傾国

性質が悪い

「あれっ、ルルーシュだけ?」
「スザクか」
 生徒会室の扉を開けると、そこにはルルーシュしかいなかった。
 テーブルの上には書類と筆記具が乱雑にまき散らされているが、彼がそれを片づける様子はない。スザクは彼ががさつになったことを、再度確認する。もっとも、片づけてもすぐに散らかるためかもしれないが。
「今日は軍務、なくなったのか?」
 第二声がそれだ。ルルーシュはあからさまに――スザクにとってはあからさまに感じられるくらいに、喜色を隠しきれていない声で言った。こういうときスザクは、彼が、自分のことをとても好きなのだな、と感じる。それは照れくさいが、嬉しいことでもあった。
 ルルーシュはついと手を伸ばし、自分の隣に座るように差し招く。それに応じて、どうやら空席らしい椅子を引き、腰掛けた。
「うん、今日は上司が会議で一日いないから、あんまりすることなくて…学校に行ってきなさいって、言ってもらえたから戻ってきた」
「…そうか」
 一瞬の間をおいて、ルルーシュは複雑そうに微笑む。
「みんなは?」
「会長たちは部の予算の交渉にでも行ったんだろう。シャーリーは、大会が近いらしくて、今日も部活だ。カレンは来ていないだろ、学校に」
「ああそうか。それで、ルルーシュはどうしてここに残ってるの?」
 邪気のない質問に、彼は目を細め、片眉を上げる。それから指を一本すっと立て、顔に寄せた。日本語の「し」の発音に引き結ばれた唇の隙間から、白く形よい歯が見えた。
「…え、サボってるの?」
「いいや? 来たら、もう、誰もいなかったんだ」
 にっこりと笑う。その顔は変わらず麗々しいが、スザクは不思議なものを見る気持ちになった。七年前のルルーシュは、怠惰が嫌いだったし、責任を負わない者も嫌いだった。その潔癖さは敵意になり、彼はいつも、人に慣れない獣のようだった。皇族という身分が露見するとまずい彼の今の立場からすれば、あのころのような肩の力が抜けるのは好ましいことなのかもしれない。
「何してたの」
「仕事」
 素っ気なく答え、ルルーシュはおざなりに、書類を振って見せた。スザクが部屋に入ってきて以降、読む様子もなかったものだ。苦笑するしかない。
「僕、何か仕事あるかな」
「あるけど。おまえ、真面目になったんだな。…まあ、昔も真面目は真面目だったか」
 からかう声音でそう言うと、ルルーシュは背もたれから身を起こし、机の上の書類を探った。
「これが、会長が次にやろうとしているイベントの企画一覧なんだが、却下するために問題点をあげつらう必要があるんだ」
「あ、却下は決まってるんだ」
「当たり前だろ」
 差し出された書類を受け取ると、そこにはずらりとイベント名が書かれている。細かく加えられた註釈には、二種類の字があった。どうやらシャーリーが部活に出るまで、二人で仕事をしていたらしい。ルルーシュの字のほうは疎らにしか見あたらないが、二人の共同作業ってやつだな、とスザクは思う。
「うーん。…歌留多大会、はわかるけど、格安ファッションショー…ってなんだろう。レース編みレース…なんか不思議なものが多いんだね」
「会長の趣味だからな」
 生徒会内・睫マッチ載せ選手権という、まだ却下理由が記されていない項目を見つけ、ううん、と小さく唸ると、そこらに散らかっていたペンを手に取る。そしてとりあえず「ルルーシュの記録は二本」とつけ加えた。
「…バカか」
 見守っていたらしいルルーシュが、気の抜けた声で毒づいた。二人の共同作業を邪魔してしまったかなと思案していたスザクは、その罵りにふと気づいた。
「あ、そうか。睫って、大きくなると、変化するもの? 赤ちゃんの睫って、柔らかくて、何も載せられそうにないもんね」
「そういうことを言ってるんじゃない」
