「甘い匂いがする」
前触れなしに部屋に入ってきたセオは、開口一番そう言った。
ルックは読んでいた本から顔を上げると、顔の前で匂いを払うように手を振るセオを見た。
彼はよほど気に障ったのか、珍しくあからさまに顔をしかめていて、その意が自分に向けられたもののように感じられて少し目を細めた。
視線を無視して窓際に歩み寄ると、セオは無造作に戸を開け放した。如月の冷たい風が吹き込み、ルックは思わず肩を竦める。
人の部屋だと思って勝手なことをすると思ったが、それを口に出すことはしなかった。
窓の外には蒼穹が広がり、その前を、焦げ茶色の羽を持つ小さな鳥が、何匹かで徒党を組んで過ぎる。
セオはそれから目を逸らすように、くるりとなめらかな動きで部屋の中を振り返った。頭布を外して寝台の上に投げ捨てると、それを下敷きにして端に腰かけ、上体だけを後ろに倒す。
ルックからは彼の顔が見えなくなった。
「邪魔だよ…」
形だけそう言って、嘆息した。言っても聞いていないことなどわかっているのだが、それでも文句を言うことは、もはや習慣になってしまった。
セオは古ぼけた石の天井を見上げてぼんやりとしている。
何かを思い出しているのか、ルックの言葉は彼に欠片たりとも届かなかった。
思い出に浸るためにこの部屋に来たのであれば追い出してやろうと肺に息を吸いこむと、次に来る声を予期したかのように、セオが声を出した。
「あのさ…」
「何」
出鼻をくじかれて、ルックは不機嫌に眉間に皺を寄せる。
セオは相変わらずぼんやりしたまま、
「今日は…」
そこまで言って、口を噤んだ。
ルックは手にした本を乱暴に捲った。
「何?」
答えはなかった。
最初から明確な答えを期待していないルックは、苛立ちをすべて溜息に込めて、喉から押し出した。
* * *
扉を叩く音がした。
寝台の上に寝そべる来訪者にちらりと視線を走らせ、彼に起きる様子がないのを確認すると、ルックは立ち上がった。歩きながら慎重に扉の外の空気を探って、軽く眉をひそめる。
人がいる。
そのはずなのに、何故かその気配が稀薄だった。肉食動物が狩りをするときに呼吸を押し殺すような、自然な不自然さだ。
ルックは少し首を傾げてから、まあいいかと思った。
その考えが、セオの投げやりな態度――もしくは気分が、自分にまで伝播してきたようで、少し不愉快だった。
彼はゆっくりと扉を開け、静かに扉の前に立つ人物を見た。
彼女は、微かに会釈をして、声を発した。
「あの…こちらに、いらっしゃると」
困ったように眉尻を下げて、カスミは言った。
なるほどたとえ赤装束でも彼女は忍者だった、とルックは無感動に納得した。彼女にとっては、気配を消すのはごく自然なことなのだろう。
ルックは無言で身体を避けて、だらしなく寝台に横になるセオを示した。
カスミはほっと息をついたが、それからまた、困ったような顔で手にした箱を見た。ルックはつられてその箱を見下ろして、淡い赤の布紐で上品に梱包された外観で、彼女の目的を理解した。
「あれに?」
そう聞いてから、固有名詞を使わなかった自分にルックは嫌気がさした。
親しさを誇示する。おそらく無意識の、相手には伝わらない程度のささやかな悪意だったが、それこそが彼を陰鬱な気分にする。愚かしい、というより、ただ無様に思えた。
自己嫌悪に陥りながら相手を窺ったが、彼女は、何も気づいていないように見えた。
ルックはすこし安心して、それから、自分の記憶を探る。
今日はたしか、そういう風習のある日だった。女性が男性に菓子を贈る日。自分には縁のないものだが、三年前、軍の一部ではやっていたことを覚えている。
カスミはためらったあと、控えめに頷いてルックの言葉を肯定し、また部屋の奥に気をやった。
「…でも、眠ってらっしゃるんですね」
カスミは小さく溜息をつくと、不意に明るい調子でルックに言った。
「あの、食べますか?」
「僕が?」
予想外の誘いに、ルックは瞬いてカスミの瞳を見た。黒い瞳は深くて感情が読みにくい。今寝台に転がる男と同じだと、ルックは心の中で舌打ちした。
