傾国

悪魔の膝上

 ルルーシュが学園に着いたのは、男たちと遭遇してから半時ほど経過した後だった。遠目に窺える窓には灯りはなく、クラブハウスはすでに暗く囲まれていた。一見しても、学園に凶事が襲ったとは思いがたい、静かな様子だ。
 数人の人質がすでに解放されているらしい。まず彼らと面会することを望むと、男たちのうちの二人が進み出て、ルルーシュはクラブハウスに近い校舎の空き教室に案内された。それとは別の教室に対策本部が設置されているようで、いつもと違うぴりぴりした空気が校舎を覆っている。
 辿り着いた大教室の後方に、寄り固まって椅子に座る生徒たちのうちにミレイの姿を見つけ、ルルーシュは声をかけようとした。しかし音を出す前に、彼女は彼の姿に気づき、力なく椅子の上に置いていた腰を上げた。
「ルルーシュ!」
 駆け寄るその顔には、焦燥や不安、罪悪感が滲んでいたが、目立った怪我などはない。ルルーシュはとりあえず安堵し、ほんの僅か、唇で弧を描いた。
「会長、」
 その瞬間、背後から、重い金属音が聞こえてきた。銃を構える音だった。
 ミレイが息を呑み、立ち止まる。こちらを見て身体を強ばらせている生徒たちが、驚愕と恐怖の表情を浮かべた。女生徒の一人の喉から、掠れた息がこぼれた。
 何が起こったのかが容易に知れ、ルルーシュは眉を寄せる。
「アッシュフォード嬢、皇子殿下に不敬を」
 男たちの硬い声が、耳に届く。
「銃を降ろせ」
 振り返らず、鞭打つような声だけではねのけると、ルルーシュは目の前の上級生を見た。
 ミレイは青ざめた顔をしていたが、怪我はないようだった。いつも隙なく整えられたブロンドには乱れがある。艶を失った唇が、小さく動いて懐かしい音を紡いだ。
「…無礼を、お許しください。ルルーシュ殿下…」
 腹の前で、両手がきつく握りしめられる。細く長い指が不自然な方向へとしなった。戸惑いを表してゆっくりと膝が折られそうになるのを、ルルーシュは普段通りの声をかけることで止めた。
「会長。今は手短に、話を聞かせてください」
「…はい」
 粛然として首を垂れたミレイに、息をつく。自覚はしていなかったが、彼女のそんな姿を見たくないという気持ちが、ルルーシュの内にもあったらしい。
「おまえたちは下がれ」
 男たちのほうへと視線を流すと、彼らはまだ、銃を構えていた。重たげな先端は、戸惑いに揺れている。傲然と顎を上げると、ルルーシュは目を細めた。冷気を感じさせる表情に、男たちは肩を強ばらせたが、引かなかった。僅かな侮りを隠そうとせず、強い視線で見返してくる。
「殿下。いくらご友人とはいえ、けじめは…」
「私はアッシュフォードに信頼を置いている。…ようやく解放された人質を、銃で再び怯えさせることがおまえたちの任務か?」
 揺らぎない姿勢に、怯みが生まれる。
「しかし」
「室外であれば、待機することを許す。出て行け!」
「…Yes, your highness.」
 渋々と承諾し、男たちは外へ出た。わざと開け放たれた扉はそのままにして、ルルーシュは硬直しているミレイのもとへ歩み寄る。
「無事ですか」
 その言葉に、ミレイは泣き笑いのような表情を浮かべた。緊張に凝り固まっていた顔に、ようやく、かすかな緩みが見える。
「ここにいるメンバーはね。まだ何人か残ってるわ。少しずつ、解放していってるの」
「…ナナリーは」
「…一番最後だと思う」
 低い声に、ルルーシュは息をついた。皇女の素性が犯人側に知れている以上、仕方のないことだろう。それでも、胃に嫌な圧迫感をおぼえた。口中で、妹の名を小さく呟く。いつもの倍の速さで、喉が渇いていく。
