「独りであることができるものを、強いと思うか?」
「知るか」
即答した男の、口元だけが素っ気なく動くのを、彼は苦い笑みを浮かべて見る。その唇の歪みよりも、引きつった目尻のほうが雄弁だ。
ああ、泣くのか。
そう思ったが、予想に反して、彼は泣かなかった。長い睫を伏せ、風に頬を寄せるように瞳を閉じ、緩く肩を竦めた。他には何もない。
微かに砂を孕む乾いた風が、彼の腰掛ける窓枠から滑り込んでくる。細い髪が揺れる。沈む陽の橙の光が白い面を染めている。西日を浴びた半身は紅く、影に侵された半身は暗い。
まるで絵画のように――しかし、それは人物画では有り得ない。男は完全に周囲と同化して、否、周囲を同化させていた。空の色合いも市のざわめきも、狭い箱に押し込められたように苦しげに息をひそめている。ただ深いだけの平坦な、焦点の合わない風景画だ。
ユーバーは椅子にだらしなく腰掛けたまま、ぼんやりとそれを見る。
彼にとって美醜は、価値のないものだった。整った顔立ちも折れそうに細い首もきめ細やかな白い肌も、脆弱だという証明のひとつひとつに過ぎない。色の違う二つの目は、ただ対象の色や形を捕らえるだけだ。その小さな身体がどれだけ頼りなげか。それだけだ。
瞼を下ろしたまま、男はまるで微笑むように静かに首を傾げた。
そしてまた問う。
「では、おまえは、独りであることが苦痛だと思うか?」
「俺はずっと独りだ」
吐き捨てた低い響きの声が、安宿の床に沈殿する。泥沼のように緩く溜まる沈黙は奇妙に心地いい。湿った暑さに似た、気怠い夕闇がだんだんと密度を増していく。
先程からずっとこうだ。
問いを投げられるたび、それを打ち落とす。
それを繰り返している。
そこに漂っていたのは頽廃だった。終焉を知る者の、傲慢な焦慮と怠惰な諦観。それは疎ましいのに、手放せないものだ。掠めるような懐かしさが風に乗って髪を揺らした。
この部屋は今、ほんの少し、懐かしい異界の空気に近づいている。
体重を感じさせずに窓枠から降り立った男が、薄い床板を軋ませて、こちらに歩いてきた。ユーバーは自分に近づいてくる彼の手を見る。手袋を外した手は、小さい。この小さな手には神がいて、これからその神は殺されようとしているのだ。
そっと冷たい指先が頬に触れた。そして、驚いたように離され、また、触れる。
「…温かいんだな」
そう言う男の顔に、痛みを堪えるような表情が浮かぶ。妬ましいような、羨ましいような。嬉しいような、安堵したような。その矛盾は微小な混沌だ。それは好ましいものだ。
ユーバーは小さな手を振り払わず、男の顔を見上げた。窓からの橙の光が陰影を色濃く描き出し、その表情はよく見えない。だから感じたままのことを言った。
「お前は冷たい」
「ああ…」
吐息をつくように、彼は肯定した。その声は何故か笑いを含んでいた。
「ぼくはいきものではないから」
柔らかく冷たい指先が、するりと頬を滑り落ちた。その軌跡はまるで涙の跡を辿るようだった。何度も繰り返し、指先は涙を拭うように、ゆっくりとそこをなぞる。
その動きはしかし、甘さを喚起するものではない。
そのまま、掠れた優しげな声で、聞こえなければいいと言うような小さな声で、彼は尋ねた。
「おまえは、自分が人ではないことを哀しいと思ったことがあるか?」
「ない」
考えるまでもないことだ。自分が人ではないことは自明であり、羨む要素を人に見出すこともない。人はか弱く浅ましく、愚かな種だ。そんなものに自身を貶めたいなどと思うはずがない。
ユーバーは馬鹿にするように鼻を鳴らしたが、目の前に佇む男は口元に苦く皺を刻んだだけだった。
彼は存在しない涙を掬いながら、歌うように囁く。
「ひとではないと言うくらいなら、もっと醜悪な形にすればよかったんだ。見る者が皆避けて通るほど、二目と見られないほどの…こんな、外見だけはひとだなんて、詐欺もいいところじゃないか。食虫植物かもしれない。見せかけばかりは平凡で、中身は醜悪なんだ」
彼が口にしたのは、先程の問いかけを発するに至った理由であるらしかった。
その唐突な悪態は、作った者と作られたもの、どちらに向けられたのか。ユーバーは頬に触れる彼の指を、眼球だけを動かして見下ろした。
