傾国

左目の失策

 ――疲れた
 ルルーシュは暗い道をとぼとぼと歩く。いつもは険さえ感じさせる肩は、うなだれて、丸いラインを影に落としていた。
 母が殺されたときも、重篤状態から意識が戻った妹に残された障害を知ったときも、はじめての友人と過ごしたあの夏の日々が終わりを告げたときも、彼はいまだかつて、そんな歩き方をしたことはなかった。左肩にかけた荷物を、こんなに重く感じたこともない。
 時刻はすでに遅く、夕暮れの橙の名残が山端に留まっているだけだった。白い月は傾いて、灰色の靄を纏い、弱々しい光を放っている。ブリタニア人である自分にはわからないが、日本人なら、こういった情景も、風情があるといって楽しめるのかもしれない。昔、スザクがそのようなことを言っていた。部屋が暗いと文句をつけたルルーシュを、これだからルルーシュはと詰ってから、楽しそうに。
 思い出した笑顔に、ルルーシュは目を細めた。
 やがて、道の脇に並ぶ街灯が点滅したかと思うと、一斉に光を灯した。
 薄い光に打たれて、ルルーシュは立ちすくんだ。首の裏には汗が滲んでいる。そこに冷たい風が吹きつけ、彼の身体を冷やした。ぞっとするような心地が、全身に広がった。光は、スポットライトよりも、尋問室の明かりに似ていた。
 自分の罪を照らし出されたような気がした。
 白衣を着た見知らぬ男がいきなり正体を言い当てた後、ルルーシュは即座に男にギアスをかけた。同時に、目を見ていたらしい女も動きを止め、スザクは、ルルーシュの鋭い命令と二人の突然の変異に驚いてこちらを見てきたところで、視線をさらった。
 棒立ちになった三人に、ルルーシュがそこを訪れたこと自体を忘れ、空白の時間を不審に思わないように、事務員の男にも質さないように、しばらくそこで待機して、外からの切欠によって動くようにと、それだけ命令した。
 そして、逃げてきた。
 うつろな目をして従順に自分の名を呼んだスザクを見ていられなかったのだ。紅く染まった瞳に見つめられたとき、取り返しのつかないことをしたのだと悟って、それ以上彼の前に立っていることができなかった。気がつけば、彼を置いて走り出していた。
 事務員の男にどうにか辞去の意を述べ、大学部を出て再び遠出し、それから、まず最初に、スカートを脱いだ。惨めな気分だった。スザクの言葉と白衣の男の言葉が、ぐるぐると頭を回っていた。
 ――なんだったんだ、あの男は!
 ルルーシュは思わず、手近にあったコンクリートの壁を殴った。ざらついた壁面に肌が擦れ、皮膚が裂けた痛みが走ったが、それも、苛立ちに比べればどうということはなかった。目に映るものすべてを、壊し尽くしてしまいたいという暗い衝動が、身のうちを荒れ狂った。子供の癇癪だと、奥歯を噛みしめてそれを抑える。
 スザクに、あんな愚かしいことでギアスを使うことになるなど、誰が想像できただろう。
 不意にそう思い、ルルーシュは思わず涙ぐんだ。
 ――どうせなら、もっと…
「失礼」
 硬質な声が前方からかかり、ルルーシュははっとして顔を上げた。
 ルルーシュが立つ場所から数メートル先の街灯の下、数人の男たちが、整然と姿勢を正していた。
 全員が厳しい顔つきで、固そうな布を身に纏っている。それが、軍服であると気づいて、ルルーシュは薄闇に紛れて青ざめた。よく見れば、彼らの高圧的な態度は、わかりやすく、軍人であることを主張している。
 アッシュフォードに匿われて以降なくなってはいたが、まだその後ろ盾を得ていないころ、何度か軍部に、身元の証明を命じられたことがあった。切り抜けるのには、幼い身では、随分と苦労したものだった。そのころ感じていた緊張が蘇るのを感じる。
 密かに深呼吸をして、ルルーシュは男たちに向き直った。
「…はい。何でしょうか?」
 無害を装った声で、首を傾げる。
「アッシュフォード学園高等部生徒会副会長、ルルーシュ・ランペルージさまかとお見受けしますが、違いありませんか」
