花 の な い 軒 下 3

 白い花が咲いている。
 石壁を這う蔦にぽつぽつと開いたそれは、家人の談によると、花粉をまき散らすということで、この国では好かれていないらしい。近日のうちに取り除いて、料理に使うつもりだということだった。
「食べたいですか?」
 よほどわかりやすい顔をしていたのだろう、青年はそう言って笑うと、ムツの返事を待たずに指を伸ばした。手のひらほどの大きさの薄い葉と、花を茎を残して折り取り、笊の中へ入れていく。
「今晩は天麩羅にしましょう」
「えっと」
「ぜひ、お呼ばれしてくださいね。この国でこの花が、花粉を散らしても生かされているのは、おいしいからなんですよ」
 ムツが戸惑っていると、青年はそう教えた。
「坊ちゃんも好きですから、ついでに教えてあげてください」
「…はい」
 素直に頷くと、それを見た青年は人の好さそうな笑顔を礼に代え、玄関の扉を開けて奥へ誘った。
「坊ちゃんは二階のお部屋にいます。最近だらけてるみたいですから、外で遊んであげてくださいね」
 その言いように、ムツは口の端が歪みそうになるのをこらえた。この屋敷の主人に、ここまで遠慮のない言い方ができるのは、もう青年を含めて何人もいないだろう。
「任せてください」
 真面目な顔をつくって応じるのに、頼もしいですと笑うと、青年は調理場へ足早に去って行った。
 彼の長い金髪が壁に遮られるまでしつこく見送ってから、ムツはようやく、階段へ足を向けた。今まで外を歩いていた靴で、色褪せて擦り切れているとはいえ高価そうな絨毯を踏むのは、彼には勇気がいる。いったん壁際へと寄ると、石床の上に足を置いた。
 この屋敷に入る時は、いつでも緊張する。
 正確には、この屋敷で、訪ねてきた人物に相対することに緊張するのだ。この場所にいると彼は、昔置かれていた立場を思い出すのか、気品と威圧感を増して、どこか近寄りがたい。ムツは今まで上流階級の人間と接することがなかったので、気後れするのだ。だからといって、その気持ちを他人に悟られるような真似は控えているが。
 誰もいない廊下を進んで階段を上る。まだこちらに来るようになって間もないころはいつも、家人のどちらかが取り次いでくれたものだったが、慣れた今ではムツの侵入するにまかせている。大の大人に丁寧に扱われるのは彼には肩身が狭く、落ち着かなかった。しかし、この広い屋敷に三人では、訪問者の案内も手間なのだろう。手助けだと思えと言われれば、それ以上はためらうのも失礼だ。ムツは仕方なく、せめて素早く移動することにしていた。端から見ればまるで泥棒である。
 石床を伝って歩き、簡素だが丈夫な扉の前に立つと、ムツは拳をつくり、木面を叩いた。
「はい」
 訪問者に気づいていたのだろう、すぐに返事が返る。どうせなら、扉を開けてくれればいいのに、と思いながら、ムツは勝手に蝶番を引いた。
 奥の窓の傍らに椅子を置いて、そこにセオは腰掛けていた。右足の上に左足を上げ、その膝の上に両手を組んで置いている。背筋を伸ばしたまま、窓の外も、入ってきたムツも見ず、窓枠の隅に視線をやっている。
「セオさん」
「久しぶり、ムツ」
 顔を上げて、セオは目を細めた。本拠地で会うときよりも、憂鬱そうで、動きがゆったりとしている。せっかちな気質のムツには、それは苛立ちを呼び起こす。
「お久しぶりです。何見てるんですか」
「虫の死骸」
 ムツの軽蔑した表情に、セオは肩をすくめた。彼はユーモアセンスの欠如を自覚している癖に、つまらない冗談をやめない。
「ここに、花が伸びてきているから、それを見てる」
「花?」
 近づいて見ると、屋敷の外壁を伝って上ってきたらしい。窓の外に、窓枠に乗りかかるようにして、白い花が咲いていた。
「あ、これ。花粉と天麩羅の花ですね」
 先ほど得た知識を披露する。不意を突かれたのか、セオは数瞬、沈黙してから答えた。
