『舞姫』 (森 鴎外)   訳:前川
                          
2003.2.13 Ver.1.2
                          2003.2.12 改訂版(Ver.1.1)
                          2003.2.9 初版(Ver.1)
 


 『舞姫』訳に当たって

 部分的に、http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/leaf/m_maih.htm および http://www.urban.ne.jp/home/iwako/mai.html(川野正博氏 訳) を参考にさせていただきました。が、あまり影響されないように、大体はなるべく見ずに訳しています。できるだけ原文の言い回しはさけ、難しい表現は使わないようにしています。主語・述語の位置など、なるべくわかりやすくなるように心がけたので、原文とは順序が入れ替わっている部分もかなりあります。直訳という意識でもありません。
 鴎外・漱石が教科書から消えようとしている今、なぜ、『舞姫』の現代語訳なのか、と言われそうですが、今まで十数年間、嫌がって『舞姫』は避けていたのですが、たまたま避けきれなくなって、初めて扱ったので、訳す気になっただけです。基本的には、人の訳は言い回しが難しいままだったり、古い語が使われていたりして気に入らないことが多いので、自分で訳してみたい性分です。転載はご自由ですが、雰囲気で訳している部分も多く、また当時のドイツの習俗、建物の構造などもあまりわからないので、間違っている所、適当でない所もあるかもしれません。適当にやわらかく指摘してくだされば幸いです。あまり鋭い指摘は立ち直れなくなるかもしれませんから。では。

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    『舞姫』 (森 鴎外)


 石炭はもう積み終わった。中等船室のテーブルのあたりはとても静かで、電灯の光も無意味にまぶしい。毎夜毎夜ここに集まってくるトランプ仲間も、今晩はホテルに泊まっており、船に残っているのは僕一人だけだから。
 五年前のことだったが、長年の望みがかなって、ヨーロッパ派遣の命令を受け、途中、このベトナム、サイゴンの港まで来たころは、見るもの、聞くもの、すべてが目新しく、思いつくままに書き記した紀行文は毎日何千語にもなっただろうか、当時の新聞に掲載され世間の人々にもてはやされたが、今になって思えば、おさない考え、身のほど知らずの毒舌、そうでなければ、珍しくもないありきたりの動植物や石の類、風俗などまでも珍しそうに書いた。教養のある人はどのように思っただろうか、恥ずかしいことだ。しかし、今回、帰国途中、日記を書こうと買ったノートはまだ白紙のまま。なぜか。ドイツで学んだ間に、一種の「無気力・無感動」の気質が強くなったからだろうか、いやそうじゃない。これにはわけがある。

 なるほど、東に帰る今の僕は、ヨーロッパに渡航した、以前の僕じゃない。学問こそはまだ心の中に満足しないところも多くあるけれど、この世のつらさも理解し、人の心があてにならないのももちろん、自分と自分の心さえ変わりやすくあてにならないことも悟った。きのうそう思ったことが、きょうはそうではないと感じる瞬間の感触を言葉に書いて見せることもできそうにない。このことが、僕が日記を書かなくなった理由だろうか。いや、やはりそうじゃない。理由はほかにある。

 ああ、イタリア、ブリンディッジの港を出てから、早くも二十日以上経った。普通なら初対面の客にでも話しかけ、旅の憂鬱を慰めあうのが航海の常であるのに、軽い病気を理由に部屋にばかりこもり、同行の人たちともあまり話さないのは、人には言えない苦しみがあったからだ。この苦しみは、はじめ、ほんの小さな雲のように僕の心をかすめて、スイスの景色やイタリアの遺跡を見ることに集中させず、少し後になっては、世間をいやがり、自分自身を意味のないものに思わせ、激しい苦しみを僕に与え、今では、心の奥で固まって一点の影にだけなっているが、本を読んでも、ものを見ても、鏡に映る姿、また声に応じる響きのように、限りない「懐旧の情」を呼び起こして、何度も何度も僕の心を苦しめる。ああ、どうやってこの苦しみを消し去ればよいのか。もし他の苦しみであったなら、詩や歌に詠めば気も晴れるだろうが、こればかりはあまりに深く心に刻みつけられたので、書いても気は晴れないとも思うが、今夜はちょうどまわりに人もいない。それに、ボーイが電気を止めに来るにはまだ時間があるだろうから、ではそのあらましを書き記してみよう。


 僕は幼いころから厳しい家庭教育を受けていたおかげで、父は早くに失ったが、勉強から遠ざかることもなく、旧藩の学校に在学していた時も、東京に出て大学予備門に通っていたときも、また東大法学部に入った後も、太田豊太郎という名はいつも一番の定位置に書かれていたので、一人っ子の僕を支えにして世を渡る母は安心だったことだろう。十九歳の時には学士の位を授かり、大学創立以来またとない名誉だと人にも言われ、某省に入省して、ふるさとの母を東京に呼び、楽しい年を三年ほど過ごしたが、長官からの受けが特別よかったので、「西洋に留学し、官庁の事務を調査せよ」という命令を受け、名声を得るのも家の名を上げるのも今だと勇み立って、五十歳を越える母と別れるのもとくべつ悲しいとも思わず、家を離れてはるばるベルリンの都にやってきた。

 僕は漠然とではあるが有名になりたいという気持ちと、セルフコントロールに慣れた学習能力とによって、たちまちこのヨーロッパの大都会の中央に立つことになった。すばらしい光景が僕の目を射、すばらしい色彩が僕の心を迷わせる。「菩提樹下」と訳せば、閑静な場所のように思われるが、実際にこのまっすぐな大通り「ウンテル・デン・リンデン」に来てみれば、道の両側にある石だたみの歩道を行き来するいく組もの男女はどうだ。まだヴィルヘルム一世が窓に寄りかかり街並みをご覧になっているころだったから、胸を張り肩をそびやかした士官がさまざまの色に飾りつけた礼服を着て歩いている、あるいは、美しい少女がパリ風のよそおいで歩いている、など、あれもこれも僕を驚かせないものはない。また、車道のアスファルトの上を音も立てないで走るいろいろな形の馬車、雲にそびえる楼閣の少しとぎれた所には、晴れた空に夕立のような音を響かせて勢いよく落ちる噴水の水、遠くを望めば、ブランデンブルク門をはさんで緑の木々が枝を交差させている中から、半分空に浮かび上がっている凱旋塔の女神の像、これらのたくさんの風物が目の前に集まっているので、はじめてここを訪れた人がそれらに対応する余裕がないというのも、もっともなことだ。けれど僕の心の中には、「たとえどんなに心ひかれる環境にあっても、自分にとって邪魔な美しい光景には迷わされないぞ」と誓っていたので、ひっきりなしに自分に覆いかぶさってくる外界の物事を遮っていた。

 僕は呼び鈴を鳴らして、プロイセンの役人に面会を求め、紹介状を出して、東方の国日本から来たことを告げた。彼らは、みな快く僕を迎えてくれ、「大使館からの手続きさえ問題なくすめば、どんなことでも教えもし、伝えもしよう」と約束してくれた。うれしかったのは、僕が日本で、ドイツ語、フランス語を学んでいたことだ。彼らははじめて僕を見て必ず驚き、「いつどこでこんなに上手に外国語を学んだのか」、と尋ねないことはなかった。

 さて、前もって公に許可を得ていたので、公務に暇ができたときに政治学を学ぼうと、名前を地元の大学の学籍簿に登録してもらった。

 ひと月、ふた月と経つうちに、公務の打ち合わせも終わり、調査もだんだん進んできたので、急ぐことは報告書に書いて送り、急がないものはノートに書きとめておいた。そのノートは最後には何冊になっただろうか。大学のほうでは、世間知らずな心で夢に思い描いたようには、政治家になれる専攻のあるはずもなく、この講義か、あの講義かと迷いながらも、二、三人の法律の先生の講義を聞こうと決めて、授業料を納め、行って聞いた。


 このようにして、三年ほどはあっというまに過ぎていったが、時が来ると、隠しても隠しきれないのが人の好き嫌いなのだろう、僕は父の遺言を守り母の教えに従い、人が神童だなどと褒めてくれるのがうれしくて怠けず学んでいたころから、よく働いてくれる、と官長が励ましてくれるのがうれしくてせっせと勤めていた時まで、自分では気づいていなかったが、ただ受け身で言われたことだけを機械的にこなす人間であった。しかし今二十五歳になって、もう長くこの自由な大学の気風に当たっているからだろうか、心中なんとなくおだやかでなく、心の奥深くに潜んでいる本当の自分は、少しずつ表面にあらわれて、きのうまでの仮面をかぶった自分を責めるような感じがする。僕は、自分が有名な政治家になるにも、また、法律書を暗誦して判決を下す法律家になるにもふさわしくないのがわかった、と思った。僕は内心思った。「母は僕を生きている辞書にしようとし、長官は僕を生きた法律ロボットにしようとしているのだろう」、と。辞書はまだ我慢できるが、法律ロボットは我慢できない。今までは取るに足りないこまごまとした問題にも、とても丁寧に対応していたが、このころから長官に送るレポートには、しきりに、法律の枝葉末節にかかわるのは間違いだと述べ、いったん法律の精神さえ理解したならば、こまごました一切のことは竹を割るように一挙に解決できるなどと広言するようになった。また大学では、法律の講義を投げ出して、歴史や文学に興味を持ち、しだいにそれらのおもしろさに気づいていった。

10 長官ははじめから、自分の思いのままに動くロボットを作ろうとしていたのだろう。だから、言うことを聞かず、なまいきな態度をとるようになった僕を、長官が喜ぶはずがない。そのため、僕の地位はすでに「首の皮一枚」の状態だったと思うが、長官といえど、僕が素直でないというだけでは、僕をやめさせることはできなかっただろう。しかし一方、そのころベルリンの留学生の間で力のある、あるグループと僕との間でいざこざがあって、彼らは僕の品行方正を疑い、そしてついには僕の悪口を言って、長官に告げ口した。しかし、「あのこと」がなかったら、彼らはそうはしなかったと思う。「あのこと」、というのは以下のことだ。


