鳥 と 過 ご す 朝

 ゆっくりと瞼を上げれば、薄闇が膜を張って視界を覆っている。
 イオは天井を、次いで首を曲げて、見慣れた薄汚れた壁に浮いた楕円形の染みを見た。そして最後に、自分が頭を乗せた枕と、頭の横に置いた愛用の棍に視線を落とした。その順番に意味はない。
 ぼんやりと霞むそれらをきつく睨み付けていると、消炭色の靄がかかっていた室内のものたちがだんだん形を取り戻し始める。
 低い唸り声を上げて、目をきつく瞑る。脳味噌が濃い気体になって、頭蓋骨の中を漂っているようだった。頭が重い。
 それでもどうにか上半身を起こし、頭を振ると、少しだけまともな気分になる。
 棍を置き、裸足のまま床に立つ。窓辺に歩み寄り、窓を開け、分厚い鎧戸を上げる。途端に太陽の光が目を灼き、イオは反射的に目を閉じたまま、顔をしかめた。
 早朝の風はまだ、剥き出しの腕には冷たい。水のように薄い青が空に広がっている。三階の窓からは、二階だての部分の屋上が見える。普段は優雅な貴族たちが薔薇の紅茶を飲んでいるそこにも、今は誰もいない。
 窓枠に肘を付くと、イオは僅かに顎をつきだし、気のなさそうに広がる草原を遠く見た。地平線を遮るように、山脈がせり出している。その向こうは彼の故郷だ。
 起き出したばかりだろう白い鳥が、群れをなして川の上を飛んでいく。
 あんな鈍重そうな、大きな腹を抱えているあれらが飛べるのに、自分が飛べないなどおかしなことだ。イオはそう思って、窓を閉めた。

* * *

 少しずつ明るくなり始めた廊下の空気は、起き出した人々の気配にさわさわと静かに揺れている。
 波だった静寂の中を歩いていく。早朝のしんとした空気は、雪が降り積もった日の翌朝に似ている。イオは、北へと旅をして初めて、雪を見た。冷たい氷の破片が、連なって空から振ってくるのが不思議だと思ったことを覚えている。
 その静謐に、その瞬間何かが報われた気がしたのだった。
 あの地へは、本当は何を訪ねて行ったのだったか。
 そんなことを考えながら、角を曲がり、階段を降りれば、そこはもう一階の大広間だ。閑散とした空間には寒々しい沈黙が水槽の縁までを浸食した水のように湛えられている。それは石の壁がそうさせるのか、それとも、人の居ない空間だからなのかもしれない。
 どちらにせよ、ご苦労なことに、求めるものの姿は今朝もそこにあった。
 手摺に手を掛けながら、声を掛ける。
「ルッ」
「なに」
 名を呼び終えないうちに返事をされてしまった。これは、大変機嫌がいいか、悪いかのどちらかだが、前者ならば三年に一度の快挙だろう。つまり、そちらである可能性はゼロだ。
 端正な顔に無表情を浮かべて、ルックは石板前に佇んでいた。
 綺麗に真っ直ぐ伸びた背筋と、僅かに引かれた尖った顎と、すっきりと伸びた鼻梁と、柔らかに凛然と流れる髪。睨め付ける強い光の碧眼と、繊細な睫。
 人の気配が稀薄な骨格に、イオは、彼なら鳥のように飛べるだろうと思った。
「朝飯を食いに行こう」
「要らない」
 一言で両断して、ルックは正面を向く。そこには何もないのに、いったいいつも何を見ているのか、イオは気になった。もし何も見ていないのなら、たまには人でも見ればいいのに。
 短い階段を降りる間に、一度くらいは瞬きをするかと観察すれば、一度も瞼は閉じられなかった。それではまるで魚のようだ。この分では痛覚もないのではないかと、余計な心配をしてしまう。
「もう少し人間らしいところを持った方がいいと思うぞ」
「は?」
 いきなり珍妙なことを言い出したイオに、ルックが温度のない視線を向ける。
 ああ、そうだ。そうやって人を見ていればいい。
 イオは一瞬のうちによぎったその思考に、自分でも気づかないまま、口元を緩めた。
「何を笑ってるんだ」
 憮然として言って、それでも表情にはたいした変化は見られない。少し、目元が柔らかくなったかもしれない。それだけだ。それで充分だ。
 イオは左手でルックの法衣のゆったりとした袖を掴んだ。そのまま歩き出すと、ルックは少し怒ったように何かを言おうとしたが、結局言葉を発さないまま、隣に並んだ。少しだけ目線が低い。伏せた薄い瞼の隆起が見て取れた。
 軽く掴んでいただけだった裾を引かれ、葦でできた鳥籠から鳥が抜け出すように容易に、ルックは自由を取り戻す。だが彼はそのまま飛んでは行かなかった。
 そのまま無言で二人で歩いていった。

