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第十九回 日岡山神社の伝説A
第二十回 日岡山神社の伝説B
第二十回:日岡神社の伝説 B

 大野の日岡神社境内にある神社は、もともとJR加古川駅の南、旧山陽道(西国街道)に面した加古川町寺家町(じけまち)に鎮座していました。近年、山陽本線や加古川線の駅周辺での高架に伴い一帯が区画整理される中で、昭和46年には現在地へ移されています。跡地には銀行が立ち、かつての周辺の面影は消えてしまいましたが、西隣の「鳥居会館」の名称が当時を知る名残でしょうか。
 注目されるのは、神社が所在していた小字(こあざ)名「居家(禮・いや)河原」です。「きちんと整った祭り」の意味があり、『加古川市誌@』には「河原にて御祖神を祭り」と説明していますが、かつて一帯が「河原」であったことが共通で二つの状況を含んでいると考えられます。一つは加古川の流れになります。現在の流路になる江戸時代中ごろまでの河川は、加古郡と印南郡の郡界が設定されていたように、加古川町本町と寺家町との間が主流でした。寺家町は加古川の河原を中世後期に開墾された土地ですから、古代においては神社周辺も当然ながら同じ環境ではなかったでしょうか。もう一つは、奈良時代の『播磨国風土記』に記す「印南之大津江(いなみのおおつえ)」の港が対岸の東神吉町砂部(いさべ)周辺にありました。河口が東西に大きく広がり湖のような湾になっていましたので、寺家町も古代には海岸線の加古川河口に位置していたのではないでしょうか。ましてや加古川は低い分水嶺で知られ、古代には河川を通じて日本海へと通行していたのです。
 日岡山は国家の通信基地で福留は内陸交通の拠点、寺家町は港や海岸の要所にあるのが分かります。少し大胆な意見かもしれませんが、都から日岡山へ重要事項や海外からのお客さんが通過するのを伝え、それぞれの拠点にも連絡が行く。逆に、海の状況や各地からの情報が報告されていたのではないでしょうか。『峯相記(みねあいき)』の伝説には、「日岡」の起源、由来について「おそれつつしむ」とあります。いろいろな意味も含めて、国家の重要な場所のため老僧は著せなかったのかも知れません。
 江戸時代の『播磨鑑』には、寺家町の神社が街道沿いにあったため大野へ移したとあります。推測が許されるなら、古代から中世へと移る時代の流れの中で街道の整備から馬などでの移動が簡単になり、海上も大型船が往来するようになったのでしょう。三神社が果たしていた通信や監視などの役割は不要になったのかもしれません。各神社は江戸時代を迎え、本来の神社として一ヵ所に集約されたのが、もともとの意味とも考えられます。
 伝説を別の方向から見たものの憶測や推測部分が多いですから、今後は裏付けされる事柄を検討しなければならないようです。
                           20111213 岡田 功(加古川史学会)


加古川本町と寺家町の境
大鳥居会館