魔法使いは、ほんの少数の例外を除けば、まず間違いなく書痴であると言っていい。彼らは学究の徒であり、自分の知らない知識が存在するというだけで、何故かいたたまれなくなる人種なのだ。
石板守であるルックも、多分に漏れず、本の虫の類に属している。稀覯本を手に入れれば、遠征で疲れていても徹夜で読み耽る。活字を見ないと落ち着かない。そういった性質なのである。
そしてその日もルックは本を読んでいた。
珍しく魔法理論や哲学書ではない、小説である。今はもう亡い作家の短編集で、煩わしいほどに難解な文字や独特の言い回しが使われているのを慣れた調子で読み進める。
彼がいるのは図書館の奥の、窓際の席である。司書以外の人が来ることさえ少ないそこは、ルックの指定席のようなものだった。
薄い紙が捲れる独特の音が室内の空気を微かに震わせる。
開いた窓の外からは子供の笑い声が入り込み、まったく戦時中とは思えない長閑さである。
やがてルックはその本を読み終え、空腹を覚えてその場をあとにした。
食堂へと赴くのに屋外を通ることを選んだルックは、城を覆う外壁に沿って黙々と歩いていた。図書館の薄暗さに慣れた目が、自然光に鈍痛を訴える。
ぐるりと周囲を見回した目が、木陰でぼんやりとしている現・上司とその義姉を捕らえた。同時に向こうもルックに気づく。
「あれ、ルック! 珍しいね」
ナナミがいつもの笑顔で手を振った。その側では、軍務を終えたらしいムツがのんびりと何かの果実を囓っている。
ルックの視線は姉弟のうえを軽く滑り、そのままふい、と前方に戻った。それを駆け寄ってきたナナミが、彼女自身のものよりも華奢な肩を叩き、にこにこと笑顔で口を開く。
「ルック、レモンいらない? 酸っぱいよ」
美味しいよ、ではなく安いよ、と同じニュアンスでナナミは言った。それを売り文句にする彼女はいまいち謎だ。
見れば彼女は両手に一つずつレモンを握りしめていた。
「妊娠してないからいらない」
「もー、何言ってんの。妊娠してなくてもレモンは食べるでしょ」
ずれた会話を交わす二人に、ムツはレモンの影でこっそりを溜息をついた。
陽光の下に佇むのは、レモンを両手に持って満面の笑みを浮かべる快活な少女と、少女のような顔立ちをした仏頂面の美少年。シュールである。
ルックは無言でナナミが突き出したレモンを見る。
ナナミは笑っている。彼女の笑顔は太陽のようだ。拒絶しようにもするすべがない。降り注ぐ陽光のように容赦がない。
「……」
そうしてルックはレモンを一つ受け取った。
それを観察していたムツは、月は太陽に勝てないものなのか、と口中でひっそり呟いた。
「おー、珍しい組み合わせ」
と、底抜けに軽い声がして、続いてその軽さを補うように落ち着いた声音が届いた。
「そうでもないと思うけど」
ムツとナナミが同時にそちらを見やり、一拍おいてルックが振り返る。
「セオさん。と、シーナ」
「お前人をおまけのように、なんたる言いぐさだ」
シーナは大げさに嘆く振りをしてみせる。彼より少し身長の低いセオが肩を竦めて笑い、その二人の組み合わせのほうが余程珍しいと思っていたムツは、そう言えば彼らは同い年なのだということを思い出してぽんと手を打った。
シーナはそれを訝しげに見て、それからナナミの手元に目を留めた。
「あれ? なんでレモン?」
「畑に遊びに行ったらくれたから」
にこにこという擬音が聞こえてきそうな笑顔を浮かべたまま、ナナミが答える。どうやら二人して城下にお忍びで出かけたらしい。ムツがレモンを囓りながら木陰から歩いてくるのを見て、セオが苦笑いして尋ねた。
「酸っぱくない?」
「酸っぱいです」
答えの割には、ムツは平然とした顔だ。
「でも美味しいですよ、セオさんも食べます?」
遠慮すると笑って、セオはシーナと同じようにナナミの手元に視線をやった。
入れ替わりのようにシーナはルックが持ったレモンを見て、続いてルックの無表情に視線を移した。
「ルック、妊娠でもしてんの? 誰の子?」
「……」
何となく空気が帯電した。
シーナは思わず引きつった笑いを浮かべる。
「…冗談だってば、ルックちゃーん、落ち着いて、切り裂きはしないでね、人生をもっと慎重に生きようぜ? うん、まず、人を一人殺すことの重さってやつをだね」
「戦時中に何を今更」
ルックはぼそりと呟いた。無表情はいつものことだが、さりげに恐ろしい。
その空気を介さないように、セオが微笑んで言った。
「ルックの子供ならさぞ美人になるだろうな」
その瞬間、空気がびりびりと音を立てたのを確かにシーナは感知した。ムツもうそ寒そうな顔になっている。ナナミはにこにこと笑っているだけだったが。
「……」
ルックは無言で、その表情は髪の毛一筋ほども動かない。それがやはり、かえって恐ろしかった。
「…俺たち食堂に行くところなんだけど、一緒にどう?」
シーナが話題を逸らすようにナナミを誘う。ナナミは笑って言った。
「でもレモン食べたし」
「……レモン一つで満腹になる?」
「一つじゃなくて、十個だよ」
ビタミンだけは満点だ。
「……奢るからお兄さんと一緒に食堂に行こう。ね」
シーナは良心の呵責を覚える、という言葉を身を以て感じて、乾いた笑いを浮かべた。
「ムツも一緒?」
「はいはい奢る奢る」
