傾国

天使の背中

 ミレイの左手には縋りつく身体が、右手には小さな温もりがあった。それらは彼女の腕や手のひらにかすかな震えを伝えて、ふっくらとした唇を硬く噛みしめさせた。
 放課後のアッシュフォード学園クラブハウスは、主たちの性質を反映してか、いつもは穏やかな静けさに満ちている。そこで起こるすべての騒がしい出来事は、たとえミレイの発案であろうと、予定調和のうちに終わり、それ以上に発展することはないはずだった。そのように管理することに、アッシュフォード家は――特にミレイは、多くの力を注いでいたのだ。
 しかし、今そこにある沈黙は、帯電をしているかのように、緊張に張り詰めたものだった。その原因は、パーティルームの中央から少し手前に佇む男である。
 その男は、腕をテーブルに置き、右手をこちらに向けたまま、ミレイたちから片時も目を離さなかった。
 顔には気取らない、自然な表情が浮かべられている。手に握られた銃さえ見えなければ、ごくふつうに座っているとしか思えないような気軽さだ。
「あーはいはい、わかりましたよ」
 送話口に向かう言葉は軽薄だが、茶色い目はある程度の知性を持っているように見えた。
 男の前、ミレイをはじめとした生徒たちは、階段上の壁際に集められ、座り込んでいる。拘束はされていないが、銃を向けられた状態では、不用意に動く気にはなれない。全員が、大人しく縮こまっている。
 そのもっとも矢面に膝を突いて、ミレイはじっと、男を見つめていた。
 時計が見える位置にいないため、正確なところはわからないが、男がクラブハウスに押し入ってきたのは、もう一時間以上は前のことだ。
 そのとき生徒会室にいたのは、仕事中だったミレイとニーナ、自室を出て遊びに来ていたナナリー、そして予算申請をしていた複数のクラブの部長、会計たちだった。その皆が寄り添って、ミレイのように男を凝視するか、あるいは目を逸らして、震えている。仲のいい生徒たちも、そうでない者たちも、抱きしめ合っていた。
 ミレイも両脇に、ニーナとナナリーを抱え込んでいた。
 ニーナの肌は冷たく湿ったまま震え続けており、ナナリーは、彼女ほどではないが、不自然に呼吸が乱れていた。そう判断するミレイ自身も、さすがにいつも通りの余裕は保てていない。心臓が高鳴るうるさい音も、それにつられて叫び出しそうな衝動も、抑えることは難しかった。
 それでも、事情によっては、ミレイだけで人質を買って出ることもできたのだ。背後の人質たちのうちには、アッシュフォードよりも格の高い家の生徒もいるが、今の状況では、アッシュフォード学園の理事の長女であり生徒会長でもあるミレイが、もっとも人質として適しているはずだった。
 しかし、ナナリーがいる。
 ミレイは、彼女から目を離すことができなかった。ナナリーが見つかる可能性は、低いようで高い。盲目で、脚の動かない少女。過去のこととは言え、貴族社会では一大事件として話題になった事件である。少し事情に通じた者なら、その名と特徴を結びつけることができるだろう。
 もし、この押し入ってきた男がイレヴンだったなら、ミレイはもっと動きやすかった。
 だが、男が着ているのは、ブリタニア軍の制服だった。その上、外見的な特徴は明らかに、スザクのような名誉の称号を得たナンバーズではなく、ブリタニア人であると示している。
 それならば、ナナリーのことには、慎重になりすぎるくらいの対応をとらなくてはならない。
 ミレイは無意識のうちに、首筋に浮いた汗に肩をすくめた。
「ミレイさん」
「え?」
 突然聞こえた声に、ミレイは小さく喉を慣らした。だが、すぐにその声の持ち主に思い当たる。