とりあえず妙な意味ではないらしいが、理由がわからない。
無言で促すと、小さな箱を見下ろして、カスミは苦く笑った。
「きっと食べてくださらないでしょう」
「…そうとは言い切れない」
いいえ、と小さく言って、カスミは愛おしそうに憎らしそうに箱の表面を撫でる。ルックはいらないことを言ったと、柄にもなく後悔した。
それもこれも全部セオが悪い。
ルックは端的に決めつけて、それはまったくの事実だったので少々胸のすく思いがしたが、それだけだった。
「誰にも食べられないのでは、材料がもったいないですから」
「……」
彼女の言うことはもっともだったが、差し出された箱を見てルックは困惑した。
本当に、どうしろというのだろう。
カスミはすみませんと謝って箱を押しつけると、一礼して去ろうとした。その後ろ姿が泣いているように見えて、ルックは慌てて声を掛けた。
「ちゃんと食べさせるから」
女は無言で振り返って、また一礼すると、今度こそ廊下の先へ歩き去った。
* * *
「で、どうやって食べさせるって?」
「……」
セオは天井を見たままくつくつと喉を鳴らした。
ルックは無表情にそれを見下ろして、やっぱり聞いてたんじゃないかこの悪趣味底辺ろくでなし、と罵った。心の中だけで。
そのろくでなしの前に立ち、リボンを丁寧に解いて箱を開ける。
言葉を伝えるカードは入っておらず、小さな皿の上に、外郭の線がすこし歪なケーキが乗っていた。あの隠れ里にはケーキなどという甘ったるい菓子は存在しないことをルックは知っている。おそらく、わざわざ本でも見ながら作ったのだろう。
セオが首を持ち上げて、ちらりと菓子の上に視線を走らせた。
「甘そうだね」
ルックはそれに答えず、コーティングごと、スポンジと一緒に挟まれた生クリームを指先にむしりとると、セオの唇の前に持っていった。
「…何?」
「食べろよ」
セオはわざとらしくにっこりと笑って、その笑顔のまま、左手を動かしてルックの手首を掴むと、自分の前から移動させる。
抵抗もなくあっさりと動かされた手は、すぐに戻って、またセオの唇の前に静止した。
笑顔のままその指先を見つめて、それから、無表情に見下ろすルックを見上げてセオは言った。
「嫌だよ」
「なぜ」
「甘いものは嫌いだ」
ルックは表情を変えないまま指を動かして相手の口に入れようとしたが、手首を掴まれて断念した。もともと、諦めていたのかもしれない。
セオが呆れたように鼻を鳴らした。
「ルックが食べればいいじゃないか。そう言ってただろ」
「…それじゃ意味がない」
「へえ?」
セオは厭な風に笑っている。
「どんな意味があるって? 僕にそれを食べさせることに」
「……」
「ルック、カスミのことそんなに好きだっけ?」
ルックはそこが限界だった。
「ッあんたよりはな…!」
上擦った声で答えて、今までの無表情をかなぐり捨て、ルックはぎっとセオを睨んだ。
セオはやっぱり厭な風に笑っている。
ルックはクリームがついたままの指で思い切りその頬を抓ると、汚れた頬に顔をしかめたセオに威嚇する猫のような視線を向けてから、立ち上がった。
セオが興味深そうに、ルックの挙動を見守っている。
彼の視線を背中に感じながら、ルックはケーキを窓の外に捨てた。
* * *
「食べなかった」
ルックは簡潔に、目の前に佇む女に告げた。カスミは曖昧に微笑んで、そうですか、と答えた。
それをじっと見つめて、ルックは、
「僕が窓から捨てた」
と言った。
カスミは僅かに目を見開いたあと、また、そうですか、と言った。
ルックは意外そうにそれを見る。
「…殴らないんだ」
「殴って欲しいんですか?」
頬骨が折れますよ、とカスミは楽しそうに笑う。うそ寒い。
そこは兵士の訓練所の一角で、今は隣国からの義勇兵たちがたむろしていた。その中の数人は、珍しい組み合わせにちらちらと視線を送っていたが、ふたりはそれを完全に無視した。
ルックはケーキを捨てたあと、部屋を出て、そのまままっすぐにここへと来た。
理由は自分でもわからなかったが、どうやら、カスミの反応が見たかったらしいと、彼女と相対してから気づいた。悪趣味なのは自分も同じらしい。
