恋 文

 その便箋は本当に真っ白だった。雲よりも雪よりも白かった。窓から入り込んでくる明るい日差しに照らし出されて、本来よりも更に眩しく白く光っていた。
 机の上には、その便箋と同じくらいに白い手が、鷲ペンを綺麗な形で持ったまま置かれていた。爪がだけが淡い桜色に仄かに色づいていた。
 その右手は、羽根ペンの先をインク壺に浸し、黒い青に染めた。ゆっくりと便箋の上まで持っていき、慎重にその上に下ろす。小さな蒼い染みができて、それを広げていく。
 滑らかに動く筆先は、少し尖ったような、均一な文字を書き出した。うつくしいというより、とめやはねにほどほどに忠実な、読みやすい文字だ。
 神経質に整った爪の先が僅かに震えた。それを抑えるように、その手は乱暴に文字を綴っていく。
 かりかりと、微かな、ペンが紙を引っ掻く音がする。
 まるで何かに追われるように、次第に動きが速くなっていく。
 ペン先が紙に擦れる音が大きくなっていき――

  が り っ

 と音を立てて、白い便箋に一本の細い亀裂が入った。
「……」
 ルックはしばらくそのまま固まっていた。
 今まで書き連ねた文字が見事に取り消される。
 静止したペン先からインクが滲み出て、蒼い染みを広げていく。
 それに気づいたルックは、一拍の間の後、腕を上げた。紙を取ると、下の机にまで僅かに滲んだインクが溜まっていた。
 染みを汚れた紙で拭き取ると、それをくしゃくしゃに丸め、机の脇に置かれた屑入れに捨てる。
 しかし、すでにその中は他のあまたの紙屑で満たされていて、投げられた紙屑は彼らにはじき出されてほとりと床に落ちた。
 それを無言で眺めてから、ルックは羽根ペンの先を布で拭い、インク壺の蓋をきっちりと締めた。机の隅に退けて、次に広げた真っ白い便箋を閉じて引き出しの中に閉まった。
 そして最後に、机の上に組んだ腕に、静かに面を伏せた。

* * *

「『拝啓 マクドール様
 こんにちは、突然お手紙差し上げて、さぞお驚きのことと思います。でも、どうしてもこの思いを伝えずにいられなかったのです。どうか私の告白をお聞き届け下さいませんでしょうか…』」
「…文法間違ってるんじゃない」
 ルックはそう言って、それ以上も読み上げようとする相手の声を遮った。セオはだるそうに仰向けに転がったまま、悪趣味にも自分に出されたラブレターを朗読していたのだが、その声に便箋をしまうと、掲げた手から放した。手紙は白い蝶のようにひらりと舞い、ルックの足下に落ちた。
 それを拾い上げると、封筒の表には目の前で寝台を占領している男の名ルックの知らない女の名が、たどたどしい女文字で書かれていた。きっと必死に文字を練習して書いたのだろう。
 そう思うと、改めて、まったく彼は最低な人間だった。勇気を振り絞ったのだろう女の気持ちを、暇だからと人に公開するのだから。
 嘆息して椅子から立ち上がると、ルックは天井を眺めているセオの懐に手紙を突っ込んだ。その動きがいささか乱暴だったのは、手紙の差出人と受取人、どちらに屈託があったのか。考えたくない。
 懐にねじ込まれて皺の寄った手紙を取り出したセオは、いったんしまった便箋を再び取り出して、手紙の最後を読み上げた。
「『今夜10時 中庭でお待ちしています』だって」
「…10時?」
 ルックは机の上に置いた時計を見た。
 9時42分。中庭までは、ここから早足で歩いて15分程度だ。
「あんた女を待たせるつもり?」
 ルックは師から、精神的にはともかく肉体的には、女性は大切にするものだという認識を植え付けられている。彼自身は、ともすれば女より脆弱だったが。
 セオは寝返りを打って、自分を見下ろすルックを面白そうに見上げた。
「行って欲しい?」
 黒い瞳とまともに目を合わせてしまって、ルックは表面に出さずに狼狽えた。
 何故そのようなことを聞かれなくてはならないのか。ここでもし、自分が行くなと言えば、彼は行かないと言うのだろうか。そんなことはないだろう。彼はただ、聞いているだけだ。それも、嫉妬しているか確かめるだとかではなく、こちらの反応を楽しむように。
 それなのにルックは、行かないでほしいという女々しい思いを言葉にしないために、最大限の注意を払って自制しなければならなかった。
「…とっとと行けば」
 なんとか不自然でない間の後に絞り出せた声は、拗ねたような響きで、ルックは不機嫌になった。
 ぎこちなく彼から視線を外すと、さてその視線をどこへ持っていけばいいのか、困惑する。さまよったそれは結局、床の上に落ち着いてしまった。
 これではまるで、落ち込んで、項垂れたようではないか。
「僕は行って欲しいのかを聞いたんだけど」
 意地悪く言って、セオはまた寝返りを打つ。黒い瞳がルックから遠ざかった。
「……」
 その問いに答えられず、ルックは唇を噛んで、必死に言葉を考えた。考えたが、一向にふさわしい文句は浮かばず、結局その気紛れが頭の上を穏便に通り過ぎることを願うだけだった。
 セオはしばらくの間、返事を待つように黙っていたが、不意に立ち上がって、ルックの傍らを通り過ぎた。ルックは身体を強張らせた。
 それに構わず、セオは机の上の時計を見て、時刻を確認したようだった。
「48分。…ぎりぎり間に合わない、か」
 そう呟いて、それはルックに聞かせるためだろう独り言にしては大きな声だったが、セオは俯いたままのルックの肩に手を掛けた。
 びくりと震えて、ルックは反射的にそれを振り払おうと身体を捻った。手はあっさりと離れた。
「…ルックと喋ってたせいで遅れる」
 言葉を投げてきたのは自分の癖に、セオはそう言った。
 ルックは怒りで眩暈を起こしそうになった。
「…それで?」
「中庭まで送って」
 そのときになって、ようやく、ルックはセオの顔をまともに見た。
 彼はいつものあの笑みを浮かべて、僅かに背の低いルックを見下ろしていた。
 厚顔にもほどがある。
 なんて恥知らず、分からず屋。
 よくもそんなことが言えたものだ。
 よくも、よくも…
 ルックは何か言ってやろうとしたが言葉にならず、口を静かに小さく開けて、それからまた結んだ。それを幾度か繰り返して、結局何も言えなかった。
 だから、微かに震える指先を伸ばして、二の腕に触れて、風を呼んだ。

