足指にまとわりつくずっしりと重く濡れた布を、注意深く見下ろす。
桶いっぱいに水を含んで広がったそれは、そこここを伸ばして見ても、ほとんど奇異な点は見あたらない。使用する前と変わらず、古びた白さを持ち、粗く編まれた麻の感触がある、はずだ。
徐々に深まってきた夏の日射しを避けた木陰にも、葉の隙間から熱が零れ落ちてくる。
地面と繋がった桶の中にも斑は浸透し、素足を差し入れているせいでぬるく落ち着いた水の表面が光を弾いた。その眩しさに、ルックは目を細める。
右足を引き上げ、また降ろす。
たぷ、と桶に張った水がたわみ、浸された布が揺らぐ。
次は左足を水から抜いて、また浸ける。
桶の縁めがけて波が押し寄せ、外界へと飛び出す。
それを幾度か繰り返して、ルックは両足を桶の外周へ寄せ、背後の木に手をつくと足だけで器用に桶を傾けて水を半分ほど流した。暗い染みがみるみるうちに地面へと吸い込まれていく。
念のために足と手を使って、太股までがずぶ濡れになるくらいに敷布を広げて見ていると、灰色がかって微かに透けたその向こうに、女が来るのが見えた。
趣味なのだと、天気の許す限り毎日でも屋上で洗濯をしている女は、慌てたようにしている。あらあら、と意味のない声を発しながら、木陰に突っ立っているルックのほうへと駆け寄ってきた。
「まあ、こんな…お洗濯なら承りましたのに」
元政府高官の妻の言葉とも思えない。
彼ら夫婦は召使いを雇わず、家事はすべて共同作業で行っていたということで、袖を捲り上げた姿は確かに板に付いている。箱入りの貴族の奥方ではないので、任せることに不安はない。
しかし、ルックが女に洗濯を頼まないのは、女を気遣ったわけではなかった。
「悪いけど、放っておいてくれる」
腕を降ろし、素っ気なくそう言うと、女は何とも言えない悲しげな顔になった。
「あの、もし気を遣っておいでなのでしたら、私は別に…」
「そういうわけじゃない」
憮然として言うと、ルックは腰をかがめ、敷布を水に浸けた。その瞬間、ゆらりと水に靡いた敷布の端に、青あざのように染みが滲んでいるのを見つけて内心舌打ちする。
ついでに、女に見咎められたことへも舌打ちしたい気分だった。年上の女性、しかも長い黒髪ときては、師を連想してかどうにも逆らいにくい。
桶の底に沈めていた石鹸を取ると、腰を伸ばして顔を上げる。
「自分でしたいだけだか――」
言葉を最後まで紡げないまま、ルックは目を見張った。
握りしめたはずの石鹸が桶に逆戻りする。控えめなしぶきを上げ、それは墜落した。
女は彼の様子にきょとんとして、それからくるりと緑の黒髪をたなびかせて振り返った。そしてその先に、隣国の英雄の姿を見つけて固まった。
「こんにちは」
「あ、は、はい…その、こんにちは……」
少年が良家の子弟らしく柔らかく頭を下げるのにやけにぎこちなく返礼して、女は動揺を顕わにし、そこから立ち去りたいそぶりを見せた。押し隠そうとしてもはっきりとそれが見て取れる。
ルックは眉をひそめたが、セオは別段気にした様子もなく、女のために道を空けてやった。
「……ありがとうございます」
その態度に、意を決したように改めて頭を下げると、女はルックにも会釈をしてその場を離れた。紅い袴の裾が城の中へと消えていく。
セオは少しの間それを見送っていたが、すぐに視線を戻してきた。
「何か用」
何かを言われる前にと、機先を制する。
セオは肩を竦めて、木陰の中へと踏み込んできた。顔をしかめるルックの、腿のあたりまでたくし上げて留められた下衣の裾とさらけ出された女よりも細い足を見て、少し笑う。
「珍しいな、肌を見せてるなんて」
「人を生娘みたいに言うな」
険悪に吐き捨てると、ルックは嫌みたらしく水に浸かった敷布を踏みつけた。水が跳ねる。
靴にかかりそうになったそれを避けて、セオは桶の中を見下ろした。
「何だこれ」
「あんたが昨晩汚した僕の部屋の敷布」
簡潔に答えると、桶の中に両足を入れたまま、木の根に腰を下ろした。溺れた石鹸をもう一度掴み上げ、先程見つけた汚れに擦りつける。布を重ねて揉むと、汚れの色が泡に滲んだ。
