耳 鳴 り か、体 温 か

 彼の来訪は、実にわかりやすい。

 風は鬱陶しいほどに全ての音を捕らえ、いらないと拒絶するのに無理矢理押しつけてくる。笑い声、慟哭、秘密の告白も、嬌声でさえ。それらはおしなべて、ルックにとって雑音でしかない。
 それなのに風はわざわざ選んで人間の声を届けてくる。鬱陶しいと怒れば、余計に嬉しそうに音を運んでくる。理不尽な行動だ。
 どうやら、まだ幼い自分たちの宿主が、人間と関わるのが嬉しくてたまらないらしい。彼らは、四つ足の動物や物言わぬ植物よりも、自分たちの司る概念、つまり情報を必要とし、重宝する人間たちが大のお気に入りだった。
 そうして選んで寄生したばかりの少年に構われるのも、嬉しくてたまらないらしかった。憤って怒鳴っても、耳を持たない彼らには何の効果もない。
 ルックはそうして今日も、石板の前に佇んで、常のように苛々と杖の先を床に押しつけていた。音を立てるようなことはしない。ただでさえ喧しいのに、これ以上脳に負担を掛けるのは御免だった。それをするのは、少しでも気が紛れるからだ。
 昼日中だというのに、寝台が軋む音と入り交じって濡れた喘ぎが運ばれてきた。まったく人間とはセックスのことしか考えていないのか。自らも人間の範疇なのに、そう考える。
 と、ふと音が消えた。
 空白になる空間。そこでは音が消失する。
 ルックは、床についた杖の先端にかかった影から顔を上げた。
「やあ」
 不透明な微笑みを浮かべた、幾分年長の少年が彼を見下ろしていた。天魁星の少年。
 彼は静寂を運んでくる。
 それが何故かは知らないが、風は彼がルックの側に来ると、動きを止めた。
 彼の右手の手袋の下を恐れているのかもしれなかったが、自分たちに直接害が与えられるはずもないのに怯えるわけもない。まだ経験の浅いルックには、風はどうしようもなくつかみ所のない存在だった。
「…こんにちは、マクドール」
 マクドールは眉を顰める。
「その名前で呼ぶのはやめてくれ」
「だってマクドールだろ」
「そうだけど」
「ならいいじゃないか」
 澄ました顔で言うルックにマクドールは苦笑し、音を立てずに歩むとルックの傍らに立った。黒豹のようなしなやかな動きだ。
 ルックはぼんやりとその足の優雅な運びを見て、こいつは結局こういうところが坊ちゃんだ、と思った。
 マクドールは腕を組んで、少し背の低い少年を見下ろす。
「次の作戦で、風の魔法を使って貰いたいんだけど」
 単刀直入に切り出されて、その話かと息をつく。
「不都合はないよ。指示通りに動くけど、それ以外に何か?」
 自然と声が刺々しくなった。
 朝の会議で、将格の者には全員に作戦内容が説明されている。もちろんその席にはマクドールもルックもいた。だから、わざわざ確認することはないのだ。
 自分が唯一彼よりも年下だから、優越感に浸りに来たのだと思えた。冗談ではない。
 ルックが叩きつけるように言うと、マクドールは返答に窮したように見えた。
「うん、…まあ、一応確認をしておこうかと」
「…もしかして全員にするつもり?」
「そう、ルックが最初の一人」
「そんなことしなくてもいいじゃないか。君は、今は寝た方が周りが安心するだろ」
 どうも最近この少年は顔色が悪い。細くてもしなやかだったはずの手足に、最近やつれた感をルックは抱く。同時に風が城内の声を運んでくる。彼の周囲は今、いかにして軍主を休ませるかを、わざわざ寄り集まって相談しているのだ。
 別にルックが彼を心配しているわけではない。ただ、戦は一人でするものではない。総大将が睡眠不足などで倒れて戦に負けては、不甲斐ない。それにルックにとって初めての天魁星なのだ、死なれては寝覚めも悪いし、第一自分の経歴に傷が付くのは嫌だ。
