草原を見下ろす小高い丘に、不自然に馴染んだ紅い色彩がある。
その色を捜すよう彼の仲間に頼まれていたサナは、頭の中で一生分の語彙を使い果たすような勢いで文句を考えながら、丘に近づいていった。
いささか乱暴に草を踏み荒らしてしまったのは、彼女がそれを頼まれたとき、ちょうど同村出身の少女たちと、戦の合間のささやかな休息にと甘いものを食べようとしていたからだ。戦時にはふさわしくないふるまいだったが、はしゃぐ彼女らを誰も咎めはしなかった。誰がいつ、命を失うかわからないのだ。できるだけ楽しみは奪わないでおこうという心遣いなのかもしれなかった。
しかし、その貴重な楽しみを邪魔し、無遠慮にも菓子に手を付ける寸前で割り込んできた男は、申し訳なさそうな顔ひとつ見せなかった。おかげでつい苛々して、そんなことじゃ一生女にもてないわよなどと、余計な一言を進呈してしまったことをサナは思い出す。
短慮だった、謝らなければとは思っても、どうせあの男は気にもしていないのだろう。それくらいは、男とあまり気が合わないサナにもわかる。目下、男の関心の全ては戦の勝利、ひいては、こんなところに座り込んでのんびりと風を受けている少年にあるのだから。
「エン!」
少年の名を呼ぶ。
彼は振り返らず、背を丸めたまま、遠くを見ている。また、お得意の知らない振りだろう。サナは忌々しげに舌打ちして、草原の波が思わず左右に避けそうなほど威勢よく丘を登っていく。
「ちょっと」
丘の半ば辺りまで来て声を荒げてみたが、反応はない。仕方なく、簡単に触れられそうな位置まで接近しても、いつもならすぐに振り返るはずの彼はサナに背を向けたままだった。
「…何してるの、あなた」
呆れて投げた言葉も、完璧に黙殺された。
しばらく待ってから、サナは右手を勢いよく振り上げ、だらしなく曲げられた背に振り下ろした。
「っだ!」
おおげさな悲鳴を上げて、エンは背を反らせ、その弾みで彼の耳から奇妙な木片が落ちた。
そんな繊細な心臓ではないだろうに、胸を押さえて前屈みになった彼を無視して、サナは腰を曲げると草の隙間に紛れたそれを拾い上げた。
「何、これ」
瞬いてみても、それはただの木片だった。
立ち直ったエンが恨みがましい眼で見てくるのも無視して、サナはそれを様々な角度から見てみたが、やはりただの木片だった。馬鹿らしくなって放り投げるのを、エンが慌てて受け止める。本気で捨てようとしたわけではなかったのに、そんならしくない態度を取られると、なんとなく面白くなかった。
そしてそれが、そんな小さな木片に嫉妬したようで、更に面白くない。
「何するんだよ」
「あなたこそ、何してるの」
努めて初心に返り、サナはそう尋ねた。エンは困ったように――もっとも、それはまったく困っているようには見えないのだが、木片を掌の上で弄びながら、
「いや…ちょっと」
まるで答えになっていない答えを返した。
まったく今日は珍しい日だと、サナは少年を見下ろして思った。神聖国からの攻撃が途絶えたのも、あの男が嫌っているはずの自分に頼み事をしてきたのも、いつも憎らしいほど自信に満ちた少年がこんなにはっきりとしないのも、珍しい。
槍が降るかもしれないと、サナは思わず空を見上げようとした。
「サナ」
名を呼ばれて、彼女は持ち上げかけた顎を引き戻した。エンが普段通りの、彼女から見ると軽薄そうな笑みを浮かべて、手招きをする。
「何?」
警戒していることを隠そうともせず、サナは僅かに身を引いた。エンは傷ついたような表情をしたが、何かを企んでいますと言わんばかりの笑顔で、警戒しない人間がいるものだろうか。
彼女にそれ以上距離を縮める気がないことを悟ったのだろう、エンは大儀そうに立ち上がり、適当に服に付いた草を払うと、先刻の木片を掲げてみせた。
「これ、耳栓なんだ」
「耳栓?」
聞き慣れない言葉に眉を寄せる。エンは戯けて、片目を瞑った。
「そ。要するに、音を聞かずに済むようにする道具」