* * *

 寝台に横たわると、少しだけ温もりが残っていた。
 それに頬を寄せて、シーツを手繰ると、やっぱりそこにも温もりが残っていた。
 ルックはシーツを口元まで引き上げると、目を閉じた。
 彼の匂いが残っているなどと、陳腐なことを考えた。
 無性に寒くなって、ルックは寝返りを打つ。
「どうして…」
 送ってしまったのだろう。
 その理由を考える。
 手紙の差出人に同情したわけではないし、セオの名誉(そんなものがあるのかは知らないが)を守るためでもない。まったく知らない他人のことを思いやるなど、自分はきっとそんなことはしない。
 単に、いたたまれなかっただけだろうか。誰かが中庭で待っているのに、行ってやらない人間といるのが嫌だったのかもしれない。
 よくわからなかった。
 苛々して目を開けると、壁があった。そこに浮いた染みを指先で辿った。
 指先が冷たい。
 壁に寄り添ってみると、低温が、晒された腕に鳥肌を立てた。
 ここにいたらいいのにと思った。そうすれば、きっと暖かいのにと。そして、そんなことを考える自分を嘲笑った。昔は、人の体温が嫌いだったはずだった。
 どうすればよかったんだろう。
 ルックにはわからなかった。
 久しぶりに会ったのだからと引き留めればよかったのか。
 子供のように、駄々を捏ねてみせればよかったのか。
 行くなと、一緒にいてと言えばよかったのか。
 けれどそんなのは、
「らしくないじゃないか…」
 自分を覆うために作り出した殻は、そう簡単に破れるものではないことをルックは知っていた。
 そんなものに縛られるのが、馬鹿馬鹿しいことだとも、思わないわけではない。
 それでも、それがなければ生きていけないのだろうとも思うのだった。
「……ばかだ」
 小さく呟いて、ルックは胎児のように身体を丸めた。