 どこまでも自分本位に考えて、というよりは自分を納得させる理由を作り上げて、ちらりとマクドールを見上げると、少年は苦笑していた。
「眠れないから仕方ない」
「情けない」
 あっさりと言えば、彼は珍しくその年頃の少年らしいむっとしたような顔で見下ろしてきた。もっともそれはすぐに苦笑に変わったが。
 こんな顔をいつでもできるなら、彼はもっと眠ることができるだろうに。ルックはそう思う。
「ずけずけとものを言う」
「正直者と言ってくれないか」
「どちらかというとひねくれ者という認識をしているかな」
「……」
 ルックは部屋の右手にある窓の外を、少年の向こうに見た。晴れている。
 小さな焦げ茶の鳥がいっぱいに羽根を伸ばして横切って、それがとても気持ちよさそうに見えた。
「こんなにいい天気なのに」
 一緒になって外を見ていたマクドールが、小さく呟いた。
「昼寝がしたい」
「すれば」
「眠れないからできない」
 ふっと息を吐いて、彼は笑った。
 薄い青が窓の外には広がっていて、緑はいかにも涼やかで、そこを渡る風は上機嫌で枝を揺らしている。白い雲が形を変えながらゆったりと流れていく。
 静寂は心地よい。
「魔法をかけてあげようか」
 ルックはその心地よさにつられて、ついそう零した。特別な意図はなかった。ただ、静けさを運んできた彼に少しくらいは礼をしてもいいかと思っただけだ。
 しかし、マクドールは大仰に目を見張って、それからルックをまじまじと見つめる。
「何?」
 そのぶしつけな視線に、さっきまでの気分を忘れてルックは苛立つ。
「…魔法って、どんな」
「…眠りの風だけど」
 ああそうかびっくりした、と彼は言った。あの呆気にとられた顔は演技には見えなかったから、本当に驚いたのだろう。
 ルックは不可解に眉を寄せた。
「なんでそんなに驚くんだ。僕が他人のために何かをするのがそんなに珍しい?」
「いや、そうじゃなくて」
「別に言い訳なんてしなくていいけど。よく言われるし」
 淡々と言うと、マクドールは慌てて手袋をはめた右手を振った。
「いや、さっき…」
「さっき、何」
 不機嫌そうな口調で問いつめると、彼は迷ったように眉尻を下げ、それから諦めたように肩を竦めた。
「魔法をかけようかって言うから…もっと他のことを期待したんだよ」
「……」
 ルックは黙った。
「願い事を叶えて貰えるのかと思った」
 清涼な風が吹き込んできて、額にかかった髪を揺らす。整った白い額が露わになる。けれど黒い瞳の奥には何も見えない。ただ口元だけが寂しそうな笑みを浮かべていた。
 その笑みは過ぎるほどに大人びていて、無性にルックの癪に障った。
 だから、わざと焦点をずらして返した。
「君の願い事が叶えられるくらいなら僕の願いを叶えるに決まってるだろ」
「ああ」
 マクドールは何故か嬉しそうに微笑んで、微かに頭を振った。
「そうだ」
 少しでも期待をしたことが愚かしいとでも言うように、少年は言う。
 期待をするのは愚かしいことではないというのに。
「ルックの近くにいると…」
 マクドールは微笑む。
「風が気持ちいい」
「……」
「よく眠れそうな気がする」
「……」
 だからどうしたいのか、マクドールは言わない。
 仕方なくルックが言う。
「…寝れば?」
 その言葉に、彼がどんな表情をしたのかはルックにはわからなかった。
 唇は相変わらず湾曲して、その目元を、今度はさっきとは逆に前髪が覆い隠した。
「眠れない」
「眠れるんだろ」
「無理だ」
「無理じゃない」
「眠りたくない」
「どうして」
 楽しくもない押し問答だ。
 マクドールは泣きそうに、目元だけを歪ませた。
「夢を見ない」