* * *

 食堂に人影はまばらだった。
 厨房にはすでに昼の仕込みに忙しく働く人々の気配があったが、ほかには年老いた男が一人、ほとんど空になった食器を前にぽつんと座っているだけだ。まだ日が昇って間もないのだから、混んでいるほうがおかしいのだが。
 老人と反対側の隅の席に座ると、給仕が注文を取りに来る。
 適当に注文して彼を追い返して、イオは手持ち無沙汰に、花瓶に活けられた白梅を摘んだ。軽く引けば、花びらがぶち、と小さな音を立てて千切れる。それが面白いわけでもなかったが、することもないので花びらを千切り続ける。
「何してる…やめなよ」
 六枚の白い花びらが落ちたところで、溜息混じりの声音でルックが言った。
 その静止を無視して、イオはもう一枚、花びらを千切った。ルックが険悪に目を細める。
「だって暇じゃないか」
 そう言って、また一枚。
 暇だと言われても、細切れにされる花にはたまったことではないだろう。
 抗議するように、ぼとりと、一つの花が萼ごと落ちた。まるで身を挺して仲間たちを守るようだと、イオはそれを手にとってしげしげと眺める。
「…健気だな」
「…もしかして寝ぼけてるのか」
 もはや投げ遣りに、ルックは頬杖をついた。イオは白い花をためつすがめつして、結局それ意外の用途を見いだせず、手袋を取った左手で花びらをむしった。
 そして、
「食べるか?」
 ルックの唇の前に持っていく。
 そのときイオの頭にあったのは、花を食べる種の鳥がいる、ということだった。
 花弁を食べるとは随分と風雅なことだが、栄養的にはどうなのだろうか。花弁にはどんな栄養分が含まれるのだろう。何にせよ、あまり腹の足しにはならないと思われるのだが。
 そんなことを考えながら、彼はきつく結ばれた薄い唇に、白い花びらを押しつけた。柔らかな感触が指先に伝わる。
 おかしい、鳥のくちばしは硬いはずなのに…
 ルックは、自分の口元を見下ろしている。
「……」
「お待たせしました」
 沈黙の後、彼が口を開き掛けたところで、給仕が品を運んできた。客がそのままの状態で止まっているのを無視して、皿を並べていく。
「ご注文の品は以上でよろしいでしょうか」
 イオが無言で頷くと、給仕は伝票を置いて去っていった。爽やかな後ろ姿だ。
 ルックが唇に押しつけられたままの手を押しのけて、食器を手に取る。黙々と野菜を食べ始める前で、イオは花びらの処置に困って辺りを見回した。
 しかし、そんなことをしても視界に映るのはがらんとした食堂だけだ。一人きりの老人が、のどかに早朝の白い空を眺めている。給仕が、少なくなった水をつぎ足していた。
 イオは花びらを見下ろす。
「食べれば?」
 食事を口に運ぶ合間に、氷点下の声でルックが言った。

* * *

 もともと朝食をとることが稀なルックは、勝手が違ったとでもいうように、少し物憂げな表情で歩いている。身体の調子が狂ったのかもしれない。
 イオは、無断で拝借してきた白梅の枝を、くるくると回しながら歩く。
 花の香りが漂う。
 城内は、そろそろ動き出した機能とともに少しずつ活気づいてきていた。
 空気が先刻までには感じられなかった茫洋とした熱を帯びていく。それは心地よい感覚であると同時に、酷く煩わしい。人の気配がすることの安心感と、澄んだ空気が澱んでいくことへの嫌悪感がある。
 鳥の声が、先刻から喧しく聞こえている。
 廊下を抜け、大広間に出る。
 定位置に戻ろうとしたルックを、服の裾をまた掴んで引き留めた。彼は不機嫌に振り返り、イオを睨む。
「何?」
「ちょっと付き合え」
「いやだ」
 即答して、ルックは裾を引いた。しかし今度は簡単には振り切れない。イオは服の裾の代わりに細い手首を捕まえた。親指と中指が触れ合ってしまえるほど、細い。
 大広間にはまだ人がいない。
 イオは白梅の枝をルックの口元に突きつけた。白い花弁が衝撃で幾枚か舞った。ルックは唇に当てられた薫り高い花に顔をしかめる。
「屋上に行こう」
「なんで」
 唇に触れる白梅を気にしながら、口の中で呟くようにルックは言う。
「行きたいから」
「行きたいのはあんたであって、僕じゃないだろ」
「いいだろそんな細かいこと」
 イオは強引にルックの手を引いた。何か茫洋としたものが、彼を呼んでいた。