 ナナリーはほとんど唇を動かさずにしゃべることができるようだった。もともとあまり口が大きくない彼女は、時折、人の形をしたオーディオ機器のように話す。
 視覚がない分、彼女は、他の生徒たち以上の不安と緊張に包まれているはずだ。視線を男に据えたまま、通話の声に紛れさせるように、ミレイは囁いた。唇を動かさないように話すことは想像以上に難しく、かなりくぐもった声になったが、充分伝わるはずだった。
「ナナリー、大丈夫だからね、私が」
 守ってあげるから、と続けようとしたところで、それを抑えるように、ナナリーは続けた。
「私の背中のところに、銃があるんです」
 彼女が何を言ったのか、その瞬間のミレイには認識できなかった。
 電磁銃、という単語が、数秒、頭の中を巡った。そしてばらばらに分解されていたアルファベットに意味をつけられたとき、彼女は音高く息を呑んだ。非難の言葉が、口をついて出そうになる。
 しかし彼女が叫び声を上げる前に、ナナリーがつけ加えた。
「銃、です。お兄さまの部屋にあるの、知ってて。困らせようと思って、こっそりとっておいたんです。椅子に隠せます、だから私が」
「だ、だめよ」
 彼女が言わんとしていることを悟って、ミレイは一層青ざめ、小さな手をきつく握りしめた。そうしながら内心で、彼女の兄を詰る。なんだって、妹にわかるような場所に――いや、それ以前に、学園に銃を持ち込むなど。だが、今の状況では、その怒りも持続させられなかった。
 相手が持っているのはおそらく軍支給かそれに類する最新式のもの、一方、ナナリーが持っているという銃は一般向けの、射程距離が短く、ある程度の距離を詰めなければならないものだろう。ナナリーはたしかに、車椅子を有利に使うことができるかもしれない。だが、おそらくは軍人なのだろう相手が、そんな浅知恵を見逃してくれるとは思えない。
 ミレイが言葉を重ねようとした瞬間、無情な言葉が彼女の意気をくじいた。
「Yes, my load. それでは後ほど」
 気怠げな声で、男は携帯電話での通話を打ち切った。
 訪れた、背筋が総毛立つ沈黙に、ミレイはナナリーに意識を残しながらも、背後の気配を探った。それらは強ばり、不自然な呼吸の乱れをこぼしている。冷静な行動は望めそうになかった。
 男は人質たちを、つまらなそうな目で見た。濃い茶色の瞳が、品定めをするように、生徒たちの上を滑っていく。何度か往復したそれは、ミレイたち三人――特にナナリーの上で必ず止まり、そして、思案するように瞼が伏せられる。
 人質たちのうちでは、彼女がもっとも年若く、小柄だ。そして、車椅子を利用していることから、障害があることもわかる。
 それだけが理由であってくれと、神に懇願する傍らで、ミレイは名乗りを上げようと息を吸う。ナナリーの無謀な行動を阻止するためには、一刻も早く、彼女だけでも解放させることが必要だった。
 しかしそのとき、こちらが握りしめていたはずの右手が逆に握り返された。ミレイははっとして、固定していた視線を、つないだ手へ向けた。握り合わされた二つの手は、震えていた。しかし、より動揺を伝えているのは、ナナリーではなかった。ミレイは、自分が震えていることに気づく。
 恥じて己を叱咤したそのとき、男が急に近づいてきた。背に庇った生徒たちが、ざわりと警戒の色を発するのが感じられ、彼女は再び正面へ視線を戻す。しかし、少し遅かった。
「決めたよ、あんたがメインだ」
 唐突な動きに、ミレイは呆然としていることしかできなかった。
 左腕から、縋りついていた重みが剥がされ、すぐに遠ざけられる。暗い色の三つ編みが、中空をふらりと揺れた。
「…ニーナ!」
 叫んだ声は、彼女には届かなかったようだった。
 口を悲鳴の形に開き、しかし喉からは引きつった呼吸が漏れただけだった。やがて、いや、いや、というか細い声がこぼれ始める。