そう言うと、エンは両手を、サナの頬を包むように伸ばしてきた。驚いた彼女がその手を振り払うより先に、耳に何かを押し込まれる。
何が起こったのかを認識するより先に、世界が急速に遠ざかっていった。
草原を吹き渡る風の音も、それに揺らされた草の葉が擦れ合う音も、空から落ちてくる鳥の囀りも、遠い本陣の人の声も、厚い壁を隔てた向こうへと追いやられた。呆然として、サナは、頬に触れた少年の手を振り払うこともできずに硬直する。
何だろう、これは。
目の前で、エンの唇が動いた。何かを言ったのだ。しかし、それはサナには聞こえなかった。
目を見開いたまま、彼女は咄嗟に、必死で耳を澄ませた。だがやはり、何も聞こえない。おかしなことに息苦しさまで覚える。自分がひとりになった気がした。
エンがまた唇を動かした。サナは睨み付けるようにして、その唇の動きを読みとろうとしたが、まるで異国の言葉のように理解できなかった。
何か圧倒的な恐ろしさが込み上げてきて、肩を震わせる。と、
「凄いだろ」
とても得意げとは言えない調子で発せられた、その声は耳に届いた。
エンが手を離したのだ。木片をしまうと、まだ奇妙な感覚に捕らわれたまま突っ立っているサナに、彼は唇の端だけを吊り上げて笑って見せた。
「特別製なんだよ。会議の時に特に重宝してる」
「…は?」
その言葉に、サナは眉を吊り上げて彼を見た。エンはにやにやと笑っている。
切り離されたときと同様、急速に意識を現実に引き戻されて、サナはそれがおそらくは彼なりの気遣いなのだろうと悟った。どこまでも勝手な人間だ。そう思ったが、それは嫌な感情ではなかった。
「あなたね…ああ、もういい」
嘆息して、首を振る。礼は言わなくてもいいだろう。
サナはようやく、本来の用事を思い出した。妙なことをされたせいですっかり忘れていたが、
「ゲドが呼んでるわよ」
「あいつが? あぁ、……?」
思い当たることがあったのか――いや、おそらくありすぎてどれだか断定できないのだろう。何かを思い出そうとするように唸って、すぐに考えることを放置すると、エンは顔をしかめる。
「また説教かな」
「さあ」
ひとつ溜息をつくと、彼は面倒くさげに首を振って、それから唐突に座り込んだ。先刻立ち上がったとき、草を払ったのはいったい何だったというのだろう。
サナは草の上にあぐらをかいた彼を諦めの境地から見下ろす。実を言えば、こんなことだろうと思っていたのだ。自由を愛すると主張して、彼はよく言えば奔放、直接的に言えば傍若無人にふるまう。
やはりかと肩を落として、サナは溜息のように言葉を吐き出した。
「私はちゃんと伝えましたからね」
「聞いた聞いた。耳栓してたから聞こえなかったけどな」
「……」
冷たい視線をくれてやると、英雄と呼ばれる少年は肩を竦めた。
その仕草はいかにも悪戯好きの子供のそれだったが、見上げてくる眼の光が酷く強く、サナは紡ごうとしていた言葉を呑み込む。この真剣な表情に自分が弱いことはわかっていたが、それを克服することは、どうやら一生できそうになかった。
エンはじっと、頭を後ろに反らして彼女を見上げている。
その意味が掴めず、気まずさにサナが目を逸らそうとしたとき、エンが唐突に言った。
「俺にはサナがいてよかったと思うよ」
「……何、それ」
拍子抜けして、彼女は瞬いた。今日はずっと、何、と尋ねていると思いながら。幼い子供が、初めて見るものを不思議がって親に聞いてばかりいるかのようだ。たまには気の利いた受け答えもしなければいけないかなと、サナは冗談交じりに言った。
「愛の告白?」
「そう」
思いがけず肯定を返されて、サナはまた、瞬いた。
それから湧いてきたのは、おかしなことに怒りだった。あまりにも簡単に肯定されてしまったことへの、やるせなさのようなものだ。冗談でもそんなことを言って欲しくはなかった。それはおそらくは、彼女が少年に抱いている好意に混じった僅かの恋情のためなのだろうと、小さな痛みの中で彼女は思う。
