ちらちらと雪が舞いおりている。
空中を漂う白をぼんやりと眺めながら、ルックはかじかんだ指先を曇天の下に突きだし、それをすくった。何の感覚も残さないまま、雪は掌の上で溶けて小さな水たまりをつくった。
冷たいという感覚すら麻痺して、もう耳や指先が固いとしかわからない。
肩に積もった雪を払い落とすと、ルックはそっと溜息をつく。白い息が大気に溶けた。
森の中のひらけた丘に立つ樵小屋の、あるかないかの僅かな軒先、つまり今ルックがしゃがみ込んでいるところには何本もの氷柱ができている。
落ちてきたら死ぬだろうか、と馬鹿馬鹿しいことを考えて、また溜息をついた。
背後にある閉ざされた扉に、開く気配はない。締めだしをくらってからそろそろ二時間が経つが、その間、屋内にいるはずの人物が動く気配はなかった。
扉を振りかえることはしない。それが開かないことを知っているから、もう振りかえることもやめてしまった。
* * *
今日は、いつもどおりの日だったはずだ。
少なくともルックにとってはそうだった。彼が死んでいないか確かめに――多少言い訳は混じっているにしても――会いに来て、また帰る。そうなるはずだったのに。
転移して最初に見えたのは彼の背中だった。
いつもと同じ、誰も近寄らせない、すべてを拒絶するものだった。だからルックは本当なら、姿だけ見て無事を確認すれば帰ってもよかったのだ。
だが、そこは一面真っ白な平原だった。踵まで埋まるほどの積雪と、舞いつづける雪片が視界を白く染めていた。
「何してる…!」
思わず怒鳴ってしまって、それから硬直するルックを一瞥しただけで、すぐに彼は視線を空に戻した。
彼は雪を見ていた。白の中で顔を空に向けて、何かを睨んでいた。
それが、暖かな屋内から、窓の外に降る雪を見ていたのなら問題はない。案外ロマンチストだと鼻で笑ってやるだろう。しかし雪を避けるものもない大地の上でただ突ったっているなんて、信じられない愚行だった。
「っの、馬鹿!」
声を荒げて罵倒されても、彼は反応を示さずに空を見上げていた。ルックはその手首を掴んで、あまりの冷たさにぞっとした。まるで死人だ。
呼び声に応えて、身を切るような冷たさを携えて風が吹く。
雪を巻きあげてそこ去った次の瞬間には、目の前に薄汚い小屋があった。冬の間は閉ざされている、樵小屋のようだった。錆びた小さな蝶番に手をふれると厭な音がした。木の擦れる不快な音だ。よく見ると壁のところどころが腐り落ちている。もう使用できないと見て捨てられたのか。
据えた匂いに眉を寄せて、それでも雪を凌げないよりましかと扉を開く。
「セオ! 早く入れよ」
ぼうっと突っあっているセオを振り返って、ルックは声を荒げた。
* * *
「…寒い」
服の隙間から忍びこんできた風に、ルックは嘆息した。
空は相変わらず灰色のまま無情に彼を見下ろしていた。
あれから適当な材木で火を焚いて、ただひたすら動かない彼の肩や頭から雪を払い落として、そこまで世話を焼いてから、いきなり追いだされた。突然のことに声も出ないルックが見つめる前で、扉は音を立てて閉ざされた。
はじめでこそ扉を睨みつけて、その扉が開けられることを待っていられたが、三十分も経てば、もうそこへは入ることができないことをルックは悟った。
それから、帰ってしまえばいいものを、なぜだかこうして雪を眺めている。
ぼとりと音がして、屋根の上に積もった雪がルックの目の前に滑り落ちた。直撃はしなかったものの頭や足下に雪が飛んで、苛立たしげに首をふる。
唇を噛んで、彼を見つけたときのことを考えた。
あのままでいたら、彼はしんしんと降る雪の中に埋もれて死んでいただろう。白い大地から黒い闇が生まれて、元の宿主を喰らう様を想像して、ルックは寒さのせいだけでなく身震いした。気分が悪い。
ああでも、と、ふとルックは思う。
彼はもしかしたら死ぬつもりだったのかもしれない。自傷癖はあるし、自殺願望は旺盛だし、よく今まで生きていたものだと思う。彼が死ななかったのは、単に真の紋章を持っているからであり、自分の大事な人間が守った命を自ら絶ってはいけないと考えるからだった。そうでもなければとっくに死んでいるだろう。
あの時彼は、緩慢な死を待っていたのかもしれない。
自ら死ぬのでなければ、彼の中では能動的に死を迎えることは正当化できるらしい。たいして変わらないと思うが、彼の基準は独特で、ルックには読めない。そもそも一度だって、彼の考えることがわかったためしがないのだ。
それでもまったくわからないよりは、間違っているとしてもなんらかの結論に辿り着かないと無性にいたたまれなくて、ルックははっきりとしない頭で思考を巡らせた。
死に損ねたから怒ったのだろうか?