「…特徴をよく捉えてるな。そんな名前じゃないけど」
「今日の晩ごはんらしいですよ」
「あ、そ」
 少し面食らったように頷くと、セオは苦笑した。
「で、何か用?」
「ああ、今日はちょっと、お願いっていうか、提案みたいなのがあるんです」
「ふうん」
 何だ、とセオは問い返さない。こういうときに、彼の意外な横着さが顕れる。ムツは気にせず、勝手に続けた。
「あのですね、今、ハルモニアの上空に、雲があるらしいんです」
「雲」
「その雲が、雨雲なんです」
「……」
「それで、困るんです、それがこのままだとこっちに来るから。今、花の窓があるんです」
「春窓か。どうして?」
 懐かしい名を聞いたというように、珍しく問いを投げてくる。
「楽しそうだったから」
「いいことだな」
 セオは、相槌だけはいつでも調子がいい。
 ふとその調子を乱してみたくなり、ムツは適当な言葉を探す。見つけて、さりげなく取り出した。
「ルックが」
 そう言って口を閉じ、セオを窺う。彼は相変わらず、掴み所のない表情を浮かべていた。ムツの視線に、促されたと思ったのか、聞いていると言う代わりに小さく頷く。
 つまらない反応だ。
「…ルックに、やめさせてってお願いしたんです。でも、あんまり乗り気じゃなくて」
「そうだろうな」
 セオがこの場にいない少年に同意する。自身もあまり興をそそられないような顔だ。たしかに、遊興のために出かけるのではないのだから、案外真面目な彼らでは、楽しいとは思えないだろう。
「だから、セオさんも、一緒に行ってあげてほしいなって思って」
「…どうして?」
 ムツは首を傾げる。わざとだ。
 セオは基本的に、昔の仲間絡みで何か頼まれたら、断らない。戦場に誘われても、酒場に誘われても、逢引に誘われてもだ。ただ、時折、こうしてためらいを見せることがある。
「どうしてって、セオさん、ルックと一緒なの、嫌ですか?」
「いや、……そんなことはないけど」
 否定は速すぎた。言い訳らしきものを付け加えるのを止めて、セオはそこで言葉を切り、数秒間、部屋の中に嫌な沈黙が漂う。
 それ以上彼が何かを言う気がないのが知れて、仕方なく、ムツは口を開いた。
「セオさんが、魔力が高いから。ルック一人だと大変らしいんです。いけないですか? ほら、婚前旅行みたいなもんじゃないですか」
 そう言うと、セオはしばらく沈黙してからふらりと揺れ、こめかみを窓枠に打ち付けた。ささやかな衝突音が立つ。意識しての仕草かは知れないが、とりあえず動揺の気配が窺えたので、ムツは微笑んだ。
「あれ? どうしたんですか」
 わざと、ゆっくりとした調子で尋ねる。
「…あまりにそぐわない言葉に感動したんだ」
「え、セオさん、魔力高いでしょ?」
「いや、後半のほう」
「結婚前にする旅行が、婚前旅行でしょ?」
「…そうだな」
 釈然としない顔のまま、とりあえずセオは認める。
「結婚の予定はないんだけど」
「じゃ、考えておいてください」
 彼の言葉は無視してたたみかけておいて、ムツはさっさと踵を返した。
「…わがままな子だな、君は」
 背後でセオがぼやくのが聞こえたが無視して、部屋を出る。用件は済んだ。行きと同じように絨毯を避けて、石床が露出している部分に向かう。
 だが、そこへはみ出そうとした時、背後から声がかかった。
「やあ、ムツくん。虫でもいるのかい?」
「こんにちは」
 まず身体ごと振り向いて挨拶をしてから、ムツは首を振った。
「いいえ、虫はいません」
「そうか、よかった」
 何を意図した発言だったのかはわからないが、とりあえずムツは笑顔を浮かべた。
 女は洗濯籠を持っていた。籠自体が大きいので、その中に入れられた洗濯物が少なく見えるが、そこそこの重量はあるだろう。しかしさすがに、彼女は危なげなく立っていた。
 彼女と滅多に話すことがないため、言葉に迷い、ムツは彼女の主人に伝えたのと同じことを繰り返した。