11 その人たちは、僕がいっしょにビールも飲まず、ビリヤードもしないのを、頑固な心と禁欲的な考えからだと思い、けなしたりうらやんだりした。しかし、それは僕のことを知らないからだ。ああ、そのわけは自分でさえわからなかったのに、どうして人にわかるはずがあっただろう。僕の心は、例の「合歓(ねむ)の木」の葉のように、ものに触れると縮んで避けようとした。僕の心は少女のように、か弱かった。幼いころから、目上の者の教えを守って学問をしたのも、官僚の道に進んだのも、すべて、勇気があってしたことではない。忍耐力・集中力と見えたのも、すべて自分をだまし、人さえもだましていたことであって、人が引いたレールの上をただまっすぐに走ってきたに過ぎない。ほかのことに興味がそれなかったのは、富や名誉を捨ててもかまわないという勇気があったからではない。ただ、外界のものを恐がって自分で自分の手足を縛っていたからだ。日本を出発する時までは、自分が人の役に立つ人間であること、また、自分に忍耐力があることを疑わなかった。けれど、ああ、それも一瞬。「ああ、豪傑だ、英雄だ」と思っていたが、船が横浜の港を離れるや、ハンカチでは間に合わないほど涙がとめどなくあふれた。そのことを我ながら不思議だと思ったが、それがかえって本来の僕だったのだ。この臆病な心は、生まれつきのものだったのだろうか、あるいは、早くに父を亡くして、母の手で育てられたからそうなったのだろうか。

12 だから、その人たちが僕をばかにするのはもっともで、的を射ている。けれど一方、うらやんで嫉妬するのはおろかなことだ。実際には、僕の心は弱く哀れだったのだから。赤く白く顔に化粧をして金色に光る衣服に身をつつみ、喫茶店に座って客を引く女を見ては、行ってその女と遊ぶ勇気もなく、山高帽をかぶり、眼鏡をかけ、プロシア風の貴族めいた鼻声で話す「遊び人」を見ては、行ってその人たちと遊ぶ勇気もなかった。こういう勇気もないので、あの活発な、日本からの留学生たちとつきあうこともできようがない。このように、つきあいが悪いために、あの人たちは、僕をけなし、嫉妬するだけでなく、僕に対して疑いの目を向けることにもなった。このことが、僕が「無実の罪」を負って、短期間のうちに非常に苦しい目に遭う原因になったのだった。


13 ある日の夕方だったが、僕は「動物公園」を散歩して、ウンテル・デン・リンデン(菩提樹下通り)を過ぎ、モンビシュー街の下宿に帰ろうと、クロステル街界隈の古い教会の前まで来た。僕はあの灯火で明るく照らされた光の海のような通りを通り過ぎてきて、この狭く薄暗い界隈に入り、高い建物の上のてすりに干してあるシーツや下着などもまだ取り入れていない家、ほおひげの長いユダヤ教徒のおじいさんが家の前にたたずんでいる居酒屋、一方の階段はそのまま高い建物にまでつながり、もう一方の階段は地下室に住んでいる鍛冶屋の家につながっている貸し家、これらに向かって凹字の形にくぼむようにして建てられたこの三百年前の遺跡のような教会を眺めるたびに、うっとりとして、しばらくの間、じっと立ち止まってしまうことが何度あったかわからないほどだった。

14 さて、今、ここを過ぎようとすると、閉められた教会の門に身をもたせかけ、声を忍ばせて泣く一人の少女がいるのを見た。年は十六、七歳ぐらいだろう。頭をおおった布からのぞく髪の色は薄い金色で、着ている服はさっぱりしていて、あかが付いたり汚れたりしているとも見えない。僕の足音に驚いて振り向いたその顔は、とても僕には描写しきれるものではなかった、僕は詩人じゃないので。けれど、この青く清らかで、何かを尋ねたいかのように哀愁を帯びた目、露のついた長い睫毛に半ば隠れているその目は、なぜか、そのとき僕に向かって振り向き、僕を見ただけで、用心深いはずの僕の心の底まで届いてしまった。

15 彼女は、思いがけない深い悲しみに遭って、前後を考える余裕もなく、ここに立って泣いているのだろうか。彼女をかわいそうに思う気持ちは臆病な心にまさって、僕は思わずそばに歩み寄り、「どうして泣いているの? ここにしがらみのない僕のようなエトランゼは、だから逆に力を貸してあげやすいこともあるでしょう。」と話しかけたが、我ながら、自分の大胆なのにあきれた。

16 彼女は驚いて、黄色人種である僕の黄色い顔を見つめていたが、僕の率直な真心が表情に表れていたのだろうか。「あなたはいい人だと見えます。少なくとも、あの人のようにひどくはないでしょう。また、母のようにも。」と言い、しばらく止まっていた涙はまたあふれて、かわいいほおを流れ落ちた。
17 「私を助けてください、あなた。私が恥ずかしい人間にならないように。母は私があの人の言葉に従わないからと言って、私をたたいたの。父は死にました。明日はお葬式をしないといけないのに、家には一円の蓄えもないんです。」

18 あとは、すすり泣く声ばかり。僕の目は、このうつむいた少女の震えるうなじに注がれるばかりだった。

19 「君の家に送っていってあげるから、まあ、落ちつきなさい。泣き声を人に聞かせないようにして。ここは人の行き来する道だから。」彼女は、話をするうちに、無意識に僕の肩に寄りかかっていたが、この時、急に頭を起こし、また、初めて僕を見たかのように恥ずかしがって僕のそばから飛びのいた。

20 人の見るのがいやさに、早足で歩く少女のあとについて、教会の筋向かいにある大きい戸をあけて入ると、かどの欠けた石の階段があった。この階段を上って、四階目に腰を曲げてくぐるほどのドアがあった。少女は、さびた針金の先をねじ曲げて作ってある取っ手に手をかけて強く引いた。中から、しわがれたおばあさんの声がして、「誰?」と言う。「エリスよ。ただいま」と答えるか答えないうちに、ドアを荒々しく引いてあけたのは、半ば白くなった髪、悪い人相ではないが、貧困の印であるしわが額に刻まれた顔のおばあさんで、古い毛織物の服を着て、汚れた上ばきをはいている。あばあさんは、エリスが僕に会釈をして家の中に入るのを待ちかねるようにして、ドアをはげしく閉めた。

21 僕は少しの間、唖然として立っていたが、ふと気づいて、あかりの光にかざしてドアを見ると、エルンスト・ワイゲルトと、ペンキで書いてあり、その下には「仕立て物師」と書いてある。これは、死んだという、少女の父の名であろう。家の中では、言い争うような声が聞こえていたが、また静かになって、ドアがもう一度開いた。さっきのおばあさんは、いやに丁寧になって、自分の無礼な振る舞いを謝り、僕を中に迎え入れてくれた。ドアの中は、台所になっていて、右側の低い窓に、真っ白に洗った麻の布がかけてある。左側には、粗末に積み上げた、れんがのかまどがある。正面の部屋のドアは、半分ほど開いていて、その奥には、白い布で覆いをしたベッドがある。そこに横になっているのが、亡くなった少女の父だろう。かまどのそばにある戸をあけて、僕を招き入れてくれる。ここは、街に面した屋根裏部屋いわゆる「マンサルド」のひと部屋なので、天井もない。すみの屋根裏から窓に向かって斜めに下がった「梁(はり)」を紙で貼って隠したその下の、立つと頭のつっかえそうなところにベッドがある。部屋の中央の机には、きれいな織物がかけてあり、上には本が一、二冊と、写真のアルバムとが置いてあり、花瓶には、ここにはふさわしくない高価な花束が活けてある。その隣で少女は、恥ずかしそうに立っていた。

22 彼女は非常に美しかった。乳白色の顔はあかりの光に映えて、うすべにに染まって見えた。手足がかぼそく弱々しいのも、貧しい家の女らしくはない。おばあさんが部屋を出たあとで、少女は少し訛りのあるドイツ語で言った。「許してくださいね、あなたをここまで連れてきた非常識を。でも、あなたはいい人でしょう? 私を恨んだりしませんよね。父のお葬式は明日に迫ってるんです。それなのに、頼りにしていたシャウムベルヒは! あなたはあの人のことを知らないでしょうけど、彼は『ヴィクトリア』座の支配人なんです。彼に雇われる身になってからもう二年になるから、訳なく私たちを助けてくれると思っていたのに、人の弱味につけ込んで、好き勝手な要求をしてくるなんて。私を助けて、あなた。お金は安い給料から少しずつお返しします、たとえ私は何も食べなくても。お金さえ貸していただけなければ、母の言うとおりにしないといけません。」と、彼女は涙ぐんで体を震わせた。そう言って見上げた瞳には、人に、いやとは言わせない「しな」があった。この瞳の動きは、意識してするのか、あるいは無意識にそうなるのか。

23 僕のポケットには二、三マルクの銀貨があったが、それだけではまったく足りそうにもなかったので、時計をはずして、机の上に置いた。「これを質に持って行って金を借り、そのお金で今の急場をしのぎたまえ。あとで、質屋の使いがモンビシュー街三番地に『太田さんの家は?』と時計を持って尋ねてきたら、時計と引き換えに引き取り代を渡すから」

24 少女は驚き感激した様子で、僕がさよならをするために出した手にくちづけしたが、彼女の熱い涙が僕の手の甲にはらはらと落ちた。


25 この僕の好意に礼を言いに、少女が僕の下宿に来たことが、ああ、なんという苦悩の原因となったことか! 彼女は、ショーペンハウエルの哲学書を右に、シラーの詩集を左に、一日中読書をする僕の部屋の窓際に、一輪の美しい花を咲かせたのだった。このことがきっかけになり、僕と少女との交際はしだいに頻繁になっていき、日本からの留学生にまでも知られるようになってしまったので、彼らは早合点をし、僕を、色街でダンサーや商売女と遊び回る「遊び人」と、勘違いした。僕たち二人の関係は、まだ無邪気な恋愛ごっこのようなものだったのに。