少しだけ考えてみたが、やはりわからない。ルックはまた嘆息して、空を見上げた。熱いものが目の奥へと落ちていく。
ふと思った。
泣きたくなかったからだろうか?
だから空を睨んでいたのか。
見つめる先で、雪は、一向に降り止まない。
* * *
地面にうっすらと降り積もった雪は、どんどんその嵩を増やしていた。時折屋根の上の積雪が落ちてきては、ルックを雪まみれにする。
その度にそれを払いながら、がちがちと鳴る歯の音が次第になくなっていくのをルックは感じた。寒さにも慣れることはできるのだと思ったが、しかしそう考えた途端、冷たい風が吹き込んできて、彼は小さくくしゃみをした。くしゃみというよりは、身体を震わせただけだった。声を出す体力さえもう残っていない。
――…寒い…冷たい。寒い…
ずっと繰りかえしその単語を考えて、花占いのようだと思った。ただしどちらも「嫌い」に該当する言葉である辺りが救われなかった。自分がするにはふさわしすぎていて。
外に放りだされて、もうどれくらいの時間が過ぎようとしているのかわからない。ただ、すべての感覚が未だに機能しているのが不思議なくらいだった。
軒下に風が吹きこんでくる。
ルックは風の紋章を持ってはいるが、風を操るわけではない。自然とは操るものではないのだから。風は気紛れに紋章の宿主に雪を運んできて、髪や睫に振りちらせる。綺麗だが、冷たい。
指先に息を吹きかけながら、ルックは凍りそうだ、と思った。むしろ凍えそうだったのは、心のほうだったかもしれない。
いっそこのままここで死んで当てつけてやろうか、と思う。それは今まで何度も繰り返し考えたことだったが、まだ実行はしていない。もし死んでも、彼が自分を喰わないことを証明されるのが厭だった。
襟元から雪が一片肌にふれて、身を竦ませてルックは膝を抱えた。その碧の瞳に、白い雪が映る。
雪にふれた。当然のことだが、冷たくて、指先が更に凍りそうだった。南には雪は降らないから、本当に久しぶりの感覚だ。
昔、まだレックナートにも出会っていなかった頃の遠い記憶が蘇った。北の国では雪は珍しいものではなかった。神殿の人間の特権で、屋内は暖炉に火が入れられて春のように暖かかったけれども、一歩でも外に出れば凍り付いた灰色の空が広がっていた。
大人たちは滅多に外へは出なかったが、その目を盗んでは、こっそりと雪遊びをした。
自分と、もう一人…
そこまで考えて、重くルックは首を振った。その先は禁忌だった。
それでも、どうしようもなく昔の記憶が呼び起こされる。
雪うさぎを作って遊んだ、まだ何も知らなかった頃の記憶だ。
白い雪を掌に掬う。冷たかった。
もうあのころのように無邪気には遊べない。
知っていて、それでも、ルックは雪を固めて雪うさぎを作った。
酷使された指が動かなくなったころ、二匹の小さな雪うさぎができた。
常緑の葉も南天の紅い実もないので、うさぎたちには目も耳もなかった。
ただの雪の塊だ。
何も知りたくないと、すべてを拒絶する二匹のうさぎ。
ルックは並べたそれをしばらくじっと見つめていたが、何となく泣きたい気分になったので仕方なくまず、一方のうさぎを潰した。
さくりと小さな音がして、うさぎは死んだ。
――何も殺すことなかったんじゃないか?