 相手の口調は、ほとんど確認だった。
 名指しの質問には嫌な思い出しかない。つけられた敬称に嫌な予感がしたが、名前などは、どうせ調べればすぐに知れることなので、否定することはできないかった。仕方なく応じる。
「そうです、何か」
「ということは、神聖ブリタニア帝国第十一皇子、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア皇子殿下であらせられますね」
「――」
 目を見開いた。
 どん、と大きな音が頭蓋の中に響いたかと思えば、それは鼓動だった。胸を内側から叩きつけるように、心臓が跳ね、鞠のように弾む。
 その音に促されたように、目まぐるしく、可能性が脳裏を巡っていく。白衣の男にかけたギアスが不完全だったのか、あの頭の中から、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアという皇子の存在自体を抹消させなければいけなかったのか。それとも、別の要因があっただろうか。どこかの貴族に存在が漏れたか、皇族に近しい人間に写真が渡りでもしたのか――ついにアッシュフォードに売られたか。
「…は」
 薄く開いた唇から、白い呼気が漏れる。
 いつか、こんな日が来ると、ずっと怯えていたはずだった。
 それなのに、ゼロとして力を手に入れた途端、それを忘れていた自分を、ルルーシュは自覚した。あの学園は平和で安全なのだと、どうして、そんな勘違いをしていたのか。
 混迷の渦に叩き込まれたのは、そう長い時間ではなかった。自分を叱咤すると、数瞬で意識を取り戻し、ルルーシュは、畏れ多い、という顔をつくる。
「…不敬な冗談ですね。いったいどのような故あって、」
「信じられないのも無理はありません」
 男たちは冷静なままだった。その面の皮を、引きむしってやりたいとルルーシュは思う。
「アッシュフォード家は随分、念入りにあなたがたを隠されていたようですから。…実は、」
 険しい顔をした男は、不意に声を低く鋭く潜めた。
「――本日、アッシュフォード学園に、イレヴンのテロリストどもが乱入しました」
「!」
 息を呑むと、再び心音がうるさく鼓膜の奥で響く。同時に、外気の冷たさとは関係なく、指先から心までが冷えていくのを感じた。強ばった指に引かれて、左肩に提げていた鞄が、重い音を立てて地面に落ちる。それを、止めることはできず、ただ重力に従わせるままにした。
 投げられた言葉を理解できないとでもいうように、ぼんやりと立ちつくすルルーシュを置いて、男は続けた。
「そこで女子生徒が数人、人質にとられたのですが…ルルーシュ殿下。妹君であられるナナリー皇女殿下が身代わりを名乗り出られ、現在もまだ、人質の身になっておられます」
「…ナナリー?」
 ルルーシュは呆然と呟いた。その名が口からこぼれることだけは、いつも抑えきれなかった。
「ナナリー…が?」
 信じられなかった。
 いつも、自分たちの境遇をわきまえ、大人しく隠匿されている妹だった。逃げ隠れる生活に、疲れ切った様子を見せることの多かった彼女だが、弱音を吐いたことも、下手を打ったことも一度もない。それがどうして、そんなことになったのか。
「ひとじち、…」
「お慰めになるかはわかりませんが、殿下」
 自失して、囁くように口ずさむルルーシュを、男は少し同情するように見た。
「人質のうちに、先日河口湖でも人質にとられていた娘がおりまして…それがその、別室に連れ去られそうになって、恐慌状態に陥ったため、ナナリー殿下はやむを得ず、身分を明かされたのではないかと」
「……」
 男を凝視したまま、しばらく息を詰めた後、肺の中の空気をゆっくりと排出しきり、ルルーシュは息をついた。
 恐慌状態に陥るというなら、ミレイではないだろう。シャーリーも気丈だから、おそらくは、男、特にイレヴンに恐怖を抱いているらしいニーナだ。彼女とナナリーは、つき合いが長いだけあって、そこそこ仲もいい。優しい妹は、保身よりも、彼女を救うことを選んだのだ。