26 その名を実名で公表するのは遠慮されるが、日本人留学生の中に、ゴシップ好きの人がおり、僕が頻繁に劇場に出入りして、女優とつきあっている、と、長官に密告した。ただでさえ、僕が学問上よからぬ方向にそれるのを知って快く思っていなかった長官は、とうとう、そのことを大使館に報告して、僕を罷免し、解雇した。大使がこの命令を伝える時、僕に言ったのは、「君がもし即刻日本に帰るなら旅費は支払うが、もし、まだここにとどまるつもりなら、公費はあてにしないでくれたまえ」とのことであった。僕は一週間待ってもらうことを許してもらい、あれやこれやと考え悩むうち、僕の生涯でもっとも悲しかった二通の手紙に接した。この二通はほとんど同時に出されたものであるが、一通は僕の母の自筆、もう一通は親戚の者が、僕のもっとも慕う母の死を知らせた手紙であった。僕は母の手紙に書かれていた言葉をここに再び書くことには堪えられない。涙があふれてきて筆が進まなくなるから。

27 僕とエリスとのつきあいは、この時までは、第三者が思うよりはプラトニックなものだった。彼女は父が貧しいために、十分な教育を受けることができず、十五歳の時、ダンスの先生の、生徒の募集に応じて、この恥ずかしいダンスを教えられ、研修が終わって後、「ヴィクトリア」座に出演して踊るようになり、今では、ナンバー2の位置にいる。けれど、詩人ハックレンデルが、「現代の奴隷」と呼んだように、はかないのはダンサーの身の上だ。安い給料でやとわれ、昼の練習、夜の舞台ときびしく使われ、控え室に入ってこそ、おしろいできれいに化粧し美しい衣装に身をつつむけれど、舞台以外では、独身の身でさえ衣食も足りないことが多いほどなので、親や兄弟を養っている者はなおさらその苦しさはどんなだろうか。だから、彼女たちの仲間で、最も賤しい仕事、売春婦にまで落ちない者はめったにないそうだ。エリスがこれに落ちないですんだのは、おとなしい性格と、気骨のある父が守ってくれたからだ。彼女は小さい時から本を読むことはやはり好きでも、手に入る本といえば、貸本屋で借りる「コルポタージュ」という低俗な小説ばかりだったが、僕と知り合ってからは僕が貸す本を読み親しんで、しだいに面白味もわかるようになり、言葉の訛りも直し、いくらもたたないうちに僕に送ってくる手紙にも誤字が少なくなった。そのようだったので、僕ら二人の間には、まず師弟の関係が生まれたのだった。
 さて、彼女は僕の不意の免職を聞いて、真っ青になった。僕は彼女が僕の免職に関係があったことを隠していたが、彼女は僕に、「おかあさんにはこのことは話さないで」と言った。これは、エリスのおかあさんが、僕が資金を得る手段をなくしたことを知って僕を遠ざけようとするのを心配したからだ。

28 ああ、ここに詳しく書く必要もないけれど、僕が彼女を愛する心が急に強くなって、ついに離れられない仲になったのは、この時だった。僕の一生の一大事は目の前に横たわり、実に重大な人生の瀬戸際だったが、こんな時にこういうことになったことを不思議に思い、また非難する人もあるだろうが、僕がエリスを愛する気持ちは、初めて会った時から浅くはなかった上に、今、僕の運命を悲しみ、また別れを悲しんで目を伏せた顔に耳ぎわの毛がはりついてかかっている、エリスのその美しい、いじらしい姿は、悲しみの刺激によって異常に過敏になった僕の脳を麻痺させ、意識を朦朧とさせて、こうなってしまったのだ。どうしようもない。

29 大使に約束した日は近づき、僕の運命の決まる日も迫ってきた。このまま日本に帰れば、学問も中途半端で、悪評を背負ったこの身が今後浮かぶ瀬はないだろう。そうかといって、ドイツにとどまろうと思っても、学費をまかなう手段がない。

30 この瀬戸際に、僕を助けてくれたのは、今、帰国の船に同乗している相沢謙吉だ。彼は東京にいて、その時すでに天方大臣の秘書官になっていたが、僕の免職が官報に出たのを見て、日本の某新聞社の編集長を説得してくれて、僕はその新聞社の海外通信員としてベルリンにとどまって、政治や文化などのことを報道することになった。

31 新聞社からの報酬はたいした額ではないが、小さな安い家に移り、安い食堂で昼食を食べるようにすれば、なんとか質素な暮らしはできるだろう、と、あれこれ考えるうちに、誠意を表して、僕に助け船を出してくれたのは、ほかでもないエリスだった。彼女はどのように、母親を説得したのだろうか、僕は彼女ら母娘の家に下宿することになり、エリスと僕は、いつからともなく、わずかな収入を合わせて、心配な中にも楽しい生活を送るようになった。

32 朝のコーヒータイムをすませると、彼女は練習に行き(練習のない日は家にいて)、僕はケーニッヒ街にある、入り口が狭くて奥行きばかりがとても長い喫茶店に行き、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出して、あれこれと記事の材料を集める。天井にあけた引き窓から光がさし込むこの部屋で、定職のない若者、多くもない金を人に貸して自分は遊び暮らす老人、取引所の仕事の合間を盗んで休憩する商人、などと並んで、冷たい石のテーブルの上で、あわただしく鉛筆を走らせ、ウェイトレスが持ってくる一杯のコーヒーが冷めるのも気にとめないで、細長い板にはさんで閲覧できるようにした新聞を何種類もかけてある片側の壁のところへ、何度となく往復する日本人を、事情を知らない人はあやしく思ったことだろう。また、エリスが練習に行った日には、一時近くになると、帰りに立ち寄って、いっしょに店を出る。この、立ち居振る舞いが非常に軽やかで、てのひらの上で舞うこともできそうな少女が、なぜこんな日本人なんかといっしょにいるのかと不思議そうに二人の後ろ姿を見送る人もあったにちがいない。

33 僕は学問から遠ざかった。屋根裏の一つのあかりがかすかに燃えて、劇場から帰ったエリスが椅子にもたれて裁縫などをするその近くの机で、僕は新聞の原稿を書いた。昔の、枯れ葉のように無味乾燥な法令や項目を紙の上に集めるようなのとは違って、今は活発な政界の動き、文学や美術の新しい現象に関する批評など、あれこれ関連づけて、ベルネよりはハイネを学んで構想を練り、ある限りの力で、さまざまな文章を書いた。なかでも、立て続けに、ヴィルヘルム一世とフリードリヒ三世の崩御があって、新帝ヴィルヘルム二世の即位、宰相ビスマルク侯の進退がどのようになるのかなどのことについては、格別に詳細な報告をした。それで、このころからは思ったよりも忙しくなって、多くもない自分の本を読んだり、以前学んだ法律学などを振り返ったりすることも難しくなったので、大学のほうは除籍こそはまだされていないけれど、聴講料を収めることも難しく、たった一つだけにした講義さえ聴きに行くことはめったになくなった。

34 僕は学問から遠ざかった。けれど、僕はかわりに別の学識を高めた。それは何かというと、「ジャーナリズム=民間学」とでも呼ぶべきものだ。民衆に「ジャーナリズム」の広まっていることは、ヨーロッパ諸国でもドイツ以上の国はないだろう。何百という新聞や雑誌のあちこちに散見される議論には、非常にレベルの高いものも多く、僕は、新聞社の通信員となって以来、かつて大学で学んでいた時に得た「隻眼(ものごとの奥まで見通す力)」でもって、読んではまた読み、書き写してはまた書き写すうちに、今までは狭い一本道のような知識しか知らなかったが、自然と総合的・統合的になって、同じ日本からの留学生などのたいていの者は夢にも知らない境地に至った。彼らの中にはドイツ新聞の社説さえろくに読めない者もいるのだから。


35 明治二十一年の冬になった。表通りの歩道こそ、滑り止めの砂をまき、スコップで除雪などもしているが、裏通りのクロステル街あたりはでこぼこのところは見えるようだが、表面だけは一面に凍って、朝、ドアを開けると、飢え凍えて死んだ雀が落ちていたりするのもあわれだ。部屋を暖め、暖炉に火をつけても、壁の石を突き通し、服の綿を突き抜ける北ヨーロッパの寒さは、とても耐えられないほどだ。エリスは、二、三日前の夜、舞台で倒れたといって、人に助けられて帰ってきたが、それから気分が悪いといって仕事を休んでいる。ものを食べるごとに吐くのを、つわりではないか、と初めて気づいたのは、おかあさんだった。ああ、自分の今後だけでさえ不安なのに、もし、それが本当なら、どうしたらいいのだろう。

36 今日は日曜なので、朝から家にいるが、楽しい気分にはなれない。エリスはもうベッドで寝ていなければいけないというほど悪くはないけれど、小さい鉄の暖炉のそばに椅子を寄せて、あまりしゃべらない。そのとき戸口で人の声がし、まもなく、台所にいたエリスのおかあさんは、郵便を持ってきて僕に渡した。その手紙を見ると、見覚えのある相沢謙吉の字で、切手はプロシアのものだが、消印は「ベルリン」とある。不思議に思いながらも、封を切って読むと、「急なことで、前もって知らせることができなかったが、夕べ、ベルリンに到着された天方大臣に随行して、私もここに来た。大臣が、君に会いたいとおっしゃるので、すぐに来てほしい。君の名誉を回復するのも今しかない。気持ちばかり急がれるので、とりあえず用件だけを言い送る」とある。読み終わって、茫然としている僕の様子を見て、エリスは、「日本からの手紙? 悪い知らせではないでしょうね」と心配そうだ。彼女は、私が記事を送っている日本の新聞社からの、原稿料についての知らせだと思ったようだ。「いや、心配はいらないよ。君も名前だけは知っている僕の友人の相沢が、大臣といっしょにベルリンに来て、僕を呼んでるんだ。『急ぐ』というから、今から行ってくるよ。」