奇妙な自問をして、ルックは首を傾げる。
――悔しかった?
二匹、ちゃんとそろっているから、
仲が良さそうに寄り添っているから、羨ましかったのかもしれない、
そう思った。
うさぎはたちまち、周囲の雪に同化して消えた。
ルックはもう一方のうさぎを見たが、一匹でいるのを見て、それでも平気そうなので、余計に虚しくなって、そちらも潰すことにした。
冷たい。
うさぎを割って、ばらばらに砕けたうさぎを、必要もないのに念入りに雪に埋めた。何だか丑の刻参りのようだと思った。誰にも見られていないから、この呪いは成功するだろう。
成功したら死ぬのだろうか。
どうやら寒さで頭までおかしくなったらしい。
盛り上がったそこを叩いて慣らしながら、視界が霞むのを感じていた。
なんだか眠くなってきた。
せめて、暖かい場所で眠りたい。
そう思って、苦笑した。傍目には多分口元が引きつっただけなのだろうけれど。
――ほんと う は
一緒にいられたら暖かいのに
それはきっと、自分には分不相応な望みというものなのだろう。
最後にそう考えて、ルックは白い世界に沈んだ。
* * *
ぱち、と薪の爆ぜる音がしたのを、意識のどこか遠い場所で聞いた。
頭が重い。喉が痛くて呼吸が苦しい。
寒さは去っていなかったが、死を呼び込むようなものでもなくなっていた。
全身が酷く熱く、特に頭には熱が凝ったような感覚があった。掠れたような不快な呼吸音が自分の喉から漏れているものだと知って、ルックは無意識に口を動かす。
「……みず」
水を飲まないと死んでしまう。
掠れた声が漏れた。
乾いた口腔が気持ち悪かった。僅かに口内にある唾液を嚥下しても、中途半端に湿された喉は逆に痛みを訴える。
咳をしようとしたが、そんな力は残っていないらしく、腹に力を込めただけで全身の力が抜けていくように思われた。ひゅ、と音を立てて、喉から空気が抜けていく。
――熱が出てるのか。
はっきりしない頭でそう考えた。思考することすら億劫だ。
――…ちゃんと寝ないと…
熱には慣れている。寝台に横になって何日か寝ていれば、師のための雑務をこなせる程度には回復するだろう。
無意識のうちに辺りを探って、毛布を引き寄せようとする。しかし、その手に粗い布の感触が触れた。外套に使うような厚手の布の感触だ。
ルックはぼんやりと、それに触れたまま目を開けた。
視界に映ったのは見慣れた石の天井ではなく、赤々と燃える火だった。
「ルック?」
至近距離から名を呼ばれて、ルックは振り返ろうとした。
だが、首を動かすことも難しく、仕方なく身体ごと振り返ろうとしてやっと、自分が外套に包まれて、それごと誰かに後ろから抱きかかえられていることに気づいた。
首筋に預けている頭を起こそうとして、果たせずに瞬く。体が重くて、何もできなかった。
「――…」
誰何しようとして喉を動かしたが、やはり声は出なかった。
火の前にいてでさえ、吐く息が白い。異常に寒いのは熱のせいだと思っていたが、これは多分本当に周りの温度が低いのだろう。
ルックはゆっくりとそう考え、紅い炎から目を逸らした。
腐った木の壁が見えた。
「ルック」
「……」
耳元に響く声が煩わしい。
でも暖かい。
人に触れるのは嫌いだが、その体温は心地よいと思う。
とりとめのない思考が巡る。
「…ルック?寝た?」
「、……おきて、る」
人に触れるのは、嫌いだった。
「寝る?」
短く問われて、微かに首を縦に振る。
酷い頭痛と、熱と重力が身体に負担を掛けている。頭ががんがんと鳴っている。頭蓋を振り回されて遠心力がかかっているような重さだ。
