日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第四回 日岡山古墳群@
第五回 日岡山古墳群A
第四回:日岡山古墳群(ひおかやまこふんぐん) @

 草木の生い茂った中を木漏れ日が差し込む日岡公園を歩いていますと、ふと何気なく通り過ぎてしまいそうな一画で古墳を見かけられたことはありませんかーー。 
古墳文化の華が開く3世紀末から7世紀にかけて、各地で大小さまざまな古墳が大量に造られました。日岡山をはじめ周辺におきましても例外ではありませんが、戦後の食糧難不足解消のために山全体が開墾されて以来、受難の時代が続いています。のちには公園として整備をされるなかで、いくつもの貴重な古墳が次々と壊され消滅してしまったのです。破壊されずに全部を保存していたならば、どれぐらいの数になっていたのかは分かりません。現存の主なのを『加古川市の文化財』などを参考にしながら紹介しますが、見学の場合、道路からの表示が不十分なのでとても分かりにくいでしょう。
 公園墓地の西北側に建つ道標を目印に西方へ向かうと、竹藪の中に全長が約55mで前方後円墳の「調子塚」とも呼ばれる「勅使塚(ちょくしづか)」があります。前方部が道路の影響により一部が削られているものの、特筆しておかなければならないのは昭和44年(1969)に三角縁三神三獣(さんかくぶちさんしんさんじゅう)鏡が出土していることでしょう。鏡は近くの古墳からも見つかっています。戦後の土採りで残念ながら消滅してしまい、現在は駐車場の場所にありました「東車塚」から三角縁三神二獣鏡も見つかっています。二面の鏡はそれぞれ同じ鋳型を用いた「同氾鏡(どうはんきょう)」であることが分かっています。同時に、これらは大和朝廷との深いつながりを示しているといえます。
 公園内の「南大塚」は前方後円墳で約86mになりますが、戦争中には畑に開墾されていましたから前方部の竪穴石室が削られるなど全容は確認されていません。南大塚の北側にあります「赤塚」とも呼ばれる前方後円墳の「西大塚」も約67mですが、範囲は詳しく分かっていません。後円部の土が流され礫層が露出していましたが現在は復旧されております。
 展望台から西ふもとの日岡神社へ向かう途中、ひれ墓伝説の「稲日太郎姫(いなびのおおいらつめ)陵」前を通りますが、御陵のために敷地内へは立入禁止になっています。まだ発掘調査をされていませんから詳細も不明です。「前方後円墳」となっておりますものの、明治16年に宮内省より景行天皇の皇后の陵墓に制定され、同36年には円墳を土盛りした、など多くの疑問点があります。
 ほかにも日岡山周辺には5〜7世紀ごろなど共に、時代の不明なものを含めますと30〜40基が『加古川市遺跡分布地図』には記載されています。
                         2010・11・15 岡田 功(加古川史学会)

公園墓地西北側の竹薮内にある「勅使塚古墳」
公園内にある「南大塚古墳」
南大塚古墳北側の「西大塚古墳」
宮内庁管理の「日岡陵古墳」