感情を解析したところで、不愉快な気分が晴れるわけではない。
一気に機嫌を急降下させて、
「…あっそ」
彼女は素っ気なくそれだけ言った。
「この草原をきれいだと思うだろう?」
そして少年は、彼女の機微を意に介さず、視線を正面に戻してそう告げる。
「そうね」
否定することでもないので、サナはそう応じた。確かに草原は、うつくしかった。波打つ緑は、鳥肌が立つような荘厳さを湛えている。地平線まで続くその海は、夕暮れの空のように少しずつ色を変えて、どんな名人でも再現できない玄妙な色合いを持つ一枚布のようだ。
この地を守るために、彼らは戦っているのだ。
そう思うと、サナは自分の心がすっと安らいでいくのを感じる。意識せず、穏やかな笑みが口の端に浮かぶ。このうつくしい場所に生まれた、それは、
「私たちの誇りだもの」
「そうだな…」
彼女の毅然とした態度に、エンは溜息をつくように応えると、満足げに微笑んだようだった。
「見渡せば、その度に生きててよかったと思えるんだ。贅沢なもんだよ」
それから、二人は黙って、草原を眺めやった。傾きかけた日が、緑の絨毯に気怠い柔らかさを降り注いでいる。それを孕んだ草原は、風にうねりながらさざめいている。
「それだけでいい」
やがて、ぽつりと、少年が呟いた。
「こんなにきれいな世界を、壊したい奴なんていない…そうだよな」
「そうね」
サナは微笑んだ。彼の傲慢なまでの断定は、心地よいものだ。
「大丈夫よ」
何が、とはわからないまでもそう言えば、エンは嬉しそうに笑って、目を閉じた。きっとその言葉が欲しかったのだろうと思わせるような表情に、サナは満足して、少年の隣に腰を下ろす。
珍しい、という風に彼女を見る彼に、サナは厳かに宣った。
「あなたのせいでアルマ・キナンの名物を食べ損ねたんです」
卵と小麦粉と砂糖と果物と果実酒、それ以外の、少女の胸を高鳴らせる諸々でできた甘いお菓子。女だけの神秘の村の食べ物など、こんな非常時でなければお目にかかれない。
「ちゃんと責任取って、帰ったら付き合ってもらいますからね」
「俺、甘いものは苦手なんだけどなあ…」
ぼやくように言うので、サナは声を上げて笑った。この時間は戦の最中のほんの一瞬に過ぎないと言うのに、くすぐったいようなものが込み上げて、それが可笑しかった。
炎の英雄と呼ばれる少年は眩しそうにそれを見て、それから自分も、声を上げて笑った。
業を煮やした理想屋の友人に追い立てられて二人を捜しに来た男が、呆れたように肩を竦めて元来た道を引き返していったことに、彼女たちは最後まで気がつかなかった。
* * *
目に痛いほどの、緑、緑、緑。柔らかに波打つ草原はうつくしい。
「すごいですね…」
セラが溜息をつくようにそう零す。その隣で、彼女の師は不思議そうな目を周囲に向ける。その瞳は草原よりも深い碧だったが、灰色の膜に覆われていた。
「…そうなのか」
彼は大気を震わせたのかさえ疑わしいほどに微かな声でそう言った。しかし、その場にいた3人はそれを聞いた。そして、聞こえなかった振りをした。
「さて、それでは大空洞に向かいましょう」
風に散らばる髪を鬱陶しげに抑えて、アルベルトが言う。
セラが杖を一振りし、大地を歪ませた。濁った黄色い光が溢れ出し草原を浸食する。
ユーバーは何も言わないままその歪みにずぶりと呑まれた。続いて、アルベルトが草原に咲いた白い小さな花を無表情に見下ろし、ぐしゃりと踏みつぶし、消える。
セラは彼女の師を見た。
彼は碧の瞳で草原を――荒野を、見渡していた。そこにうつくしさを見出そうとするかのように。
それを果たせず途方に暮れたように、彼は俯く。
「…ルックさま」
「ああ、わかってる」
悪趣味な仮面をつけると、彼もまた、足を踏み出した。
そうして最後に少女の姿も草原からかき消え、その場には何も残らなかった。