花 の な い 軒 下 2

 空気がぬるくほどけた昼過ぎ、シュウは嘆息した。
「無理に決まっています」
 かいつまんで伝えた、ルックからの忠告に対する返答だ。
 ムツが仕事をするのは、自室ではなく、軍師の部屋である。軍主の部屋に執務机があっても、使われることはないだろうと見越したシュウが、そう決めた。その予測は当たっていたし、読み書きを学んでいない軍主を据えた以上は必要な配置でもあったので、今では皆が慣れた。
 室内には、彼とムツと、猫しかいなかった。もともとそう広い部屋ではないから、軍師付の補佐たちは、小康状態を保っている間は、思い思いの場所で仕事をしているのだ。ムツにとっては、ありがたくない習慣である。
 二人と一匹だけの部屋で、シュウの漆黒の量のある髪が、墨の川のように流れて、部屋の暖気を吸い取るようだ。この季節はまだ少し肌寒い。ムツは、彼に脈絡なく退去を命じそうになるのを堪えた。
「どれが?」
 ほとんど読めない文字を視界に入れながら、鼻先で問い返す。
 実のところ、彼の軍師がなんと言おうと、ムツはあまり気にしない。シュウが彼に言うことは、六割が甘言で、三割が諌言で、残りの一割は無神経だ。すべて聞き逃していい。シュウは彼のことを侮っているので、最低限の連絡は伝えるが、細かい仕事についてはまったく報告しない。だから、二人の会話はたいてい上っ面だけのものになる。
 ムツはあまり彼と話したくないのだが、シュウは無学なムツに時折害意さえおぼえるらしく、ことある事に兵法を説いたり、軍主としての振る舞いを教え込んだりした。その効果は、あまり実っていない。
「…どれもです」
 頭痛を抑えるように一度だけ額に手をやると、軍師はそう応じた。
「具体的に、どう駄目?」
「…ルックはなんと言いましたか?」
「んー…今、兵士は余ってないから、僕が言っても他の人たちが駄目だってさ」
「それで全てです」
 シュウは頷いた。
「今、この軍に余裕はありません。借金も多いですからね。ここに本拠を置いてからでも、もう二年が経ちます、このまま戦が長引くようなら、まず財政が破綻するでしょうな。…」
 そこまで言って、意味が理解できたかを確認するようにムツを見、無関心な瞳に、鼻の横に皺を寄せる。そのあからさまな侮蔑の表情に、ムツはふいと視線を逸らした。シュウの軽い嘆息が聞こえた。
「…踏み倒せばいいとでも思っていそうだな。戦争が終わった後のことを考えてください」
「そんなこと思ってないし、聞いてないよ」
「聞きたいのは、具体的なお話でしょう」
「僕にとってはそれ、全然具体的じゃないんだけど」
「……」
 しばらくの沈黙に、苛立ちの気配が混じるが、彼はそれを抑えたようだった。軍が立ち上げられてから、つまり二人のつき合いが始まってから、一年と少し。その間に、彼の忍耐力は確実に養われているらしい。彼ばかりに進歩が見られるようで、それがまたムツにはおもしろくないのだが、そこまでは表に出すまいとすました顔を保つ。
「…しかし確かに、そのルックの話は、気をつけておかないと…ハルモニアの意図はわかりませんが、敵陣に利することになるような魔法ならば、対策をとらねば」
 ふうん、と鼻と喉の奥から声を出したムツに、軍師は冷えた視線を向けた。
「…他人事のようにしておられますが、ムツ殿、あなたが考えるんですよ、対策は」
「何言ってんの?」
 ムツは驚いた表情をつくってから顔を上げると、さらにはわざとらしく、目を見張ってみせた。
「僕はルックに頼んだよ。でも、嫌だし無理って言ってたから、駄目だよ」
 その態度に、軍師はおおっぴらに舌打ちした。規律を乱すルックへの苛立ちか、やる気のないムツへの嘲りか。たぶんどちらもだろう。
「軍主の言葉なんですから、従わせなさい」
「いやです」
 ムツは筆を机の上に投げ出した。筆先に残っていた墨が、毛羽だった机の表面を隠す麻布に滲む。
「! おい」
 沸き上がった抑えがたい感情を、瞬時に押し込めて、シュウはただ眉を寄せ、急いで筆を取り上げた。滲んだ墨は親指の先程度で済み、それ以上の被害は広がらなかった。
 ムツはそれには頓着せず、上体を後ろへと倒した。シュウのものとは別にしつらえられた椅子の脚は、それでも彼の足よりも長い。結果、背もたれには半分以上の体重がかかり、堅い木の椅子は軋んだ。そのまま、二年前に比べればだいぶ肉の付いたものの、いまだ頼りない細い足をぶらつかせる。
「だいたいさあ…」
 ムツは半眼になり、染みの浮いた天井を見つめた。
「ルックは、あんまり好き勝手命令すると、いなくなっちゃうかもよ?」
 実際には、律儀なところのある彼だから、彼の師が新たなことを言い出さなければ、そんな不義理はしないだろう。しかし、シュウにはそんなことはわからない。少し観察していれば、ルックの忠誠の一番目がムツ以外の誰かに捧げられていることには感づくはずだが、彼にはそんな暇はないのだ。