セオはそれを面白そうに眺めて言った。
「人に聞かれたら誤解を招きそうな言い方だな」
「は?」
その物言いを訝しく思いながら、顔を上げるのも癪で、ルックは俯いたまま気になったことを尋ねた。
「さっきの」
「さっき?」
「何かしたのか?」
それは、女の挙動を見て思ったことだった。普段から笑顔を振りまいている彼女が、あんな風に取り乱すのは、珍しいを通り越して不審だ。
男女の関係としての何か、を想像したわけではないが――
そう心中で呟いて、そんな思考が存在すること自体が、一瞬でもその可能性を考えたことを示していることに気付き、頭を冷ますためにわざと乱暴に布を水へぶつけた。そしてその行動に無意識の動揺を感じて、後悔する。
馬鹿馬鹿しい、どこかの女好きでもあるまいし、それに少年のままの容貌では、貞淑な人妻を口説くのには無理があるだろう。本当に、馬鹿馬鹿しい。
頭の上から、笑みを含んだ答えが降ってきた。
「彼女は南のほうの出身なんだろう」
顔を上げて、肯定を示すと、セオは肩を竦めた。
「いくら人当たりが良くても、敵国の人間はさすがに…好まないんじゃないか」
「ああ…」
なるほどと、納得する。
新たに興った共和国は、指導者の決定や内紛で慌ただしかった。しばらく続いた小康状態のおかげで、おおかたの人間は長に渡る領土争いの歴史の記憶を遠くへとやってはいる。
しかし女のようなこのあたりでも南に近い市に住んでいた者は、同盟を組んだ今でも元敵国人、それもその国で英雄扱いされている人間に、そう簡単に好感情を抱くことはできないのだろう。
軍主からして元は敵の陣営の人間だったというのに、人の感情とは複雑なものだと、ルックは嘆息した。そもそもここは、今までいがみ合っていた人間たちの寄せ集めの軍なのだから、故国への帰属意識が希薄な彼にしてみれば、何を今更とも思うのだ。
小振りな淡い色の花なら幾つも束ねても大きな違和感はないが、そこに大輪の原色の花を合わせれば歪なものとなる。それに似たようなことなのかもしれない。
崖の向こうで、鳥が笛を吹くような声で空気を切り裂いた。
その長い鳴き声に、視線を落とし、満足の行くまで汚れを漂白し終えたことを見て取って、ルックは微かに息をつく。そろそろ飽きてきたところだった。
桶の上に広げた敷布は、今度こそ一点の汚れもないように見える。滴っては肌を擽りながら滑り落ちていく水滴から足を逃して、上体を前に倒すと、隅から少しずつ白を確認する。
残っていた汚れは思ったよりも多く、それらを丹念に洗い落とすと、澄んでいた水が少しずつどす黒い泡で覆われていった。あまり快い光景とは言えなかった。
半ばまでを確認したところで、ふと、珍しく解説を挟んだのは、何か言って欲しかったからなのだろうかとルックは再び視線をやった。その際、ふと右手に、いつもの手袋を填めていないことに気づいた。古びた包帯が甲から手首まで巻かれている。確かに夏では、手袋は蒸れるだろう。
止まった視線を更に上へとやると、佇む少年は平然としていたので、口を開くだけに終えた。
「何?」
それを見咎めて、セオが訊いてくる。
「別に」
そう言うと、作業に戻ろうとして、ルックは瞬いた。
「…で、何か用?」
ずいぶん前に放った質問に答えがなかったことを思い出して、繰り返す。
セオは口角を緩く吊り上げた。
「もう昼だけど、気づいてる?」
「当たり前だろ」
太陽はすでに中天に達している。
初夏の日射しはまだ生温い程度だが、さすがに真上から恒常的に注がれてはたまらないので、わざわざ木陰に避難しているのだ。人に洗濯している姿など見られたくないという理由もあったが。
眩しさに目を細めて言うと、セオは少し目を見開いて、いささかわざとらしく、驚いたような仕草を見せた。ルックが眉間に皺を寄せると、弁解するように笑って言う。
「昼を食べに行かないか。どうせ朝も食べてないんだろ」
「……」
「よければ、奢るけど」