* * *

 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。マクドールは考える。
 薄暗い室内を、短くなった蝋燭が懸命に照らし出していた。軍主に与えられた部屋は、ものが置かれていないせいで広い空間がかえって寒々しい。
 寝台の頭に背を預けて、マクドールは思考を巡らせる。論題は感情。よって結論は出るはずもない。
「どうしてだろうな、テッド」
 答えが返るはずもない問いを、今は右手の中にいる親友に呟く。
 広い空間に声が反響した。一人だった。
 わけもなく叫びたくなる。真夜中に軍主の少年の叫び声が聞こえれば、きっと気が狂ったと思われるだろう。マクドールはそう思って口元を歪めた。
 ふ、と光が消えた。室内は闇に包まれた。
 蝋燭がすべて、溶けて消えたのだった。

* * *

 時計の音が聞こえ始める。
 ルックは目を覚まして、癖で目を擦ると、ぱちぱちと瞬いた。衣擦れの音、囁き声、鎚の音。だんだんと大きくなっていく音が鼓膜を揺らした。
 一応主を気遣っているのか、寝ようとすれば無音の時間が訪れる。しかし、日が昇ればまた耳鳴りだ。まったく無益な部分に風は器用さを発揮していた。
「煩い」
 効果がないと知っていて呟く。風はやはり楽しそうに笑うだけだ。
「うるさい…」
 繰り返しても何の意味もない。
 女の金切り声と、男の慌てた声が交錯してルックの耳に届けられる。寝言で別の女の名前でも呼んだのか。こんなものを聞かせていったい何が楽しいのだ。
 寝台を降りると冷たい床が裸足の足裏を冷やした。絶え間ない耳鳴りに頭を振って、ブーツの紐を結び、法衣を着込んで、顔を洗おうと扉を開けた。
「おはよう」
 音がさあっと引く。
 ルックは静寂を取り戻した。
 マクドールがいつもの紅い服を着て、静かに扉の前に佇んでいた。
「……」
 ルックは返事をしなかった。
 おかしそうに微笑って、彼はもたれていた壁から背中を離した。
 何の用だろう、そう思う前に身体が動いていた。
 ルックは体重を持たないような軽やかな動きで、すいとマクドールに近寄った。目を丸くされるのに構わず、顔を寄せる。
「隈」
 目の下がうっすらと窪んでいる。どうせ夢を見ないのが嫌だからといって、一睡もしなかったのだろう。
「馬鹿みたい」
 言って、離れた。本当は、救いようのない馬鹿だ、と思ったから、それは自分にしては随分と控えめな表現だとルックは思った。
 マクドールは苦笑して、
「朝食はまだだろ?」
と言った。

* * *

 言い訳が必要だ。
 捕らえるには細心の注意が必要だ。
 気づかれないように、ゆっくりと、ゆっくりと、蜘蛛が巣を作るように周到に。
 蝶は自分が罠に掛けられようとしているのにも気づかず、ぼんやりと宙を舞っている。無防備にうつくしい羽根を晒している。
「…朝食は食べない」
「不健康だな」
 そう、彼を納得させるには理由が必要だ。
「軍主命令だ。食べに行こう」
「……」
 寝起きで目が乾いているのだろう、何度も瞬いて、獲物は掠れた声で言った。
「朝は紅茶がいい」

* * *

 目の前の器に盛られた野菜は緑と赤で、その色彩の相似が嫌でルックはさっさとトマトを食べ終えた。マクドールはオニオンスープを適当に飲んでいる。
 食事の間、会話は全くなかった。そもそも人とまともな会話をすることが稀なルックにとって、それは当然のことだった。だから、食べている最中に声を掛けられたとき、彼は思わず水を気管に流し込んでしまい咳き込んだ。
「大丈夫か?」
「ッ、ぅ、…」
 けほ、と空気を吐き出して、もう一度水を飲んだ。今度は自然に水が喉の奥に落ちていく。安堵の息をついて、ルックは険悪に、自分と年の変わらない上司を睨んだ。腹筋が痛い。
「さ、…最低…」
 そこまでどうにか言って、また咳き込むと、何とか落ち着いた。
「ごめん」
「……」
 誠意が籠もっていない声音に憮然としたが、公衆の面前で軍主を殴るわけにもいかず、ルックは不機嫌そうに眉間に皺を寄せただけで黙ることにした。
「で、ルック、今日暇?」
 そうして目の端に滲んだ涙など無視して尋ねてくるマクドールを憎らしく思いながら、わざとらしくまた咳をした。彼は目を細めて面白そうにルックを見ていた。
「暇?」
 重ねて問われ、ルックが渋々頷くと、マクドールは機嫌のいい獣のように笑んだ。
「散歩に行こう」
「…何で」
「僕がしたいから」
 ルックが何か言い返そうとしたとき、隣の卓から、一部始終を聞いていたらしい誰かが会話に割り込んできた。宿星外の幹部の一人だ。
「そりゃあいい、たまには年相応に遊んできたらどうです。鬼ごっことか」
 傭兵上がりの男は冗談めかして言った。
「年相応って、子供っぽくって意味だっけ?」
 嘲るような口調で言うルックの向かいで、マクドールは苦笑した。
「僕はそんなに老成してるのか?」
「いやいや、滅相もない。あなたがたまには休んでくださらんと、私たちも怠けられませんからな」
 男は戯けて言ったが、その目は真剣だった。彼らも憔悴している軍主を気遣っているのだ。
 マクドールがそれに応えるように笑いながら言う。
「そうだな、ルックがデートを承諾してくれたらそうするよ」
「デート?」
 ふうんと気の抜けたような声を出して、ルックはテーブルに肘をついて僅かに顎を突き出した。
「女を誘いなよ、そういうのは」
「はは、確かに」
 男が笑う。マクドールは肩を竦めて、片目を細く眇めた。
「わざわざルックを誘うのには、ちゃんと理由があるんだ」
「理由、ね」
「聞きたい?」
 にこりと笑んで、
「なら、散歩に行こう」

