飽 和 と い う 名 の

 窓に向かう少女の背は、彼女の師のそれのように、何かを拒絶している。
 吹き込む風にふわりと広がった服の裾が波打ちながら元の通りに鎮まるのを、ちょうど上げた視線の隅に留めて、アルベルトは眼鏡を指先で持ち上げた。
 風が強くなってきた。
 古びた家屋は、開け放たれた窓から入り込んでくる圧力に微かに軋む。立て付けの悪い扉が、いっそう強く吹いた風に揺られている。耳障りな音を立てて閉まっては、また、のろのろと開き、そして風に押されて閉まる。それを繰り返していた。
 どうやらその音に、作り上げた繭から引きずり出されたらしい。
 気づくと、机の中程に追いやった、書類の上に置いていたはずの文鎮の位置が移動していた。紙のほうが風に動かされたのだろう。目の前に広げた書類の端がはためくのを押さえ、彼は、振り向かない背中に声をかけた。
「セラ、窓を閉めてください」
 しかし、少女の背中はその声すら跳ね返してしまったようだった。
「セラ」
 繰り返し呼ぶと、ぶれるように肩が震え、それからゆるりと首を巡らせてセラは振り向いた。
 真っ白い能面のような無表情は、人間味を欠いて不気味とまで言えるものだったが、同じく表情のない彼には気にならなかった。
「何ですか」
「窓を閉めてください」
「まど」
 意味を掴めないとでも言うように呟くと、セラは僅か、首を傾げた。その仕草は、彼女の師と同じものだ。アルベルトはそう気づいたが、わざわざ言うようなことでもないので黙っていた。
 セラはしばらく言われた言葉の意味を考えていたようだったが、ふと我に返ったように身を翻すと、窓枠に手をかけた。水色と紺の裾がまた揺れる。
 小さな音と共に風が閉め出され、室内には静寂が訪れた。
 アルベルトは視線を手元の書類に戻した。
 動いた文鎮を元の位置に戻し、左手の書類を持ち直す。そして、暗く滲む文字に眉を寄せ、時計を取り出すと、短針はすでに外周を迂回して左へと移動していた。
 目を凝らして窓の外を見ると、残照さえ、空の隅にひっそりと息づくだけだった。壁にかけられた燭台の蝋燭が、その淡い光に輪郭のぼやけた歪な影を落としている。
 静かな部屋に、秒針の音が規則正しく響く。
「遅いですね」
 僅かに苛立った、それを読んだかのように、セラが静かに言った。
 彼女はまだ硝子に遮られた外の風景を眺めていたように見えたが、どうやらそこに映った、室内で取り出された時計を見とめたらしい。
「…そうですね」
 アルベルトは驚きを覆い隠したあと、慎重に答えた。
 彼は扱い慣れない少女を置物のように考えることにしていたが、それでも話しかけられれば、その無表情の奥にもやはり意志があるのだと、僅かな気まずさを覚えた。
 セラは際だった反応を見せない。凪いだ水面のように、銀の睫が揺れることすらない。ただ酷く静かに、窓の向こうを眺めていた。
 今この家で、彼らは二人きりだった。
 彼女の師、彼の上司は、二週間ほど前から帰らない。
 本国から彼へ、帰還の命が申し渡されたためだった。
 彼らは個人で動く際には頻繁に転移の魔法を使うが、神聖国の手前、転移は使えない。それは何年か前、一人の少女と共に神聖国から喪われた魔法だからだ――盗み出した者しか、その魔法は使えないはずなのである。
 よって、外見だけは幼い姿の神官将は、馬と足を使っての長の旅を強いられることとなった。
 琴でも持つのが似合いの細腕で、彼は馬を扱うのは巧い。護衛というには少々無理がある人外の男だけを連れて、白い指先は、形ばかりは麗々しい手綱を取った。
 いっそう小さくなっていく背中が、完全に朝靄の向こうに消えてなお、その場に佇んでいたセラの背を、アルベルトは思い起こすことができた。
 彼は早ければ明日の朝、こちらと合流する手筈だった。
「風が…」
 不意に囁くような声が、少女の薄い唇から漏れた。
「風が煩い」
 セラはゆっくりとそう罵った。