ルックはいつもの無表情で笑顔のカスミを見た。
カスミは穏やかに微笑んでいる。その笑顔が少し恐ろしいのは、自分が言い訳できないことをしたという自覚があるからだろうか。それとも、彼女がその裏で怒っているからなのか。
ルックは自分でも答えを知らないことを訊いた。
「どうしてそんなことしたのか、聞かないの」
カスミはふふ、といたずらっぽく笑って、こめかみにかかる少し伸びた前髪を梳いた。
「たぶん、セオ様がいらないと仰ったからでしょう?」
そして腕をおろして、ルックをじっと窺いながら言った。
たぶんそれは図星だったが、ルックは内心の動揺を表面に表さずに答えた。
「…もしかしたら、何も言わずに捨てたのかもしれない」
「いいえ」
そんなことはありえませんとカスミは笑った。
そのあまりにも迷いのない断言に、ルックは細く整った眉を寄せる。
真っ直ぐにカスミの目を見ることが彼には耐えがたく、少し外れてこめかみの脇を通った視線が冬の空に留まった。ほとんど雲と区別が付かないような、薄く広げられた灰色の空だ。雨の前のそれとはまた違う、独特の色だった。見ているだけで寒々しい。
木枯らしに、カスミの黒い髪が揺れた。
「ルックさん。私は…」
それに促されたかのように、ふと彼女は口を開いた。
「とても悔しいんです。憎らしいとか、それくらい言ってもいいくらい…」
「……?」
ルックはすこしだけ右目を細めた。
何を言われているのか、わからないための身構えだった。人との会話は彼の不得意とするところで、特に、こういう型の相手は苦手なのだ。
とは言え、これは、自分の性格が理解の妨げの要因ではないだろう。
セオはたしかに、あまり、というよりまったく、友好的な性格をしていない。浮かべる笑顔は適当に作っているうちに肌になじんだもので、基本的に冷たい人間だ。そして、人との付き合いを好まないということは、人の好意を無視するのと同じことだ。
彼女は、受け止めてもらえないことが悔しいのだろうか。
とりあえず出た結論が当たっているかを見定めるために、ルックは相手の様子を窺う。
「でも、何も知らないよりはよかったんです」
しかし、カスミは晴れやかに笑んだ。
ルックはわけがわからず、はじめて面に表情を浮かべて――きょとんとして女の顔を見た。カスミはそんな子細に構わず、妙に娘らしい、それでいて悟ったような顔で言った。
「あなたのせいじゃありません。だから、あのケーキはもういいんです」
* * *
訓練所を離れたあと、ルックは行くあてもなく、習慣で石版の前に向かった。
こんな寒い日にこの大広間にいるのは苦痛だったが、まだセオがいる部屋に向かうのはもっと御免だった。我がもの顔にふるまっていたが、いつになったら出ていく気だろうか。
泊まるつもりなら、自分がどこか別の場所を探さなければいけない、と思った。とても今は一緒にいたい気分ではない。
石版脇の階段を降り、定位置で足を止めて石版に背を向けると、ルックは耐えきれずにぼそりと呟いた。
「不可解だ…」
「何が?」
思いがけず声が返って、背筋を引きつらせてルックは振り返り、視線を落とした。
「や」
飄々と片手をあげてあいさつしたのは軍主の少年だった。いつもの格好で、膝を抱えるようにして石版の影にうずくまっている。琥珀色の瞳が暗がりで水面のように光っていた。
飛び跳ねるように速度をあげた心音を必死で宥めながら、ルックは八つ当たりじみた怒りを込めて彼を見下ろした。
「何してるんだよ」
「覚悟」
「は?」
訝しむのを通りこして、嘲るような響きになった。
さすがにまずい、とルックは思ったが、ムツは頓着せず、小さく丸まったまま首だけを上に向けて囁くように喋った。
「あのさ、今日はアレでしょ」
「アレ? ああ…」
一瞬戸惑ってから、日付にまつわる風習のことだと思い至る。
彼女は三年前のことから、覚えていたか思い出したかしてそれに乗じたのだと思っていたが、ムツまでが知っているのでは、この城で再び流行が訪れているのだろうか。