重ねられた言葉に、胡散臭いと思っていることを隠そうともせず、ルックは目の前の少年を見た。
彼の知る限り、セオは無償で人に何かを施すような人間ではない。人に何かを奢らせている姿なら何度か見かけたことがあるが、間違っても善意の行動を期待できる相手ではないはずだ。
何かとてつもなくいいことがあったか、さもなくば、企みでもあるのだろうか。
昨晩を反芻して、後者の可能性がより大きいことを悟ったルックは彼の顔を半眼になってじっと見つめたが、かといって、彼がうろたえるはずもなかった。そんなに簡単に付けいる隙を与えるような性格ではない。
「…まだ、終わってないからいい」
大きなものをむりやり呑み込んだような、奇妙な声音で言うと、ルックは俯いた。
視線の先にある敷布は、実を言えばもうほとんど元の色を取り戻している。しかし彼と同席で昼食を取る気にはなれなかった。
ふうん、と気の抜けるような声を出して、セオは組んでいた腕を解いた。
「じゃあ」
辞去の言葉を独り言でも呟くように落とすと、背を向ける。
その呆気なさに、放り捨てられたような疎外を感じて、ルックは唇を噛んだ。去っていく背中を睨み付けたかったが、それをするのが惨めに思えて、代わりに泡に覆われた水面に映った自分の顔を見下ろし、掌で叩いた。波紋に歪んだ顔が掻き消され、桶の底にわだかまった敷布が揺れた。
長く溜息をつくと、思考を切り替えて、再び敷布を取る。ざっと目を通して変色した部分に片端から石鹸を擦りつけていき、一通り終えると、垢擦りの要領で汚れを落としていく。
そうした単一な作業をしていると、やはり脳は、何かを考えることで空白を埋めようとするのだった。
ルックは、長時間ほとんど姿勢を変えていないせいで痛み始めた背骨を意識しながら、ぼんやりと浮遊する泡を見つめた。黒く濁った泡沫は、やはり汚らしい。
それは血の跡だ。自分が流した、紅い液体の残骸だった。
右の手首に、薄く皮の張った切り傷が走っている。恐ろしいほど潔い直線だ。そこから溢れた血が、肘を伝って、敷布を汚したのだ。昨晩のことだ。
切ったのは、先刻訪れた少年だ。昨晩のことなど覚えていないとでも言うような、あっさりした態度が思い出され、滲むような痛みが心臓を這い上がった。
「………畜生、」
似合わない言葉を使う。自分の細い声に乗ったそれは酷く滑稽で、笑い出したくなった。しかし、笑えるような気分ではない。
水に溶けていく汚濁を見ていると、余計に陰鬱が助長された。
桶を蹴る。波打った水面が、次いで勢いよく縁から溢れ出た。土の飽和に追い返された水が、浅い溝を造りながら、低いほうへと流れていく。
水かさの低くなった桶の底には敷布が残された。
いくら洗っても、もう元の色には戻らないだろう。
ルックは、血の跡が残っていようがいまいが、この白く大きな布切れは敷布の作用をするということに気づいた。気づいたら、もう洗う気にはなれなかった。
木にもたれると、ところどころ石鹸の泡がついたままの敷布を足の上に置いた。
生温い水に浸された布は、それでも少しはひやりとして心地よい。しかしすぐにその冷たさは体温に掻き消されていった。中途半端に温もった布はたまらなく不快だ。
不意に消え去った目的の名残を空気に溶かして、ルックは微かに首を傾げた。
「どうしようか…」
嘆息するように呟いて、目を閉じる。
しばらくは遠征もないし、石板の前の騒がしい空間に立つ気にもなれない。散歩という気分でもない。部屋に戻ればまだ読み終わっていない文献があるはずだ。そう、昨晩セオが突然やってきたものだから、読書を中断させられたのだ――続きを読もうか…
文献の内容に思いを巡らせてみたが、すぐに気分ではなくなってしまった。
ルックは疲れたように眉根に指先を寄せると、軽く揉んだ。眉間に皺が寄っていたかは定かではないが、少し落ち着いた気がした。そうして落ち着くと、俄に空腹が感じられた。
大きく息をつくと、胃の中に何も入っていないのがわかる。朝から何も食べていないのだから当然だ。しかし今は食堂に行きたくない。近くの町にわざわざ転移をするのも面倒くさい。