 ナナリーらしいと、ルルーシュは苦笑する。なぜルルーシュの意思を汲んで潜んでいてくれないのかという焦燥もあったが、その行動に対する兄としての感慨は、それを上回った。そんな場合ではないのに、胸に、うれしさが滲む。
 納得はできた。状況も、ある程度、想像がつく。
 しかし、これが罠でないとも限らない。
 ルルーシュは改めて、男たちを観察した。軍服を着ていることはたしかだが、部署ははっきりしない。軍人らしさは否定できないが、本物の軍人であるかは、判断できなかった。もしそうだとしても、そもそも、どうして軍がこの事態に介入してきたのかがわからない。
 うろんげな視線に、男は視線を落とした。
「信じてはいただけませんか、殿下」
「ナナリーのことはともかく、…俺は、殿下と呼ばれていたことはありませんから」
 そう応じると、複雑そうな顔でルルーシュを見て、男は息をついた。
「では、仕方ありません。…ミレイ・アッシュフォード嬢から、伝言を預かっております」
「…何」
 本当にミレイの言葉なら、信じるに足る。
 眉根を寄せて促すと、男ははじめて、動揺の気配を漂わせた。それから、一度空咳をし、「私の言葉ではありません」と前置きした。ルルーシュが不審げに見ると、視線を逸らし、殊更に何かを読み上げるように中空を見る。
「…『誇らしげな顔してるんじゃないわよ、シスコン野郎』」
 瞬く。
「、な……」
 数テンポ遅れて、あまりの言葉に、ルルーシュは頬を引きつらせた。
 男が、少し気の毒げな顔をして見てくる。その屈辱をおぼえさせる表情に、どうにか罵りを吐こうとするのを取り繕った。気難しげに押し黙ったルルーシュに、機嫌を損ねたと思ったのか、男は言葉を重ねた。
「あの…アッシュフォード嬢が、どのような意図でおっしゃったことかはわかりませんが」
「だろうな。いい、わかっている」
 彼女以外の誰にも、真似のできない伝言だろう。
 ルルーシュは、幾分かの冷静さを取り戻すことができた。演じることをやめ、高みからうるさげに手を振ると、その皇族を思わせる雰囲気に、男たちはほっとしたように雰囲気を緩めた。先ほどの高圧的な様子はすでに薄れている。
 ブリタニアの狗、とルルーシュは心のうちで嘲る。弱者には牙を剥き、強者には尾を振る。今までも、これからも、ルルーシュの軽蔑の対象であり続ける存在だ。
 しかし、黒の騎士団が動かせないこの件では、ナナリーを無事に救い出すために必要な駒だった。
 彼らを窺うこともせず、ルルーシュは鞄を拾い、歩き出した。男たちが慌てて、軽鴨の子たちのように背後についてくるのが鬱陶しい。
「…現在の詳しい情報をもらおう。犯人は何人だ。人質になっているのはナナリー一人か? 立てこもったのはクラブハウスのどの部屋だ。要求はすでに出されているのか」
「はい、それは…あの、殿下、アッシュフォード学園へ参られますか? それとも、軍のほうへいらっしゃいますか?」
「学園に決まっているだろう!」
 妹が助けられるか、あるいは殺されるかするのを、遠く離れた場所で待っていろとでも言うのか。
 声を荒げ、冷静になりきれない自分に舌打ちして、ルルーシュは問いを続けた。
「…軍と言ったな、おまえたち、いや、担当しているのはどこの部隊だ。――義姉上、コーネリア殿下は、今は租界を出ていらっしゃるだろう」
 今は東北のレジスタンス活動を抑えに、騎士たちと共に遠征しているはずだ。
 男は頷いた。
「ご存じでしたか。…これは幸いでしたが、実は現在、学園大学部に、駐在している部隊があるのです。高等部の騒ぎを聞きつけて、軍本部に連絡をしてきたのですが、ちょうどそこに…、殿下?」
「……」
 ぴたりと立ち止まった後、ルルーシュはすっと視線を落とし、自分の姿を見下ろした。懸念は杞憂だった。スカートは履いていない。
 今のルルーシュの救いは、それくらいだった。