疑問を抱きはしたが、それほど興味があるわけでもなかったので、深くは訊かずにルックは相槌を打った。
「それがどうしたって?」
「ほら、ナナミがね」
それで意味は通じた。
ルックは何秒か沈黙してから、そう、と小さくこぼした。
「そうなの。…ところで意外だね、ルックも知ってるんだ?」
そう言われてはじめて、そういった噂に疎い自分が、すぐに思い当たった不自然に気づく。
思わず返答に詰まったのを無視して、ムツはつづけた。
「ぼくはナナミから聞いたんだけどさ、ナナミはね…」
そこで彼は、意味ありげにこちらを見上げる。
「カスミさんたちから聞いたんだって」
「……」
ふつりと、唐突に何かが沸きあがるのを感じて、ルックはムツを睨んだ。
「――見透かしてるみたいな態度、やめろ」
言ってから、相手が怒るのではないかと思った。いくら温厚、というより意図的に鈍感を装う彼でも、我慢の限界はあるはずだ。
しかしムツは子どものような顔で瞬いた。
「…何かあったの、ルック」
見上げてくるふたつの光は、いたいけな瞳に見えなくもなかった。しかしそれより、その奥にひそむ老成を思わせる澱みに、ルックはたじろいだ。自分がまるで子どもに思える。
ささやかな意地をはって、ルックは感情のこもらない声で呟いた。
「…別に、」
「あのさ、気づかい上手になる極意、教えたげる」
ムツはいきなりそう言った。
そして、ルックが何かを言う暇を与えず、にっこりと姉に似た笑みを浮かべてみせた。
「相手の気持ちになって考えてみるんだってさ」
言ったきり、何ごともなかったかのように石版の裏に隠れるムツの背をしばらく見つめてから、ルックは唇を薄く開いて小さく怨嗟の言葉を吐いた。
* * *
噂がかなり広まっているのか、城内のいたるところで甘い匂いがした。
何度か、男女がふたりきりで甘ったるい雰囲気を漂わせているのを見かけた。一般人にまで浸透しているらしい。とすれば、当日まで知らなかったのはやはり、自分らしいと言えるのかもしれない。
与えられた部屋の前で気配を探ると、室内にはもう、誰もいないようだった。
息をついて、ルックは扉を開けた。
部屋の隅の机の上には、まだケーキの箱と皿が置かれたままだった。少し乱れたシーツを一度だけ見てから、さてと思考する素振りもなく、真っ直ぐに窓へと歩いていく。
窓を開けると室内の空気が競うように外へと流れ出し、変わって冷たいそれが吹き込んできた。
頬や額に絡みつく髪を、首を振って打ち払って、ルックは右手に持ったものを見た。
丸い皿の上、茶色がかった黒に覆われた表面が、断面のふっくらと焼き上がったスポンジときれいなコントラストを描いている。飾りはひとひねりの白い生クリームと、熟しきっていない小ぶりの苺だけと簡素だった。
城の施設はどこも女でいっぱいだったから、わざわざ師のところまで帰ってつくってきたのだ。丸く焼けたそれをいくつかの扇形に分けて、一切れ消えていることを隠せるよう気をつけたつもりだが、師が気づいたかはあまり考えたくない。たいしたことではないと、今度帰還したときに追求されないことを願うしかなかった。
皿を両手で持つと、それを顔の高さまで持ち上げた。目を細めてそれを光にかざすと、逆光と合わせて、それは黒い三角の塊にすぎなかった。視線を調節すると、四角にも、歪な五角にも見える。
しばらく意味もなくそうやって遊んでみてから、ルックはむなしく息をついた。そぐわない行動は、これからしようとしていることに、多少の罪悪感があったからだった。
すいと視線を巡らせて人の気配を確認してから、僅かに舌を突き出す。そうしてなめらかな表面に一度だけそれを這わせた。
味蕾を刺激するその味は、苦く甘かった。
これははたして、彼女の労力と見合うことだろうか。ルックは自問する。
彼女に比べて自分はつくり慣れているのだからと、別のものにしようかと考えはしたのだ。しかし、あまり深く考えると、自分で気づきたくない場所へ行き着きそうだったのでやめた。そしてできる限り忠実に再現することにした。
そのときはそれでいいと思った。だが、この瀬戸際になって、そんな小さな懐疑が蘇る。