「…一応あいつは、この軍の幹部でしょう」
 苦々しげに吐き捨てるシュウを横目に見て、ムツは唇を尖らせた。
「そうですけど、ルックって別に僕が勧誘したわけじゃないし。善意の協力者…義勇兵っていうんだっけ? それでしょ。頼めばいろいろやってくれるけど、基本的に、いつもはだらだらしてるよ」
 基本的に仕事をしている最中しか目にしたことのない軍師には、ルックがだらだらしている状態が想像できなかったのだろう。少し眉を寄せたが、結局、何も言わなかった。
「…それであなたは、もちろん、ルックに命令したんでしょうな」
「どうにかなんないの、って聞いたけど、そんな簡単には無理だって」
「なんですか、その聞き方は」
 軍師はますます眉を寄せた。
「セオさん連れてけばって、言ったんだけど、無言」
「なぜそこで、彼の名が出るんです」
「ん? ほら、どっちかっていうと、ぼくっていつもいじめられてたから」
 脈絡のない言葉の裏を読むのは、さすがの軍師でも無理だったのだろう。思い切り不審な表情をつくり、シュウはムツを見下ろした。
「…ルックと、仲がいいな」
「友達ですから」
 シュウはその答えを無視した。
「ルックが数少ない、あなたの、部下だからか」
「……」
 ムツはゆっくりと、彼の軍師を見た。
 シュウは目を細めていた。そのかすかな隙間から漏れる色だけでは、彼の感じている心情を測ることはできなかった。
「セオ・マクドールはこの軍ではなく、あんたにつき合っているしな。戦争ごっこは楽しいか?」
「戦争よりは」
 ムツはにっこりと微笑んだ。
 この話は、もうし飽きている。シュウはいまだに、彼に軍主たる自覚を持たせようとしていて、時折脈絡なく、彼から本音を引き出そうとしたり、それを望む方向に誘導したりしようとするのだ。それにムツが応じた試しはなく、いつもうやむやのうちにこの話題は終わる。それでも諦めないシュウのねばり強さには、ムツも密かに感心していた。
 前に同様の話題で激昂した時から、また鬱々と不満の種を溜め込んでいたのだろう。シュウの眉間には皺が寄り、亀裂のようになっている。
「いい加減にしろ。あんたはこの軍の最高責任者なんだ」
「最高権力者になった記憶はあるけど、最高責任者になった記憶はないですよ」
「同じことだ! 権力とは責任を伴うものだ」
「でも僕、権力を欲しがってないですから」
 言外に、周囲が――軍師こそが、勝手に持たせたのだということを知らせる。
 シュウはいつものように、ぐっと喉に何かを詰めたような顔になる。しかし、さすがにそこでは引かなかった。
「…満喫しているだろう」
「そう? 残念ながら、特には、そんな気がしないんです」
「――…英雄として、誰からも認められている。それは、おまえにとって、幸福だろう」
「うん、そうですね。でも…」
 この椅子に座る今でも、迷わずに応えられる。
 汚物のように見て見ぬふりをされた時期は、ムツに影を落とし続けている。だから、会う人のほとんどが自分の顔を見知っていて、好意的に挨拶してくれる今の環境は、彼にとって確かに、夢として思い描いていたものと一致しているのかもしれない。
 しかしそれでも、引き替えられないものはあるのだ。
「僕は…」
 ムツは、そこでふと口を閉じた。その答えを、最後まで言う気はなかった。彼にも、残酷さに対するためらいがあった。
 しかしそれで、彼の言いたいことがわかったのだろう。先を読んだシュウの瞳に、失望に似た色が浮かぶ。それと同時に、自制心の限界が来たのか、墨を含んだ筆を握る腕に力がこもった。その時だった。
 ぢっ、と妙な音がした。
 二人ともが、その音が何かを知っていた。睨み合いをやめて見ると、安物の鈴がついた首輪を振って、猫が顔を洗っている。いつの間にか執務机の上に来ていたのだ。人間には難しいだろう速度で前脚を動かしてから、いきなりぴたりと止まると、円らな瞳で二人のいる方向を見た。そして鳴かないままに目を閉じる。くるりと尻尾を回してから、優雅に寝そべった。
 その仕草が、いかにも呆れているようで、二人は同時に毒気を抜かれた。
 無言でシュウは筆を硯に戻し、ムツはそれに手を伸ばす。しかし結局、手のひらは宙に浮かんだまま、ふと握りしめられた。シュウがそれを見て、小さく嘆息した。
「…戦の準備、してるけど」
 やがて、ぽつりとムツはこぼした。
「でもさ、ここのところ、ずっと平和でしょ」
 その言葉に潜んだムツの、恐れるような思いを、シュウは酌み取ったようだった。彼は、珍しく、かすかに目元をゆるめた。
「平和ですがしかし、冬とともに終わりです。あちらも、我々も、冬のうちに、充分に軍備を整えたのですから」
「春のために?」
「春のために」
 毅然とした答えに、春も迷惑だろうな、とムツは思った。