 ルルーシュはますます、珍妙な顔つきになったが、スザクは「再記録の必要性あり?」と付け加えた。
「……」
 沈黙を納得と受け取り、スザクは他の項目をつぶさにチェックする。
「わんこパスタ大食い競争…は、胃にもたれるし…わんこである必要性がなく、また、パスタは長時間外気に触れると…」
「……スザクそこ。綴りが違う」
「え、どこ?」
「前置詞も抜けてる」
「……」
 スザクは無言で訂正した。言語ははっきりと使い分けているので、混合することはないが、誤字や単語忘れはいまだになくならない。しかし、ルルーシュの女性めいた細い指で丁寧に指摘されると、なぜだか無性に恥ずかしかった。家庭教師の一人だった若い女性を思い出すからかもしれない。
 ルルーシュの指。チェスの駒をつまむのが似合う、優雅な指だ。今は所有者の知れない、シンプルというよりチープなペンを持っているが。
 そのペンが、いきなりくるりと回った。
「へっ?」
「何か、俺の指に文句があるのか?」
 意識せず、不躾に凝視していたらしい。ルルーシュを見ると、明らかにからかう光が瞳にあった。スザクは苦笑する。
「いや、うん…それ、懐かしいね」
 何を考えていたのかは言えず、話題を逸らす。たしか、一時期学生の間で流行していたという遊びだ。
「これか。少し前、会長が練習を強制したんだ」
 ルルーシュの指さばきは、安定していて速い。黒と透明、二色のプラスチックが、二つの円を描いた。スザクはまじまじとそれを見つめた。
「上手いね」
「そりゃ、二時間ひたすら練習すればな。もっとも、生徒会内選手権は、リヴァルの圧勝だ。あいつは手先が器用だから」
「へえ」
 今度見せてもらおうと思いながら、スザクはとりあえず、自分でも回してみようとした。しかし、はじめての挑戦は、おそらくもっとも下手な結果を招いた。ペンはスザクの指に弾かれ、思い切り手から離れた。
「あああ」
 ほとんど直線に近い放物線を描いたペンは、開いていた窓の桟にぶつかった。短いそこを転がって、すぐ下に落ちたようだ。
「バカ」
 ルルーシュは端的になじると、立ち上がった。スザクは慌てて後を追い、椅子を鳴らす。
「座ってろよ」
「そんなこと言っても」
 ルルーシュは肩の上だけで振り返るとそう言い、机を回り込んで窓に歩み寄る。
 スザクは渋った。彼がいいと言っても、ただ座って待っているのも居心地が悪いのだ。結局ルルーシュの後について窓際まで行くと、ちらりとこちらを見た彼に呆れた目を向けられた。
「この間も言っただろ、今は俺がホストだ」
「ここは君の家じゃないよ」
「似たようなものだろ。俺のほうが、この学校には長いぞ」
 クラブハウスに住んでるしな、と呟いて、それからルルーシュは、含むところを隠しきれない笑みを口元に乗せた。
「それに、俺のほうが身長、高いからな。窓の下に落ちてるだろう、手も届きやすいぞ?」
「たった2cmだろ」
 むっとしつつも、そのたかだか2cmの差を埋めることがどれだけ難しいかを知っているので、大きな口を叩くわけにもいかない。日本人は概して、ブリタニア人よりも小柄な民族なのだ。とはいえ、腕力や体力では負ける気がしないが。
 ふふふ、と優越心を思い切り笑声に乗せて、ルルーシュは窓の下を覗いた。
「ああ、やっぱりすぐそこに落ちてる。これなら、わざわざ出なくてもいいだろ」
 不意に、学生服の上体が消えた。ベルトのバックルが窓枠に擦れて、耳障りな音を立てる。
 ルルーシュの腰は細い。それが、頼りなげにふらふらと揺れるのを、スザクは見つめた。彼にはそんなつもりはなかったのだが、目が離せなくなってしまったのだ。
「う」
 潰れたような声を出して、ルルーシュは前のめりになった。桟で腹が圧迫されたのだろう。
「ルルーシュ、代わるよ」
「代わってどうするんだ176cm、黙って見てろ、」
 くぐもった声が返り、スザクは困る。見てろって、何をだろう。