* * *

「眩しい」
 ルックは目を細めて、掌を瞼の上にかざした。
 イオは特に何を言うでもなく、白梅の枝を回した。甘い香が空気に溶けていく。乱暴に振り回されて、花びらはもうほとんどなくなってしまった。
 イオは迷ってから、屋上の縁まで歩いていって、柵の上に枝を置いた。ルックはしきりに目をしばたたいて、明るさに慣れようとしながら、手を引かれて手摺のほうへとついてくる。
 そこまで来てからようやく、イオは細い手首を解放した。
 白い手は赤錆の浮いた手摺に触れ、ささくれた表面に驚いたように離された。
 イオはそれを見て、それから、屋上を取り囲む風景を眺めた。
 徐々に蒼くなっていく空と、山頂に丸いかたちを見せた太陽が輝いている。降り注ぐ日射しを弾いて、草原の緑がいっそう映えている。
 眼下を見下ろせば人影がちらほらと見え始め、忙しく働く人間たちはまるで指人形のようだ。
 そしてまた空を見上げれば、あの、鈍重そうな鳥たちがまだ飛んでいた。滑空しては、翼を重たげにはばたかせて風に乗り、また宙を滑る。その一連の動きは滑らかなのに、イオにはどうしても、そのはばたく仕草がのろまに見えて苛立たしい。
「なんで飛べないんだろう」
 イオは呟いた。
 本当は、飛ぶことにこだわっているわけではない。空を飛んでみたいと思わないわけではないが、実際に地に足がつかない状態になれば、恐怖で何も考えられなくなりそうだ。第一空を飛んで、何かが変わるわけでもない。たまに想像して、爽快な気分になるだけで充分だった。
 だからその呟きは、冬に寒い、昼時に腹が減ったと言うのと同じような、条件反射のように口をつく言葉でしかなかったのだが、
「なんだ、飛びたいの?」
 ルックはあっさりと言った。得心のいったような表情でイオを見る。どうやら、それで無理矢理連れてこられたのだと思ったらしい。
 イオは独り言に返事をされたのと、あまりにもあっさりと言われたことに絶句する。
「…飛べるのか?」
「飛べるよ」
 何を言っているのか、という風に、ルックは眉を寄せる。
「空気の流れを調節して、下からだけ風を吹かせて身体を持ち上げればいい。――あまり快適とは言い難いけど」
 そのロマンも何もない解説に、イオは脱力した。つまり、風の紋章が可能にするものの一つということか。聞く限りでは、確かにかなり消耗しそうだ。
 手摺に肘を付いて、イオは嘆息する。
「そういうのじゃない…」
「じゃあ、どんなのだよ」
 そう言われれば返す言葉がない。イオは黙り込んだ。
 ルックは彼をへこませたことに何の感慨も抱かず、長い睫を伏せて風を受けている。枯色の髪が風に煽られてなびき、細い先端が空気に解ける。
 その瞬間、どうしてだか、彼が鳥のように見えた。
 イオは咄嗟に手を伸ばして、乱れた髪を撫でつけた。
「なに?」
「いや…飛べないのなんか当たり前だよな」
「は?」
 冷たい声で、ルックは哀れむような眼差しをイオに向けた。
「――とうとう完全に壊れた?」
「それを面と向かって人に言うか」
 憮然として、柔らかい髪を撫でると、ルックは俯いて、少し目を細めたようだ。気持ちいいなどとは、口が裂けても言わないだろうが。
 だからイオも、置いて行かれるかと思ったことなど、言わない。
「ま、飛べなくても死なないよな」
「何当たり前のこと言ってんの」
 指の間をすり抜けていく髪の感触が心地よい。
「朝っぱらから連れ回して、結局何がしたかったんだよ」
 イオはルックの言葉に応えずに、黙って髪を撫でる。
 それは彼自身にもわからないことだった。ここへ来たのは、ただ、何か漠然とした、予感に似た確信があっただけだ。それはとても弱々しいものだったが、絶対的な引力を持っていた。
 先刻の、鳥のような彼の、光に溶け出した体の輪郭が頭をよぎった。
「ここに来る前、北のほうに行ったとき、雪を見て」
 不意に思い出したことをそのまま口に出した。
「別に目的なんかなくてただ北のほうに行きたかったから、北に行ったんだけど」
 思いがけず、雪を見ることができた。
 延々と旅をしてきた長い距離。全身に溜まっていた疲労が、その一瞬で昇華されたほど見事な光景だった。
「そのとき、俺はそれが見たかったんだと思ったんだよな」
 勘でも予感でもなく、巡り合わせのように自然に出会うものがある。
 それはもしかすると、理性が後から付け加えた、理不尽な行動を説明するための言い訳の感情なのかもしれない。それでも、心はその鮮やかな瞬間をいつまでも覚えている。
 理由など必要としない。どこか遠い刹那に向かうためだけに蓄えられた衝動が、理性を揺さぶり、身体を突き動かすのだ。
 鳥の群れや、活けられた白梅、細い手首に覚えた予感が、つまりそれだった。
 きっととても幸せなことが、自分を待っているという確信。
「…いつから予言者になったんだよ」
 ルックは溜息を吐き出すように言ったきり、面を伏せている。彼はイオの言いたいことがわかったのが悔しいというように、目を合わせようとしなかった。
 それを、頭の後ろに回した手でゆっくりとこちらを向かせ、目を合わせたまま軽く唇を重ねた。柔らかい。鳥ではないのだから当たり前だ。
 下唇を舐めると、微かに花の味がした。
 僅かに伏せられた瞳の、その、とろけるような色合い。
 二の腕に触れた微かな温度。
 いったん唇を離して、向き直る。
「まあ要するに、散歩の誘いに理由は必要ないってことだけどな」
「…くだらない」
 ルックは小さく呟く。
 イオは口元に緩く笑みを刻み、もう一度彼を引き寄せた。
 だんだん蒼くなっていく空を、白い鳥が這っていった。