開いた窓は、世界との接点だ。ざわざわと、煩い。それはこの部屋には不要なものだ。だんだん小さくなっていく声は、雑音に呑み込まれていく。吸い込まれていく。掻き消される。
次に落とされた呟きは、もうほとんど空気に掠れて溶けていた。
「おまえは自分の姿をどう思う、…厭わしいか?」
「形などどうでもいい」
問われて、やはり、寸分の間も置かず答えた。
まったくこの男は、わかりきったことばかりを尋ねるのだ。そして答えを確認して、安心するかのように口元を緩める。
男は咽を鳴らす。笑ったはずなのに、それは何故か、泣いたように聞こえる。
ふと彼は、手を止め、その小さな掌をじっと見たようだった。ややあって、ぽつりと言葉が落ちた。
「手を…」
ふ、と息をつく。たゆたう指先が、目尻を掠める。
「本当は、いつも、手を。でも、駄目だったんだ。ぼくの手は冷たいから…」
独白に反応を返すなどという親切なことをユーバーはしない。ただ黙っていた。
もちろん男もそれを求めてはいないのだろう、遠いどこかを見るように、彼はゆったりと首を傾げる。彼の癖だ。すぐには気づかないほど微かに首を傾げる。ほんの僅か、髪が揺れる。
彼が吐くのは弱音ではない。限りなくそれに近い悔恨をする。もしくは、痛みを伴う懐古。それでなければ、ただの自虐行為。おそらく最後の候補が一番似通った感情だ。
「触れることが怖かったのか」
気紛れにそう言えば、驚いたように目を見開く気配。
「……そう…かもしれない。ぼくは、」
ひゅぅ、と微かに息を吸う音。
「…ぼくは、強くはないから」
それきり、彼は黙り込んだ。
ひやりとこめかみに触れる温度は、人のものでは有り得ない。その慨嘆は、まさしく人のものだと言うのに、彼の指先はどこまでも冷たい。――前触れなしに触れられたら、驚いて声を上げてしまうだろうと、それほどに。
ちぐはぐだ。体温を取り替えられればよかったなと、少し思う。ほんの少し。
しかしどんな神でも、そんな馬鹿馬鹿しくも痛々しい願いを叶えることは不可能だろう。彼の右手に宿る神も、女の不完全な神も、すべての神が。神はいつも役立たずだった。
男の向こうにある窓から、陽が沈んでいく名残が見えた。薄れていく紅い光と、滲んでいく闇が、空を覆う。店じまいの声が飛び交う。帰路を急ぐ人々の声が届く。
ユーバーはもはや動かなくなった彼の手を取った。
「お前の手は冷たいが」
細い指。小さな手。掴めるものはどれだけあるだろう。
「氷ほど冷たくはない。触れるには、それで充分だろう」
今度こそ、彼は隠しもせずに驚愕を表した。まさかこの男に慰められるとは――もっとも、慰めのつもりではないということはわかっているのだろうが、とにかく意外だ、という風に混沌とした感情をない交ぜにした表情を浮かべ、それから、
「ああ…そうならいいな」
じわりと滲むように、彼は笑んだ。
泣きそうなほど柔らかく、温かく、それでいて嘲笑うような、そんな笑みだった。
ユーバーはその笑みを見上げる。
「本当に、…」
もはや遠い時間を懐かしんで、彼は目を細める。時間を巻き戻すことは叶わない。後悔をすることは許されない。できることは、前に進むことだけだ。壊すことだけだ。
「…ありがとう」
そう言って、その奇妙な響きに、彼が笑う。ユーバーは僅かに片眉を上げる。彼がまた笑う。笑って、髪を掻き上げるために手を離す。冷たい指先は逃げていった。彼は笑い、泣きそうに顔を歪めながら、ぐしゃりと髪を乱した。唇の隙間から喘鳴が漏れる。咽がひくりと動く。
彼は今不安定だ。それもまた、微小な混沌だ。
腕を取り、引き寄せると、成長を知らない小さな身体は簡単に倒れ込んできた。耳元でか細い呼吸音が響く。項を撫でると、喘ぐような小さな声が零れた。
黙ってあやすように抱きしめてやると、冷たい温もりは、猫が懐くように擦り寄ってきた。
すまないと、男は何故か、小さな声で謝った。衣服を剥がれながら、何度もそう繰り返す。本当は誰にそう言いたかったのか、そんな些事は、時計の秒針が回り終えた頃には熱に溶けて消えていた。