 彼の視線は、ルルーシュの腰のあたりをうろついた。やはり細い。小さい尻だ。ルルーシュは運動は苦手だというが、運動神経はいいのだ。身体も貧弱というわけではない。スザクと比べればともかく、それなりに筋肉がついて、引き締まっている。
「ああ、会長」
 窓の外で声がした。どうやら、ミレイが通りかかったらしい。ルルーシュが声をかけたのだ。
「ルルちゃん、生徒会サボって何してるのよ、そんなところで…って、生徒会室か」
「遅刻しましたすみません。仕事はしています。…この下に、ペンを落としたんです。ちょうどいい、拾っていただけますか」
「いいわよお、いくら出すの?」
 スザクの位置からは見えないが、彼女はたぶん、あの悪戯っぽい笑みを浮かべているのだろう。
「会長の机の上にある、未採決のしょる ひっ?」
 ルルーシュがしゃっくりに似た、素っ頓狂な声を上げた。
 彼は学園の皆が思っているよりも、うっかりしている。物忘れ等のことではなく、行動や思考法が、どこか間抜けているのだ。だから、あの猫探しのときナナリーは珍しいと言ったそうだけれど、一緒にいれば、素っ頓狂な声の一つや二つ聞けるだろう。彼は妹の前では、常に冷静で慈愛に溢れているが、それ以外の場では案外気を抜いているのだ。
 スザクは、ルルーシュはかっこつけだなあと思う。思いながら、手を動かす。
「わっ、うわ」
 ルルーシュが焦っている。それはなかなか珍しい。どうかしたのだろうか。
 長い両脚が、前のめりになったせいで宙に浮いた。落ちるのは、窓枠に着いた両手がかろうじて防いだようだ。そのうち片方の腕が背中のほうに回され、何かを探るように、ふらふらと揺らされる。
「おいっ、なに、だれ…すざ、スザクっ!?」
 彼らしからぬ動揺を大盤振る舞いされ名前を呼ばれて、スザクははっと我に返る。
 いつの間にか、右手が、ルルーシュの太腿、それも内腿のあたりにあった。付け根あたりのきわどいところを、鷲掴むようにしている。どうやら、筋肉のことを考えていたせいで、無意識のうちに感触を確かめていたらしい。
「あれっ、ごめん、ルルーシュ」
 自分でも思わぬ行動に照れて、スザクは手を引っ込め、真面目な顔で謝った。
「つい…」
「ついで人の尻を触るのか、おまえは!」
 上体から力が抜けたのか、ぐったりと窓枠に腹を載せて、ルルーシュはスザクを睨んだ。見上げてくる紫は混乱に潤んでいて、どこか艶めいていた。痛かったのだろうか。スザクはひどく反省した。
「いや…ぼくはよく撫でられるんだけど」
 途端に彼の双眸が、白けたようなものになる。
「おまえ…」
「やっだあ、そんなプレイ…」
 たぶんルルーシュは何か毒舌めいたことを言おうとしていたのだろうが、それは遮られた。見ると窓の外で、ミレイがなんとも言えない、――言ってしまえば親父くさい表情で、二人を見ていた。
 ルルーシュの顔がさっと青ざめた。
「うふふふふ、誰にも言わないなんて、守れない約束を私はしないわよお?」
「真実に反する噂を流すのはやめてください!」
 必死の抗弁を、ミレイは木の葉のように吹き飛ばした。たぶん、その魅力的な唇の先ではなく、鼻先で。
「スザクがルルちゃんのお尻を撫でたのは、紛れもない事実でしょ」
「それにいらない情報を混ぜるなということです!」
 猫祭りでの後遺症だろうか、誰よりも猫じみていた少年が噛みつく様は、やはり猫のようだ。装着してもいないのに、猫の耳と尻尾が見えるような気がした。スザクのそんな感想は、多少、現実逃避が混じっていたのかもしれない。
 ミレイはいつもの、イベントに騒ぐ女子学生の見本そのものの風情で、輝いている。
「わかったわよぉ。じゃあね、『生徒会室で二人っきりのときに、スザクがルルーシュのお尻を撫でていました』って言うからね」