といっても、シーナの給料を払っているのは、形式的ではあるがムツである。彼の給料は誰が払っているのだろうか。それとも彼の給料の分は、全て軍資金に消えているのだろうか。シーナは何となく正軍師の鉄面皮を思い浮かべた。
姉弟は奢りという言葉の甘美な響きに、無邪気にはしゃいでいる。
「ルックはどうする?」
セオが尋ねる。シーナはその声にルックを見たが、ルックは無表情のまま下を向いている。その視線の行方を追い、彼は首を傾げた。
「おいおい、なんでレモン見てんだよ。惚れたのか?」
からかい半分のその声が届いていないかのように、ルックは手にした黄色い果実をじっと見つめた。
なだらかで歪な曲線を描く黄色い輪郭が、周囲の色をはね除けてくっきりと映えている。
そして前方に目を戻せば、セオがいつもの曖昧な笑みを浮かべている。
「……」
ルックはその時、先刻読んだ小説を思い出していた。
主人公の「私」は、自分に息苦しさを覚えさせる書物を積み上げ、その頂上に檸檬を乗せる。そして滑稽な幸福感に浸るのだ。
ルックはもう一度自分の手元を見下ろした。黄色い、真円でない果実がルックを見上げてくる。
見つめ合う一人と一つに、周囲はどう反応していいかわからないように沈黙している。
やがて、時計の秒針が少なくとも一周は回ったあと、
「えい」
という、やけにかわいらしい掛け声とともに、ルックはレモンを乗せた。
セオの頭の上に。
「……」
セオが絶句して、思わず笑顔を放棄して呆気にとられたように立ちすくんだ。
シーナは硬直したあと、友人にして救国の英雄の頭の上にレモンが乗っかっているという奇妙な構図に吹き出しかけ、慌てて口元を抑えた。
しかし、
「……ぶっ……っあははははははは!」
シーナの些細な気遣いを介さず、ムツが弾かれたように爆笑し始めた。拍子に彼が持っていたレモンが地面にぼとりと音を立てて落ちる。
シーナがムツを止めようとして、術を見いだせずに空中に腕を泳がせた。
その一連の動きに構わず、セオは黙ってルックを見下ろし、ルックはセオの頭の上に乗ったレモンを何かを期待するように眺めている。
「あっははははははは! なに、何で!? なんでなんでなんで?」
「ムツ、お前な…もうちょっと、人の気持ちを思いやろうぜ?…くっ…」
「何言ってんの、シーナ変な顔! あはははは、何でセオさんの頭の上? 何で? なんで?」
何故かツボにはまったらしいムツは、笑いを堪えて歪んでいるシーナの表情を変の一言で片付け、開けっぴろげに笑い転げている。
シーナはつられて笑いそうになり、また慌てて口元を抑えた。笑いが込み上げる。しかし留まらなければならない。ここで笑ったらあとでどう仕返しされるかわかったものではない。
ナナミは困ったように、セオの頭の上に乗ったレモンを眺めている。握りしめた拳が震えている。どうやら弟の失態を見て、自分はああなるまいと自制した結果であるようだ。
「……ルック」
何故か神妙な顔で、セオは自分の頭の上に絶妙なバランスで乗っかっているレモンを掴んで下ろした。ルックが、あ、と残念そうな顔をする。
「何が残念なのルックーひゃはは」
ムツは腹筋が痛み始めたらしく、腹を抱えてその場に座り込んだ。そのまま、痛い痛いと言いながら笑い続ける。痛いなら笑うのやめりゃいいんだよ、とシーナが言い、だって止まらないーと語尾を伸ばしてまたムツは笑う。
「う、痛い、おなか、あははははは、うういたい」
「お前は凄いよ…」
シーナが、ある意味見上げた根性だ、と言ってかがみ込み、とりあえず腹筋と頬骨の痛みに苦しむ上司の背中をさすってやった。
「しーなありがと、あー、うー、うー、でもなんで? なんで頭の上? しかもセオさんの? なんか壮大な理由があるの? 何らかの比喩なの? メッセージ? …あっははは、いたた」
「いい加減にしとかないとお前笑い死ぬぞ」
シーナは本気でこの少年が心配になった。
その二人の上空で、セオが取り上げたレモンを左手で放り投げる。それは一直線に伸び上がったあと、速度を上げて急降下し、見事にムツのつむじにあたった。
「いたっ!」
「セオさんお上手!」
弟の悲鳴を無視してナナミがはしゃいで手を叩く。頭を抑えて立ち上がったムツが恨めしそうにそれを見た。どうやら笑いは収まったようだ。
ルックが地面に落ちたレモンを拾い上げる。
それからセオを見て言った。
「あんたなんか爆発しちゃえばいいんだ」
一瞬の空白の後、ムツがまたもや爆笑しそうな気配が漂い、しかし笑い声はなかった。シーナが見れば、今度は必死で堪えている模様である。
「…それで、ルックはどうするんだ?」
妙な笑いを浮かべて、セオがもう一度問う。
「行く」
簡潔に答えると、レモンを持ったままルックはすたすたと食堂の方向へと歩き出した。姉弟が小走りにその後を追う。
「ルックなんでセオさんの頭だったの? なんで? 何で爆発?」
「別に」
「レモン美味しいんだから、食後にちゃんと食べてね!」
「気が向いたらね」
かしましい声が遠ざかっていく。
シーナはやれやれと首を振って、外見だけは年少の友人を振り返った。
「おいセオ、行こうぜ」
「ああ」
応えてから、セオは地面を見下ろした。
ムツが先刻落とした囓りかけのレモンが転がっている。その色と形。
彼にはルックが何をしたかったのかがさっぱりわからなかった。
けれどセオは理由もなくふと思った。
まったくたかが一果実の分際で、何という壮大さだろうか。