考えあぐねて、それにすら体力を使うのに疲れて、また呟く。
「…お腹空いた……」
「だから、食べに行こうって言っただろ」
一瞬の空白のあと、ルックは目を見開いた。
見上げた視界の中で、セオが小脇に籠を抱えて立っていた。籠の中に何が入っているのかは見えなかったが、その手に摘まれているのは紺色の果実だった。
目を細めたのと同時、それが目の前に突き出される。
差し出されたそれに反射的に手を伸ばそうとして、手に泡がついたままなのに気づいて慌ててやめる。代わりに胡乱な眼差しを投げつければ、セオは視線を受け流してすたすたとルックの隣に歩いてきて、腰を下ろした。
「…何」
意識せずに緊張する身体を叱咤して、ルックは顔を横に向けると、少し目線の高い少年を見上げた。セオはルックのほうを見ようとせず、葡萄の実を指先で弄びながら答えた。
「昼食配給」
見ると、籠の中には連なった葡萄がいくつも入っていた。紫と言うよりも暗い紺の皮を纏った果実は、水滴をまつわりつかせて、月並みな表現を使えば、宝石のように美しかった。
ルックはそれをぼんやりと見つめて、それから十数秒ほどしてから、それが自分に持ってこられたものなのだと唐突に遅すぎる理解をした。
感謝よりも何よりも先に、不審があったのは、今までの経験からして仕方のないことだ。
僅かに顎を引いたルックに、セオはむっとしたように視線を向けた。
「なんでそこで怯えるんだ」
「誰が怯えてるって」
咄嗟に言い返して、それから付け足すように尋ねる。
「…熱があるんじゃないか」
そう言えば、昨晩も様子がおかしかった。彼が突飛な言動をとるのは珍しくないことだったので、いきなり切り付けられても気にしなかったが、今から思えばいつもよりもその割合が大きかったかもしれない。ルックは柄にもなく心配になって、眉を寄せた。
「こんなところに来る暇があるなら、医務室に行けば」
「……」
セオは少しの沈黙のあと、僅かに論点をすり替えた。
「そっちこそ、ちゃんと治療は受けたのか?」
「治療?」
「右手の」
そう言って彼が指したのは、右手首の直線だった。昨晩、セオに切られた傷だ。
なんだ、覚えていたのかと、ルックは少しだけ皮肉にそう思う。
「必要ない。たいして深くもない」
ひらりと手首を振ると、微かに痛みを伴った疼きがあったが、それはむず痒いという程度のものだ。他人の怪我には慣れているだろうに、何を今更と思う。
「必要ないってことはないだろ」
「必要ないものはないんだよ。本人が言ってるんだから」
視線をどこへやるのが一番自然かを考えながら、ルックは向けられた黒い瞳から顔を背けた。
少量の水と汚れた泡が残る桶の表面は熱気にすでに渇き始めていた。それは足の上に被せられた敷布も同様で、濁った微かな汚れを湛えながら水分を蒸発させていく。
セオはしばらく黙っていたが、やがて、片手で器用に葡萄の皮を剥き始めた。
ルックはそれを、やはりぼんやりと見つめながら、まったく要らないところで器用なものだと思った。
そんなことに気を取られていると、皮のない葡萄の実が唇に押し込まれる。考え事をしていたため咄嗟に反応できず、目を丸くしながらルックはそれを口内に受け入れた。
甘さよりも、果実特有の酸味が舌を刺激する。
そしてそれよりも、唇に触れた指の感触が、頬を紅潮させた。
「おいしい?」
指を残したまま、幼気な少女を装って、セオがかわいらしく小首を傾げた。形容詞としてはかわいらしく、というのがふさわしいのだろうが、外見がどうであれ中身がいい年をした男がしても、甘い感情や庇護欲をそそられるわけがなかった。
その顔を鬼のようにきれいに歪んだ形相で睨み付けると、視界を塞ぐ腕を乱暴な仕草で払う。正面に向き直ると、ルックは敷布を引き寄せた。
はたかれた腕で、セオは茎からもうひとつ、葡萄をもぎ取った。
「やめるのか?」
問いかけを無視して、敷布をたたむ。
「せっかく持ってきたのに」
水を吸った布は多少乾いたくらいでは変わらずに重い。端を合わせて、土が付かないように折る。
