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第四十六回:加古川宿界隈を歩く N ―豊沢団平@―
寺家町(じけまち)商店街から南へ少し入った光念寺の裏手に、古い面影をところどころに残している街並みの一画があります。かつて「大劇」と呼ばれた映画館がありましたが、今はなく駐車場となっています。道沿いの金網にへばりつくように、高さ1mあまりの角柱石が伺え、江戸時代末期から明治時代にかけて文楽三味線の名人として知られた「豊沢団平生誕の地」の文字が表面に見えます。裏面には加古川市教育委員会が昭和32年に建てたと彫っています。義太夫節の隆盛を築き「壺坂霊験記」など数多く名作を残しているにもかかわらず、周辺には石碑以外、団平生誕の地を偲ぶものは何も残っていません。
有吉佐和子著の小説『一の糸』の文学作品の素材となった団平は、文政10年(1827)3月21日に加古郡寺家町(加古川市寺家町)で4人兄妹の末っ子として生まれ、本名は加古仁兵衛、幼名を丑之助と呼ばれました。醤油醸造の家業は父の遊びが原因で財産を失ったため、丑之助は生家を離れ大坂へ出て母の弟の養子になります。新しい環境のなかで浄瑠璃を習い、三味線の名人・三代目豊沢広助に入門しました。天保9年(1838)11歳の春には力松と名乗り、修行に入った二年後には大坂・天満の芝居に出て三段目を弾いています。
「豊沢団平」を襲名したのは、弘化元年(1844)でした。当時の名人・竹本長門太夫の相三味線を、鶴沢清七の代役で努め、清七が亡くなってからは9年間を長門太夫の相三味線となっています。長門太夫が亡くなったあとは、五代目・春太夫、染太夫と弾き、摂津大椽、大隅太夫ら多くを育てました。
団平の若いころの逸話が残っています。義太夫の修業が苦しく故郷へ戻りたくなり、加古川の渡し舟に乗りました。船頭の「一日休んだら棹が思うように使えない」という言葉に「ハッ」としたのです。日々の練習をしていても大変なのに、こんなことをしていられない、と思ったのでしょう。慌てて大坂へ戻り今まで以上に修業へ熱を入れて励んだといいます。
芸人は舞台で死ねたら本望、といわれますが、団平はまさにそうであったかもしれません。稲荷座の初日で大隅太夫と共に出演して最も得意とする「志度寺」を弾いていました。曲も終りに近づいたとき、バチを持ったまま大往生を遂げたのです。明治31年4月1日73歳の人生を終えたのでした。加古川町粟津の常徳寺には墓碑が建てられています。
団平について、同じ寺家町出身で加古川市名誉市民第一号になった演劇評論家の故三宅周太郎氏は、「日本のベートーベン」と評しています。ただ、地元では「豊沢団平」の名前があまり知られていないのが残念です。
20150315 岡田 功(加古川史学会)
豊沢団平生誕の碑