一際強い波が押し寄せてきて、目を閉じて小さく呻くと、冷えた耳朶の辺りに体温が触れた。それはすぐに離れていってしまって、追いかけるように首を伸ばす。少しの温もりでも惜しかった。その仕草を見て取って、体温が戻ってくる。
全身を誰かに預けて、目を閉じた。紙一重の安心感が支配する。
人に触れるのは嫌いだ。
布の隙間から侵入してくる空気が恐ろしく冷たい。重い足を引きずって腰に寄せ、身体を縮める。少しだけ落ち着いた意識が、纏った衣服が濡れていることを告げる。
道理で気持ちが悪いわけだった。さっさと脱いでしまわないと、余計に熱が悪化する。
身じろいで、腕を動かすと、誰かが咎めるようにその手をとった。
「……服…脱ぐ…」
だから離せ、と言外に告げる。しかし、誰かはただ強くルックを抱きしめただけだった。
「…痛い…」
苦しくて息ができない。意識が遠のいていく。
目が覚めたら死んでいるかもしれないと思った。
口を大きく開けて息をしようとすると、凍り付いた酸素が喉に触れて、その冷たさに涙が出そうだった。
と、唇に何かが触れた。固いそれはどうやら水筒の口らしかった。
雪を溶かしたらしい水がゆっくりと喉に流し込まれる。冷たさで脳天が痛い。それでも喉が潤う感覚は心地よかった。
首を振って、もういいと言外に告げる。水筒は除かれ、ルックは息をついた。
さっきから遠くに聞こえていた警鐘が、ふいに近くで鳴り響いた。
――人に触れるのは嫌いだ。
どうして。
他人事のように心の中で呟く。
答えは知っている。
確認するために問う。
――人に触れるのは嫌いだ。
――どうして…
……拒絶されるから
「ッ!!」
がば、と身体を起こそうとして、強い力で引き留められる。
そうされなくても、指一本満足に動かせなかったが。
急激に動いた代償は、直接頭に来た。頭蓋の中を掻き回されるような感覚が襲い、ルックは呻くことすらできずに目を見張った。
「人がせっかく看病してあげてるのに、随分な態度だね」
やや低い声が耳朶に触れる。
その感覚が常より遠く、こんな時なのにルックはそれを惜しいと思った。
「…原因は、あんただろ」
情けないくらいに掠れた声で、ルックは言い返したが、たいして抗議にもなっていなかった。
声質が濁っている。喉にかかる不快。
セオは手袋をつけたままの右手の人差し指で、ゆっくりとルックの喉を撫でる。微妙に異なる熱が背筋を這い上った。
「何でいるんだ…」
「それはこっちの台詞だ」
セオは特に気にした様子もなく、ただ何かを放り投げるように気安く言った。
ルックは一瞬何を言われたのかわからず、それはおそらくは熱のせいだったが、いつもなら言わないで堪えることを口に出してしまった。
「いたら駄目だった?」
言ってから、ルックは己の愚かさに、とてつもない疲労を覚えた。
何を今更言っているのだろうか、自分は。
答えのわかっている問いを投げかけることを愚かしいとは言えない。しかし、傷つくことを知っていて答えを求めるなど、被虐趣味者でもあるまいし、今までずっとしなかったのに。
こんなことを言ってしまったのは熱のせいだと、ルックは無理にそう考えた。
熱が出ているから、だから、だから…
甘えたかったのかもしれない。
優しい言葉を掛けられるなんて浅はかな期待をしてしまったのだ。
「別に駄目とは言わないよ。そんなことは君の自由だから」
案の定、期待には添わないが予測には違わない言葉が返り、ルックは深く息を吐いた。
伏せた睫が視界を煙らせて、瞼が落ちかけていることに気づく。
ルックは腕を背後に回して突っ張ると、セオから離れようとした。