* * *

 眩しい白い光が、採光窓から離れた廊下にまで侵入していた。普段は陰気な石の床も、白や灰色に照らし出され、くっきりと色分けされて、居心地悪そうに縮こまっていた。
 薄い影と濃い影、足下にわだかまるものと遠くまで伸びるものが、幾重にも重なり合ってさざめいている。
 セオはその行方を知ることなく、ある一つの扉の前で立ち止まった。
 目立たない、周囲に異常に溶け込んだ地味な木枠は、必要以上に分厚く見える。もっともそれは見せかけで、実際に引いてみると、いとも簡単に、軽く木が擦れる音だけを慎ましやかに立ててそれは開く。
 セオは扉を叩かず、細い隙間に身体を滑り込ませた。
 向かい側にある窓から射した白い光に目を細める。それを僅かに俯いてやり過ごし、彼は前を見た。
 部屋の隅に置かれた机と寝台。鏡の代わりに書類が張られた鏡台。小さな本棚と、それに収まりきらず、床に積み重ねられた書籍。いつも通りの配置だ。
 しかし、そのどこかにセオは違和感を感じた。
 少しだけ考えて、彼はその原因に思い至った。机の横に置かれた屑入れが、紙屑がはみ出すほどにいっぱいになっているのだ。
 そしてその隣で、部屋の主は、寝台と机の双方の機能を無視していた。
 机に突っ伏したルックの華奢な背が、微かに規則的に上下している。
 セオは静かに扉を閉めると、足音を消してその側に歩み寄った。
 窓から入り込んだ光が、眠る少年を避けて、石の床を白く切り抜いていた。それ以外の空間が、酷く薄暗く見えた。白い四角形の中に入り込んでしまったセオは、一瞬棒立ちになって、それから光に怯える魔物のようにそこから逃れ、ルックの背後に回る。
 薄闇に包まれてほっとしたセオは、足下でかさりと小さな音がしたのに気づいた。見下ろすと、丸められた紙屑がひとつ、転がっていた。
 拾い上げると、見慣れたとは言えないものの、それなりに記憶にある筆跡が皺の合間に覗いた。少しだけ広げると、端正な文字が並んでいる。
 手紙の最初に記されていたのは、形式的な言葉だった。
「拝啓、……」
 そう序されてはいたが、その後に続いたのは人名でなく空白だった。
 セオには、ルックが誰かに手紙を書こうとしたという事実が奇妙に思えたが、そんなこともあるだろうと納得した。それと同時に、好奇心が沸き上がった。
 見下ろせば、俯せた表情は見えないが、ルックは随分深く眠っているようだ。入ってきたときも起きなかったのだから、しばらくは目覚めないだろう。
 そう判断して、セオは便箋の皺を伸ばした。まだインクが乾いていないうちに丸めたのか、文字はところどころ黒く掠れていたが、読めないほどではない。
 人の手紙を盗み見るという罪悪感がないわけではなかったが、それよりも好奇心が勝った。
 しばらくセオは、その手紙に目を通した。
 そうして、随分長い間、途方に暮れたように立ちつくす羽目になった。

* * *

 薄く目を開けると、部屋の中には夕闇が漂っていた。
 しばらくぼんやりとしてから、ルックは緩く瞬くと、ゆっくりと上体を起こした。右手で目を擦り、小さく欠伸をする。
 どうやら、昼寝にしては随分深く寝入っていたようだった。昼寝向きとは言えない体勢だったので、首や腰が痛む。腕も痺れている。よくこれで起きなかったものた。
 あまり認めたくなかったが、昨晩はいろいろと気になってほとんど眠れなかったので、仕方がないかもしれなかった。
 自分がいつ眠ってしまったのかを思い出そうとしたが、はっきりしない。
 だが、眠る直前までしていたことは覚えていた。
 ――手紙を書こうとしたのだ。
 誰かに何かを伝えようとしたわけでもなく、言葉を書いて頭の中を整理したかった。それに、手紙が都合のいい形だっただけのことだ。まさか叫ぶわけにもいかなかったので。
 しかし、気づけば延々と誰かへの文句を連ねていて、しかもそれはどんどんエスカレートしていった。最後は一体何を書いていたのやら、自分でも思い出せなかった。ひたすら黙々と、大量の紙と微量のインクを浪費していただけだ。
 それでも、少しはすっきりしたような気分にはなった。同時に空しさも押し寄せたが、今更だ。
 とりあえず、このことは全部忘れてしまおうと思った。自分のとった行動が恐ろしく幼稚で馬鹿らしく、ルックは思い返して頭を抱えたくなる。
 屑入れを見ると、口の部分までぎゅうぎゅうに紙が詰まっていた。一番頂上の紙屑は今にもこぼれ落ちそうだ。貴重な紙を、くだらないことに無駄遣いしてしまったのが嫌だった。
 この紙は再利用できるだろうか。
 製紙法を反芻して、ルックは即座にその考えを否定した。いったい誰が、そんな面倒な作業をするというのか。第一、こんなものは誰にも見せたくない。読み返すだけで憤死しそうなのだ。
 朧気に記憶している断片が不意に蘇り、ルックは慌てて首を振った。
 屑入れが使えるように、というより自分の精神の安定のために、袋にごみを入れようとして、ルックはふと、入りきらなかった紙屑があることを思い出した。椅子の下を確認し、机の下を覗く。
 しかし、落ちたはずの紙屑はどこにもなかった。
 ルックは首を傾げた。けれど、多分寝る前に無意識のうちに屑入れに押し込んだのだろうと思って、納得してしまった。