37 かわいい一人っ子を送り出す母も、こんなには気を使わないだろう。一国の大臣に面会するかもしれないと思うからだろう、エリスは体がまだよくないが無理に立ち、ワイシャツはとくに真っ白なのを選び、大事にしまってあった「ゲーロック」という二列ボタンの礼服を出してきて着せ、ネクタイまで、僕のために結んでくれた。

38 「これで、見苦しいとは誰も言えないわ。ほら、この鏡でごらんなさい。どうしてそんなに面白くなさそうな顔をしてるの? 体さえよければ、私もいっしょに行きたいぐらいだわ。」 そして、少し改まって、「いえ、こうやって礼服姿を見ると、なんとなくミスター豊太郎とは見えないわ」 また少し考えて、「もしもお金持ちになっても私を見捨てないでね、私の体が母の言うような妊娠なんかでなかったとしても」

39 「金持ちだって?!」 僕は笑った。「政治の社会なんかに出ようという望みは捨てて何年にもなるさ。大臣にも別に会いたくはない。何年も会ってない友達にただ会いに行くだけだよ。」 エリスのお母さんが呼んでくれた「エグゼクティブ」馬車は、車輪で雪道をきしきし言わせながら窓の下までやってきた。僕は手袋をはめ、少し汚れたコートを背中にかけて、帽子を手に取り、エリスに軽くキスをして、階段を下りた。エリスは凍っている窓をあけ、乱れた髪を一月の冷たい北風になびかせて僕が乗った馬車を見送っていた。

40 僕が馬車を降りたのは、ホテル「カイゼルホーフ」の入り口だった。ホテルマンに、秘書官相沢のルームナンバーを尋ね、歩かなくなって久しくなった大理石の階段を上り、中央の柱にビロードで覆ったソファーを置き、正面に鏡を据えた前室に入った。コートはここで脱ぎ、廊下に沿って部屋の前まで行ったが、僕は少しためらった。二人が大学生だったとき、僕が品行方正なのを褒めてくれた相沢が、品行方正でないという理由で官僚をやめさせられた僕に、今、どのような態度で会うだろうか。部屋に入って対面してみると、見かけこそ昔より太ってたくましくなっているが、依然として気性は快活そうで、僕の失脚についてはそれほど気にしていないように見えた。大学卒業後の細かい事情を話す時間的余裕もなく、連れられて大臣に面会し、依頼されたのは、ドイツ語で書いてある文書を、急を要するので急いで翻訳せよ、とのことだった。僕が文書を受け取って大臣室から出ると、相沢があとから追いかけてきていっしょに昼飯を食べようと言った。

41 昼食のテーブルでは彼が多く尋ねて、僕が多く答えた。彼の人生はだいたい平穏だったのに対して、僕の身の上は波瀾万丈だったから。

42 僕が率直に話したこれまでの不幸を聞いて彼は何度も驚いていたが、あえて僕を責めようとはせず、逆に他の平凡で無能な官僚たちをののしった。けれど、話の終わったとき、彼は態度を改めて僕に忠告して言った。「このたびのことは、もともと生まれながらの弱い心がきっかけになったものだから、それをいまさらどうこう言ってもしかたがない。それよりも、学識があり才能があり、国家の役に立つはずの者が、いつまでも一人の少女の心に関わりあって目的のない生活を続けるのはよくない。今は天方大臣もただ君のドイツ語の語学力を利用しようという意図しかない。自分もまた、大臣が、君が辞めさせられた理由を知っておられるので、無理に大臣のその先入観を覆そうとはしない。大臣が心の中で、『相沢は変に太田をかばいだてする』などとお思いになったなら、君にも利益がなく、自分も損をするからだ。人を推薦するときには、まず推薦される本人が、能力を示すに限る。才能を示して大臣の信用を得ることだ。また、その少女との関係は、たとえ彼女に誠意があっても、たとえ愛情は深くなっても、能力・才能を知っての恋ではない。慣れという一種の惰性から生じたつきあいだ。思い切って断ち切れ」と。これが、そのときの相沢のことばのおおよそだった。

43 相沢が僕に示した前途の方針は、大海原で舵をなくした漁師がはるかに遠い山を望むようなものだった。そのうえ、この山は深い霧の向こうに隠れて、いつ行き着くか、いや行き着いたとしても、はたして僕の心の中で納得できるかどうかもはっきりしない。貧しい中にも楽しいのは今のエリスとの生活。捨てがたいのはエリスの愛。僕の弱い心では、どうしたものか決めかねたが、当面友のアドバイスに従おうと思って、「エリスとは別れよう」と約束してしまった。僕は守るものがあるときは、それを失いたくないために、敵対する者には抵抗するが、自分のことを考えてくれる友人に対しては、「いやだ」とは言えないのであった。

44 相沢と別れて、ホテルを出ると、風が顔に激しく吹きつけた。二重になったガラス窓をしっかり閉めて、大きな陶製の暖炉で火をたいているホテルの食堂を出たあとだったので、ことさらに、薄いコートを突き抜けて入ってくる午後四時の寒さはたえがたく感じられ鳥肌が立ったが、また自分の心の中にも、ある「寒さ」を感じた。

45 ドイツ語の文書の翻訳は一晩で完成した。ホテル「カイゼルホーフ」に通う回数は、その後しだいに頻繁になってゆき、最初は大臣が僕にかけてくださる言葉も用件だけだったが、のちには、最近日本であった事件などを話題にして、僕の意見をお聞きになったり、折りに触れて、行き帰りの時に、だれそれの失敗談ということなどをお話しになり、軽くお笑いになったりするようにもなった。


46 ひと月ほど経ったある日、大臣は突然私に向かって「私は明日の朝、ロシアに発つことになっている。君もついてこれるか」とお尋ねになった。僕はこの数日、公務で忙しい相沢に会っていなかったので、このいきなりの質問に驚いた。が、とっさに、「どうしてご命令に従わないことがあるでしょうか」と答えてしまった。僕は恥を覚悟で言おう。この返事は、瞬間的に決断して言ったのではない。僕は、自分が信じて信頼する気持ちになった人に、いきなり何かの返事を迫られたときには、とっさにその答えがどのような影響をおよぼすかをよく考えず、すぐに承知してしまうことがよくあった。それで、承知してから、その達成しがたいことに気づいても、そのときの精神状態がぼんやりしていたことを隠し、がまんしてそれを実行せざるをえなくなることがよくあった。

47 この日は翻訳料に、旅費までプラスして、くださったのを持って返って、翻訳料はエリスに預けた。このお金でロシアから帰ってくるまでの生活はなんとかなるだろう。彼女の体は、医者によると、平常ではない体、つまり妊娠している身だという。もともと貧血気味だったので、気づくのが何か月か遅れたのだろう。座長からは、休みがあまりに長期になったので、籍を除いたと言ってきた。長期といっても、まだひと月ほどなのに、こんなに処遇が厳しいのは、あのとき、シャウムベルヒの要求を拒否したからにちがいない。エリスは僕の出発のことにはひどく悲しんでいるようにも見えない。うそのない僕の心を完全に信じてくれているからだろう。

48 列車で行けば遠くもない旅なので、特別な用意などもない。体に合わせて借りた黒い礼服、新しく買い求めた「ゴタ」サイズのロシア朝廷の貴族系図、二、三種類の辞書などを、小さいカバンに入れただけだ。そうはいってもやはり心配事ばかりが多いこのごろなので、出発したあとに二人残るのも不安だろうし、また駅のホームで泣いたりなどしたら気がとがめるだろうと思って、翌朝早く、エリスとおかあさんを知り合いに預けた。僕は旅の用意をして、家には鍵をかけ、その鍵は入り口に住む靴屋の主人に預けて出発した。

49 ロシアでのことについては、とくに書くこともないだろう。僕は、通訳としての仕事によって、いきなりロシア宮廷に「ドラッグ・アンド・ドロップ」された。大臣の一行といっしょにペテルブルクにいた間に、僕を取り囲んでいたのは、パリ最高のぜいたくを氷と雪の中に移し変えたような王城の装飾、とくに黄色のロウソクを数多く灯している中で反射し輝いている、たくさんの勲章・肩章の、無数の光、彫刻の技をきわめて作られた壁面の暖炉の暖かさのために、周囲の寒さを忘れて官女が使う「おうぎ」のひらめき、など。ロシア滞在中、一行の中で、ヨーロッパ上流社会の共通語であるフランス語を最もなめらかに使うのは僕だったために、客と主人の間を行き来して通訳して回るのもまた多くは僕だった。


50 ロシア滞在中、僕はエリスを忘れなかった。いや、忘れられなかった。それは、彼女が毎日手紙を書いて送ってきたから。彼女が送ってきた最初の手紙のおおよそは次のようなものだった。「あなたが出発した日には、いつになく、一人であかりに向かうのが寂しかったので、知り合いの家で夜になるまでいろいろな世間話をし、疲れるのを待って家に帰り、すぐに寝ました。次の日の朝目が覚めた時も、まだ信じられず、一人であとに残っているのを夢ではないかと思いました。起きた時の心細さといったら。こんなにつらい気持ちには、生活が苦しくてその日の食べ物に困った時にもなったことがありません」

51 また、しばらくしてからの手紙は、非常に思いつめて書いた様子だった。手紙は「いや」という語で書き始めていた。「いやです。あなたを思う深い気持ちは、今さらながらはじめてわかりました。あなたは、『自分にはふるさと日本に、頼りになる親戚はいない』とおっしゃったので、このドイツによい働き口があるなら、ドイツにとどまってくださいますよね。それに、私の愛であなたをつなぎとめないではいませんから。その願いもかなわないで、日本にお帰りになるというのなら、私のほうが母といっしょに日本に行くのは簡単だけれど、それほど多額の旅費をどこから手に入れたらいいのでしょう。どんなことをしてでもここにとどまって、あなたが出世する日を待っていようと、これまでは思ってたのに、短い旅だといって出発してから二十日ほど、会えない悲しみは日に日に大きくなっていくばかり。別れはほんの一瞬の苦しみだと思ったのはまちがいでした。お腹はだんだん大きくなっていきます。それもあるから、たとえどんなことがあっても、私のことを絶対捨てたりしないでね。おかあさんとは、激しく言い争いました。けれど、私が、以前とは違って決意の強いのを見て、折れてくれました。私が日本に行く日があったら、遠い親戚がステッチンあたりで農業をしているので、そこに身を寄せようと言ってくれました。お返事にあったように、あなたが大臣に重く使われなさったら、私の旅費ぐらいはどうにでもなるでしょう。今はひたすらあなたがベルリンにお帰りになるのを待つだけです。