「ごめん、私ははじめに解放されちゃったの。それ以降のことは…」
 ミレイは翳りを帯びた表情で謝罪した。ルルーシュは衝動を抑えつけ、叫ぶのを堪えた。
「いえ…よかったです、会長からなら、冷静な話を聞けそうですから。それと、伝言のおかげで、助かりました」
「ああ…あれね」
 ミレイは表情に困ったように頬を動かした。自分のとった馬鹿馬鹿しい言動を思い返す程度の余裕はできたのだろう。申し訳ないという表情で、ごめん、つい、と呟く。
 この人もたまには反省するのだなと考えて、ルルーシュは少し肩の力を抜いた。二人の間に沈黙が流れ、その気まずさが苦笑を刻ませる。張り詰めた空気が僅かに緩む。
 その隙間に入り込むように、誰かが囁いた。
「――…殿下?」
 はじめ、そのか細い声を、ルルーシュは無視した。ミレイはちらりとそちらを見て、困り顔になって目を伏せた。
「皇子殿下、」
 二度目の呼びかけに、ルルーシュはすっと視線を滑らせた。
 見知った顔が、緊張感を湛えてこちらを見ている。寄り添い、固く握られた拳が並んで、かすかに震えていた。じっと目を見ようとすると、彼らは素早く、目を伏せて表情を隠した。学園で恐れられる教師相手にでも一歩も引かずに交渉する生徒たちだが、降って沸いた支配階級の人間には対処を決めかねるのだろう。
 押しつけ合う空気が流れてから、ややあって、フットボール部の部長が頭を垂れた。周りもそれに倣い、深く叩頭する。様々な色合いの髪一斉にうなだれる様は、いっそ滑稽に感じられた。
「今まで… 今までのご無礼を、お許しください、殿下。私たちは」
「ストップ」
 ルルーシュは焦りを込めた強い声で押しとどめると、少し眉を下げた。
「それ、言わないでくれ。不敬罪で逮捕されるから」
「でも、殿下、」
「そんなわけないだろ。俺は皇子なんて柄じゃない」
 ミレイは、大人しく口を噤み、肩をすくめている。浮かべた笑みはぎこちないが、溌剌さのかけらは感じ取れた。彼女は飲み込みが早い。
 そろそろと頭を上げる生徒たちを見て、ルルーシュは唇を湿し、戸惑いを表して視線を動かした。
「いいか、――俺たちの両親は、軍に勤めていたが、元ラウンズのマリアンヌ皇妃の信奉者で… ちょうど同じ年に生まれた息子と娘にも、皇子殿下と皇女殿下にあやかって、そのまま同じ名前をつけたんだ」
 マリアンヌ、と、その名に聞き覚えのある生徒が呟き、知識の共有を求めて目配せし合う。思ったよりもその合図に頷く生徒が多いことに驚きながら、ルルーシュはすました顔で説明を続ける。
「だが、マリアンヌ皇妃はテロで殺害されて、その御子は当時の日本に送られた。エリア11の併合の後に、俺たち家族はお二人を追ってここへ来たんだが、そのときにはすでにお二人は行方不明になっていた」
「亡くなったって、一応、ニュースにもなったわね」
 加わる声はもう震えていない。彼女の胆力にはルルーシュも感嘆するほかない。
 ミレイを振り返り、ルルーシュは困り顔で首を傾げた。それでいいと、その仕草で伝える。彼女の表情から強張りが薄れるのが確認できた。
「ええ、もともとそんなに継承権が高いわけでもなかったんです――俺とナナリーの名前は、そういう由来があるだけだ。偶然の一致というわけではないが、俺たちにしたら、とんだ迷惑だよ」
「終戦後は、いろいろ妙な勘ぐられて、うちも対応に困ったものよ」
 ミレイが肩をすくめる。
「アッシュフォードもマリアンヌ皇妃とは縁が深いからね。でも、皇子と皇女の名前と一緒だからって、こっちの二人に改名してもらうっていうのも、おかしな話じゃない?」
「それは…」
 生徒たちの間に、さざなみのように困惑が広がる。
