日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第二十四回 古の港B
第二十五回 天空への階段
第二十六回 海と川の境界線@
第二十五回:天空への階段―加古川市平荘町・東神吉町―

 天へとつながっている、と伝わる石の橋があります。
 いにしえより、階段を上り下りに利用して八十人衆(やそびともろもろ)の神々が天空とを往来していました。いつしか、ここを「八十橋(やそばし)」と呼ぶようになりました――。奈良時代の『播磨国風土記』に記すおはなしです。
 日岡山展望台から西方を眺めると、加古川右岸沿いに平荘湖が見えます。大空にでも延びるかのような石段は、湖南側の山すその、東神吉町升田と平荘町池尻の境にあります。案内板の目印があり、木々に覆われた石段を登ると、加古川や街並み、遠くの瀬戸内海などが眺望できます。
 偶然にできた自然の岩場ではないようです。何の目的で造られたのでしょうか。いろいろな推理を立てられますが、風土記の記述「石を以(も)って斗(ます)と乎気(をけ)を作れり」から、古墳に埋葬する石棺を製作する場所ではないか、といわれています。
 東播磨地域は、古代から石材を産出する土地として全国に知られています。龍山(高砂市)、長(おさ)・高室(加西市)などを総称して「竜山石」と呼びますが、今でも龍山などでは石切の風景が見受けられます。
 風土記が著されたころには、付近でも切り出しが行われていたのでしょう。「八十人衆」ですが、石材を細工する石工(いしく)の意味で、人数ではなく「数多く」なのです。石室の石や石棺に仕上げる役割を果たしていた人々ですが、それだけの需要はあったのでした。周辺には、大小を含め幾つもの古墳をみることができます。半径1`圏内の平荘湖付近だけでも、北西には古墳時代後期の円墳が10基もある升田山古墳群、北方の飯盛山古墳群は同時代で6基、ふもとの池尻古墳群にも数基、湖の築造に伴ない水没した10数基あまりを入れれば、確認しているだけでもかなりの数になってしまいます。
 そればかりではありません。古墳から掘り出され、野ざらしの石棺や仏さんなどを彫り
こんだ石棺仏があります。今でも道路や神社、寺院、墓地にはたくさん残っています。近隣では、湖畔の弁天神社に稚児屈(ちごがぐつ)古墳出土で、長さ約2m、幅1.5mの大きな家型石棺の蓋が置かれ、池尻の地蔵寺でも数基を見ることができるのです。
 このように、近距離に多く散在する古墳や石棺をみましても、需要は多くあったといえます。現在のような機械ではなく、手作業ですから長い月日がかかったのでしょう。切り出した崖地へ作業をする人々が行き来する風景から、神々が舞い降りたり登ったりしていく、と空想を働かせたのです。風土記は、大きな夢のある物語として伝えようとしたのかもしれません。
                             20120909 岡田 功(加古川史学会)