52 ああ、僕はこの手紙を読んで初めて、自分の置かれている立場をはっきり理解した。恥ずかしいのは、僕にかけるエリスの気持ちに気づかなかった僕の鈍い心である。僕は自分一人の身の振り方についても、また、他人のことであっても、決断力がある、という自信があったが、この決断力が発揮されるのは順境の時だけで、逆境のときには発揮されないのだった。自分と人がどういう関係にあるかを理解しようとする時には、頼るべき僕の心の鏡は曇ってしまうのだった。

53 大臣は、このころにはもう僕を厚遇してくれていた。けれど、遠くを見通せない僕の目は、ただ、自分が力を尽くしている通訳の仕事だけを見ていた。自分はこの大臣の信頼に将来の希望をつなぐ、つまり再び出世の道を夢見るなどということは、神に誓って、まったく考えつきもしないことだった。けれど、そのことに気づいた今、僕の心は冷静でいられるだろうか。先日、相沢が勧めてくれた時は、大臣の僕に対する信用は、雲の上の鳥のようなとらえがたい存在だったが、今は少しばかりその信頼を得たかと思われる。相沢が最近言葉の端々に、日本へ帰ってからもいっしょに仕事ができれば…、などと言うのは、大臣がそんなふうにおっしゃっているのを、友人ではあるが公のことなのではっきりと言えず、ぼかして言っているのだろうか。今あらためて思うと、僕が軽々しく相沢に向かって「エリスと別れよう」と言ったのを、さっそく大臣に報告していたのだろうか。


54 ああ、僕がドイツにやって来た当時、本当の力を知ったと思い、また人に使われる受身の人間にはなるまいと誓ったが、これは、足を縛られた上で放たれた鳥のように、少しの間はばたいて自由を手に入れた、とうぬぼれていただけだったのだ。足の糸はほどく方法がない。前にこの糸を操っていたのは、例の某省の長官で、今は、ああ、天方大臣の手の内にある。
 僕が大臣の一行といっしょにベルリンに戻ったのは、ちょうど、一月一日の朝、元旦であった。駅のホームで別れて、わが家をめざして馬車を走らせた。ここドイツでは、大晦日の夜は新年を祝って遅くまで寝ず、朝になってから寝る慣習なので、どの家もひっそりと静まり返っている。寒さは厳しく、路上の雪は角のある氷のかけらになって、晴れた朝日の光に反射して、きらきらと輝いていた。馬車は曲がってクロステル街に入り、家の入り口に止まった。この時窓を開く音がしたが、馬車からは見えなかった。運転手にカバンを持たせて階段を上ろうとした時、エリスが階段を駆けおりてきた、お腹の大きい身であるのに。彼女が「豊太郎!」と一声叫んで僕の首に抱きついたのを見て、運転手はあきれた表情で、何ごとかを髭のあたりでつぶやいたが、よく聞こえなかった。

55 「お帰りなさい。さびしくてつらくて、死にそうだったわ。」

56 僕の心はこの時になっても決まらず、日本をなつかしく思う気持ちと名声・出世を求める心とは、時に、エリスを愛する気持ちを圧倒しようとしたが、ただこの瞬間だけは、ためらい悩む気持ちは消え、僕は彼女を抱いた。彼女の頭は僕の肩にもたれて、喜びの涙ははらはらと僕の肩の上に落ちた。

57 「何階に持って行くのかねー。(元旦なんだから早くしてくれよ、ぶつぶつ…)」と、運転手は「どら」のような大声――二人を現実に引き戻す声――で尋ねた。見ると、早くも階段を上り、段の途中に立っていた。

58 僕はドアの外で出迎えたエリスの母に、「運転手にこれを」とチップ用の銀貨を渡し、エリスに手を取って引っ張って行かれ、急いで部屋に入った。ちょっと見て僕は驚いた。机の上には白い木綿の布や白いレースなどが何重にも高く積み重ねられていたから。

59 エリスはほほえみながらそれらを指差して、「どう? 用意万端整ってるでしょ?」と言う。一枚の木綿の布を取り上げて見ると、「おむつ」だった。「私の心のうれしさを考えてみて。生まれる子はあなたに似て、黒い目かしら。あなたの、この黒い瞳。ああ、あなたの黒い瞳を何度も何度も夢に見たわ。この子が生まれる日には、『太田』以外の姓を名乗らせたりしないわよね、あなたは正しい心の持ち主だもの」 また、彼女は「子供っぽい、って笑うかもしれないけど、この子が洗礼を受ける日が待ち遠しくて」と、下を向いた。再び見上げたその目には、涙がたまっていた。


60 ロシアから帰って二、三日の間は、旅で疲れていらっしゃるだろうと思って、大臣のところへは、無理にうかがわず、家にだけ閉じこもっていたが、ある日の夕方、使者が来て、「家に来るように」と言われた。行ってみると、いつも以上にていねいにもてなされ、大臣は、ロシア行きの労をねぎらってくださったあと、「私といっしょに日本へ帰る気はないか。君の学問は私にはわからないが、語学力だけでも世の中の役に立つだろう。ドイツ滞在があまりに長いから、さまさまなしがらみもできているのではないかと、相沢に尋ねたが、相沢は『太田には、そんなことはありません』と言っておった。それを聞いて安心したぞ」とおっしゃった。その様子を見ると、断ることはとてもできなかった。「ああ、困った」と思ったが、さすがに相沢が大臣に言った言葉を「うそです」とも言いづらい。また、もし今、大臣のこの助けにすがらなければ、僕は故郷日本を失うことになり、名誉を回復する手段も逃すことになり、このだだっ広いヨーロッパの大都会の無数の人間に埋もれて死んでいくだけ、と心細く思う気持ちが、急にわき上がってきた。そこで、「わかりました」と答えてしまった。ああ、なんという卑劣な人間だ。

61 いくら、面(つら)の皮が厚い、恥知らずだといっても、さすがに帰ってエリスに言う言葉、合わせる顔がない。ホテルを出た時の僕の心の錯乱ぶりはたとえようもなかった。僕は、どこをどう歩いているのかもわからず、沈痛な思いで歩いていたが、行き交う馬車の運転手に何度も怒鳴られ、そのたびに驚いてとびのいた。しばらくして、ふとあたりに気づくと、「動物公園」の近くだった。倒れ込むように道端のベンチに腰かけたが、体は焼けるように熱い。ハンマーで殴られたようにがんがん響く頭を背もたれにもたせかけ、死んだようになって何時間か過ごした。きびしい寒さが、骨まで突き抜けるように感じて気がつくと、夜になって雪が激しく降り、帽子のひさし、コートの肩に雪が三センチほども積もっていた。

62 すでに十一時は過ぎていただろうか。モハビット街、カルル街を行き来する鉄道馬車の線路も雪に埋もれて見えなくなり、ブランデンブルゲル門近くのガス灯は、さびしい光を放っていた。立ち上がろうとしたが、足が凍えて動かないので、両手でさすって、なんとか歩けるほどには回復した。

63 足がなかなか前に進まないので、やっとクロステル街までたどりついた時には、真夜中も過ぎていただろうか。ここまでどうやって歩いてきたのかもわからなかった。一月上旬の夜なので、ウンテル・デン・リンデン通りの酒屋、喫茶店はまだ出入りが盛んでにぎやかだったろうが、まったく覚えていない。僕の頭の中には、ただただ、自分は許されない罪人だという考えばかりがあふれかえっていた。

64 四階の屋根裏部屋では、エリスはまだ寝ていないらしく、きらめく星のような明かりが、暗い空の中ではっきりと見えるが、降りしきる白鷺のような雪のために見え隠れし、まるで風にもてあそばれているかのようだった。一階の戸口に入り込むと同時に急に疲れを覚え、関節の痛みも堪えがたく、這うようにして階段を上った。家に入り台所を過ぎ、エリスの部屋の戸を開けてころがり込むと、机の脇で「おむつ」を縫っていたエリスは振り返って、「きゃ! どうしたの、あなたのその姿は?!」と叫んだ。

65 エリスが驚いたのも無理はない。僕の顔は真っ青でまるで死人のよう、帽子はいつのまにかなくし、髪はばらばらに乱れて、何度も道でつまづいて転んだために、服は土と雪でどろどろに汚れ、ところどころ破れていたから。

66 僕は返事をしようとしたが、声も出ず、膝はしきりにがくがくして立つに立てず、イスをつかもうとしたまでは覚えているが、そのまま地面に倒れたらしい。そのあとのことはわからない。


67 意識が回復したのは、数週間経ってからのことだった。高熱が続き、うわごとばかり言っていたが、その間、エリスが心をこめて看病してくれたそうだ。そこへある日、相沢が尋ねてきて、相沢は、僕が相沢に隠していた一部始終をくわしく知り、大臣には「太田が病気です」とだけ報告し、あとのことはよいようにごまかしておいてくれた。
 意識が回復して初めて、僕はベッドのそばに座っているエリスを見て、その変わり果てた姿に驚いた。彼女はこの数週間のうちにひどくやせ、目は血走ってくぼみ、ほおは灰色にげっそりこけていた。相沢の助けで、毎日の生活には困っていなかったが、この恩人、相沢は、彼女を精神的に殺してしまったのだった。