* * *

 こんなにも身体が熱い。
 心がざわめく。まるで嵐の日の海のように波高く。
 ルックはただ黙々と、自分の後を付いてくる。気づかれないように少しずつ、わざと足を速めると、なんだかむっとしたように大股で追いついてくる。
 急停止して、自分を抜かしてしまったときの顔を見てみたいと思ったが(きっとバツの悪いような、怒ったような顔だろう)、それよりも早く目的地についてしまった。
 残念、と口中で呟きながら、本当はそんなことを欠片も思っていないとわかっている。頬が弛むのを抑えるのが、目下一番難しい作業だ。
 そしてマクドールは扉を開けた。

* * *

 屋上に出ると、湖面を渡ってきた風が柔らかい髪を散々に乱して逃げていった。ルックは舌打ちして髪を抑え、遙か向こうに浮かぶ陸地を眺める。
「で、理由って何?」
 その姿勢のまま聞けば、マクドールは何故か笑う。ルックは、こいつはは笑ってばかりだなと思った。
「ルックは、僕といるのが好きだろ?」
「…は?」
 間抜けな声をあげて、ルックは口を開けてマクドールを見る。不意を衝かれて、呆気にとられていると言わんばかりのその表情に彼がまた笑った。
 ルックは笑われたことにむっとして、ぎっとマクドールを睨む。きつく結んだ唇がまるで拗ねた子供のようだ。実際ルックは、まだ子供だ。年月の流れはルックにはどうしようもないことだった。
 それ以上の笑いを堪えるために、マクドールは頬の筋肉に力を込めたようだ。
「何で僕が」
 刺々しい声で吐き出すようにルックが言った。
「それは…」
 マクドールの頬が弛む。ルックは自分が、益々不機嫌な顔になるのを自覚した。マクドールは今度は、笑いを噛み殺すのを諦めたようだった。
 微かに肩を震わせながら、彼は少し離れた位置に立つルックに近寄ってきた。
 ルックはは警戒するかのように少し下がり、それを咎めるように、彼はまた一歩歩み寄る。しかしルックはまた下がった。悔しかったが、なんだか気圧されたのだ。
 マクドールは根負けしたのか、仕方なくといった風に、
「僕といるとき、気持ちよさそうだからだ」
 ルックは目を瞬かせた。
 心外だとでもいうように、眉間に皺を寄せる。
「…自意識過剰なんじゃない」
「ほっとしたような顔してる」
 空白。
 一瞬の間の後、ルックは狼狽えた。
 ほっとしたような顔。顔に出ていたのか?自分はそんなにわかりやすかったのだろうか。思わず頬に手を当ててしまい、マクドールの面白そうな視線にあって慌てて手を下ろした。
 しまいにはふいと視線を逸らして横を向いて、その態度がいかにも図星ですと言っているようで、ルックは自分の間抜けさに頭の中が沸騰しそうだった。
「それで今日の朝も試してみたんだけど」
 マクドールは、目の前で何も起こっていないかのように続けた。
「だから」
 ルックは目を逸らしたまま、その後に続く言葉を待った。しかし、それ以上の声はなく、彼はそれがマクドールの理由だと知る。
 気が抜けたように、ルックは浮ついたような声を出した。
「…僕が気持ちよさそうだから、あんたは僕を誘うわけ?」
「そう」
 マクドールは頷いた。
「じゃあ、それが勘違いだったらどうするつもりなんだ」
「勘違いじゃないから、それは考えても無益なことだな」
 即座に答えを返して、とどめの微笑み。ルックは何と言えばいいのかわからず、眉を寄せた。
 次の言葉がどうして出てきたのか、ルック自身にもわからなかった。
「君、笑ってばっかりで疲れない?」
「……」
 今度はマクドールが図星を突かれた形になる。彼は絶句してルックを見た。ルックは愉快さで、自分の頬が弛むのを止められなかった。
「僕なら御免だけどね」
「…慣れてるから」
 どこか呆然として、マクドールは口の中で呟くように言った。それから、ふとまた、あの能面のような笑みを浮かべた。
「…ルック、話を逸らそうとしてないか」
 それはいかにも取り繕ったといわんばかりで、先刻の自分のようで、その時だけ、ルックはとても穏やかな心になった。
「してないよ」
 ふ、とその心のままに微笑んで、ルックは言った。

