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第五回:日岡山古墳群(ひおかやまこふんぐん) A

 日岡山公園一帯は、桜が満開になるころ連日にわたって大勢の人が押し寄せ賑やかな宴が催されます。皆さんが日常生活の中で憩いの場所として求められ散歩される公園周辺には、『加古川市遺跡分布地図』によりますと30〜40基も古墳が散在しているのです。歴史的な背景を考えた場合、公園北方の神野(かんの)町一帯の古墳群と併せて「西条・日岡山古墳群」として見なければならないようです。日岡山は3〜5世紀の前期古墳や朝廷とのつながりを示す「同氾鏡(どうはんきょう)」などが出土していますのに、消滅や残っていても保存状況が悪いためか市の指定しか受けていません。
 それに比べ、西条古墳群での三基(人塚・尼塚・行者塚)は古墳時代中期に築造されたにもかかわらず、国指定の史跡になっています。しかし、弥生時代の墳墓「西条52号墳」や周囲に散在の60基以上ともいわれています大小の古墳は、宅地造成などで残念ながらすべて消滅してしまいました。
 三基の古墳の中で注目されるのが、前方後円墳で県下では五番目の規模で101mの「行者塚」が挙げられるでしょう。古墳の周囲を巡らす「周濠」は前方部以外には綺麗に残っています。そして、当時は貴重でありました中国や朝鮮製の副葬品が見つかっていることでしょう。偶然ではなく、海外との交易の港があり入手できる人物ではなかったかと思われるからです。
 港に関しては以前に「鹿児(かこ)」で一部を紹介しています。奈良時代に著す『日本書紀』応神13年の「鹿子水門(かこのみなと)」は、同じく奈良時代の『播磨国風土記』に見える「印南之大津江(いなみのおおつえ)」と同じ地域の港とされ、当時の加古川河口になる東神吉町(ひがしかんきちょう)砂部(いさべ)・米田町船頭(ふなもと)周辺に築かれていたと考えられるからです。港の近くの集落跡とされる「砂部遺跡」からは、朝鮮半島伽耶地方の作風を持つ須恵器も出土しています。
 「鹿子水門」「印南之大津江」は瀬戸内海に面しているだけでなく、加古川および由良川の河川を通じて日本海へと出られましたから、中国や朝鮮半島と交易する、とても重要な拠点港でもありました。それらに携わり掌握していた人々が、「西条・日岡山古墳群」のなかでも「行者塚」に葬られている人物が中心的な存在であった、とも言われています。それだけに、「西条・日岡山古墳群」は、日本の歴史を考えるうえで重要な位置を示している、といえるのです。
 公園を散歩しているとき、古墳に遭遇したならば壮大な歴史の流れの中で、遠い昔の人々の生活へ想いを馳せてみるのはいかがでしょうか。 

                                                               20101120 岡田 功(加古川史学会)

加古川大堰付近から見た国の史跡「西条古墳群」 前方後円墳で県下では五番目の規模で101mの「行者塚古墳」