 全身をおこりのように震えさせて、ニーナは男から目を逸らせていた。掴まれた腕はすぐさまぴんと張り、華奢すぎる腰がべたりと床に着いていた。そして、ミレイが手を伸ばす暇もなく、そのまま彼女は絨毯の上を引きずられ、男の傍らに人形のように転がされた。
「ちょっ…待ちなさい! 私が代わりに…」
 お守りのようにナナリーの手を握りしめ、ミレイは膝を立てた。
 ニーナは技術者の娘だ。学業の成績は優秀だが、とりたてて身分が高いわけではない。
 弱肉強食のブリタニアは、民衆が思っているよりも、民衆に非情だ。ナナリーのような障害者もそうだが、明確なピラミッドは、下位の者が不満を訴えることさえ許さない。彼女は、見捨てられてしまうかもしれない。
 しかし立ち上がり、駆け出す形に整えたミレイの足下に、銃声とともに黒い塊がめりこんだ。火薬の匂いが鼻を突く。
「!」
「きゃ…!!」
 ミレイは息を呑み、動きを止めた。背後で、抑えつけられた悲鳴が上がり、空気が帯電する。もっとも己を律していただろうナナリーでさえ、ミレイの名を小さく呼んだ。
 腰から下の力が抜けそうになる。それをどうにか堪えて、ミレイは男を睨みつけ、毅然と背筋を伸ばした。
「…私が代わりになります! 私はアッシュフォード家よ、だから」
「たしかにあんたはイイけどなァ」
 ようやく彼女を見た男の視線が、無防備な肢体を無遠慮に眺め回す。唇を噛んで、その屈辱を受けながら、ミレイは握ったままだったナナリーの手をそっと放した。ニーナを見つめ、安心させるように微笑んでみせる。ぎこちない笑顔に、ニーナは気づかなかった。
 男はひとしきりミレイを検分してから、首を横に振った。
「でもダメだわ。いざってとき、運ぶのが面倒そうだし、あんた、怯えてないだろ? 俺が求める人質には向いてないのさ」
「求める人質…?」
「怖がって、叫んで泣いてくれる奴だよ」
 三日月のように細められた目に、愉悦の色が散らされた。ミレイは悪寒に肩を震わせる。
「ま、できたらロマンチックに貴族や軍人の娘あたりがよかったが…多くは求めすぎない男なんだよ、俺は」
 男はしゃがみ込むと、力の抜けた華奢な腰をごろりと転がし、剥き出しになっている肉の薄い太腿を撫でた。
「ひっ」
 ニーナの細い喉から、引きつった音が漏れる。虚ろな瞳に正気の陰がよぎり、それを機にして、堤防が決壊した。
「…いやあああ! 助けて! 助けて! ユーフェミアさまぁっ!」
 ついに彼女は恐慌し、甲高い悲鳴を上げ始めた。強ばって人形のようにしか動かない四肢をばたつかせ、かつて助けられた皇女の名を叫ぶ。
 それを足で踏みつけて難なく抑えながら、男は耳聡く少女の叫んだ名を聞きつけた。
「はァ? ユーフェミア? 皇女さまのお知り合いかな?」
 何かすばらしいものを見つけたような顔になる。それにミレイは、鳥肌を立てながら反駁する。
「違うわ! 一度だけ、河口湖ジャックで見かけただけよ! その子は…」
「はいはい、黙ってくれよ巨乳ちゃん」
 侮辱的な言葉を投げ、男はニーナの腕を引き上げた。再び素肌に触れた手に、彼女は目を見開き、掠れた悲鳴を漏らしながら、猫のように暴れ立てて男に爪を立てようとする。
「こいつ…!」
 顎に鈍い刃を掠められ、狂暴な色をちらつかせた男に、ミレイは蒼白になった。
「ニーナ! ニーナ、落ち着いて! 落ち着きなさい!」
「いや――っ!! ユーフェミアさま! 助けてください!」
 彼女の声は届かず、ニーナは暴れ続ける。構えられていた銃口がぶれ、男がついに顔を紅くして、その半身を持ち上げたかと思うと、床に叩きつけた。衝撃が足裏に伝わる。ニーナの喉からこぼれた不吉な音に、ミレイは小さく悲鳴を上げた。