 その言葉を聞いたかのように、風が窓を揺さぶり音を立てた。今にも壊れそうなぎこちない悲鳴と、隙間風の笛のような高い音が混じる。
 アルベルトは彼女に目をやり、その動かない背中を見た。
「それが何か?」
 言葉を比喩と受け取ってそう返すと、セラは一瞬の静寂の後、振り返った。
「何かあったのかもしれません」
「あちらにですか」
 アルベルトはそれ以上ないほどほんの僅か、目を見開いた。
 薄紫の瞳は凪いだまま、銀の縁取りに幾度か遮られた。瞬きは、それが人間であることを確認できる貴重な動作だ。何かの本にそう書いてあったことを思い出す。
 セラは鯉のように、口だけを動かして声を発した。
「そうです」
「風が煩いからですか」
「そうです」
「それは、根拠にするための適切な事項ではありません」
 それでは、精霊の声を聞くという、草原地帯の部族民たちと変わらない。彼らが精霊と呼ぶそれは、神聖国を祖とする紋章学の体系から弾き出される概念だった。
 青年の答えは堅苦しく、それだけに、酷く酷薄に響く。
 しかしそれに相対する少女は、その冷たさを感じないようだった。
「言い換えます。右手を、お使いになられたのではないかと」
 滑らかな頬には皺一つ浮くことがなかった。
 彼女の遠回りな表現に、アルベルトの思考は、潤滑油を垂らした歯車のように滑らかに滑った。
「何者かの襲撃があった、ということですか」
 相手の発言の終わりとほとんど同時に舌に乗せられる言葉は、時折早く進みすぎて、躓いてしまうような印象を周りに与えるのだが、少女はやはり、何も感じないようだった。
 窓の外で、一際大きく風の音が鳴る。
「おそらくは」
 細い声が蜜の糸のような速度で発せられ、染み渡るように鼓膜を打った。
 無機物のような会話だ。青年の思考の片隅で、そう呟く誰かがいたが、他の焦慮に比べあまりにも小さな声だったので、他の全ての彼に無視された。
「では、助力を」
「もう必要ないようですが」
 僅かに波立った声を遮って言うと、セラは唐突に、疲れたように肩を落とした。
 気づけば、先刻の突風のあと、不気味なほど唐突に風の音は止んでいたようだった。セラの言い方を流用すれば、あの方が右手を仕舞われた、のだろう。
 アルベルトは腹に溜まった、凝った空気を吐き出した。
 セラが人形のように動いて、青年の正面に置かれた椅子を引き、腰掛けた。体重を受けた床板が小さく軋む。重く静かな動きだった。
 少女は背凭れに背を預けようとせず、まっすぐに背を伸ばしたまま目を伏せた。
 アルベルトは視線を手元の書類に落とし、そして、部屋の闇を思い出した。わだかまっていた陽の名残はすでに霧散して、空には星が薄く滲んでいる。
 いつの間にか、その部屋はそんなにも暗かった。
「灯りですか」
 求める前にそう訊かれ、アルベルトは片眉を上げた。
 セラは返事を待たず、右腕を持ち上げ、転移を唱えるときの特有の動きで静かに腕を振った。白い指先が半円の軌跡を描く。
 布が裂ける音を膨張させたような空気の振動を持って、蝋燭の先に炎が出現した。
 しばらく宙に揺れていたそれは、滑り落ち、縮れた芯に灯った。室内が橙と黄に照らされる。薄い紅茶に浸けて染めたような色合いの書類の、青黒い綴りも明らかになった。
「……どうも」
 独り言のような礼に、セラは何も返さなかった。
 灯りの中に浮かび上がったのは、いずれも厄介な懸案ばかりだ。異例の出世を遂げた神官将への風当たりは強い。こうして一軍を率いて戦をしている最中でも、好き勝手に司令官を呼び戻すのだ。嫌味を捻り出す暇があれば、もう少しましな仕事をすればいいものを。
 そこで、アルベルトは愚痴になりかけた思考を切り替えた。彼にすれば、そちらのほうが都合がいいのだ。上司が無能であればこそ、部下はそれを蹴落とすのだから。
 そして蹴落とすためには、無駄な思考をしている暇はない。
 彼は少女の存在を視野から追い出し、不揃いな文字列に没頭しようとした。
 しかし、
「お茶でも淹れましょうか」
 出鼻をくじかれ、意味もなく人差し指で眼鏡を押さえる。