あっさりと放された身体に言い様のない虚脱感を覚えながら、外套の恩恵から這いずりだして襟元に手を掛ける。
寒さと重い頭に指先は震えて、釦が巧く外せなかった。
「外してあげようか」
深く俯いている項に声が掛けられた。
ルックはその彼らしくない言葉に少し驚いたが、黙って首を微かに振った。
濡れた生地を引くと、ぷち、と音がして、留め具が外れた。金属でできているそれは雪に濡れて僅かに錆びていた。
そうして複雑な法衣を脱いで、白い長袖だけになってから、ルックは自分が着替えを持っていないことを思い出した。彼がそれに気づくと同時に、セオがおそらくはあの曖昧な笑みを浮かべたまま尋ねる。
「こんな寒い中に裸でいるつもりか?」
「……」
言われるまでもない。そんなことは、雪の中で空を見上げるのと同じ程度には自殺行為だ。
ルックは重い頭を何とか稼働して、どうするかと考える。
さっさと転移で師の元に帰って、暖かくして寝ていればいい。慣れているから、熱はすぐに引くだろう。師も、風邪を悪化させてまで弟子をこき使うことはないだろう。
わかっているのだ、そんなことは。
ルックは唇を噛んだが、寒さで痛覚は麻痺していて、痛みすらわからなかった。
「…あんたは、…」
どうしてあんな雪の中で空を見ていた。
どうして死のうとした。
どうして僕を追い出した。
どうして入れてくれなかった。
浮かんできたいくつもの疑問の、そのどれかを訊こうとして、どれもが恨み言になることに気づきルックは口を噤む。
セオは何も言わず、身動き一つしなかった。
それを背中で感じて、ルックは嘆息したいのを堪えた。
「…いつまでここにいるつもり」
「雪が止むまで」
中途半端に切った言葉の代わりに付け添えた問いに、セオは不自然なほど即座に答えた。
ルックは雪を見るために窓を探したが、小屋にはどうしてか窓がなかった。それを幸いに、窓を探す振りをしながら、言い訳を考える。
そしてそれを考えることに虚しくなって、結局溜息をついた。
「ルック」
名を呼ばれて、思考の海に沈んでいたルックは間をおいて振り返った。その上からばさりと大きな布が投げられて、頭に被さった。重みに耐えられず両腕を床につく。
「何…」
「服」
慌てて濡れないようにそれを自分から離すと、ルックはセオを見た。
セオはルックを見ておらず、暖炉というにはお粗末な石窒に踊る炎をぼんやりと眺めていた。
自分の身体には少々大きな上着を握りしめたまま、ルックは困惑した。
これを着てもいいということか。
それはつまり、ここにいても構わないということなのだろうか。
普段の状態ならば考えつかない結論に至って、習慣で自嘲的に首を振って、頭蓋が割れるような痛みに小さく呻く。莫迦なことをと思ったが、そこが限界で、これ以上何かを考えたら自分の身体が冗談では済まないだろうので、ルックは大人しく服を着替えた。
濡れた服を火の側にかざすため立ち上がろうとして、不意に腕を取られ、振り返る前に後ろに倒れ込む。急な重力の移動に耐えきれず、喉の奥で小さく悲鳴をあげる。
そうして、法衣が奪い取られ、それが火の中に投げ入れられるのを、セオに抱きかかえられたままにルックは呆然と見た。
* * *
薄い壁一枚の向こう側からは時折、風の吹きすさぶ音が聞こえ、そのためだけではないが深い眠りにつけず、ルックは目を閉じてはまた開くという意味のない仕草を繰りかえした。
薄い布地の裾からは相変わらず冷たい風が入りこみ、思わず身を竦めるたびに背中に回された腕の力が強くなるのに、どうしていいのかわからず何も言わずにいる。右頬を押しつけた首筋が上がった体温よりも少し冷たく、それが心地よく、擦りよりたい衝動を抑えてルックはまた目を閉じた。