「昨日の礼」
少し腕が震えた。しかし、何事もなかったかのように敷布を片づける。
その、四角に折りたたんだ白い敷布の上に、ぽんとひとつ、紺色の果実が投げられた。
「せめてそれくらい、持ってけば」
汚れた敷布の上に放り出しておいて、よく言う。
ルックはしばらく、じっとその小さな果実を凝視したが、睨み付けたからと言って葡萄が消えてなくなるでもない。仕方なくそれに手を伸ばした。
紺色の一点は泡に汚れた。
それに戸惑って、触れた指を離した。考えてみれば、ものをもらうなど、滅多にないことだ。少し首を傾げ、汚れた手を一瞬見つめてから、右肩に絡げていた裾で泡を拭った。
それから葡萄を手に取る。実ならまだ食べられるだろうと爪をかけた。
透明な果汁にまみれた指先に顔をしかめながら、ルックはことさらにゆっくりと葡萄の実を口に運んだ。噛み潰すと、口内に渋みと苦みの入り交じった糖分が広がる。柔らかく潤いを帯びた果実はぼろぼろと崩れ、喉の奥へと流れていった。
たったそれだけで、すべては終わってしまう。
「ルックって…」
なぜとはなしに虚脱感に襲われていると、隣から声が聞こえた。
見やると、セオが笑っているような呆れたような、複雑な表情で見下ろしている。少しだけ彼のほうが背が高いのだから当たり前だ。しかし、その目線が妙に悔しかった。
「…何」
再び汚れた指先を持て余しながら刺々しい調子で言うと、彼は肩を竦めた。
「どのあたりに線を引いてるんだ?」
「…は?」
両手をたたんだ敷布の上に浮かせて、ルックは口を開いた。それから、無防備以前に間抜けな表情を晒していると気付き、慌ててそれを顰め面の裏に匿う。
「何の話だよ」
「直接的な呼称ならいいのに、暗喩…じゃないか、婉曲?は、だめなのか。なんか微妙だな」
「……だから、何の話を…もしかして」
ふと思い当たり、ルックは手を伸ばそうとして、紫に染まった指先を見てするりと手を引いた。
代わりに上体を、背筋を伸ばしたまま前に少し倒して、相手の顔を覗き込んだ。額にうっすらと汗が滲んでいるのを見て取り、表情に出さずに焦る。
「…本当に熱があるのか?」
「ない」
笑顔で勢いよく否定して、セオは指先に汗の玉を掬った。
「あったらこんなところにいない」
わざわざそんな言葉を付け足さなくてもいいだろう、とルックは思った。
「あっそ」
それでも律儀に相槌を打って、身体を戻すと指先を睨んだ。このままでは、せっかく洗った敷布が――もっとも、途中で放り出したのだが、また汚れてしまう。
果汁の汚れは澄んでいるくせに落としにくい。
血の汚れはもっと落としにくい。ここまで白くなったのだから、まだましだったかもしれない。適当な思考を巡らせながら、ルックは眉根を寄せた。
まあいいと、適当な思考で出たのは、結局そんな適当な結論だった。多少汚れたところで、敷布の価値は変わらないのだ。
とりあえずと伸ばした手よりも先に、横から割って入った手が桶を掴んで奪い去った。傾いた縁から残っていた水が零れ、預けていた足が放り出される。
硬い木が素の足首を打ち、そのうえ地面で強かに踵を打って、衝撃で木に預けていた背がずるりと滑った。椅子から崩れ落ちたような奇妙な体勢で、
「い、った…」
ルックは呆然と掠れた声で悪態を吐いた。
時機を逸しただけに、やけに間が抜けて聞こえた。
「あ、悪い」
あっさりとセオが謝る。
ルックは馬鹿馬鹿しい痛みを堪えて、先刻よりも更に目線が開いた彼を睨み上げた。
「どういう…」
「お詫びに新しい水を汲んでこよう」
口を開き、ここぞとばかりに罵詈雑言の語彙を尽くそうとしたのを遮られる。
葡萄は食べていていいと言うと、籠を押しつけて、セオはやけに機敏に立ち上がった。そしてルックが呆気にとられているのを無視して、さっさと桶を持って行ってしまう。
籠を抱えたまま陽光の下に去りゆく姿を見送り、困惑して瞬く。
「……食べてていいって言われても」
籠の中には葡萄ばかりが転がっている。