 セラは彼のほうへ顔を向けていたが、瞳の焦点は合っていなかった。それは彼女が師を見るときにだけ、きつく結ばれ、濃い紫に染まるのだろう。
 結構です、と言う前に、セラはさっさと席を立ち、部屋を出て行く。
 一瞬のあと、アルベルトは今度こそ世界を狭くして、書類に視線を戻した。それが気遣いや親切ではなく、暇を持て余していることからの行動だと悟ったからだった。
 基本的に少女は、師以外の者のために動こうとしない。
 ここ数日、彼らは別々の部屋で眠り、別々に起きだし、別々に食事を取り、別々にまた眠った。どちらも、独りでは死んでしまうという兔のような観念の持ち主ではなかったし、不仲ではなかったが、談笑するような関係を築いてもいなかったからだ。
 意思の疎通にはそれで事足りた。互いに余計な詮索をしないという点で、むしろ、それなりに気が合っていると言えるかもしれない。
 少なくとも、魔物に似た黒衣の男よりは、まだしも友好的だった。
 ふと、思考がそちらへと飛躍した。
 セラは先刻、彼が右手を使ったことを指摘したが、それは信頼に足る情報だろうか。だとすれば、それを今後の計画に役立てることはできるか――彼に何かあったのだろうか。わざわざ護衛を連れているというのに、なぜ隠している紋章の力を使うような事態になったのか、
 今、どうしているのか。
 アルベルトはゆっくりと、窓の外に視線をやった。
 風は止んで、時折葉擦れの音を立てるだけだったが、その音と区別が付かないような微かな音が大気を震わせていた。小雨が降り出したのだ。
 濃紺に細い銀の糸が走る。それはやがて、勢いを増して窓を打ち始めた。
 硝子窓を水滴が伝い、流れ落ち、
 さて、もしかして彼はまだ屋外にいるのではと思った背後で、ぎっ、と木が軋む音がした。
 らしくもなく、アルベルトは肩を震わせた。それでも咄嗟に振り向かなかったのは、硬直していたからではなく、すぐに状況を認識したからだ。
 セラは気配もなく彼の正面に回り、窓の外を見た。首をそちらへ向けたまま、そこから下だけを動かして、盆を置く。漆器の擦れる音さえしなかった。
 その静けさに、声を出すのが憚られ、アルベルトは眼鏡を鼻筋に押しつけた。
「お迎えに上がらなければ」
 ささやかな気遣いを自ら破ったセラは、席に着こうとせずに、まるで自然な様子で部屋の片隅に立てかけた杖を取ろうとそちらへと歩を進めた。
「…誰を」
 愚問だと、知っていて呟く。
「待て、セラ」
 咄嗟に口をついて出たのは、珍しくくだけた言葉で、セラはどうやら言葉の内容よりも、その物珍しさに振り向いたようだった。彼女に対するとき、アルベルトはつられて丁寧な言葉で喋ることが多い。
 しかし彼にすれば、彼女がその程度のことで振り返ることのほうが余程奇異で、珍しかった。
「それでは、何のために馬を使ったのかわからないでしょう」
 おそらく少女もわかっているだろうことを、アルベルトは確認させるように言った。
 セラはやはり、人形じみた仕草で首を巡らせ、揺らぐことのない平坦な視線を彼へと寄越した。
 窓の外に白々と振る小雨が、時折微かに風に揺られる。
 それに比べ、その瞳は、石畳のようにただ静かに確固としているように見えた。しかし、それはおそらく、彼女の瞳に風が吹いていないからなのだろう。
 そうして思考を言葉にするとまるで恋愛詩のようで、アルベルトは傍目にはわからないような小さな自制心を動かして、失笑を堪えた。
「不満なのですか」
 脈絡なく届いた言葉に、アルベルトは些細な波を抑えて目を細めた。
「何がですか」
 セラは何か言おうとして口を開き、そして、言葉を見いだせなかったように再び閉じた。
 その動作が妙に人間に類似しているように思え、そしてすぐに彼女が人間であることを思い出して、アルベルトは微かに眉を寄せた。
「不満などはありませんが、軽率な行動は慎んでください」
「違います」
 セラは答えた。
「この力が、」
「座ってはどうですか」
