黙々と書類に筆を走らせ、署名を書きながら次の書状に目を通す。
そうしてその書類に署名を書きながら、また次の書状を読む。
流れるような動きで、彼がひたすらそれだけを繰り返していると、小さな音がして、机の上に湯気を立てた茶が置かれた。
顔を上げると、何年か前に交代したばかりのまだ若い従者の青年が微笑んでいた。
「陛下、少しご休憩を挟まれてはいかがでしょうか。昼食をお摂りになっておられませんでしょう?」
不自然なほど丁寧にそう言われて、彼は急に空腹を覚えた。腹に力を込めて情けない音が鳴るのを防いで、かつて国を打ち立てた少年は無言で頷いた。
従者の青年がそれにほっとしたような顔になる。
彼が手を鳴らすと、扉が開かれて、台に載った食事が運ばれてきた。
書状を脇に追いやり、速やかに机の上に並べられていく皿を、彼はまじまじと見つめる。
その視線を何と取ったのか、従者の青年は料理の説明を始めた。
それを聞いているのかいないのか、彼は行儀悪く両足をぶらつかせながら、右手に持った箸で並べられた料理をつついていた。どの品から食べるのか迷っていた風だったが、やがて、橙色の液体のかかった肉を眺めてから口に含む。
榛色の目が見開かれた。
「陛下?」
訝しげに眉を寄せて説明を中断した青年は、その肉を食べてしまうと、もう要らないとでもいうように他の皿を押しやる彼に困ったように言った。
「それだけではお身体が持ちません。どうか、果物だけでも…」
しかし彼は無言で首を振る。
一度決めたら頑固な彼に、従者の青年は溜息を吐いた。彼が食事をほとんど摂らないのはいつものことだった。
「それでは、お下げしますね」
青年が小者に指示して皿を下げさせようとしたとき、あわただしい足音と共に、白い服をした中年の男が礼もとらずに室内に飛び込んできた。
青年が目を丸くしていると、その男は手の付けられていない食事を見て一瞬目を輝かせたが、何も乗っていない唯一の皿を見て、絶望したように頭を抱えて座り込んでしまった。
「料理長ではありませんか。どうかされたのですか?」
よく見るとその男は、城の厨房を預かる責任者だった。走ってきたのか全身汗だくになって髪も乱れていたので、咄嗟にそうとわからなかったのだ。
青年の言葉に顔を上げ、その背後に静かに座る彼を見とめると、料理長は蛙のように平伏して何かを申し立てようとした。
しかし、それは複数の足音によって遮られた。
白い服を着た数人の男達が、やはり走ってきたのだろう上気した頬で部屋に入ってくる。そして全員が一斉にその場に平伏した。
ますますわけがわからないと困惑する青年をおいて、男たちは彼に訴えた。
「申し訳ありません、私どもの不注意です。まさか、あんなものを陛下にお出ししてしまうとは…」
「かくなるうえは、私どもの首を差し出します! どうか料理長だけは…」
「何を言うのだお前たち、厨房で起こった全てのことは私に責任がある。陛下、どうか彼らだけはお許し下さい。罰は全て、私めがお受けします故…」
「しかし、料理長!」
それぞれが自分の主張を同時にするので、事情がさっぱりつかめない。
が、とりあえず、あの料理には何かよくないものが入っていたことだけはわかった。彼は平然としているのだから毒などではないだろうが、体に悪いものではないとも言い切れない。
青年は口調を強くして、お互いにかばい合う料理人達に声を掛けた。
「それで、一体何を入れたのですか?」
間抜けな問いだったが、男たちは青年を振り向いて何かを言おうとした。
しかし誰が話すのかということで、視線をちらちらと交わす。気まずそうに俯いてしまう者さえいた。
青年が苛立って、再度答えを促そうとしたとき、小さな声が響いた。
少年特有の硬い澄んだ声だった。
「美味しかった」
驚愕して、その部屋にいた全員が彼を見た。
彼が声を出すことができるということを忘れていたかのようだった。
彼は、一年に何度か声を出せばそれだけで勿体ないことだと涙を流されるほどに、国王となってから喋ることがなかった。
彼らも、この前彼の声を聞いたのがいつだったか忘れるくらいに。
時が止まったかのような空気にも関わらず、彼はもう、言いたいことはなくなったとばかりにさっさと書状への署名を再開していた。
「陛下?」
従者の青年が声を掛けても、彼は黙々と書状に目を通すのみで、完全に下界との接触を断っている。困惑したように青年は周りを見、次いで同様に呆気にとられたままの料理人たちを見下ろし、仕方なく溜息を吐いて彼らを促した。
「それでは失礼いたします、陛下」
作法に則った礼儀正しい一礼を残し、青年はその部屋にいた人間たちのすべてを引き連れて部屋を出た。彼は一度もこちらを見ることはなかった。
部屋を出て、義務のように少し歩いたところで、囁きを交わしながらしきりに首を傾げている料理人たちに青年は尋ねた。
「結局、あなた方は料理に何を入れられたのですか?」
その問いに料理人たちはまた気まずそうに顔を見合わせた。彼らが逡巡していると、料理長が、
「入れたのは砂糖です」
と答えた。それに青年は首を傾げる。
「それのどこがおかしいのですか?」
料理に砂糖を入れることの、どこがおかしいのか。
そう暗に問うと、料理長は気まずそうに、
「いえ…ですから、本当はその…」
「何です?」
この期に及んで言い淀む男に語調を強くすると、男は情けない声を出した。
「その…塩を、入れるはずだったんです」
青年は絶句した。
それはつまり、
「砂糖と塩を間違えたと…そういうことですか?」
男達は一様に小さくなって、はい、と答えた。
青年は毒物でなかったことに安堵して、しかし同時に呆れて言った。
「そんな初歩的な間違いをしたのですか? 玄人であるあなた方が…」
「お言葉ですが従者殿、猿も木から落ちると言うではありませんか」
「それはそうですが…しかし…」
なんともくだらない。
青年はその言葉を呑み込んで、視線をさまよわせた。
「それでは、我々は戻りますので、ここで」
「ああ、はい…のちほどまた話をお伺いするかもしれませんので、そのときはよろしくお願いします」
釈然としない気持ちで料理長たちと別れた青年は、人気のない廊下を歩きながら首を捻った。
それにしてもどうして、少年はあのようなことを言ったのだろうか。
彼はゆっくりと目を閉じ、自嘲気味に頬を歪めた。
口の中に滲んだのはただの不快な刺激だったが、それは確かに、彼にとって懐かしい味だったのだった。