「あの、今日の夜は、花粉症の天麩羅です」
 彼の脈絡を得ない言葉に、数秒戸惑ってから、女はああ、と納得した。
「そうか、そろそろ食堂に向かわないといけないな…」
 それを聞いて窓の外を見ると、夕飯にはまだ早い空だ。セオと話していた時間は短いものだったらしい。彼の怪訝な顔に気づいた女は、説明を加えた。
「私も、たまにはお母さんのお手伝いくらいするのさ。…あ、セオ様は一緒じゃないの?」
「はい。先に行っておいてって言われたんです」
 気のない捏造に、女は眉をひそめた。その言葉は、彼女には聞き逃せないことだったらしい。
「セオ様がそんなことを?」
「えーと…言ったような、言わなかったような」
 まずいことをしたらしい。ムツはあっさりと前言を撤回し、あやふやな言葉でごまかそうとする。しかし、女は思考の迷路に迷い込んだようだった。
「…もしかして」
 声を低くする。不穏な音に、ムツは意識せず身構える。
 しかし、次の言葉を聞いた彼は、唖然とした。
「ムツくん、うちの坊ちゃんをいじめてるのかい? だめだよ、あれでけっこう、打たれ弱いところもあるんだから」
「……はい?」
 二秒ほど硬直してから、冷静になると、妙な笑いがこみ上げてきた。
 この家には、ムツの知らない独自の常識が多いようだ。それとも単に、英雄とまで呼ばれる少年を、甘やかしているだけなのだろうか。どちらにせよ、ムツにとっては笑い話でしかない。
「なんでみんな、誤解するのかなあ」
 吹き出すのを堪えるために、ムツは唇を尖らせた。
「僕、どっちかっていうと、いじめられっ子なんですから」
 その、かわいらしい仕草とは裏腹のふてぶてしさに、女は苦笑する。毒気を抜かれたようだ。
「その様子じゃ、そうは思えないけどね」
「僕だって、セオさんがいじめっ子になってるところは見たことありますけど、その反対はないですよ」
「なんだって!」
 女は素っ頓狂な声を上げた。驚いた拍子に抱えていた籠を落としかけ、飛び跳ねた洗濯物を乱したまま、慌てて体勢を整える。少し間抜けな姿のまま、勢い込んで尋ねた。
「誰をいじめてるんだい」
「それは、軍の最高機密だから、教えられないです」
「へえ、いつの間にか、出世したものだな」
 三つ目の声が降りてきて、二人は顔を上げた。
 階段の半ばにセオが佇んでいる。ムツに打ちのめされた何かはすでに修復し終えたらしく、いつも通りの表情を浮かべていた。
「セオ様…」
 女の、咎めたいのか縋りたいのか、決めかねているような態度を見下ろして、彼は呆れたような顔になる。
「クレオ、僕はこれでも品行方正を心がけてるんだよ。いじめっ子だなんて心外だ。それに、僕だってどちらかというと、いじめられてるほうだよ」
 そう言って降りてくるのに、女が噛みつく。
「それだってよくありませんよ!」
「そうですよそれじゃ、僕がいじめっ子みたいじゃないですか」
 便乗して反論してみると、女はぎょっとした顔でムツを見た。何かを勘違いしたらしい。それを一瞬で思い直したのか、自分を恥じるように俯いて、再び主人を見上げる。洗濯籠を抱えたままの間抜けな姿だ。
 聞き分けのない子どもを諭す声で、彼女は訴えた。
「…私はともかく、グレミオの前で、言っちゃいけませんよ、そんなこと」
「うん、真に受けるからね」
 そう言うとセオは、指をそろえた手のひらを優雅に閃かせて、二人の後方へ差し出した。誰かを紹介するような動きだ。
 しばらくその手を凝視した後、二人は同時に背後を振り向いた。
 青年が、少し前に談笑したばかりの和やかな笑顔を強ばらせて立っていた。油の染みがついた前掛けと相まって、間抜けのようだ。しかし、彼の視線にさらされたムツは、彼を侮ることができないと知っていた。緩やかに背を上るのは戦慄だ。
「――ムツ君…悪いね」
「自業自得、身から出た錆、口は災いの元」
 女が謝ったが、情の込められた声は、主人の心ない言葉にかき消された。