傾国

紅と白が遭遇する

「カレン?」
 懐かしい声での呼びかけを聞いて、カレンは振り返ろうとした。そこで、首にまとわりつく細く透明なワイヤーが、不吉な音を立てた。
「あっ」
 数十個の真珠が一斉に落下し、不思議な響きを立てて床に打ちつけられた。素肌や服の上を、冷たく円いものが転がり落ちていく。
 カレンは呆然と、拡散していく白い輝きを見下ろした。ニッポンの海の、天然の資源でつくられた、自分が用意できる中で最上級の首飾りだった。腐るまでタンスの肥やしにしていたのが悪かったのか、ワイヤーが脆くなっていたようである。
「早く拾わないと」
 呆然と立ちつくす足下で、せっせと真珠を拾い集めている知人――枢木スザクの声に、カレンは我に返った。慌ててしゃがみ込む。
「何か袋とかは…」
「ええと」
 問われて自分が手に持つものを見たが、もちろんそこには、いつも持ち歩いている収納性の高い布の姿はない。薄く輝く白絹のやわな肌を持つ、小物を三つも入れたら膨らむ小さな鞄があるだけだ。これだから、こんな格好はしたくないのだ。
「…とりあえず、これにくるむわ」
 そこからハンカチを取り出して広げると、スザクはてのひらにあふれる真珠をそこに流した。かすかな重みがかかる。繊細なレース細工に包まれたそれは、ひどく間抜けに見えた。
「踏まないように気をつけて」
「うん」
 人通りの少ない廊下だったことが幸いだった。かなり遠くまで転がっていったものまですべて回収し終えて、どうにか鞄に詰め込むと、カレンは息をつく。スザクは少し遠くの廊下まで行っていたが、周囲を見回して戻ってきた。彼に向かって肩をすくめる。
「ありがとう。…やっちゃったわ…」
「ワイヤーだけなら、すぐ直るよ」
 慰めるように微笑んでから、スザクは彼女をまじまじと見つめた。
「誰かと思った」
 カレンはつられて、床に広がる自分の衣服の裾を見下ろす。骨組みによって膨らんだ黄色いスカートに、合間に重ねられた白いレース地には髪に合わせた紅い刺繍が施され、照明を反射して煌めいている。紅いサテンのリボンの下に大きく開かれた胸元には、飾りを失った寂しさを補うように、くっきりと柔らかな谷間が刻まれていた。肩の布地はゆったりとした曲線を持ち、繊弱とは言えない二の腕の筋肉を隠す。いつもはねたままの髪もどうにか撫でつけて、首筋に沿って流されている。
「何よ? 似合わないって?」
「いや、すごくきれいだよ」
 間髪入れず答えが返ってくる。
 耳に心地よい言葉だが、購買で昼食を注文をするのと同じような表情で言われては喜ぶ気になれない。カレンは鼻を鳴らした。
「それはどうも」
「そういう格好をしているの、はじめて見たな。本当に似合ってる」
「ありがとう、って言っておく」
 肩をすくめると、スザクは微笑したまま、困ったように眉を寄せた。自分の言葉がカレンの琴線を揺さぶらないことに、諦念を感じているようだった。別にカレンを誘惑したいなどとは考えていないだろうのに、無自覚で女を誑しこむ言動は相変わらずのようだ。
「そんなことはどうでもいいんだけど、あなた、どうしてここにいるの?」
 少し不格好な輪郭になった鞄を抱え直すと、カレンは彼に向き直った。
 政庁の敷地にひっそりと存在するここは、騎士に関する事項を取り扱う建物である。登録からナイトメアの搭乗手続き、騎士が形成する親衛隊の組織等を行っている。そのデリケートさから他とは切り離されているものの、交戦中や、親衛隊希望者が殺到する一時期を除いてはあまり忙しい部署ではない。処理するたいていの用件は通信によって行われるため、実際にここを訪れる者はほとんどいなかった。
 カレンはその通信設備を利用した、皇帝との謁見を控えていた。同じ惑星上にこそいるものの、ただの五分間の報告のために別大陸の皇宮までおもむく必要はない、というのがルルーシュの弁だった。
 そのルルーシュがカレンのエスコートを放棄しているのは、カレンの騎士登録に、煩雑な手続きを要しているからだ。将来騎士の誓いを解約するときのために、下準備をしておくのだと言っていた。その間、どこかで休んでいろと言われ、カレンは慣れないドレスのままくつろげる場所を探していたのだった。
 カレンと同様、スザクもたまに見かけた私服ではなく、一見して高価な布地を使っていると知れる衣服に身を包んでいた。白を基調にし、金糸の精緻な刺繍で飾られたかっちりとした仕立てだが、それが何の制服なのか、カレンにはわからない。
「話すと長くなるんだけど… あ、それより」
 スザクは言葉を探して、結局あいまいに濁した。
「カレンこそ。…決まったの?」
 彼女の境遇を覚えているのだろう、少し聞きづらそうに尋ねる。その様子に、カレンは違和感をおぼえる。
「一応、決まったからここにいるんだけど、…もしかして、聞いてないの?」
「何を?」
 スザクは不思議そうに首を傾げた。今度はカレンが、困惑して立ちすくむ。
