「それであなたは、無意味にするつもりで、私にそれをしろと?」
「そうは言っていない。ただ、約束は果たすためにあるものだろう…それに…」
「……」
「それに、もしかしたら…」
「……」
「…すまない。ぼくにもわからないんだ」
「そうでしょうね」
「…何を笑ってるんだ、アルベルト」
「笑っていませんが」
「鏡が必要じゃないか? ……そろそろ時間だ」
* * *
男はふと何かを思い出したように、手元の書類から目を上げ、窓の外を見た。
それをたまたま目撃した彼の部下は、この人でもこんな人間らしい仕草をするのかと驚愕した。彼は、そんな感想を抱かれるような人間だった。
怜悧に整った顔立ちは、女性たちに感嘆の息をつかせるほどである。しかしその口角が、羊皮紙一枚の厚さだけでも、緩んだところを見たものはいない。彼が微笑めば、人は皆、天変地異の先触れだと思うに違いなかった。赴任してきて数日しか経っていないというのに、部下たちはすぐにそれを思い知らされた。彼はおよそ表情というものを持たなかった。
その男――アルベルト・シルバーバーグは、暗い紅の髪を微かに揺らして、忙しく手を動かした。とはいえ、その動きには迷いがなく、とても彼が動揺しているようには見えない。それこそが彼の一族に求められた態度であり、軍師としての得難い才能だった。
執務机の引き出しから束になった書類を取り出すと、アルベルトは、ぽかりと口を開けて惚けている部下を呼んだ。すぐに反応が返らないのにも眉一つ動かさず、無表情にもう一度名を呼ぶ。
「あ、は、はい!」
ようやく自分が自失していたことに気づいた部下は、慌てて席を立った。
アルベルトは使える人材を補う方法を考えながら、書類を部下に手渡し、それを神官将に届けてくるように言う。部下は急いで部屋を出て行った。
その部屋に自分以外の人間がいないことを確認してから、彼は疲労した目を癒すために眉根を押し揉んだ。それから、腰を上げると、窓の側に歩み寄る。
季節はもう春だった。深緑が暖かな日差しを受けて、明るい緑の葉をあますところなく見せている。その光はアルベルトの目を不快にさせるものではなかったが、かといって、彼の常に平行線を辿る気分を上昇させるものでもなかった。
彼は人と話すときに説明することを惜しまないが、無駄口も叩かない。よって、ひとりのときに何かを口に出して呟いて、それによって自分の思考を確認することはしない。
そのかわり、青灰色の瞳で、瞬きすることなくその色を見つめた。
* * *
ややあって、彼が誰にもその奇行を見咎められずに執務を再開したころ、使いに出した部下が戻ってきた。慌てた様子でしきりと額の汗を拭いながら、神官将が彼を呼んでいるという。
アルベルトは平然として手にしていた書類に裁可を出すと、無能の烙印を押した部下に機械的にいくつかの指示を与えて、抗議と悲鳴の余地を与えないまま扉を開けた。
しかし開けた四角形の中にあったのは、彼にしても意外な光景だった。
「…驚かないのか?」
「いいえ、驚いています」
そう言われても信じられない程度には、アルベルトは無表情だった。
ササライは片眉を上げて、それだけで思考の軌跡を垣間見せた。それは既視感と同時に、彼と似通った顔を持つ男との相違を見せつけた。
壁にもたせかけていた背を離すと、彼は口元に奇妙な微笑みを湛えてアルベルトに歩み寄る。
「さっき君が言ってきた件だけれど」
不自然に間を空けて、神官将は言葉を続けた。
「どうして、そんなことを考えたんだ?」
部下は目を白黒させて、彼の直属の上司と、そのはるか上に属する外見だけは幼い少年を交互に見た。果たしてどちらに味方をすればいいのか、しかし、どちらも彼ごときの援助を期待などしていない。部下は居心地悪く、殿上人らがどこか別の場所へ移動してくれることを願った。
部下の存在を完璧に無視して、アルベルトは憎らしいほどに落ち着き払った態度で、自分よりも頭一つ以上背の低い上司に答えた。