 口上を遮り、アルベルトは勧めた。どうやら長くなりそうだと――もっとも、この相手は常識を当てはめられる型ではないが、そう思ったためだった。
 セラは無表情に逡巡するような間を置いたあと、静かに椅子に腰掛けた。
 アルベルトは簡素な白い漆器に注がれた紅茶を引き寄せ、申し訳程度に口に含んだ。
「あなたには転移魔法は使えません」
 セラは唐突に断言した。
 眼鏡は湯気で曇り、少女の表情は窺えない。
 アルベルトは茶器の縁から僅かに口を離して、白く霞んだ視界が溶けていくのを待つ。透明に戻った壁の向こうで、セラはやはり、人形のような顔をしていた。
 やや不自然な間の後、アルベルトは答えた。
「知っています」
「この転移魔法は、ある特別な素質があるものにしか使えません」
「知っています、」
「少なくとも純粋な人間には使えない類の魔法です」
「……」
 アルベルトは目を細めた。
 セラの瞳は相変わらず茫洋として、とらえどころがない。その表情に筋肉を固めたまま、少女は薄い唇を動かした。
「それに、何か不満があるのですか?」
 不意に細い隙間を風が通り、甲高い音を立てた。
 小刻みに揺れる窓枠を、白金の髪の向こうに見て、アルベルトはゆっくりとその言葉を反芻した。
 不満はない。己にあるのは軍師としての才であり、それ以外のものを求めたことはなかった。それ以外のものを求める余裕もなかったのだ。
 なぜ、そんなにも一族の悲願に捕らわれたのか、
 その理由などは、とうに不要となって、切り捨てた。
 手に入らないものを求めるのは酷く労力がいる。それを惜しんだのだ。
 見捨てたものに、不満などあろうはずがなかった。
「勘違いでしょう」
 巧妙に答えをずらして、彼はそう言った。
 セラの唇はなおも何か言葉を吐き出そうとしたが、アルベルトは茶器を置くと、わざとらしく書類を捌く音を立て、それを阻止した。これ以上は無益だ。
 少女は黙り――もともとそれほど関心があったわけではなかったのだろう、温くなった紅茶に手を付けた。かちゃ、と微かな音が鳴った。
 青年は、その音に少し安堵した自分を責めなかった。
 そのまましばらく、尖った先端が、紙ごと机を引っ掻く音が続く。
 書けども書けども、空白は埋まらない。いや、瞬く間に蟻の大群に占拠された紙が、すぐさま脇へ退けられるためにそのように感じるのだ。
 しかし多く書いたからと言って、問題が解決するわけでもない。
 浮かんだ思考を最低限の言葉に置換し、それを多少装飾し、書き連ねる。嫌いな作業ではない。ただ、このような雑事で貴重な時間が潰されているかと考えると、快くはなかった。
 アルベルトは紅茶の味がわからない程度の微量を口に含み、乾いた口内を湿らせる。
「あなたは人間に存在価値があると思いますか」
 その一瞬を見計らったかのように、セラが問うた。
 アルベルトはまた、筆を置くはめになり、多少気分を害した。
 先刻から、何だと言うのか。まさか、迎えに行くのをやめろと言ったことを根に持っているわけではないだろうが、師を偏愛する彼女なら有り得ないことではない。
 セラは茫洋とした瞳で彼を見据えている。
 その視線に押されるように、渋々彼は口を開いた。
「存在価値など必要ない」
「生きるために?」
「求められて生きているわけではありませんから」
 セラは僅かに首を傾げた。
 同じだ、とまたアルベルトは思う。
「そうですか。ならば、あなたは何のために生きているのですか」
「何かのために生きているのではありません」
 理由を捨て去ったのだから、それは仕方のないことだ。
 そんなものがなくても生きてきた。命を持っていたから、ただ、それを消費した。
 それでも昔は――アルベルトは過去を顧みた。もうずっと奥底に沈めたそれを、ゆっくりと引き上げてみた。固く閉ざされた箱の中に何を入れたのかを思い出そうとした。
 しかし、そもそも思い出したくないから鍵をかけて沈めたのだ。
 努力を放棄して、彼は身体を置いている世界へと意識を引き戻した。