それを振り切るために、ルックは腕を下ろすと、窓の下を覗き込んだ。白とも黒ともつかない、ぐちゃぐちゃになった塊が、真下の地面に広がっていた。
彼女はあの黒く苦く甘い塊に、三年という長い月日に積もった慕情を詰め込むことができたのだろうか。甘いだけが取り柄の菓子に。
きっと自分には不可能だろうと思った。こんなどろどろした感情を込めて、甘くしてしまおうと言うことがそもそも無理なことなのだ。
ルックは再び、自分の手にあるケーキを見た。
しばらく不本意そうに唇を尖らせたあと、卵白の残骸をひとすくいだけとると、血が滲む傷口を痛めつけるような舌の動きで、それを舐める。
それはやはり、
「…甘い」
呟いて、ルックは皿を傾けた。
小さなケーキは地面に吸い込まれ、ぐしゃりと潰れた。
* * *
閉め切られた部屋の中には、かすかに、他の場所から嗅ぎ取れたものと同じ香があった。
顔をしかめて後ろ手に扉を閉めると、セオは寝台に近づいた。すすきを縒って直ぐにした糸のような髪が、素っ気なく枕に散らばっている。相変わらず寝息は聞こえない。ただ、肩の薄い布地を通してくっきりと浮き出た貧相な輪郭が、静かに上下していた。
数秒ほどそれを見下ろしてから、セオは音を立てずに窓のほうへ向かった。
乱暴に閉められたらしく不自然に重なった木枠を、慎重に開ける。ぎ、と微かな音がした。空気を入れ換える目的ではない。やや控えめに開いた安物の硝子の隙間から乗り出し、地面を見下ろすと、柔らかく潰れた残骸が見えた。
まずはもったいない、と思った。
子どものころからずっと、視力を落としたことがない。双眸ははっきりと、やや盛り上がったその残骸が、新しく追加されたケーキだと見とめた。
先に落ちたそれが、後を追ったそれを誘い、吸い込んで捕まえる。そんな映像が脳裏に浮かび、セオはめまいを覚える。
「蟻が死んだかな…」
口に出してはそう言って、身体を室内に引き入れた。
窓を閉めて寝台を見る。部屋の主はまだ眠っているらしい。気配を隠さず近くに寄ると、嫌がるように鼻を鳴らすくせに、ごろりと転がって仰向けになった。眉間に微かに皺が寄っている。何かまた、不機嫌になるようなことでも考えているのだろうか――夢の中でまで。
そう思うと、おもしろくもあったし、苛立たしくもあった。
手を伸ばして中指の腹でとん、とそこを突くと、さらに不機嫌そうに皮膚が歪む。夢見を悪くしたのだろうか。そうであれば、ただの気まぐれも、意趣返しとしてそれなりの効果があったのかもしれない。それを望んだわけではなかったが。
彼の寝顔を見下ろす位置で、セオは腕を組んで沈思する。
そろそろ実家に帰らなければいけない。家人が気を揉んでいるだろうし、同盟軍の本拠地にそう長い間居座るのは、気が進まなかった。先ほど偶然見かけた軍主は、何があったのか知らないが体調が悪そうに見えたから、しばらく彼には出歩く許可が下りないだろう。とすれば、やはりしばらく自分には出番がなく、肩身の狭いことになる。
他人の視線はあまり気にならないほうだが、面倒は嫌だった。
やれやれと嘆息する。
いったいいつになれば、平行線は傾くのだろうか。こちらが珍しく傾けたと思ったら、あちらまで傾くのでは、意味がない。そう幾度も譲歩できるほど自分は大人ではないのだ。
「ん…」
寝台から小さく呻きが上がった。
ようやっと人の気配を感じとったのか、不快げに鼻を鳴らして覚醒の気配を見せる。その無意識の態度に何となくむっとして、それからふと、曲げた指の関節を下唇に当て、口の端を引いた。
少年の上に覆い被さると、セオは寝台の、彼の身体の向こうに片手をつく。
顔を近づけると、吐息さえふれさせず、その唇を舐めた。
「――…ふ」
何かの痕跡が残っているだろうと思ったそこには何もない。残り香も、仄かな甘みさえ。
舌打ちと苦笑の中間あたりをさまよう微妙な表情で、セオは身体を離した。腹筋でかがめた上体を起こし、肩を竦めて呟く。
「…甘くないな」
その響きを知らないまま、薄い瞼はひらりと持ち上がった。