「ユーフェミア、さま」
 見開かれた瞳から、涙が落ちる。
 それが見えた瞬間、ミレイの手に、放したはずの体温が触れた。びくりと身体を跳ねさせたが、思考は飽和していて、すぐにはそれが誰のものであるかを考えられない。耳が機械的に、囁きを拾った。
「ミレイさん、私、お兄さまに…」
 その後に彼女が、何を続けようとしたのかは、わからなかった。
「――控えなさい! 私がその方の代わりに、人質になります」
 ミレイが言葉を発する暇もなく、ナナリーは車椅子を身体の一部のように操作し、すっと前に進み出た。栗色の髪が柔らかく揺れる。
「わたくしは、故マリアンヌ皇妃の第二子、ナナリー・ヴィ・ブリタニアです! 彼女よりも、あなたにとって、価値がある人質になるのでは?」
「な、」
 名乗りから一拍を置いて、ミレイは今まで以上に震え上がった。
 ルルーシュ、と唇が音を出さずに動く。先ほどのニーナのように、彼の名を呼び、助けを求めたいような心境になった。
 ニーナは、さすがに暴れるのをやめ、口を叫びの形のままに開いて、年少の友人を見ていた。その彼女を足蹴にしたまま、男もまた、毒気を抜かれたような顔を引きつらせている。
「…おいおい、頭おかしいんじゃねえか」
 皇族詐称かよ、と嗤う。そこには哀れみさえ混じっていた。
 しかし、ナナリーは瞼を閉じたまま、うっすらと笑む気配を漂わせた。ミレイからはその表情は見えなかったが、空気を通して伝わってくる音は冷たく、彼女の兄がたまに纏う、傲慢な雰囲気に似ていた。
「血の巡りが悪いのはあなたがたのほうです。その方を人質にとったとして、人質ごと始末されるだけでしょう。…あなたがた、平民でしょう? 下賤な匂いがしますわ」
 背後で、少女の突然の変貌に、息を呑む気配があった。
 ナナリーの声は鋭さと冷たさを増し、そう表現することが許されるなら、いかにも、皇族、という響きを持っていた。彼女の普段を知り、彼女の兄が持つ皇族らしさを知るミレイからすれば、それは陳腐で野暮ったい演技だったが、この場の空気と融和して、それは紛れもなく、皇女の隠された高慢さを如実にしたかのようだった。
 少女はなおも続ける。
「私の身分を疑うなら、この、見えぬ目と動かぬ脚がその証。そこのアッシュフォードの娘も、私の言を保証するでしょう。…皇族がその卑しい手に委ねられようと言うのです、それ相応の覚悟をもって迎えなさい」
「…そういえば、昔、皇妃が一人死んだとき…皇女が一人、歩けなくなったとかなんとか言ってたな」
 目を細め、男がナナリーを見る。それは、すでに真剣な検討の目つきだった。
「…こっちに来てもらおうか」
 ナナリーは冷たい声で突き放した。
「先に、彼女をこちらに戻しなさい」
「今ここで殺してもいいんだぜ」
 冷静さを取り戻した男の脅迫に、数秒の間を置いて、ナナリーは無言で従う。思わず延ばしたミレイの手は、空を掻いた。
 やがて目の前に到着した少女を、男は見下ろす。その車椅子の後ろ姿に、ミレイは最後の希望を見出した。そうだ、ナナリーは、銃を持っていると言ったではないか。
 すでに、射程距離は狭めている。銃を、どうにか使うことができたなら――ミレイは混乱と不安の極限の中で、ただ、男が銃を見つけないことだけを期待した。
 しかしその瞬間、男がナナリーの細い手首を握った。乱暴な動きで、ぐいと上へ引く。
「あっ」
 哀れな悲鳴とともに、細い腕が中空に垂れる。そのまま持ち上げられ、小さな身体が車椅子から引き起こされた。まったく動かない脚がだらりと垂れ、爪先だけが床に触れる。車椅子が脚に弾かれ、傾いて止まる。
 ミレイは声に出さずに悲鳴を上げた。
 狭い背中からは、何も出なかった。