「そちらこそ、何のために?」
 セラは瞳と同じように、焦点の定まらない答えを返した。
「私は、本当は人間が嫌いなのです。あの方よりも、ずっと」
「奇遇ですね、私もです」
 歌うように滑らかに奏でられた言葉に、アルベルトは淡々と返した。
 セラは少し目を見張り、それから珍しく、笑むような和んだ雰囲気を纏わせた。
「小さい頃は、人間を滅ぼすのが夢でした」
 その微笑むような空気のまま、セラはそう言った。
 冗談の口調では、もちろんなかった。
 アルベルトは、彼にしては非常に珍しいことだったが、答えに詰まった。彼は仮にも人間だった。例え、同じ人間から冷血、人でなしと罵られても、彼は人間だったのだ。
「シルバーバーグの悲願が歴史をあるべき姿に導くことなら、」
 セラは淡々と言った。
「我々の悲願は世界をあるべき姿に戻すことでした」
 もう叶わないでしょうが、と、古代の一族の末裔は目を伏せる。
 アルベルトには、その言葉のすべてが理解できたわけではなかった。ただ、少女が師のために、一族に連綿と受け継がれてきた願いを断ち切る覚悟をしたことだけを悟った。それは彼にはできなかったことだった。
 目を細めて、アルベルトは尋ねた。
「もう叶える気はないのですか」
「一族が滅びるなら、願いも滅びます」
「そうではなく――」
 眉を寄せ、濁り欠けていた脳を動かし、青年は言葉を探す。
「今からでも」
「あの方が、」
 セラは彼の言葉を遮った。
「仰いませんでしたか。すべてが終わったら――」
 あの子と、師を頼む。
 お前には迷惑をかけてばかりで本当にすまないと思っている。
 けれど、彼女らには幸福になってほしいんだ。
 ――そんなことを。
「申し訳ありませんが余計な世話です」
 少女が命運までもを、師とともにしようとしていることは知っていた。
 それが縛ったのだ。知っていたからこそ同じ轍を踏むわけにはいかなかった。師弟の願いは同時に、アルベルトをもがんじがらめにしたのだった。
 彼は、魔法使いの願いを叶えたかった。
 それと同時に、この少女の願いを、叶えなければいけないと信じていた。それが代わりになるはずだったのだ。生まれる前に終わりを告げた望みの代替に。
「知っているのでしょう。なら、放っておいてください」
 少女の言葉は足りなかったが、それでも、アルベルトにはわかった。
「…それでいいのですか」
 わかりきったことを尋ねていた。それを馬鹿馬鹿しいとは思わなかった。
 セラは目を細めて、どこかうっとりと夢見るような声音で言った。
「至福を手にしているものが、どうしてたかが幸福などを求めることがありましょうか?」
 銀の睫がゆらゆらと揺れた。
 アルベルトは未だ返す言葉を見つけ出せず、おそらくは見つける必要はないのだと判断して黙る。そして、セラの言葉をゆっくりと噛み砕いた。
 たかが幸福。
 そう、至福があったなら――幸福など、必要ないだろう。
 その想いを何というのかは知らない。言い表せる言葉も思い当たらない。愛か、執着か、世界の飽和、その名のもとでの、排他か。何にせよ、それはきっと、言葉にするべきものではないのだ。
「わかりました」
 アルベルトは承諾した。
 セラはまた、微かに首を傾げる。揺れる髪を見ながら、なんとなく、そうやってわからないほど微かに首を傾げる己の姿が未来にあるような気がして、アルベルトは滑稽さに口元を歪めた。
「ところで、セラ」
「何ですか」
 応えながら、彼女は冷めた紅茶を口元へ引き寄せた。
 アルベルトは真顔で淡々と、先刻からずっと気がかりにしていたことを尋ねる。
「この紅茶はどうも濃すぎるうえに渋いような気がするのですが、もしかして嫌がらせだったのですか」
 セラはいつもの無表情で、片目だけを少し大きく開いた。
 驚きなのか、軽侮なのか、とにかく口元も頬もまったく引き攣らせず片目だけを動かすというほとんど奇跡のように見事な筋肉の使役を見せた後、少女は一含み不味い紅茶を啜り、宣った。
「当然です」