瞼の裏には金色がかった暗闇が映っていた。
その奥に何かを見つけようとして、目を閉じたまま目を凝らして、苦しくなって止める。しかし何かをしていないと、どうしても右頬の温もりを意識してしまい、ルックは仕方なく羊を数えた。
「ルック」
「…何」
一匹目を数え終わると同時に呼びかけられ、反応が遅れる。見上げると、セオは炎を眺めたまま、ぼんやりと言った。
「どうして訊かない?」
「……」
何を、とは言わず、ルックは僅かに高い位置にある横顔を凝視した。
セオはゆっくりと口を開く。
「どうして君を追いだしたと思う」
「……」
邪魔だったからだろ、と答えようかと思ったが、止めておいた。
「……酸素がもったいなかったから」
「違う」
呟いた適当な答えに適当な否定を返されて溜息をつく。
「あのままいたら風邪を引くかなと思ったんだ」
ルックは熱に潤んだ瞳を細めて、セオを見上げた。セオは、予測していたことではあったがやはり、いつものように微笑んでいた。
「……多分、その前に死んでたと思うんだけど」
「ああ、まあ、それでもよかったかも」
笑顔で言う相手に、もう特技と言っても差しつかえないほどの忍耐力で、ルックは涙を堪えた。唇を噛んで、潤んだ瞳から拍子で涙が零れないようにゆっくりと瞼を下ろす。呼吸は不自然に乱れていたが、寒さと熱のせいだとごまかすことにした。
「あれでルックが死んだら僕のせいになるかなと思って」
「……」
セオが何を言いたいのか、ルックにはわからなかった。だから黙ったままでいた。遠くに雪の降る音が聞こえた。
そうしているうちに眠くなって、寝てはいけないと思いながら、白く埋めつくされていく瞼の裏を認識した。頭の中でまで雪が降っていると思った。
「あんたは…」
まどろみの中で尋ねる。
「死にたいの? 殺したいの?」
それが最後で、熱にうなされた戯言でこの気まぐれの温もりをなくすのは絶対に厭だったのに、言ってしまったと、心の中で呟いた。
瞼の裏には一面の銀世界が広がる。
「どちらもだよ」
だからその言葉は、幻聴だったのかもしれない。
* * *
瞼を上げると目前には見慣れた紅い布があった。
起きて最初に目にしたものがそれであることに、戸惑いと驚愕とそれ以外の何かを感じながら、ルックは身じろぐ。それにも目をさまさず、セオはルックを抱きかかえたまま、深く眠っているようだった。
起こすのに忍びなく、ルックは鼓動さえ止めるような心地で、慎重に辺りを見回した。途端に頭が抗議するように音高く唸り、熱は大分引いたと思ったがこれではどうやらますます上がったのだな、と思う。
そして勢いを弱めた炎を見て、その炭化した木材の中に自分が着ていた布の端を見とめて、ルックはどうやって帰ろうかとぼんやりと考えた。
服は借りたのであって与えられたのではないから、帰ろうと思うなら、考えたくはないが裸で帰還しなければいけない。しかしこの熱では、転移したところで、どこに出るのか検討もつかない。
考えても無駄なことを悟って、ルックは眠るセオの首筋に頬を寄せた。ずっとこのままでいられるなら死んでもいいと、一瞬だけ思った。それはほんの一瞬だけだったが。
なぜなら彼は、帰らなくてはいけないのだ。
どうしてセオは僕の服を燃やしたんだろう。ふと思ったが、何だかどうでもいい気がして、ルックは再び目を閉じた。しかし、耳を澄ますと雪の音は消えていて、ルックはもう雪宿りをする必要のないことを知ったのだった。