箱 庭

 後ろ手に扉を閉めるなり、ササライは書類の束を床に叩きつけた。ぱしり、と頼りないわりにはやけに小気味よい音が鳴って、白い四角がしなり、縺れて、灰色の床の上に散らばる。
 先刻から部屋に待たされていたディオスはぎょっとして、椅子から腰を浮かせた。
「…なんでもない」
 彼にどうしたのかと問いかけられる前に、ササライは答えた。なんでもないわけがないとディオスは思っただろうが、いつもは穏やかな上司の似合わない一連に何かを察したのだろう、黙って座り直し、
「ええ、では…よろしいですか?」
「……」
 ササライは奇妙な顔をして、確認をとる部下の顔を見た。
「何が」
「いえ…先日の報告ですが」
「…ああ」
 ようやく彼がこの部屋にいる理由を思い出して、ササライは嘆息すると床に散らばった紙を拾い集め、執務机に置いた。それから苦笑する。
「…普通、上司が爆発しているときはおべっかを言うものだと思うよ」
「はあ」
「上司が部屋に入ってきたときに座ったままなのはまずいし、上司の心情を慮っていきなりの発言を控えたほうがいいし、ついでに、上司に働かせて自分は座ったままというのもあまりよくない」
「はあ。…申し訳ありません」
「相変わらず世渡りが下手だね」
 気づかいの足りなさをそんな嫌味に飛躍させる相手に、そちらこそ相変わらずもの好きですね、と返そうとして、ディオスはやめた。
 彼のもの好きな上司は、どうやらご機嫌が麗しくないらしい。先刻どこかからの使者が来るまでは、少なくとも表面上は落ち着いて見えたのだが、出かけた先で何かがあったのだろう。
 ディオスはとりあえず、上司の機嫌が直るのを待つことにした。
 神殿でも高位に属する神官将は、部下が何も言い出さないのをいいことに、執務机の前に立ったまま、木の表面の傷を指で辿っている。引っ掻いたような小さな傷、何かが擦れたようなささくれ、刃物で切りつけたような裂け目。それらの原因のすべてを、彼は覚えているわけではない。
 彼の中には不鮮明な記憶が多かった。
 記憶とは、ふと窓の外を目をやるとちょうど鳥が飛び立つところだった、そんな偶然のような頻度で、たまに意識の海に浮上する泡のようなものだった。触れれば簡単に割れる。だから、そのほんの時たまにも、ササライはその泡に触れず、ただじっと眺めてその朧を懐かしんでいた。
 その正体を知り、そして、連鎖して蘇る様々なものに悩まされるようになったのはつい先頃からだ。
「…報告を聞こう」
 唐突にササライは言った。呑気に紅茶をすすろうとしていたディオスが、思わず茶器を取り落としそうになり、慌てて受け皿に戻す。衝撃で淵から零れた紅茶が丸い窪みに溜まる。
 ササライはそれを見て、ふと笑った。
「彼女がまた何か言うな」
 その紅茶を淹れたのであろうもう一人の副官のことを話題に出され、ディオスは困惑する。上司は何を言いたいのだろう。そもそも、意外に厳格な彼が仕事中に雑談めいたことを言い出すことが珍しかった。
 まごつく部下の気配を察しながら、何かを言う気にもなれず、ササライは机を回ると椅子を引き、先程床に激突させた書類を手に取りながらそれに座る。
 速記のような端々の繋がった字が並んでいる。文章と言うよりも、それは四行詩に似た精密さと、引き込むような韻の繰り返しと、活版の印字に似た確固さを連ねた数式の羅列に見えた。淡々と虫使いたちの今度の戦での働きが語られており、そこここに差し挟まれた脚色は事実に異常に馴染んでいる。おおかたの人間なら思わず納得してしまうような自然な流れで二等市民への昇格の当然を示し、最後にそれを要求することで締めくくられていた。
「…わかっていても騙されそうになる」
 あまりにも機械的な文章に、苦笑する余裕を何とか取り戻して、書類を脇へと追いやる。
 そして手持ち無沙汰に机の前に突っ立っていた部下にようやく視線を向けると、ササライは組んだ手の上に顎を乗せ、報告を促した。
 慌てる様子もなくのんびりと書類を持ち変えると、ディオスは相変わらず、やる気を感じさせない表情と声で報告書を読み上げ始めた。ほとんど処理後の事項の確認だけなので、聞いているほうも真面目な面持ちではあるものの、退屈そうに何度か手を組み替える。
 幾つかの訂正箇所を指摘して、引き続き兵力の調整を兼ねた部隊の編成と、恩賞の手配を進めるように指示を出して、ササライは息をついた。
「え、何か間違ってましたか?」
 疲れたような響きのあったそれに、手違いがあったのかと思ったらしい。咄嗟にそこに考えが行くところは情けないようだが、自分の力を過信しないところが彼の美点である。もっとも、彼の力で何とかなる場合も人に任せることがあるあたり、ただの面倒くさがりなのかもしれないが。
「いや、別に」
 曖昧に言って、ササライは絡めた指を解くと、頬杖に変えた。そうすると、どことなく拗ねたような雰囲気も相まって、年――と言っても外見年齢だが、それ相応に見える。
 どうやら何かで削ったらしい切り傷に視線を這わせながら、
「ディオス…君は、君の奥方がこの世で一番大事か?」
「はい?」
 素っ頓狂な声を出して、ディオスはまじまじと上司を見た。
「…失礼ですが、熱でも出たんですか?」
「いや、残念ながら」
 面白くもなさそうに言って、ササライは答えを促すように顎を引く。ディオスはいつもの、やけに困っているように見える表情を浮かべて言った。
「そんなもの決められませんよ、それに母も存命ですし、息子もいますし」
「ああ、ぼくにそっくりな息子さん。元気?」
「いや、そっくりとまでは言っていないんですが確か。元気ですよ」
 ササライは神官将らしからぬ意地の悪い笑みを口元に貼り付ける。
「そこで『とても神官将さまの麗しさには及びません』とでも言っておかないと、出世できないよ」