やがてセオが桶一杯に水を湛えて戻ってくるまで、ルックは仕方なく葡萄と睨み合いを続けていた。正確には、諸々の疑問を持て余して俯いていたのだが、傍目にはそう映っただろう。
素っ気ない動きの割に波を立てることもなく、静かに桶を地面に据えたセオは、その縁に掛けていた濡れた布巾を放り投げた。
「わッ」
危ないところでそれを受け止めたルックの隣にまたするりと収まり、大事なものを抱えているかのように膝に鎮座させられていた葡萄の籠を取り戻すと、彼は葡萄をまた一つもいだ。
「何、これ」
「手を拭くための布。水で濡らしてある」
「見ればわかるそんなこと」
「じゃあ、見たままのものを信じればいい」
なぜ、こんな回りくどい会話をしなくてはいけないのだろう。
そのくだらなさを、ルックは惨めに痛感させられた。おそらくは好意、を素直に受け取れないのは、自分の偏狭な性格が原因であるとはわかっている。それが罪であるとは思わなかったが、少しは改善しようともした。しかし、一向に曲がったそれが直ぐになる傾向は見られない。
確かにこれは、相手が勝手にしたことだ。
だがそれに、ありがとうという一言さえ口にしたくない、と思っているわけではないのだ。
ルックは先刻の女が急に羨ましく思えた。彼女は長の因縁がある敵国の人間であれ、その行動が感謝に足ることであると感じれば、屈託なしにとまではいかないものの、礼をとることができるのだ。
目の前の少年も、その例外ではない。
泡と果汁に汚れていく布巾を眺めながら、ルックは息をついた。
セオはぞんざいに、葡萄の皮を剥いては、それを口の中に放り込んでいる。こんな小さな果実の皮をわざわざ剥くところがいかにも良家の子息らしい。
しばらくそれを見つめてから、ルックは木から背を離した。
端がところどころ土に擦れた敷布を取ると、桶の中に押し込む。ここまでされたら洗うしかない。どうせ、あとは泡を落とせばそれで終わりだ。暗い色の泡と土が澄んだ水を濁らせていく。
ルックはふと、葡萄の実を呑み込んだときと同じような空白を胸の内に覚えた。
それでお終い。
なんていやな言葉だろう、と思う。それでお終い。続いたはずの名残を捨て去り、余韻は耳に蓋をし、残り香さえ知らぬ振りをする。
か細くとも確かにあるものを拒まれる痛みは、優しく撫でたからと言って癒せるものではない。
波打つ水面が肌をくすぐり、ルックは微かに目を見開いた。
立ち上る熱気が首筋に薄く汗を作る。そうして気づくと、太陽が傾いて、影が先刻よりも木立へと範囲を狭められたのだった。両手を浸した桶は、光に白く照らされた地面にはみ出ている。
いつの間に、こんなに時間が経ったのだろうか。
肩越しにそっと様子を見ると、木陰ではセオが涼しい顔で葡萄を喰らっていた。
理不尽な怒りと暑さの余り視界が白濁しかけたが、頭をきつく揺らすと、熱は逃げていった。
深く息をついて、ルックは日光にぬるくなっていく水の中で敷布を泳がせた。土にまみれた足を突っ込むわけにもいかないので、子供一人入れそうに大きな桶の向こうまで手を伸ばす。
掴んだ一端を寄せては放し、揺らめく水面を見下ろした。
見え隠れする僅かな平面に映った顔は酷く歪んでいた。それを、波打つ水面のせいなのだとルックは信じようとしたが、巧くいかなかった。
心根が顔に出るとは本当なのだと思った。
乱暴に水を掻き混ぜると、光のように拡散する。
ばらばらになる自分がおかしく、ルックは敷布を掴んで桶の中に渦を描いた。
世界がくるくると回り、微かに汚濁した泡も回り、葡萄の実も――
ルックは手を止めた。しかし、勢いのついた流れは止まらなかった。敷布も赤黒い泡も濃紺の葡萄の実も、白い細い腕も、まとめてくるくると回る。それに引っ張られ、ルックは足を崩す。
襟首が掴まれた。
引き戻され、咽が締められて悲鳴も漏れなかった。水の中から腕を引っ張り出され、反動で、身体が後方へ傾ぐ。一瞬、夏の太陽が白い空に浮かんでいるのが見えた。
「日射病って、意外と怖いものだと思わないか」
あいにく、まだ日射病で倒れたことはない。