「最低限のことだけ抜き出すのもやめてください!」
 ルルーシュは押し殺した怒りと羞恥に声をくぐもらせている。スザクは、自分も口添えしようとした。
「そうです、会長さん。僕は、そんな、無節操に人に、その…さわるようなこと、しないですよ。痴漢じゃないんですから」
 唖然として彼を見上げている顔に気づかず、スザクは強く主張した。ミレイは訳知り顔で頷いた。
「ルルちゃんが特別ってことね?」
「おまえもう黙れよ!」
 沈黙から復活したルルーシュが振り返り、ものすごい形相で睨みつけてきた。フォローしようとしているのになぜ怒られるのか。スザクは理不尽さに唇を尖らせる。
「何、聞き分けない顔してるんだ、おまえ」
「あらー、見かけないスザクね」
 物珍しそうに窓の外から覗き込んでくるミレイに、スザクは再び訴えた。
「会長さんだって、僕と同じ立場にいたら、同じ事をしますよ」
「へえ、どうかしら」
「するか!」
「だって、ルルーシュのお…えっと腰は、小さいけど、なんていうかすごいんですよ!」
「猥褻物みたいな言い方はよせ! スザク今すぐその口を閉じろ、おい聞いてるのか!」
 猥褻物というのはなかなか的を射た表現だと思いつつ、ルルーシュの言葉は無視する。彼は、自分の容貌や姿態が人に与える影響について、些か認識不足なのだ。ちょうどいい。この機会に自覚させておくべきだろう。
「ルルーシュ、黙って。君も少しは、自分のことについて客観的な意見を聞いておいたほうがいいんだよ」
 強い口調でそう言うと、ルルーシュの口が、ぱかりと間抜けに開いた。
「…なんだ、俺は今、説教されているのか? そんなばかな、そんな…」
 ごく真顔のスザクに、衝撃を受けたような顔で呆けてから、ルルーシュは俯いた。想定外のことがあると、彼は立ち直りが遅い。
 二人のやりとりを口を挟まずに聞いていたミレイが、じっくりと考慮したらしい結果を主張した。
「私、お尻はスザクのほうが好きよ?」
「え…えっと…でも自分のは自分で見られないでしょ?」
「なるほどお」
 聡明な生徒会長は、本当に感心したような声を出した。納得されたのがなんとなく嬉しく、スザクはつい、口を滑らせた。
「たぶんなんか、ちょうど上着の裾から少しだけ見えるのが、気になったんじゃないかなと思うんですけど」
「ああ、わかるわ。日本語でいう、チラリズム、ってやつね?」
 心得顔が頷いた。スザクは首を傾げる。どうして彼女は、こんなに嬉しそうなのだろう。もちろん、嫌な顔をされるよりはずっといいのだが――なぜか、理由をあまり考えたくない。
 それにしても彼女は、なぜか日本の文化に詳しい。
「チラリズムは、女の人に使う言葉じゃないかなあ…でも、感覚としては、似てると思います」
「そうなの。ルルちゃんったら、罪なお尻ね」
「そうなんです」
 スザクは重々しく頷いた。すべてはルルーシュの腰が悪いのだ。
 猫じゃらしに翻弄される猫の気持ちがわかったスザクである。受け手側の心情に経験を得たからには、次からは、もっと合理的に迫れるのではないか。なるべく早いうちにナナリーにでも協力を頼んで、アーサーで試させてもらうべきだろう。
 密かな期待を胸に抱いたスザクは、しかしそんなことはお首にも出さなかった。代わりに、彼はたしなめる声を出した。
「まったく、ルルーシュって、タチが悪いんだからさ」
「…タチが悪いのはお前だ!」
 呆然として事態を見守っていたルルーシュは、一度高く首を上げて怒鳴ると、力尽きたようにがっくりとうなだれた。
 けらけらと笑うミレイの背後を、不思議そうな目で乗馬部が横切る。男子生徒の好奇心に満ちた視線が未練ありげに三人の生徒会員に留まり続ける中、鹿毛は生徒会室を一顧だにせず、澄ました顔で去っていった。蹄が立てる間抜けた音が、平和な学園の小径を砂埃と共に転がっていった。