「だが、おまえ、さっき… 自分が皇子みたいに命令を…」
 また別の、今度は文化系らしいひょろ長いシルエットの男子生徒が、銀フレームの縁を押し上げて追求してくる。彼を睨みつけて、ルルーシュは声を低くした。
「ナナリーが捕まっている」
「あ…」
 男子生徒はぽかんと口を開いて、申し訳なさげに俯いた。
「ナナリーを助けるためなら、何だってしてやるさ」
 ルルーシュ、とミレイが諫める声をかけてくる。
「わかっています、会長。別に、あなたたちのせいだと思っているわけではありません」
 これはイレギュラーだ。学園にテロリストがやってきたことも、妹がそこに居合わせたことも。今は原因より、どうすれば求める結果を出せるのかを考えるべきだった。
「…一般人だとわかれば、ナナリーは見捨てられてしまうかもしれない」
 喉の奥に焦燥がこみ上げてくるのを、ルルーシュは唇を噛んで耐えた。この吐露は、まったくの本音だった。実際、もしナナリーが皇族の名乗りを上げなければ、人質となった生徒たちは、こんなにも早くに、そして全員が無事では解放されなかっただろう。皇女の命の単価が、他の生徒たちの値を低くしたのだ。
 ナナリーがそこまで計算したのかはわらかない。ただ、何にせよ、それが妹の優しさを表した行為なのだ。彼女の柔らかな笑顔が思い出されて、ルルーシュは拳を握る。
「…ルルーシュ、ごめんなさい。私たちも、手がかりになるようなことがないか、思い出してみるわ」
 口を引き結ぶ彼を遠巻きにする中、やがて真っ先にそう言ったのは、乗馬部の会計だった。ルルーシュが一応は所属を置いているだけあって、日頃から彼に好意を隠そうとしない少女だ。
 彼女をきっかけに、次第に周囲に、理解の輪が広がっていく。ルルーシュと比較的よく話をする男子生徒が、驚いたじゃないか、と嘆息して、ぎこちない笑顔を向けてくる。それに苦笑を返すと、ほっと安堵の息をつかれた。
 だが、ここにいる生徒たちが皆、まったく疑いを持たないわけがない。アッシュフォード学園には貴族の子弟が多いし、それらの多くはただの愚者ではない。ここでミレイが口止めしたとしても、誤魔化しきれるとは思えない。現に幾人かの視線は、いまだに警戒を解かれないままだ。フットボール部の部長や、先ほど質問をしてきた男子生徒も、そこに含まれている。
 しかしルルーシュは、平然として、不安げなミレイを見た。彼には左目がある。この程度の数であれば、彼女に不自然さを感じさせずに事実をすげ替えるくらいはできる。狙われたのが白昼の学舎でなかったことは幸いだった。
「詳しい情報を教えていただけますか」
「…わかったわ」
 ミレイは頷き、ルルーシュの期待以上に明快な説明をした。クラブハウスにいたときに攻撃されたこと、相手は皇女がいると知って狙ったわけではないこと。男が誰か、上の地位にあるらしい人間と電話で話していたこと。人質は少人数でいいと嘯き、選ばれて恐慌状態に陥ったニーナを庇い、ナナリーが人質として自ら進み出たこと。
 ところどころ、道すがら聞かされていた話と食い違っている点があり、ルルーシュは眉を寄せたが、黙っていた。彼女をこれ以上混乱させても益にはならない。
「流れとしては、こんなところかしら」
「だいたいのところは把握しました」
 ルルーシュは頷くと、神経質に鼻の頭に皺を寄せた。それでもまだ、情報は足りなかった。彼女以上のことを把握しているとは思えないが、僅かな期待をかけて見やると、他の人質たちは困惑の目線を返すか、怯えたように視線をずらすだけだった。先ほど協力を申し出た乗馬部の会計も、申し訳なさそうに目で謝ってくる。ルルーシュは諦めて、他に手がかりを得る手だてを探る。