 ルルーシュは詳しい事情を話さなかったが、自分がルルーシュに、騎士として選ばれたのは、この少年の代わりだと理解していた。軍功があるわけではない一介の兵士を騎士にするのには、さすがに差し障りがあったのだろう。かといって、皇族の初陣には騎士が必要だ。彼が成り上がるまで、その務めを果たすこと。それがカレンの割り振られた役割なのだと、彼女は判断していた。
 しかし、それをスザクがおもしろく思うわけもない。その場しのぎであろうと、自分を押しのけて騎士の座を奪われるのだ。だからこそ、この場にいたくはないのでは、と思っていた。それとも、カレンはあくまで仮初めの騎士であり、その役割は自分のものなのだと、牽制に来たのだろうか――
「カレン、誰とここに?」
 そうやって考え込んでいたので、スザクの問いに、何も身構えることなくカレンは答えていた。
「ああ…ルルーシュと、」
「――スザク!」
 年頃の少女の、弾むような声が廊下に響いた。カレンがそちらに意識を向けてから、数拍置いて、スザクが振り向く。
 彼に紹介されなくても、カレンはその少女を知っていた。
 第八位の皇位継承者、ユーフェミア・リ・ブリタニアだ。はっきりと色の出た菫色の双眸、甘い顔立ちに、軽く波打つ桃色がかった長髪。上品な淡紅色を重ね、独特のカットをした柔らかな白いドレスをまとった彼女は、無骨な灰色の壁面の中に囲まれてさえ花の精のようだった。
 彼女はカレンを視界の端にとらえたはずだった。しかし、何ごとにも気づいていないかのように、満面の笑みでたおやかな両手を組み合わせた。
「スザク、お待たせしました。登録の確認が、思ったより早くすんだの」
「あ、いえ…」
 スザクは言葉少なにそう返す。彼の後ろ姿を、カレンは呆然と眺めた。皇族に対する礼をとるのも忘れる。
「殿下… 他の… 護衛の方たちは? ひとりで、歩かれるのは…」
「置いてきました。スザクがいますもの、平気でしょう?」
 にっこりと笑うユーフェミアの瞳には、全幅に近い信頼が込められている。その姿を見せつけるようにしばらくスザクを見つめ、それから、彼女はようやくカレンに視線を移す。
「こちらの方は、どなたなの?」
 紹介してくださいますよね、とユーフェミアはスザクに請う。カレンを見てはいるが、彼女が意識しているのがスザクだけであることはあからさまだった。菫の中に敵意と嫉妬が見てとれる。
「…そういうことなのか、枢木スザク」
 ルルーシュの、自嘲するような顔。
 彼はスザクのことを話したがらなかった。あれほど執着し、不自然なまでに寄り添っていたというのに、カレンが水を向けてもいつも、言葉を濁した。気安く手を伸ばした先に彼女の姿を見つけて呆然とする姿を、何度も見せられた。
 カレンはすぐにでも暴れだそうとする衝動を腹の底に飲み下し、瞼を伏せた。力を込めた手指で、ドレスのスカートをつまんだ。厚めの布地に不格好な皺が寄る。
 小首を傾げて、カレンは少女に微笑んだ。
「お初にお目にかかります、ユーフェミア皇女殿下。わたくしは、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの騎士、シュタットフェルト家のカレンと申します」
「…まあ! ルルー…」
「カレン、君が――ルルーシュの、騎士だって?」
 低い声が、少女の驚きの声を遮った。
 スザクはユーフェミアのほうを向いたままだった。少し俯いて、彼の表情は窺えない。僅かに見える耳元だけでは、彼が何を感じているのか、知ることはできなかった。
「そうよ。ルルーシュは、私が守る」
 挑発の声音で笑むと、そこでようやく、スザクは振り返った。その顔を確認する前に、カレンは次の言葉を投げつけていた。
「あんたみたいな裏切り者じゃなくってね!」
 スザクが目を見開く。円い緑の中で、その瞳孔がぎゅっと開くのをカレンは見た。
「あなた…! 中傷にも程があります、控えなさい!」
 たちまち強ばった顔で、ユーフェミアが叱責する。カレンはそれに冷たい視線を返した。自分でも信じられないほど残酷な気持ちになっていた。
「これは私とスザクの問題です、皇女殿下。勝手も知らぬところへ嘴を突っ込んで、そのお腰についた殻を落とされぬよう、ご注意なさいませ」
「…!」
 カレンの視界の隅で、ユーフェミアは柔和な面立ちを一気に張り詰めさせた。皇室侮辱として捕らえられてもおかしくないほどの発言である。
「それが真実だとしても、いったいあなたは何様のつもりですか! それにスザクは私の騎士です! 私には彼に関わる権利がちゃんとあります!!」
 ユーフェミアは憤然として言い放った。
 スザクが濁した確証を得て、カレンは全身が熱くなる中、すっと心が冷めていくのを自覚した。頬が痙攣し、歪んだ笑みを形づくる。怒りで笑い出したくなるのははじめてだった。
「次に会っても、もう話しかけないでね」
 スザクを見て目を細める。激情のあまり、視界が揺れていた。
「あんたとは縁を切る」
「お待ちなさい!」
「申し訳ないのですが、わたくしの主が待っておられますので、失礼いたします」
 淡い色のドレスが舞う。指先までを培った優美さに満たして、カレンは腰を落とした。すぐさま踵を返し、背中にかかる声をすべて跳ね返した。
 彼女がその場を立ち去るまで、スザクは一言も口をきかなかった。