 ここは追うべきだ。少女は高等部の生徒で、彼は大学部の事務員なのだ。慰めるのは義務ともいえる。それから、泣いている女を食事に誘うのも、男の義務であるといえるし、年下の少女を抱擁してやるのもまた、年上の男の義務だろう。
 社会人としての義務を放棄し、嬉々として追いかけようとした彼を、しかし、鼓膜を突き刺す不愉快な音が妨げた。壁までを振動させそうな古臭い音が、守衛室を揺らすように鳴り続ける。
 七秒分だけきっちりと固まって、彼は自棄を起こして受話器を取った。
「はい、アッシュフォード学園大学部事務うけつ…アスプルンド伯はどこだァ? 知りませんよそんなの!」
 あまり好感を持っていない人物の名を出され、彼は不機嫌な声を隠しもせず、受話器を置いた。それからもう一度外に出て、少女が走り去った方向を見たが、当然、すでに影も形もない。
 冷たい風が、彼の頬を無情に冷やす。
「あー…」
 だらだらと室内に戻り、椅子に腰掛ける。机上に置いた書類を見下ろし、忌々しげに鼻を鳴らすと、仕方なく仕事に集中し始めた。
 外は少しずつ赤みを帯び、向かいの高等部では、相変わらずの喧騒が生まれている。今日は一際、騒ぎがひどいようだ。高等部の現在の生徒会長は、理事の孫で、やりたい放題をしていると聞いていた。学生たちは楽しいだろうが、教師たちは大変だろうなと、彼は他人事として思った。
 やがて集中力が高まり、無心になろうとした瞬間、再びけたたましい音が鳴った。一瞬びくりと硬直した彼は、電話を床に叩き落とそうとする衝動を堪え、受話器を取る。
「もしもし?」
 しかし今度は、彼の言葉がほとんど聞かれないうちに、受話器の向こうから、信じられないような情報がまくし立てられた。しばらく呆然と立ち、そして、彼は慌てて受話器を置いた。守衛室を出てあたりを見回すと、拍子抜けするほど呆気なく、探し人たちは見つかる。
「あの、特派さん!」
 声をかけた彼は、ふと、三人の不審さに気づいた。全員が、どこかぼんやりとして、中空を見つめているのだ。
 枢木は右手を懐に入れていて、それは彼にはどうにも銃を取り出そうとしているようにも見えたのだが、まさか少年が、この二人相手に何かするわけもないと思い直した。命の恩人だと聞いている。
 それよりも今は、重大なことがあった。
「あの! 特派さん!」
「はいっ」
 強く呼びかけると、枢木が反射的に返事をした。その音に押されるように、他の二人も気を取り戻した。それぞれが一様に、人形が命を吹き込まれたようなぎこちなさで動き出す。
「えーと、…なんだっけ?」
 アスプルンドが不思議そうな顔で瞬いている。この男がそのように、自分の行動を訝しむ様子でいるのは珍しい。
「…ロイドさん、いつの間に追いついたんですか? すみません、なんだか、ぼうっとしていて…」
 セシルは草食動物に似た穏やかな瞳を細め、少しだけ頭を振った。柔らかい髪が額に垂れる様がどこか艶めいていて、彼は、彼女は早くアスプルンドを見限ったほうがいい、と場違いに思う。もったいない。
 困惑して眉を寄せたセシルは、ふと、枢木の手に目を留めた。
「あら、スザクくん。どうしたの?」
「え?」
 枢木は首を傾げて、それから、懐に入っている自分の手を見下ろす。眉を寄せて引き抜いた指には、シャープペンシルが握られていた。
 枢木はそれを、不思議そうに見下ろした。
「…なんでしょう?」
 アスプルンドがその細い切っ先を見て、瞬く。
「あは、目つぶしとか?」
「どうしてですか」
 枢木が困ったように笑う。
「だってさァ、軍じゃペン一本で人殺しができるように訓練されるんでしょ? …あ、ごめんなさい!」
 アスプルンドは、見えない何かに向かって謝っているが、そろそろ彼は焦れていた。こちらの話を聞いてもらわなければいけない。緊急の用件なのだ。
「特派さん。出動要請が出ていますから、早く行ってください」
「えっ、どこにぃ!?」
 アスプルンドが、途端に嬉々として彼に迫る。その、唐突に急接近する癖にも慣れてきた彼は、大幅に身をひいて対処した。
「ここの向かいの、アッシュフォード学園高等部のクラブハウスに、テロリストが立てこもったそうなんです」
 さっと、枢木が険しい顔になった。それも当然だろう、彼にとっては、友人たちが多く通う、それこそ先ほどの少女も通っているはずの場所だ。
 少年は、切羽詰まった顔で問いただしてきた。
「立てこもったって、まさか、人質が」
「はい。女子生徒が数人」
 息を呑んだ枢木が唇を噛み、アスプルンドが、ははァ、と白けた声で笑う。なぜそこで笑うのだと、彼は白衣の腰を蹴り飛ばしてやりたい気分になった。しかし、その権限と時間がない。
「それで、よくわからないんですが」
 焦燥を感じたまま、彼は顔をしかめる。
「どうもそこに、皇族が居合わせたそうなんです。それで、自ら人質を買って出て、現在も拘束中と…」
「皇族って、今エリア11にいるのは…まさか、ユーフェミア殿下が!?」
 セシルがはっとして、表情を強ばらせた枢木を気遣うように見る。彼女の不安を解消しようと、彼は慌てて口を挟んだ。
「いえ、違うんです。お忍びかなんなのかわかりませんが、どうも、別の方がいらしていたようで…」
 不思議なことに、それを聞いて、枢木はさらに顔を青白くした。震える声音で訊いてくる。
「…誰、どなたですか?」
「それが、正直私は、そんな皇族がいたかなあと、思っているんですが…」
 そうして名を告げると、案の定、アスプルンドとセシルは首を傾げた。
 そのうちの一人の襟首をひっ掴み、唖然とするセシルと彼と、上がった珍妙な悲鳴を無視して、枢木はその場から走り出した。