「…軍の人間は何か言っていましたか? ――スザクは…?」
「スザク?」
 ミレイは瞬いて、首を傾げる。
「どうして?」
「ああ、いえ、いいんです。来ていないのなら」
 この学園にいると聞いていたが、どうやら友人は、ミレイたちの前に姿を見せていないらしい。スザクの性格を考えると、彼女らの身を案じてこちらへ来ていそうなものだが、名誉ブリタニア人の技術者であれば、軍内での地位が高いとは思えない。そう簡単には身動きがとれないのだろう。
 内部事情を聞こうという当てが外れて、ルルーシュは苛立ちに踵を鳴らした。
 その様子を慮ってか、ミレイはためらいがちに声をかけた。
「ルルーシュ、もう一つあるの。これは、私の推測なんだけど、見てた感じ、間違いないと思う」
「なんです?」
「犯人、軍人よ」
 ミレイは男がブリタニア軍の軍服を着ていたことを話した。それだけでは根拠にはならないどころか、ミスリードを誘っているとしか思えないが、彼女はさすがに気丈だった。不安を押し殺して、周囲の様子を冷静に観察していたらしい。
「あの人たちの様子がおかしいのよ」
 開け放たれたままの扉に目をやり、ミレイは声をひそめた。
「私は仕方ないけど、みんなはまだ、家族に連絡をとらないように指示されてるの。携帯もとられた。…何か外に漏らされたくない事情があるんじゃないかって考えちゃうじゃない」
「…興味深い説ですね」
 言われてルルーシュは、その仮定で解決できる違和感に気づいた。おかしいと思っていたのだ。ブリタニアでは、治安維持はたしかに軍の仕事だ。皇族が出てきたとあってはなおさらだが、それにしても、この現場には憲兵の介入がなさすぎた。
 ルルーシュも軍の内情についてはそれなりに把握している。クロヴィスの死後、その配下がコーネリアの派閥に吸収され、その軋轢がいまだくすぶっていることも知っていた。その余波が、こんなところに飛んできたのだろうか――だが、それでも、なぜこのアッシュフォード学園を選んだのかが解せない。
 考えすぎても堂々巡りになるだけだ。思考を切り替え、ルルーシュはミレイを見た。
「命令系統も混乱しているらしいな。俺を迎えにきた奴らはともかく、さっきの奴らは、会長の伝言をそのまま伝えるようなタイプではありませんでしたから」
 ミレイは黙って苦笑した。
 ルルーシュが聞いたところでは、要求はまだ伝えられていないということだった。途中まで、犯行グループと軍との通話の傍らにいたというミレイも、彼らの要求が不明瞭で、意図を掴ませないものだったことしかわからない。口を閉じたルルーシュに、ミレイも軽口を控える。
 黒の騎士団を動かすわけにはいかない。少なくとも、この件が表立った騒ぎにされない間は、軽々しく協力を求めることもできないだろう。彼らはまだ完全に、ゼロに心を許してはいないのだ。今は、ルルーシュの意図通りに動く手駒が必要だった。
 無意識に抑えていた左目に気づいて、ルルーシュはゆっくりと髪を掴む。ギアスを使うことにためらいはない。犯人に直接使うことも、もちろん考えた。距離を問題視しなければ、対象の側に近づくことも可能だろう。
 ルルーシュは自分の靴先と、そこから伸びる二本の脚を見た。震えてはいない。肝心なときに、役に立たないということはないだろう。しかし、自分が思い描く動きができると、楽観することはできなかった。
「ルルーシュ」
 ふと、ミレイが腕を叩いた。思考から醒めて彼女を見ると、視線でそっと、扉の方を指す。そこではじめて、ルルーシュはその声に気づいた。開け放たれた扉の向こうから、言い争いが聞こえていた。