「私が考えたのではありません。以前から具申されていたことを正式に提出したまでです」
「…、確かに聞いていた。しかしその訴えがことごとく却下されていることくらい、少し調べればわかるだろう? いや、調べなくても、そんな提案が馬鹿げていることくらいわかるだろう。シルバーバーグの一員である君が、あの内容が君に与える損害を考えなかったのかい?」
「繰り返しますが、あれは私が考えたことではありません。私は指示されたので、それを書類にして提出しただけです。結果がどうなろうと私の知ったことではありません」
ササライは黙って、鳩尾の前で組んだ腕を解き、組み替えた。
「指示、ね…それは、誰から指示された?」
「私の前の上司です」
「君の前の上司は、ヒクサク様に逆らったために反逆処分を受けた。知っているだろう?」
アルベルトは心の中だけで眉をひそめた。
彼は、あの男と行動しているところを真の紋章の継承者たちに見られている。当然、目の前の神官将にもそれは伝わっていると思っていたのだが、どうやらあちらでは情報の伝達が巧く働いていなかったらしい。今まで敵同士だったものたちが無理に手を組んだのだから当たり前だろうが。
アルベルトたちでさえ、あの少人数にも関わらず行き違いがあったのだ。
「知っていますが、それとは話が別ですので」
内心はともかく、外面は完璧な無表情を守って、アルベルトは言った。彼の遠い上司は枯れた薄野のような色の頭を軽く振ると、嘆息した。
こちらの様子を無視することもできず、ちらちらと視線を寄越していた哀れな部下が、ササライに一瞥され、ひっと恐怖に掠れた悲鳴を上げて縮こまった。彼にとって神官将は雲の上の人間である。きっと霞を食べて生きていると思われているだろう。
「…どうしてこれを、ぼくのところへ持ってきたんだ?」
彼の動向を片隅も気に留めず、ササライは、先刻アルベルトが部下に持って行かせた書類を乱暴に振った。ぱさぱさと、紙の乾いた音がする。
「私が知る限りでは、あなたが一番、この案を通しやすい立場におられたからです」
アルベルトは落ち着き払った態度のまま、淡々と答えた。
差し当たってササライは、反論の糸口を見つけられなかったらしい。目を細めて何かを睨み付けた彼は、ふと、その行方を地に落とした。磨き抜かれた床が光を反射している。
「…そうか」
諦めたように、神官将は呟いた。
その呆気ないような、よく手入れされた刃物が瑞々しい果実を切り落とすような断裂の滑らかさが、似ているような気がしてアルベルトは少しだけ指先を動かした。
ササライはようやく、自らの職務を思い出したようだった。
「これは正式に上奏してみよう。しかしおそらく…」
「わかっています。彼らは特に手柄を立てたわけでもないですし、近頃グラスランドとの結びつきが強固になっています。都合のいい火種になるでしょう」
少し前、ハルモニアはグラスランドと手を組んで反逆者を討ったが、そのために戦った軍の大部分はグラスランドの兵だった。ハルモニアは大きな損害を出していない。
炎の英雄との密約の期限も切れた今、疲弊しているグラスランドに遠征すれば、いかに相手が真の紋章の継承者を有していようと、勝てる見込みがある。
そして、いまだハルモニアの属州でありながらグラスランドとの関係を深めつつあるルビークの動向は、戦端を切り開く絶好の理由なのだ。
「ヒクサク様は、今のところそのおつもりはないようだが」
ササライは乱れた書類を直しながらそう言った。ちらりと見えた白い紙一面にびっしりと書き込まれた文字が、まるで美しい平面の世界を汚すかのような錯覚を起こす。
「二等市民への道は遠いだろうな」
「そんなことは彼らも承知しているでしょう」
しかし、歩き出さなければ目的地には辿り着けないのだ。
「格上げすれば、それはそれで違う意味での火種にはなりうるでしょうが」
「そのおつもりもお持ちではないようだね」
その言葉の中に微かな反感を嗅ぎ取り、アルベルトはそれを記憶の片隅に留めた。いつか、その微小な感情が何らかの役に立つかも知れない。すべてのことを有利に動かすには、どれだけささやかなことでも心に留めておかなければならないのだ。