* * *

 その微笑みはうつくしく澄んでいて、彼の背後に広がる空に溶けてしまいそうだった。実際に、その淡い表情はすぐさま消えてしまった。
 しかし先刻の空気の余韻が空間に刻み込まれて、しばらくはそこに留まるようだった。
 笑うのに疲れたことはなかった。
 疲れたことはなかった、それでも…
 自分は今まで、どんな顔で笑っていたのだろう。
 マクドールは、今まで、笑いたくもないときに浮かべてきた全ての笑顔が、瞬間のその微笑みに、がらがらと崩れ落ちていったのを感じていた。
 そして、微かに開いた柔らかそうな唇に気づいたとき、それに触れたいと思った。

* * *

 生暖かい温度が自分の頬に触れたと思った瞬間、ルックは喉に引っかかったような掠れた悲鳴を上げて、渾身の力で身を捩った。不愉快な感触が全身の肌の下を急速に浸食して、体外に排出されることなく拡散した。
 鳥肌の立った二の腕を掴みながら、ルックは後じさった。マクドールが、困惑したように左手を宙に静止させている。
 そんなことに構わず、ルックは男にしては細い声を張り上げた。
「何するのさ!」
「何って…」
 臨戦態勢に入った猫のようになったルックに、なんだか途方に暮れたように、マクドールは言った。
「触っただけだろ」
「だけ!?」
 ルックは目の端を吊り上げた。首筋に立った鳥肌が、しばらく消えそうにない。
「君は、何の目的もなく人にべたべた触るようにとかいう教育をされたわけ?」
「…そんなことは言われてないな」
「なら触るな!」
 繋がらない主張をして、ルックは浮いてきた涙を振り切るように瞬いた。産毛がすべて逆立っているのが感覚としてわかった。触れられた頬が、寒気がするほど気持ちが悪い。
 背骨を撫で上げ、首筋に伝わった痺れが皮膚の下にわだかまる。
 マクドールは不思議そうに尋ねてきた。
「…人に触られるのが嫌いなのか」
「最低、寒い、気持ち悪い」
 そこまで言われれば、さすがにむっとしたらしく、マクドールは嫌がらせにか手を伸ばしてきた。それを避けて、ルックはまた後じさった。
「触るな」
「…なんで?」
「気持ち悪い」
「だから、なんで」
 ルックは言葉に詰まった。何故かと言われれば、説明の仕様がない。ただ、他人の体温が肌に触れる感触が嫌いなのだ、としか言いようがない。
「…気持ち悪いものは気持ち悪いんだよ」
 結局そんな、子供の反駁のような答えになってしまった。
 マクドールはなおも懲りずに手を伸ばしてくる。その手を避けて、ルックがなんとなくじりじりと後退していると、どん、と背中に何かがぶつかった。慌てて振り返ると、屋上に張り巡らされた柵がすぐ背後にまで迫っていた。
 進退窮まったが、かといって転移をするのも逃げたようで悔しい。
 ルックは赤錆の浮いた柵に後ろ手に触れたまま、一瞬の思案を巡らせた。ほんの一瞬だった。
 しかしその一瞬は、マクドールにとってはそうではなかった。
 日に焼けていないか細い手首を掴まれ、引き寄せられて、ルックは上げそうになった悲鳴をかろうじて堪える。
「―― はな、せっ…」
 悲鳴のような甲高い声が漏れる。繊手に、いっそ爽快なほどに見事に鳥肌が立つ。
「…そこまで嫌がる?」
「煩い!」
 自分でも訳がわからないまま、ルックは怒鳴った。拘束をふりほどこうと腕を振っても、しっかりと掴まれていてびくともしなかった。
 触れているのは皮膚一枚だけだ。
 それなのに、何だというのだろうか、この不快感は。
 ルックは混乱しながら、それでも彼から逃れようとして暴れ、自由なほうの腕を伸ばして、相手の剥き出しの腕に爪を立てた。
「痛ッ…」
 片頬を歪めてマクドールは拘束を緩めた。その隙に、ルックは腕の自由を取り戻し、咄嗟に突っ立った彼の隣をすり抜けた。
「じゃあね」
 澄ました声を咄嗟に取り繕い、ルックは無表情に言うとマクドールに背を向ける。
 心臓は早鐘を打ち、静けさを台無しにしていた。無防備に晒した背中がうそ寒く、それにいつ手が伸ばされるかと思うとルックは平静ではいられなかった。
 自然と歩みは早くなって、最後にはほとんど小走りになって、ルックは階段を駆け下りていった。

