花 の な い 軒 下 4

「それで」
「ん」
 反射的に顔を上げたムツは、そこにいつもの仏頂面を見出し、うんざりした。珍しく仕事に集中していたのに、なぜかそういう時に、この男は邪魔をするのだ。わざとでないのだとしたら、彼とはとことん波長が合わないのだろう。わざとだとすれば、残念ながら、それなりの理由があるのだろうが。
 シュウは繰り返した。
「それで、引き受けてもらえたんですか」
「何を?」
 ムツは遠くのものを見るように、眉間に皺を寄せて目を細めた。
 セオに協力を要請した翌日、ムツは本拠地に戻ってきている。花が溢れる窓の合間で、鬱陶しい顔に見つめられながら、気が進まない作業を進めていた。
 シュウは今日は、わざわざ別室から机を運ばせて、ムツの目の前で仕事をしている。さすがに向かい合ってではないが、軍師補佐たちの箱詰め部屋のような密着感が、鬱陶しいことこの上ない。
「先日の一件です、ハルモニアの紋章実験。あれはどうなったのですか」
「あ、雲の話か」
 途中からわかっていたが、白々しくそう言ってみる。対する軍師の態度もまた白々しい。大仰に頷いて頭を下げる彼を見て、筆を置いた。頬杖をつくと、少し厚みを増した頬の肉が、むに、と歪む。力の抜けた上司の態度に、シュウが嫌な顔になった。
「セオさんが、やってくれるって。ルックと一緒に」
「…結局ルックですか。そんな話は聞いていませんが」
 シュウはお得意の、苦虫を噛み潰したような顔をする。ムツは彼のそんな顔を見るたび、きっとこの人は、実際に虫を噛み潰したことがあるんだろうと思って、戦慄する。例え苦虫だって、義姉の料理には勝てないに違いないが。
 誇らしげに一度鼻を鳴らしてから、ムツは頷いた。
「うん、そうだろうね。僕が説明しとくって言っといたから」
 しばらく軍師は沈黙した。
「…聞いていませんが」
「今聞いたでしょ?」
 シュウは侮蔑の眼差しをよこした。整った顔立ちの中、引きつった小鼻がつくりから浮き上がって調和を乱した。
「伝令役は廃業しろ」
 唾を吐くように言い捨てる。
「まだ開業もしてませんよ」
「不向きだ」
 ムツは唇を横に引き、吊り上げる。
「はい。で、ルックの話、聞きますか?」
「当然だ」
 軍師は改まった雰囲気をまとい、持っていた筆を、腕を休めるように寝かせた。
「はい、じゃあ言うよ。上空にできた雲を、消します。ルックが」
 そこで切ると、シュウはじっと見つめてきた。ムツはしばらくそれを嫌そうに見つめ返してから、彼が話の続きを待っていることに気づいた。
「…それだけ」
「……」
 一瞬、肩すかしを食らったような無防備な顔をしてから、シュウは案の定、眉をひそめた。
「…それは、ハルモニアに直接、攻撃を仕掛けるということですか?」
「ううん、魔法使ってる人を始末しちゃうと、ハルモニアの目がこっちに向けられるでしょ。だから、雲がこっちに来たら、勝手に消滅するような気候条件をつくるって」
「最初からそれを言ってください」
 浮ついた声音で怒りを示すと、軍師はすぐにその内容に興味を移した。
「具体的に、どうするんですか」
「聞いてない」
 シュウはあからさまに、役たたずめ、という顔をする。その表情に、ムツは言わないでおこうと思ったことを、つい口にした。
「ていうか、シュウに聞かれたらそう言っとけ、って言われた」
 しばらく沈黙が落ちる。
 シュウは軽く呆然としたようで、力の抜けた肩をすぐに立て直しはしたが、不愉快そうに問い返した。
「…なぜだ」
「ルック曰く、気象を操るのは、積極的に軍事利用できるほど楽な作業じゃないから、だそうです」
「…苦楽で計るつもりか」
 シュウの左顎の付け根のあたりが、軋むように蠢いた。奥歯をかみしめる音が聞こえてきそうだ。ムツはその音を想像して目元を引きつらせ、友人をかばった。
「でも説明を聞いてたら、なんかすごく面倒そうでしたよ。セオさんが何度も質問して、結局、やめとけばとか言ってたくらいですから」
 シュウは、ムツの口から出るその名に、過敏に反応する。いつもはそれを、押し隠すだけの余裕を持っているが、今彼はそう寛大な気分ではないらしかった。
「セオ・マクドールではなくて、あなたの意見はどうなんですか」
 自分の言葉に我に返って、嫌な気分になるのは、彼の方だ。ムツは少しだけ、かわいそうだ、と思う。
「さあ?」
 肩をすくめる。ルックには、したいようにしてね、と言った。そう言えば、結果はムツが望む最良のものになるだろうから、心配することはない。結果さえ意に沿えば、ムツにはそれ以上の注文をつける気はなかった。
「あ、でも」
 けれどふと、ムツは思い出した。
「セオさんが、ムササビが」
「は?」