68 あとでそのいきさつを聞くと、エリスは相沢に会った時、相沢から、僕が相沢にした約束を聞き、また、いつかの夕方、天方大臣にした承諾も聞くと、いきなり椅子から飛び上がり、顔色はまるで土のようになり、「わたしの豊太郎! なぜ私をだましたの!!」と叫んで、その場で気を失ったそうだ。相沢は、エリスの母を呼んで、力を合わせて助け起こして、ベッドに寝かせたが、しばらくして意識を取り戻した時には、目は一点を見つめたままで、そばにいる人が誰かも見分けられず、僕の名前を呼んではひどく非難し、髪をむしったり、布団をかんだりなどし、また、急に気づいたふうで物を探すそぶりをしたりした。おかあさんが、これかと、渡すものを、あれもこれも投げ捨てたが、机の上にあった「おむつ」を渡すと、確かめて顔に押し当て、涙を流して泣いたそうだ。

69 そのあとはもう騒ぐことはなくなったが、精神の働きはほとんどなくなってしまって、赤ちゃんのように何もわからなくなってしまった。医者に見せたが、医者は「激しいストレスで急に起こった『パラノイア』という病気なので、回復の見込みはない」と言う。ダルドルフの精神病院に入れようとすると、泣き叫んで言うことをきかず、しばらく経ってからは、例の「おむつ」一枚を体から離さず、何度も取り出しては見、見ては泣く。僕が寝ているベッドからは離れないけれど、そのことさえ、意識してのことかどうかわからない。ただ、時々思い出したように、「豊太郎に薬を。薬を。」と言うだけである。

70 僕の病気のほうは、完全に治った。「生けるしかばね」のようになってしまったエリスを抱いて、何度、激しく泣いたかわからない。天方大臣について日本に帰国する時、相沢と相談して、エリスのおかあさんに、なんとか生活ができるだけのお金を渡し、かわいそうな彼女のおなかの中に残した赤ちゃんが生まれた時のことも頼んでおいた。


71 ああ、相沢謙吉のようないい友はめったにいないだろう。けれど、僕の頭の中にはわずかに彼を憎く思う気持ちが残っていて、それが今――天方大臣や相沢らといっしょの帰国途中、サイゴンのみなとに停泊し、この手記を書いている――も完全に消えてはいないのだ。

                《おわり》





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 舞姫(原文)   森 鴎外


 石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱灯の光の晴れがましきもいたづらなり。今宵は夜ごとにここに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。五年前のことなりしが、平生の望み足りて、洋行の官命をかうむり、このセイゴンの港まで来しころは、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく、筆にまかせて書き記しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりて思へば、をさなき思想、身の程知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげに記ししを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りし時、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のままなるは、独逸にて物学びせし間に、一種の「ニル・アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。

 げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなほ心に飽き足らぬところも多かれ、浮き世のうきふしをも知りたり、人の心の頼み難きは言ふも更なり、我と我が心さへ変はりやすきをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なる我が瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。

 嗚呼、ブリンヂイシイの港を出でてより、はや二十日あまりを経ぬ。世の常ならば生面の客にさへ交はりを結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習ひなるに、微恙にことよせて房のうちにのみこもりて、同行の人々にも物言ふことの少なきは、人知らぬ恨みに頭のみ悩ましたればなり。この恨みは初め一抹の雲のごとく我が心をかすめて、瑞西の山色をも見せず、伊太利の古蹟にも心をとどめさせず、中ごろは世を厭ひ、身をはかなみて、腸日ごとに九廻すともいふべき惨痛を我に負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響きのごとく、限りなき懐旧の情を喚び起こして、幾たびとなく我が心を苦しむ。嗚呼、いかにしてかこの恨みを銷せむ。もしほかの恨みなりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地すがすがしくもなりなむ。これのみはあまりに深く我が心に彫りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人もなし、房奴の来て電気線の鍵をひねるにはなほ程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りてみむ。

 余は幼きころより厳しき庭の訓を受けしかひに、父をば早く喪ひつれど、学問の荒み衰ふることなく、旧藩の学館に在りし日も、東京に出でて予備黌に通ひし時も、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首に記されたりしに、独り子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりそのころまでにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三年ばかり、官長の覚え殊なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我が名を成さむも、我が家を興さむも、今ぞと思ふ心の勇み立ちて、五十をこえし母に別るるをもさまで悲しとは思はず、はるばると家を離れて伯林の都に来ぬ。

 余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、たちまちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり。なんらの光彩ぞ、我が目を射むとするは。なんらの色沢ぞ、我が心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳する時は、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪のごときウンテル・デン・リンデンに来て両辺なる石だたみの人道を行く隊々の士女を見よ。胸張り肩そびえたる士官の、まだ維廉一世の街に臨める窓に倚りたまふころなりければ、さまざまの色に飾りなしたる礼装をなしたる、かほよき少女の巴里まねびの粧ひしたる、かれもこれも目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろいろの馬車、雲にそびゆる楼閣の少しとぎれたるところには、晴れたる空に夕立の音を聞かせてみなぎり落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てて緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮かび出でたる凱旋塔の神女の像、このあまたの景物目睫の間に聚まりたれば、はじめてここに来しものの応接にいとまなきもうべなり。されど我が胸には、たとひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動かさじの誓ひありて、常に我を襲ふ外物を遮りとどめたりき。

 余が鈴索を引き鳴らして謁を通じ、公の紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つづきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。喜ばしきは、我が故里にて、独逸、仏蘭西の語を学びしことなり。彼らははじめて余を見し時、いづくにていつのまにかくは学び得つると問はぬことなかりき。

 さて官事の暇あるごとに、かねて公の許しをば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊に記させつ。

 ひと月ふた月と過ぐすほどに、公の打ち合はせも済みて、取り調べもしだいにはかどりゆけば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写しとどめて、つひには幾巻をかなしけむ。大学のかたにては、をさなき心に思ひ計りしがごとく、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、これかかれかと心迷ひながらも、二、三の法家の講筵につらなることに思ひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。

 かくて三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来たれば包みても包み難きは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教へに従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりとはげますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなくおだやかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我が身の今の世に雄飛すべき政治家になるにもよろしからず、またよく法典を諳じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。余はひそかに思ふやう、我が母は余を活きたる辞書となさんとし、我が官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらんはなほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。また大学にては法科の講筵をよそにして、歴史文学に心を寄せ、やうやく蔗を嚼む境に入りぬ。

10 官長はもと心のままに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想をいだきて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危ふきは余が当時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我が地位を覆すに足らざりけんを、日ごろ伯林の留学生のうちにて、ある勢力ある一群れと余との間に、おもしろからぬ関係ありて、かの人々は余を猜疑し、またつひに余を讒誣するに至りぬ。されどこれとてもその故なくてやは。

11 かの人々は余がともに麦酒の杯をも挙げず、球突きの棒をも取らぬを、かたくななる心と欲を制する力とに帰して、かつは嘲りかつは嫉みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、この故よしは、我が身だに知らざりしを、いかでか人に知らるべき。我が心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触れば縮みて避けんとす。我が心は処女に似たり。余が幼きころより長者の教へを守りて、学びの道をたどりしも、仕への道を歩みしも、みな勇気ありてよくしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、みな自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、ただ一筋にたどりしのみ。よそに心の乱れざりしは、外物を棄てて顧みぬほどの勇気ありしにあらず、ただ外物に恐れて自ら我が手足を縛せしのみ。故郷を立ち出づる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、また我が心のよく耐へんことをも深く信じたりき。嗚呼、かれも一時。舟の横浜を離るるまでは、あつぱれ豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾を濡らしつるを我ながら怪しと思ひしが、これぞなかなかに我が本性なりける。この心は生まれながらにやありけん、また早く父を喪ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。

12 かの人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。
 赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣をまとひ、珈琲店に坐して客をひく女を見ては、往きてこれに就かん勇気なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挟ませて、普魯西にては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。これらの勇気なければ、かの活発なる同郷の人々と交はらんやうもなし。この交際の疎きがために、かの人々はただ余を嘲り、余を嫉むのみならで、また余を猜疑することとなりぬ。これぞ余が冤罪を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難を閲し尽くす媒なりける。

13 ある日の夕暮れなりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル・デン・リンデンを過ぎ、我がモンビシュウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。余はかの灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り、楼上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取り入れぬ人家、頬髭長き猶太教徒の翁が戸前にたたずみたる居酒屋、一つの梯は直ちに楼に達し、他の梯は窖住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向かひて、凹字の形に引きこみて立てられたる、この三百年前の遺跡を望むごとに、心の恍惚となりてしばしたたずみしこと幾たびなるを知らず。

14 今このところを過ぎんとする時、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつつ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六、七なるべし。被りし巾を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我が足音に驚かされて顧みたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁ひを含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、なにゆゑに一顧したるのみにて、用心深き我が心の底までは徹したるか。

15 彼ははからぬ深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「なにゆゑに泣きたまふか。ところに係累なき外人は、かへりて力を貸しやすきこともあらん。」と言ひかけたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

16 彼は驚きて我が黄なる面をうち守りしが、我が真率なる心や色にあらはれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼のごとく酷くはあらじ。また我が母のごとく。」しばし涸れたる涙の泉はまたあふれて愛らしき頬を流れ落つ。

17 「我を救ひたまへ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯へだになし。」

18 あとは欷歔の声のみ。我が眼はこのうつむきたる少女のふるふ項にのみ注がれたり。

19 「君が家に送り行かんに、まづ心を鎮めたまへ。声をな人に聞かせたまひそ。ここは往来なるに。」彼は物語するうちに、覚えず我が肩に倚りしが、この時ふと頭をもたげ、またはじめて我を見たるがごとく、恥ぢて我がそばを飛びのきつ。

20 人の見るが厭はしさに、早足に行く少女のあとにつきて、寺の筋向かひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを登りて、四階目に腰を折りて潜るべきほどの戸あり。少女はさびたる針金の先をねぢ曲げたるに、手をかけて強く引きしに、中にはしはがれたる老媼の声して、「誰ぞ。」と問ふ。エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあららかに引き開けしは、半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の痕を額に印せし面の老媼にて、古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴をはきたり。エリスの余に会釈して入るを、彼は待ちかねしごとく、戸をはげしくたて切りつ。