* * *

 上司の横暴に晒された気の毒な部下を、彼の妻と子供の待つ家に帰してやると、ササライは執務机の前に腰掛けたまま、もう一度そこに刻まれた傷を辿り始めた。
 地上であればどんな国にあっても、夕暮れは等しく訪れるものだ。橙に染まりゆく空を見なくとも、陽の光は窓から入り込んでくる。日に焼けない白い指先にまとわりつくひかり。青い制服に紅い光が忍び寄り、奇妙な色を作り出す。
 それが妙に、温かく見えた。あたたかい。ふと、温室育ちと自分を詰った男――もっとも外見は自分と同じ少年だったが、その声が蘇る。
「…温室、か」
 呟くと、その声は伽藍洞のような空間に酷く響いた。
 かりかりと、爪が木の表面を掻く音が、紅い床へと転がり落ちていく。
「温室と言うよりは、箱庭だと思うんだけどね」
 精密な模型。砂が敷き詰められた箱の中に、建物も、木も、動物も、玩具も、人形も、好き勝手に詰め込まれる。熱帯の植物も氷も、現実には存在しない生き物も、すべて一緒くたにされる。それでいて、整った、美しい世界だ。
 そこには、それらの意志は存在しない。あるのは箱庭の外にいる絶対者の指先だ。
 しかしだからといって、何ができるというのだろう。
 歩き方を教えられなかった人形が、自分で動けるはずがない。繰り糸が切れれば倒れるのだ。そして、切れたその先を見つめて呆然とするしかない。
 しかし彼は、箱庭から出て行ったのだ。それが誰かの手を借りてのことだったとしても、創られた楽園を離れ、箱庭を覆う箱庭を、その向こうにいる絶対者を砕くことを望んだのだ。
 不意に疲れを感じ、ササライは伸ばした背筋から力を抜いた。背もたれに身体を預けると、ぎしりと微かな音が鳴る。横に体積の多い人間が座っても支障がないように丈夫に造られている椅子は、成長のない小さな体重が加わっても、そんな小さな悲鳴を漏らすだけなのだ。
 傷を負う以外に変わることなどない小さな掌を広げ、それを見下ろす。
 死にたいなどと、死ぬなどと、思ったことはない。このまま永遠に、神聖国の退屈な平和を維持しながら、神殿に巣くった老爺たちの終わりを横目に、権力争いを趣味にして、永い時を過ごす。終わりが訪れるとしても、それは気の遠くなるほどの未来のことだと、そう思っていた。
 しかし、彼の――永遠を得たはずの彼の時は、ほんの数十年で終わった。
 炎の英雄と呼ばれた男も、詳しくは知らないが、永遠を捨てたと聞く。その気の遠くなるような、甘く重い誘惑を押しのける刹那への執着が、彼にはあったのだろうか。あったとして、そこまで執着できるものがあることは、幸せなのだろうか。
 自分にはそんなものはない。
 自嘲して、遠ざかった傷を眺める。
 原因を覚えていない傷。記憶はぼやけ、薄れ、遠ざかり、消失する。それは自身が不要と判断したからだ。これから続く永遠を知り、そのために、些細なことだと切り捨てたものだ。
 そうしてすべてを、些細なことだと切り捨ててきたのだ。
 きっとその中には、宝石よりも貴重なものや、権力よりも絶対的なものや、暖炉の炎よりも暖かいものがあったのだろう。しかしいくら請うても、それ今更を取り戻すことは叶わないのだろう。
 だが、変わらないものなどない。
 箱庭には四季は訪れない。春の微睡みも夏の苛烈も秋の透明も冬の堅さも、そこにはない。
 箱庭には感情は訪れない。家族の懐かしさも友人の笑顔も恋人の甘い囁きも、そこにはない。
 箱庭には争乱は訪れない。思考の摩擦も身体の疲労も人殺しの葛藤も、そこにはない。
 しかしここは、箱庭ではない。
 血と肉と骨の存在する現実なのだ。
 ササライは机の隅に追いやられた嘆願書を手に取る。無意味な紙切れだ。他愛ない願いと、くだらない感傷。そして取り沙汰される彼ら自身は、もはやその栄達を望んではいないかもしれない。
 だが、そんなことは関係ないのだ。それこそが些細なことなのだ。
「取り戻すことが叶わないのなら、見つければいい」
 言葉に出すと、それは真実となるのだ。音になることで言葉は力を得る。だから、自分でも奇妙だと思いながら、独り言を続ける。
「たぶんおまえがそう言ったように、憐れむことはあっても、愛することはないだろう。だけど、」
 疑問を持たずに生きてきた。かといって、決してそこは、暖かいだけの場所だったわけではない。蔑む視線もあったし、お飾りと軽んじられることもあった。
 しかしそれらは、机の傷だ。
 憎しみや劣等感を笑い飛ばすことが、そう難しいことではないように、幸福を見出すことも、難しいことではないのだろう。
「ままごとの時間は終わったと知らせてくれたことだけには、感謝しよう」
 きっかけなど些細なことだ。
 ただ、箱庭に変化が訪れるという、それこそが重要なのだ。
 ササライは人形じみて整った口元に、笑みを刻んだ。それは人形が浮かべようのない、歪んだ笑みであり、その笑みを作ることができる限り、例え身体に張り巡らされた管を流れる紅い液体が血でなくとも、自分は人であるだろうと思った。