そう答えようかと思ったが、やめた。子供っぽいことをしているのを見られたという、気恥ずかしさとは少し違う、敢えて表現するなら苦々しさのようなものが込み上げたからだった。
セオは襟首を掴んだ手を離した。
そのまま、かろうじて膝で身体を支えているルックを無理に立たせると、木陰へと連行した。
木陰は日向に比べればやはり涼しかった。木漏れ日に、葡萄についた水滴が控えめに輝いていたのも、その原因かもしれない。瑞々しい果物は爽快だ。
「こっちはもう日が照ってるから、裏に回ろう」
そう言って、セオはさっさと、先刻までもたれていた木の逆側に入っていく。躊躇する暇すら与えられず、ルックは諾々としてそれに従った。
真昼だというのに木立の中は暗く、時折葉の隙間から落ちる光が目映い。
セオが無造作に木の根に座った。視線で促してくるのに逆らえず、ルックは彼から少し離れた土の上に腰を下ろした。
そうして力を抜くと、ぐらぐらと定まらない重い頭が余計に意識された。
ああ、これが日射病かと、暗く濁る視界で理解した。倒れる寸前だったというわけだ。
濡れた掌で瞼を覆う。僅かな冷気が目の奥へと忍び寄り、頭蓋へと流れ込んで行った。こめかみから首筋を辿り鎖骨へと、つ、と汗が伝う。
ルックは項垂れたまま、顎に到達したそれがほとりと膝に落ちるのを見守った。
「生きてると思ったんだけど」
セオが唐突に言った。
「死んでるのか?」
「……」
ルックはのろのろと顔を上げると、微かに首を傾げ、髪を掻き上げた。
細めた目に、暗い影に呑まれた少年が笑んでいるのが映った。
「生きてるなら、こちらへ」
腕が差し伸べられる。
凝然としてそれを見つめる。
何かが、酷く心地よさそうに見えるときがあるものだ。破綻した論理などどうでもいいと思えるような、くだらない意地を捨てても後悔しないと思えるときが。
だいたいにして、それは身体か心が弱っているときだ。自分は弱いのだから、強いものに頼ることで存在が易くなるように思えるのだ。
しかし、ルックにはそれができなかった。
強く在るのが彼の本意だった。弱く在ることはできなかった。
それは、多分セオも同じだった。だから、混じることができない。溶けることができない。個体として分裂したまま、手を繋ぐような僅かな接触すら許せないのだ。
許せないはずなのだ。
それでも、どうしても、触れたいときがある。
自分の手が差し伸べられた手に素直に重ねられるのを、ルックは他人事のように眺めた。
濡れた掌に相手の意外な熱が伝わらなければ、おそらくは最後まで、それを夢の中の出来事のように感じていただろう。
「セオ」
ルックは今日初めて、少年の名を呼んだ。
「…あつい」
「夏だから」
違う、掌が熱い。
心の中でだけそう呟いて、ルックは目を閉じた。
引き寄せられて、いっそうひやりとした空気が身を包む。木陰に入ったのだ。透き通った黒に覆われた芝は、光と違って目を灼かない。しかし、ルックは目を開けなかった。
「熱が」
「ないって言ってるだろ」
合わせた額に汗が浮いている。何故だろう。走ったからだ。
不意に笑いが込み上げ、ルックは瞼を降ろしたまま微かな声を出して笑った。吐息が触れるほど近いのだから、セオにもそれは伝わっただろうが、何も言ってこなかった。
唇に柔らかいものが触れた。甘酸っぱい。葡萄だろう。…きっと。
それから少し遅れて、声が降ってきた。
「葡萄を食べられるってことは、生きてるってことだ」
「だから、何」
「さあ」
その答えに肩を竦めて、ルックはセオから身体を離した。
木にもたれると、葉擦れの音がした。だから、熱で重くなっていた身体が少し軽くなっていた気がしたのは、多分錯覚だろう。
さて、敷布を干さなければ。晴天に、敷布はすぐに乾くだろう。
「そろそろ空腹を覚えたりしてないか?」
「別に」
素っ気ない答えを返して立ち上がり、何の未練もなさげに木陰から出て桶へと歩んでいくルックの背に、セオが憮然として葡萄を投げた。
それは、きれいな軌跡を描いて桶の中に収まり、水の中でゆらゆらと揺れた。