「ムササビが、たくさん死ぬかもって言ってたから…やめときましょう」
 シュウは嘆息した。
「…はじめから、その辺りを具体的に話せ」
 まったくこの男は、何かと言うと、具体的にしろと強要する。好き勝手に解釈しても、ムツはいっこうに困らないのだが。
 ルックが「簡潔に言うと」という前置きの上ではじめた説明は、ムツにはわからない継ぎが多かった。自然界の法則というものらしいが、「だから」「これによって」等の言葉に続く現象が、どのように導き出されたものなのか、いまいち把握していない。
 仕方なく、ムツは自分が思い当たったことだけをかいつまんで話すことにした。
「雲を消すには、雨を降らせるんです。雨を降らせるには、温度が必要で、温度を出すには、火の紋章が必要で、でもそれだけじゃ足りないから、なんかいろいろ、他にもするんです」
 幼稚な説明に、シュウが無言で額に皺を寄せた。そんな反応をするならば、ルックを呼びつければいいものをと、ムツは陰鬱な気分になる。もっとも彼は、すでにここを離れ、準備にかかっているはずだ。
「…雨を降らせたら、その辺りは水かさが増えて、水害が起こるから、それを防ぐために、地形を整えたりとか、するんです。でもそういうことすると、人間は誘導できるけど、動物は難しいんだって」
「……」
「だったら、ムササビも死ぬでしょう? だめでしょ、それは」
「……」
「…何か言えば」
 シュウが押し黙ったままなので、内心で百万回ほど罵倒されている気配を感じて、ムツは促す。
「文句とかさ」
「…あなたの中で、すでに決定事項になっているのが確認できたので、もう結構です。それより、他に何か聞いていませんか」
「珍しいね、あっさり風味」
 ムツは本気で驚いて、目を丸くした。シュウは対照的に目を細め、唇をひん曲げた。
「さっさと続きを言え」
「はあい。あと、本当はそこでは雨は降らないはずだから、雨が降る理由を、ちょっとずつ用意しなくちゃいけないんです。今回は時間がないから、ちょっとずつじゃなくてもいい特別な理由を考えないとだめで、それは、セオさんがするんだって。…僕が聞いたのはそれだけだよ。それでいい?」
 意外にも、シュウは頷いた。
「わかりました。周辺の環境に大きな影響が出る、成功させるには大量の紋章と緻密な計算ができる紋章使いが必要である。情報操作はセオ・マクドールが引き受ける。そういうことでしょう」
「そうなの?」
 ムツは首をかしげる。共通語を使っているはずなのだが、シュウの使う言葉はいまいち彼に馴染みがないので、自分がわかりやすい言葉に直すのが面倒だ。
「ああ、そうなのかもね」
「それで、他には、何か言っていなかったですか。何を用意すればいいのか、日数はどれくらいかかるのか、不在の間の魔法兵団の取りまとめと訓練教官は…」
 立て続けに催促されて、ムツはうんざりした。
「そんなに全部聞いてないし、聞いてても忘れてるよ」
「どれか一つくらいは聞いているでしょう」
 その通りだったので、渋々答える。
「…昨日と今日で準備して、明日には雲は消せるって。紋章は、風と、火と、水と、土。これ以外を使うと足がつくからだめ。それはセオさんが用意して」
「それはこちらで用意させる」
 シュウが遮った。
「セオ・マクドールはトランから貸借するつもりだろう。余興でそんな大きな借りを作るわけにはいかん」
「もう遅いよ、セオさん昨日にはお城に行ったし。貸してくれるっていうんだから、借りておけばいいのに」
 ムツは面倒になって、顔を皺だらけにした。
「どうせ、その紋章を使う人だって、セオさんが用意するんですよ」
「それもこちらから出す。第二兵団から手練れを選ばせればいい」
「意地張らないでもいいでしょ。また、トランでなんかやるときは、こっちから人手を貸せばいいんですから。紋章だって、貸してもらったの、しばらく借りとけばいいじゃないですか。あっちは平和なんだから」
「馬鹿者、貸してくれるわけがないだろう」
 シュウは、この底なしの阿呆が、と言いそうに、顔を赤くしている。目尻が一際赤く、眉間の皺を取って黙って立っていれば、見目のよさとそこそこの体格で、武劇俳優といっても通るような風情だ。実際には、彼はムツの腕の一降りで、簡単に壁の隅まで投げ飛ばされるのだが。
 そうしてやろうか、と思う自分を抑えて、ムツは言い訳した。
「セオさんなら貸してくれるよ」
 別に、ムツのために貸してくれるわけではないだろうが。そんな懐の大きい人物ではない。
「だってルックって、ハルモニアが嫌いで、紋章の研究とかが好きなんだよね」
「今はルックの話ではないでしょう」
 その言葉に肩をすくめると、ムツは不意に上げた両足で机を蹴って、椅子ごと窓際に突っ込んだ。