21 余はしばし茫然として立ちたりしが、ふと油灯の光に透かして戸を見れば、エルンスト・ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。内には言ひ争ふごとき声聞こえしが、また静かになりて戸は再び開きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無礼の振る舞ひせしを詫びて、余を迎へ入れつ。戸の内は廚にて、右手の低き窓に、真白に洗ひたる麻布を掛けたり。左手には粗末に積み上げたる煉瓦のかまどあり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を掩へる臥床あり。伏したるは亡き人なるべし。かまどのそばなる戸を開きて余を導きつ。このところはいはゆる「マンサルド」の街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窓に向かひて斜めに下がれる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭のつかふべきところに臥床あり。中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一、二巻と写真帖とを並べ、陶瓶にはここに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。そが傍らに少女は羞を帯びて立てり。

22 彼は優れて美なり。乳のごとき色の顔は灯火に映じてうす紅を潮したり。手足のかぼそくたをやかなるは、貧家の女に似ず。老媼の室を出でしあとにて、少女は少し訛りたる言葉にて言ふ。「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎みたまはじ。明日に迫るは父の葬り、たのみに思ひしシャウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼は「ヴィクトリア」座の座頭なり。彼が抱へとなりしより、はや二年なれば、事なく我らを助けんと思ひしに、人の憂ひにつけこみて、身勝手なる言ひかけせんとは。我を救ひたまへ、君。金をば薄き給金をさきて還し参らせん。よしや我が身は食らはずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身をふるはせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目のはたらきは知りてするにや、また自らは知らぬにや。

23 我がかくしには二、三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急をしのぎたまへ。質屋の使ひのモンビシュウ街三番地にて太田と尋ね来ん折には価を取らすべきに。」

24 少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別のために出だしたる手を唇にあてたるが、はらはらと落つる熱き涙を我が手の背にそそぎつ。

25 嗚呼、なんらの悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我が僑居に来し少女は、ショオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、ひねもす兀坐する我が読書の窓下に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始めとして、余と少女との交はりやうやく繁くなりもてゆきて、同郷人にさへ知られぬれば、彼らは速了にも、余をもて色を舞姫の群れに漁するものとしたり。我ら二人の間にはまだ痴・なる歓楽のみ存したりしを。

26 その名を斥さんははばかりあれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、我が官を免じ、我が職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に謂ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我が生涯にて最も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通はほとんど同時に出だししものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。余は母の書中の言をここに反覆するに堪へず、涙の迫りきて筆の運びを妨ぐればなり。

27 余とエリスとの交際は、この時まではよそ目に見るより清白なりき。彼は父の貧しきがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業を教へられ、「クルズス」果てて後、「ヴィクトリア」座に出でて、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハックレンデルが当世の奴隷と言ひしごとく、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にてつながれ、昼の温習、夜の舞台ときびしく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にてはひとり身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養ふものはその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、賎しきかぎりなる業に堕ちぬはまれなりとぞいふなる。エリスがこれをのがれしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。彼は幼き時より物読むことをばさすがに好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジュ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識るころより、余が貸しつる書を読みならひて、やうやく趣味をも知り、言葉の訛りをも正し、幾ほどもなく余に寄する文にも誤り字少なくなりぬ。かかれば余ら二人の間にはまづ師弟の交はりを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きし時に、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事にかかはりしを包み隠しぬれど、彼は余に向かひて母にはこれを秘めたまへと言ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。

28 嗚呼、くはしくここに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心のにはかに強くなりて、つひに離れ難き仲となりしはこの折なりき。我が一身の大事は前に横たはりて、まことに危急存亡の秋なるに、この行ひありしを怪しみ、また誹る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、はじめて相見し時よりあさくはあらぬに、今我が数奇を憐れみ、また別離を悲しみて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかかりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしをいかにせむ。

29 公使に約せし日も近づき、我が命は迫りぬ。このままにて郷に帰らば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮かぶ瀬あらじ。さればとてとどまらんには、学資を得べき手だてなし。

30 この時余を助けしは今我が同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、余を社の通信員となし、伯林にとどまりて政治、学芸のことなどを報道せしむることとなしつ。

31 社の報酬は言ふに足らぬほどなれど、棲家をも移し、午餐に往く食店をもかへたらんには、かすかなる暮らしは立つべし。とかう思案するほどに、心の誠をあらはして、助けの綱を我に投げ掛けしはエリスなりき。彼はいかに母を説き動かしけん、余は彼ら親子の家に寄寓することとなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合はせて、憂きが中にも楽しき月日を送りぬ。

32 朝の珈琲果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家にとどまりて、余はキョオニヒ街の間口狭く奥行きのみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でてかれこれと材料を集む。この截り開きたる引き窓より光を取れる室にて、定まりたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に貸して己は遊び暮らす老人、取引所の業のひまをぬすみて足を休むる商人などと臂を並べ、冷ややかなる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞の珈琲の冷むるをも顧みず、あきたる新聞の細長き板ぎれにはさみたるを、幾種となく掛けつらねたるかたへの壁に、幾たびとなく往来する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。また一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路によぎりて、余とともに店を立ち出づるこの常ならず軽き、掌上の舞をもなし得つべき少女を、怪しみ見送る人もありしなるべし。

33 我が学問は荒みぬ。屋根裏の一灯かすかに燃えて、エリスが劇場より帰りて、椅子に倚りて縫ひものなどするそばの机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔の法令条目の枯れ葉を紙上にかき寄せしとは殊にて、今は活発々たる政界の運動、文学、美術にかかる新現象の批評など、かれこれと結びあはせて、力の及ばんかぎり、ビョルネよりはむしろハイネを学びて思ひを構へ、さまざまの文を作りしうちにも、引き続きて維廉一世と仏得力三世との崩・ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退いかんなどのことにつきては、ことさらにつまびらかなる報告をなしき。さればこのころよりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書をひもとき、旧業をたづぬることも難く、大学の籍はまだけづられねど、謝金を収むることの難ければ、ただ一つにしたる講筵だに往きて聴くことはまれなりき。

34 我が学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、およそ民間学の流布したることは、欧州諸国の間にて独逸に若くはなからん。幾百種の新聞雑誌に散見する議論にはすこぶる高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、かつて大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みてはまた読み、写してはまた写すほどに、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから綜括的になりて、同郷の留学生などのおほかたは、夢にも知らぬ境地に至りぬ。彼らの仲間には独逸新聞の社説をだによくはえ読まぬがあるに。

35 明治二十一年の冬は来にけり。表街の人道にてこそ沙をも蒔け、・をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹坎・のところは見ゆめれど、表のみはいちめんに氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室を温め、かまどに火を焚きつけても、壁の石をとほし、衣の綿をうがつ北欧羅巴の寒さは、なかなかに堪へ難かり。エリスは二、三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人にたすけられて帰り来しが、それより心地悪しとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻といふものならんとはじめて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もし真なりせばいかにせまし。

36 今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小さき鉄炉のほとりに椅子さし寄せて言葉寡し。この時戸口に人の声して、ほどなく庖廚にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。いぶかりつつも披きて読めば、とみのことにてあらかじめ知らするに由なかりしが、昨夜ここに着せられし天方大臣につきて我も来たり。伯のなんぢを見まほしとのたまふに疾く来よ。なんぢが名誉を恢復するもこの時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみ言ひやるとなり。読みをはりて茫然たる面もちを見て、エリス言ふ。「故郷よりの文なりや。悪しき便りにてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。「否、心になかけそ。御身も名を知る相沢が、大臣とともにここに来て我を呼ぶなり。急ぐと言へば今よりこそ。」

37 かはゆき独り子を出だしやる母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲェロック」といふ二列ぼたんの服を出だして着せ、襟飾りさへ余がために手づから結びつ。

38 「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。我が鏡に向きて見たまへ。なにゆゑにかく不興なる面もちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容をあらためて。「否、かく衣を更めたまふを見れば、なにとなく我が豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見棄てたまはじ。我が病は母ののたまふごとくならずとも。」

39 「なに、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」エリスが母の呼びし一等「ドロシュケ」は、輪下にきしる雪道を窓の下まで来ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に被ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼を下りつ。彼は凍れる窓を開け、乱れし髪を朔風に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。

40 余が車を下りしは「カイゼルホオフ」の入り口なり。門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を登り、中央の柱に「プリュッシュ」を被へる「ゾファ」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばここにて脱ぎ、廊をつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟・したり。同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、けふはいかなる面もちして出迎ふらん。室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えてたくましくなりたれ、依然たる快活の気象、我が失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにもいとまあらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを翻訳せよとのことなり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相沢はあとより来て余と午餐をともにせんと言ひぬ。

41 食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路はおほむね平滑なりしに、轗軻数奇なるは我が身の上なりければなり。

42 余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、彼はしばしば驚きしが、なかなかに余を譴めんとはせず、かへりて他の凡庸なる諸生輩をののしりき。されど物語のをはりし時、彼は色を正して諌むるやう、この一段のことはもと生まれながらなる弱き心より出でしなれば、いまさらに言はんもかひなし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活をなすべき。今は天方伯もただ独逸語を利用せんの心のみなり。己もまた伯が当時の免官の理由を知れるがゆゑに、強ひてその成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、己に損あればなり。人を薦むるはまづその能を示すに若かず。これを示して伯の信用を求めよ。またかの少女との関係は、よしや彼に誠ありとも、よしや情交は深くなりぬとも、人材を知りての恋にあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交はりなり。意を決して断てと。これその言のおほむねなりき。

43 大洋に舵を失ひし舟人が、はるかなる山を望むごときは、相沢が余に示したる前途の方鍼なり。されどこの山はなほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果たして往きつきぬとも、我が中心に満足を与へんも定かならず。貧しきが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。我が弱き心には思ひ定めん由なかりしが、しばらく友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守るところを失はじと思ひて、己に敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対へぬが常なり。

