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第十八回 日岡山神社の伝説@
第十九回 日岡山神社の伝説A
第二十回 日岡山神社の伝説B
第十九回:日岡神社の伝説 A

 「日岡」の名前がつく神社が三ヵ所に所在していましたーー
 一つ目は、日岡山展望台の西ふもとになる加古川町大野です。
 二つ目が同じ神社内に、昭和46年には加古川町寺家町(じけまち)から移転され鎮座しています。元の地にはありませんから、過去形にしました。
 三つ目は展望台の東方で、加古川左岸に流れ込む曇川(くもりがわ)沿いの神野(かんの)町福留(ふくどめ)になります。
 それぞれの神社の創立や沿革などについては、ほとんど不明な部分が多いようです。ただ、前回に記した「石舟」に乗ってやって来た、という養老(717〜723)年中がひっかかりました。『播磨国風土記』を著した年代と同じ奈良時代になるからです。当時の地名のいわれや地形、地誌は風土記に記述する内容とはほぼ同じではないか、と考えられます。風土記の記述をもとに三社の立地などを地図に記入して検討したところ、歴史的、地理的にも重要な位置を示しているのが分かってきました。
 まず、大野の神社について説明します。以前に【日岡と氷丘(ひおかとひおか)】で書きましたように、「ひおか」と名付けた理由を紹介しています。「ひ」は古代の情報伝達の手段の一つである「のろし」などの意味があり、発着信する山であると思われます。
 朝廷へ提出された風土記には「おはなし」の形で見えているものの、地名の重要性だけを訴えています。現在なら通信機能はすべて機械に任せておけますが、当時は伝達をしたり受けたりするのはすべて人の手に頼らなければなりません。携わる方と神社には何らかのかかわりがあったとも考えられる重要な地点になるからです。
 福留はどうでしょうか。中世には「福富村」と記載する史料の地域ですが、神社のそばを曇川が流れています。川が大きな意味を持っていたと、以前には【曇川の流れに】の中で詳細に紹介しています。風土記の記述する内容には、加古川と明石郡・賀古郡の境界付近を流れていた瀬戸川とを結ぶ水路は「賀意理多之谷(かおりだのたに)」として描かれています。現在の曇川になり、途中には福留が位置しているのです。
 特に、瀬戸内海の賀古郡沿岸周辺で航行できない状況のときには、菅原道真をはじめとする海外からの使節や多くの人が通行したのではないでしょうか。中世の福富や現在の福留周辺で港などの存在は不明ですが、行き来する人々へ何らかの影響を与えた地にやがて神社が建立されたのではないかと考えられます。
                                                       20111202 岡田 功(加古川史学会)


福留の日岡神社
福留の日岡神社の近くを流れる曇川