* * *

 シーナは、給仕の女の子たちを堪能するために酒場に来ていた。顔見知りに手を振りながら辺りを見回して、珍しい人間を見つける。
 背筋を伸ばして行儀の手本のような姿勢で、しかし誰も寄せ付けないような雰囲気で、黙々と酒と付け合わせを交互に口に運んでいる後ろ姿には、何故か鬼気迫るものがあった。
 円卓に一人きりで座っているセオの、正面の椅子を引く。
 彼はちらりとシーナを見たが、すぐに興味を薄れさせ、酒を呷った。そして付け合わせを箸で摘む。
 その付け合わせを確認して、シーナは眉を寄せた。鰹節をまぶされて、緑色の星の形をした野菜が、容赦なく浅めの皿に盛られていた。
「…お前、おくら嫌いじゃなかったか?」
「制作者だか発見者だかの存在をこの世から抹消して市場におくら禁止令を出しておくら専用害虫を農家に送り込みたい程度には、嫌いだ」
 セオは一息に笑顔で言って、口の中におくらを放り込むと、酒で喉の奥に流し込んだ。シーナは呆れたようにその奇行を見る。
「そこまで嫌いなら食うなよ」
「身近なところから始めてみようかと思ったんだ」
 わけのわからないことを言って、セオは引きつったような笑顔で、またおくらを食べた。そして、その倍ほどの酒で流し込んで、酒の追加を注文した。
 シーナは何も言わず、頬杖をついて乾いた笑みを浮かべながらそれを眺めていたが、給仕を呼んで鶏肉料理を注文した。
「何? 奢り?」
「ただの嫌がらせ」
 にやにやと笑って言うと、セオは無言でシーナの足を蹴った。
 おくらはまだ半分以上残っている。
 セオはそれを、酒で流し込むことすらせずに、ひたすら噛んでは飲み込んだ。鼻の息を止めているのだろう、要らないところで器用である。
 そうしておくらを食べ終えると、さっきよりはましな笑顔で、ちょうど通りがかった給仕に何か注文しようとして、止めた。その少女が行ってしまってから、別の子を呼び止めて注文する。
 彼女が行った後で、シーナは尋ねた。
「なんかあったのかよ」
 そうは言ったものの、シーナはその理由を知っていた。彼女が隣国の英雄、というより、酒場にたまに来る、物腰の柔らかな黒髪の少年を好いていることを知っていたからだ。
 相談に乗ってくれと頼まれ、理不尽な思いをしながら手紙でも出せば、と言って、彼女に文字を教えたのはシーナだ。
 そして、少女から、目の前の友人がどう答えたのかも聞いていた。
「うん、昨日ちょっと」
 今まで忘れていた嫌なことを思い出したように、セオは顔をしかめた。シーナにはその表情の理由がわからなかった。女の子に告白されて、それを振って、どうしてそんな顔になるのだろうか。
 セオは何故か拗ねたように、
「まさかあれで、おくらを食べるはめになるとは思わなかった」
「は?」
「予想外に追い出されるし」
 深く嘆息したセオを、シーナはあまり追求しないことに決めて、鶏肉を待った。
 セオは、懐から何か折りたたまれた紙を取り出して、開くでもなく掌の中で弄んでいる。
「何だそれ」
 皺になったものを伸ばして、丁寧に折りたたんだようなそれが気になって、シーナはそう尋ねる。
 セオは唇の端をつりあげて言った。
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