44 別れて出づれば風面を撲てり。二重の玻璃窓をきびしく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、薄き外套をとほる午後四時の寒さはことさらに堪へ難く、膚粟立つとともに、余は心の中に一種の寒さを覚えき。

45 翻訳は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれよりやうやく繁くなりもてゆくほどに、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近ごろ故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げてうち笑ひたまひき。

46 ひと月ばかり過ぎて、ある日伯は突然我に向かひて、「余は明旦、魯西亜に向かひて出発すべし。随ひて来べきか。」と問ふ。余は数日間、かの公務にいとまなき相沢を見ざりしかば、この問ひは不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」余は我が恥を表さん。この答へはいち早く決断して言ひしにあらず。余は己が信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたる時は、咄嗟の間、その答への範囲をよくも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひしうへにて、そのなし難きに心づきても、強ひて当時の心うつろなりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行することしばしばなり。

47 この日は翻訳の代に、旅費さへ添へて賜りしを持て帰りて、翻訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜より帰り来んまでの費をば支へつべし。彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだひと月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。旅立ちのことにはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我が心を厚く信じたれば。

48 鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合はせて借りたる黒き礼服、新たに買ひ求めたるゴタ板の魯廷の貴族譜、二、三種の辞書などを、小「カバン」に入れたるのみ。さすがに心細きことのみ多きこのほどなれば、出で行くあとに残らんも物憂かるべく、また停車場にて涙こぼしなどしたらんにはうしろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出だしやりつ。余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入り口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。

49 魯国行きにつきては、何事をか叙すべき。我が舌人たる任務はたちまちに余を拉し去りて、青雲の上におとしたり。余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪のうちに移したる王城の粧飾、ことさらに黄蝋の燭を幾つともなくともしたるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレット」が映射する光、彫鏤の工を尽くしたる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇のひらめきなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものは我なるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。

50 この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日ごとに文を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて灯火に向かはんことの心憂さに、知る人のもとにて夜に入るまで物語し、疲るるを待ちて家に帰り、直ちに寝ねつ。次の朝目醒めし時は、なほ独りあとに残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かかる思ひをば、生計に苦しみて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の文のあらましなり。

51 またほど経ての文はすこぶる思ひ迫りて書きたるごとくなりき。文をば否といふ字にて起こしたり。否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。君は故里に頼もしき族なしとのたまへば、この地に善き世渡りの生計あらば、とどまりたまはぬことやはある。また我が愛もてつなぎ留めではやまじ。それもかなはで東に還りたまはんとならば、親とともに往かんはやすけれど、かほどに多き路用をいづくよりか得ん。いかなる業をなしてもこの地にとどまりて、君が世に出でたまはん日をこそ待ためと常には思ひしが、しばしの旅とて立ち出でたまひしよりこの二十日ばかり、別離の思ひは日にけに茂りゆくのみ。袂を分かつはただ一瞬の苦艱なりと思ひしは迷ひなりけり。我が身の常ならぬがやうやくにしるくなれる、それさへあるに、よしやいかなることありとも、我をばゆめな棄てたまひそ。母とはいたく争ひぬ。されど我が身の過ぎしころには似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが東に往かん日には、ステッチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞ言ふなる。書きおくりたまひしごとく、大臣の君に重く用ゐられたまはば、我が路用の金はともかくもなりなん。今はひたすら君が伯林に帰りたまはん日を待つのみ。

52 嗚呼、余はこの文を見てはじめて我が地位を明視し得たり。恥づかしきは我が鈍き心なり。余は我が身一つの進退につきても、また我が身にかかはらぬ他人のことにつきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照らさんとする時は、頼みし胸中の鏡は曇りたり。

53 大臣は既に我に厚し。されど我が近眼はただ己が尽くしたる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みをつなぐことには、神も知るらむ、絶えて想ひいたらざりき。されど今ここに心づきて、我が心はなほ冷然たりしか。先に友の勧めし時は、大臣の信用は屋上の禽のごとくなりしが、今はややこれを得たるかと思はるるに、相沢がこのごろの言葉の端に、本国に帰りて後もともにかくてあらば云々と言ひしは、大臣のかくのたまひしを、友ながらも公事なれば明らかには告げざりしか。いまさら思へば、余が軽率にも彼に向かひてエリスとの関係を絶たんと言ひしを、早く大臣に告げやしけん。

54 嗚呼、独逸に来し初めに、自ら我が本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥のしばし羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。先にこれをあやつりしは、我が某省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。余が大臣の一行とともに伯林に帰りしは、あたかもこれ新年の旦なりき。停車場に別れを告げて、我が家をさして車を駆りつ。ここにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習ひなれば、万戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きらきらと輝けり。車はクロステル街に曲がりて、家の入り口にとどまりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁に「カバン」持たせて梯を登らんとするほどに、エリスの梯を駆け下るに逢ひぬ。彼が一声叫びて我が項を抱きしを見て馭丁はあきれたる面もちにて、何やらむ髭の内にて言ひしが聞こえず。

55 「よくぞ帰り来たまひし。帰り来たまはずば我が命は絶えなんを。」

56 我が心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那、低徊踟・の思ひは去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我が肩に倚りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。

57 「幾階か持ちて行くべき。」と鑼のごとく叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。

58 戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁をねぎらひたまへと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などをうづたかく積み上げたれば。

59 エリスはうち笑みつつこれを指さして、「何とか見たまふ、この心がまへを。」と言ひつつ一つの木綿ぎれを取り上ぐるを見れば襁褓なりき。「我が心の楽しさを思ひたまへ。産まれん子は君に似て黒きひとみをや持ちたらん。このひとみ。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒きひとみなり。産まれたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせたまはじ。」彼は頭を垂れたり。「をさなしと笑ひたまはんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙満ちたり。

60 二、三日の間は大臣をも、旅の疲れやおはさんとてあへて訪らはず、家にのみこもりをりしが、ある日の夕暮れ使ひして招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜行きの労を問ひ慰めて後、我とともに東に還る心なきか、君が学問こそわが測り知るところならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留のあまりに久しければ、さまざまの係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落ち居たりとのたまふ。その気色辞むべくもあらず。あなやと思ひしが、さすがに相沢の言を偽りなりとも言ひ難きに、もしこの手にしもすがらずば、本国をも失ひ、名誉をひきかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これり。嗚呼、なんらの特操なき心ぞ、「承りはべり。」と応へたるは。

61 黒がねの額はありとも、帰りてエリスに何とか言はん。「ホテル」を出でし時の我が心の錯乱は、たとへんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思ひに沈みて行くほどに、往きあふ馬車の馭丁に幾たびか叱せられ、驚きて飛びのきつ。しばらくしてふとあたりを見れば、獣苑の傍らに出でたり。倒るるごとくに路の辺の榻に倚りて、灼くがごとく熱し、椎にて打たるるごとく響く頭を榻背にもたせ、死したるごときさまにて幾時をか過ぐしけん。はげしき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇、外套の肩には一寸ばかりも積もりたりき。

62 もはや十一時をや過ぎけん、モハビット、カルル街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門のほとりの瓦斯灯は寂しき光を放ちたり。立ち上がらんとするに足の凍えたれば、両手にて擦りて、やうやく歩み得るほどにはなりぬ。

63 足の運びのはかどらねば、クロステル街まで来し時は、半夜をや過ぎたりけん。ここまで来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル・デン・リンデンの酒家、茶店はなほ人の出入り盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覚えず。我が脳中にはただただ我はゆるすべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち満ちたりき。

64 四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ねずとおぼしく、炯然たる一星の火、暗き空にすかせば、明らかに見ゆるが、降りしきる鷺のごとき雪片に、たちまち掩はれ、たちまちまたあらはれて、風にもてあそばるるに似たり。戸口に入りしより疲れを覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這ふごとくに梯を登りつ。庖廚を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓縫ひたりしエリスは振り返りて、「あ。」と叫びぬ。「いかにかしたまひし。御身の姿は。」

65 驚きしもうべなりけり、蒼然として死人に等しき我が面色、帽をばいつのまにか失ひ、髪はおどろと乱れて、幾たびか道にてつまづき倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に汚れ、ところどころは裂けたれば。

66 余は答へんとすれど声出でず、膝のしきりにをののかれて立つに堪へねば、椅子をつかまんとせしまでは覚えしが、そのままに地に倒れぬ。

67 人事を知るほどになりしは数週の後なりき。熱はげしくて譫語のみ言ひしを、エリスがねんごろにみとるほどに、ある日相沢は尋ね来て、余が彼に隠したる顛末をつばらに知りて、大臣には病のことのみ告げ、よきやうに繕ひおきしなり。余ははじめて病牀に侍するエリスを見て、その変はりたる姿に驚きぬ。彼はこの数週のうちにいたく痩せて、血走りし目はくぼみ、灰色の頬は落ちたり。相沢の助けにて日々の生計には窮せざりしが、この恩人は彼を精神的に殺ししなり。

68 後に聞けば彼は相沢に逢ひし時、余が相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞こえあげし一諾を知り、にはかに座より躍り上がり、面色さながら土のごとく、「我が豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」と叫び、その場に倒れぬ。相沢は母を呼びてともにたすけて床に臥させしに、しばらくして醒めし時は、目は直視したるままにて傍らの人をも見知らず、我が名を呼びていたくののしり、髪をむしり、蒲団を噛みなどし、またにはかに心づきたるさまにて物を探りもとめたり。母の取りて与ふるものをばことごとくなげうちしが、机の上なりし襁褓を与へたる時、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。

69 これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用はほとんど全く廃して、その痴なること赤児のごとくなり。医に見せしに、過劇なる心労にて急に起こりし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込みなしと言ふ。ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾たびか出だしては見、見ては欷歔す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。ただをりをり思ひ出だしたるやうに「薬を、薬を。」と言ふのみ。

70 余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行の涙をそそぎしは幾たびぞ。大臣に随ひて帰東の途に上りし時は、相沢とはかりてエリスが母にかすかなる生計を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しし子の生まれむ折のことをも頼みおきぬ。

71 嗚呼、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。





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