* * *

 不可解な彼の行動に、マクドールは眉をひそめた。
 爪を立てられてできた傷がちりちりと痛む。それに舌を這わせて、滲んだ血を舐めとると、彼は眼を細めた。
 とりあえず、触れられるのが嫌だというのは本当らしい。あの鳥肌は本物だった。しかし、別に自分が触れたから、ということではなく、ただ人間の感触が嫌だというだけであるらしい。
 マクドールは彼が消えていった、階段へと落ち込む空洞を眺めやる。
 さて、追うべきか、それとも…?
 選択肢は一つしかないも同然で、彼は苦笑した。
 無意識にせよ、ルックは、風を呼ばなかったのだ。

* * *

 一刻も早くその場から離れたくて、ルックは足早に階段を降りていった。掌を預けた石壁は冷たく、心地よかった。それが少しでも先刻の接触の恐怖を打ち消せばいいと思ったが、むしろあの奇妙な感覚を助長するだけだった。
 彼が怖い。
 ルックは混乱したまま、それを認めた。
 あの黒い瞳がいけないのか。それとも、自分と全然違う、暖かい温度がいけないのか。ルックにはわからない。ただ、漠然とした不安を呼び覚まされていた。
 階段の途中で立ち止まり、掴まれた手首を見下ろしたが、むろん何の跡も残っていない。ついで、頬に指先を添えて、ルックははっと我に返った。
 これではまるで、名残を惜しんでいるようだ。
 ルックは狼狽え、どうにもならない怒りと混乱を抱えて、結局疑問を抱えたままそれでもそこから立ち去ろうとした。
 焦燥が、その時彼の判断力を奪っていた。ルックはもう随分と、マクドールから離れていたのだ。
 踊り場に足を着いた途端、
「―― ッ!!」
 唐突に鳴り響いた音に、ルックは金槌で頭を殴られたような衝撃を覚え、壁に寄りかかった。実際に耳に聞こえている音ではないので、鼓膜が震えるはずはないのに、耳の奥がびりびりと痛んだ。
 頭蓋骨の中身を掻き回されるような、痛みと言うよりは、そう、不快感だった。
 先刻まで完全な静けさの中にいた分、衝撃は激しかった。ルックはそれに耐えきれず、ついには壁にもたれたままずるずるとへたり込んだ。
 鳴り物の音や、叫び声が、いっそう重みを増してのし掛かってくる。
「―― やめ、」
 最後まで言い切ることができず、ルックは両の掌を耳に当てた。そんなことをしても意味がないのはわかっていたが、せずにはいられなかった。そのまま膝を胸に寄せて、額を押しつける。あまりの大音量に、考えることさえ不可能だった。
「煩い」
 吐き捨てる。
 真っ直ぐに、振動が耳の奥に突き刺さる。
「うるさい」
 ほんの少しだけ、静かな時間があっただけなのに、もう耐えられなくなっている。
「うるさい」
 後ろ手に壁を殴る。鈍い感触が拳に伝わり、じくじくとした痛みが集まる。見ると血が滲んでいて、壁を殴った程度で皮膚が破れたらしい。
 耳を塞いでも、耳鳴りは消えない。
「うるさい…っ!」
 早くここから逃げ出したい。
 額に冷や汗が滲む。
 喧騒が嫌いだ。活気に満ちた人間の気配が嫌いだ。笑い声もすすり泣きも熱に浮かされたような声も要らない。欲しいのは静寂だ。そう言っているのにどうしてわからない。
 独りでも寂しくなどない。
「うるさ、」
 音が引いた。
「ルック」
 その声に顔を上げる。

* * *

 マクドールは左手でルックの手首を掴んだ。
 ルックは背筋を駆け上る不快な痺れに鳥肌を立てる。
 しかし彼から離れれば、静寂が消え、あの耳鳴りが戻ることを知っている。
「ルック?」
 耳鳴りか、体温か。
 選ばなければならないが、その答えは、きっと