ササライは苦い笑みを口元に刻んだ。
「どうもぼくには、君がこの提案を通すことに、君らしくもなく熱心になっているように見えるんだけれど」
「気のせいでしょう」
「…しかしこれが君にとって無益であることには変わりないだろう、シルバーバーグ」
ササライは翠色の瞳に少しずついつもの穏やかさを取り戻しながら、それでも僅かに険のある口調で言った。彼の腕の中で、ルビークの村の二等市民権を要求するための書類が音を立てる。
「そんなに君は…」
そこまで言っておきながら、彼は、自分が何を言いたかったのかを唐突に見失ったかのように口を噤んだ。見開かれた瞳に動揺の影がちらつき、そして、それを消せないままササライは目を伏せた。
「…いや、いいだろう。この案はぼくの名において、正式に具申します」
「……」
アルベルトは無言で一礼した。
彼が顔をあげるのを見届けてから、ササライは小柄な身を翻した。青い衣装の裾が空気の流れにたなびいて、廊下の遠くへと消えていった。
* * *
結局あの男が、救われたのかどうか、アルベルトには知るよしもない。生きているのか、死んだのかさえ、彼にはわからなかった。噂を集めることもしなかった。
彼にできたのは、ほんの少しの無意味な願いを叶えること、しかしどうやらそれはあの男が嗤ったほどには無意味ではなくなってしまったらしかった。グラスランドは消え去るどころか、複数の真の紋章を核に有した強大な勢力となりはてた。
それはもはや彼にはどうでもいいことだった。彼は望んだものを手に入れ、この北の大国でそれなりの権力を手に入れた。そして、求めればそれ以上のものも手に入れることができるだろう。
彼にとって価値あることは、人が歴史を動かすことだった。この世界は人間のためにあるのだという、その一点だけが、あの、自らを人間ではないと言う男の考えと重なっていた。
生まれたときから時を止めて思考したいきもの。幻のような遠い未来を、無彩色の世界に生きたために現実のものとして受け入れてしまった存在。
多くのことを諦めきれなかった彼を愚かだとアルベルトは思うが、ならば彼以外の人間たちが愚かでないのかと問われれば、それは彼の中では答える必要すらない、自明の理だった。人間は愚かであるからこそ、人間なのだ。やがてその結果が彼らを滅ぼすことになったとしても、彼らは、自分たちの選択が正しかったのだと信じるだろう。
それはあの男も同じに違いない。その行動が永遠に理解されなくとも、そうとわかっていて、彼は行動を起こしたのだ。それだけは確かなことだった。
そしてそのために、…
彼はそこで、益にならない思考を止めた。ハルモニアは、彼の思想を具現する、いい媒介になるだろう。あの男に協力した理由は、それで充分だった。
しかしアルベルトは黙したまま、視線を床に落とした。磨き上げられたそこにぼんやりと映る彼の表情は、彼がいつも鏡の中に見るものと常に寸分違わない。
自分にはもう鏡は必要ないようだと、そんな思考を片隅に走らせた。
歴史を在るべき姿に動かすのは彼の一族の悲願だった。そのために血を取り込み、教え、埋め込む。流れを変えることを覚え、流れを支配することを覚え、悟ることを覚える。
歴史こそが彼のすべてだった。
しかし歴史は何も語らないのだった。彼のあの、決意も、迷いも、強さも弱さも。そこに至る理由はおろか、願ったことさえ。ほんのささいなお節介さえも。
そして、アルベルトにはそれを語ったり、書き残したりする気はなかった。それらはすべて歴史の中に埋もれていくものだ。それが歴史なのだ。
彼は初めて、歴史を呪った。それは砂粒ほどの小さな痼りだったが、そしてそれで彼の表情に罅ひとつ入るわけではなかったが、消えることなくそこにあった。
その微かな痛みを、抱えて生きるのだろうと思った。
それによって、あの哀しい生きものはほんの少し、歴史を変えることができたのかもしれない。