止 ま な い 雨

 次の集落まで、少なくともあと五時間はかかる。
 それを、軍に所属していた時代に知り合った少年から贈られた地図を見て確認して、イオは絶望に呻いた。軟弱な男だ。
 今夜も野宿は必至だろう。イオは誰に憚ることなく舌打ちをし、地図を丸めた。
 外套を翻すと、彼は足の動きを速めた。棍にくくりつけた荷物が振動にしたがって揺れる。
 辺りには濃密な夜の気配が漂い、足下さえ危ういが、そんなものはイオには関係ない。彼の目は闇の中のものも見通す。何年も前からのことだ。彼は闇を従えたのだから。
 私はその彼以上に夜目が利くが、これは年期が違うのだから当然のことだ。
 イオがぐるりと首を巡らせた。おそらく、寝床になりそうな場所を探しているのだろう。獣道に近い山奥にそんなものを求めるのはどうかしている、と私は思う。
 しかし一体運命の女神とやらにでも愛されているのか(こんなことを言えばイオはある女性を思い起こして不愉快になるだろうが)、彼の視界には、休むのによさそうな平らな地面と、それに添えられたかのように背もたれにするのに都合の良い木の幹が飛び込んだ。まるで旅人が休むためにあるような窪地だ。
「都合が良すぎるだろうそれは」
 私は思わずそう言いたくなった。私の前の相棒は、私にいちいち呪いの言葉を浴びせながら寝床を探していたものだったが。しかし当然ながら私は雨をどうすることもできないので、あれは見当違いだった。
 と、ぽつり、と、私が纏う革切れに水が落ちた。
 イオがまた舌打ちして、咄嗟に木の下に飛び込む。
 それとほとんど同時に、天からの恵みが物凄い勢いで降り注いできた。雨が大地に激突する音が聞こえるような激しさだ。地面もたまったものではないだろう。
「これは酷い」
 私はそう零した。イオは顔をしかめる。重なり合った枝葉の間から容赦なく水滴が零れ落ちてきて、木々は、雨を防ぐ何の役にも立っていなかった。
「…しばらく止まないな」
 イオはそう言って、水気を避ける努力を放棄すると、多少防水の効いている外套を脱いで荷物に巻き付けた。小さな滝のように水が流れている幹を避けるように立つ。私もそれに習う。
 イオの纏った紅い胴着が、水分を含んでみるみる黒く染まっていく。
「――あー…ツイてない」
 彼はずぶ濡れになった黒髪を掻き上げて、目をしばたかせた。意外に長い睫から水滴が滴る。
 ここでイオが俗に言う「水も滴るいい男」というやつであれば冗談の一つでもとばせたのだが、あいにく彼の目つきは、そう呼ばうには少々険がありすぎた。
 しかし随分と唐突に降り出したものである。通り雨だろうと思っていたが、勢いは強くなるばかりだ。この分ではイオは確実に風邪を引くだろう。
 彼が野垂れ死ぬ前に止むことを祈る。

 しばらくすると、案の定雨の勢いは弱まりだした。
 それが私の祈りの成果か否かは知らないが。
 イオは息をついた。助かった、とか思っているのだろうが、喜ぶ前に私に感謝を捧げるのが筋というものではなかろうか。まあ、どうでもいいが。
 静かになっていく周囲の中で私は考える。
 雨の日は少し特別だ。
 雨の日は、前の相棒のことを思い出すようにしている。
 私としても特定のものと300年も共にいたのは久しい経験だったので、彼のことは自分が思うよりもよく覚えている。とはいえ、他の物に比べて覚えている、という意味ではない。私に忘れていることなどない。ただ、彼のことを思い出す頻度が高いということだ。
 彼が死んだのは雨の日だった。
 彼の魂は私が喰い、彼の身体は塵になって地面に溶け込んだのだ。
 私の腹の中――というのはもちろん抽象的な表現であり、私には腹などないが、そこに眠る彼とは、未来永劫会うことはないだろう。世界が変わらない限り邂逅は有り得ない。
 と、私を覆い隠す手袋が取られ、剥き出しになった私の上に雨が降り注いだ。
 イオが右手の甲を天に向けて、雨の下に突き出しているのだった。
 私を伝い流れていく雨は、さながら涙のようであった。
 イオはそのまま、自らも雨の中に踏み出した。
 天を見上げる、その表情は私には見えない。しかし、イオが泣いていることに私は気づいた。イオも私と同じように、彼の親友のことを思い出しているのだろうか。
 私は先刻までの祈りを撤回し、彼のために、雨がもう少しの間止まないことを願った。だからこの雨は、しばらく止まないだろう。