傾国

STAGE 17 / Between the lines

断頭台まであと少し

「セシルさん、それで、いったい何の用なんですか?」
 校門を出る辺りで、振り返って尋ねたスザクは、後悔した。いつの間にか追い抜いていた上官は、顔を真っ赤にして、肩で息をしている。それでも優しげな微笑みを浮かべるので、スザクはのたうちまわりそうな罪悪感に襲われた。慌てて立ち止まる。
「す、すみません」
「何が?」
 気遣うようにきょとんと目を見張ってから、セシルは、ふう、と息をついた。こめかみに汗が光っている。
「…私もよく、聞いてないのだけれど、…名誉なこと、だとか」
 途切れる言葉の端々に、少し苦しそうな呼吸が混じる。
「あの、少し休みましょう!」
「あら、そう?」
 首を傾げたものの、セシルが壁に手をついたので、スザクはほっとする。
 それから、完全にタイミングを逃して呟いた。
「…名誉、なこと?」
 自分に何か、大それた役回りが回ってくるとは考えられない。とすれば、セシルの勘違いで、特派としてではなく、名誉ブリタニア人としての命令が下ったのかもしれなかった。しかし、名誉ブリタニア人にしかできないことなど、別段ないはずだ。コーネリアがナンバーズを厭っているため、クロヴィス麾下にあった名誉ブリタニア人の部隊は、今は散り散りになったと聞いている。
 スザクは心当たりを探ったが、一向に思い当たらない。
「…うーん?」
 彼は小さく唸り、そして、諦めた。どうせ、たいしたことではないだろう。
 それよりも、去り際にルルーシュにかけられた言葉が気になっていた。彼は時折、突拍子もないことを考えるので、何を言い出されるか、スザクは少し不安だった。妹がいれば、基本的に彼は一歩引く。ナナリーとスザクが話すのを聞いていることが好きなのだと言っていた。――その彼が、ナナリーの前で含みを感じさせる言葉を投げたことに、スザクは怯えていた。
 ルルーシュは、あの男は二度と来ないだろうと言った。スザクには、その言葉を信じることしかできない。
 先ほどの疾走にもびくともしなかったくせに、不意に高鳴りだした胸を、スザクは必死に宥めた。あの礼拝堂での出来事を、彼は思い出したくなかった。男が言った言葉も、ルルーシュが言った言葉も、欲しかった一部を除いて、すべてはもう、遠い彼方へと押しやっている。しかし、それは思わぬときに、思わぬところから沸き上がり、スザクを恐慌に陥れようとした。
 じわじわと内側から這い上る焦燥に、右手が震え出す。
「――はあ…、ごめんなさいね、スザクくん。行きましょうか」
「あ、僕こそ…すみません」
 体勢を整えたセシルが声を掛けたので、スザクはそこで思考を止めることができた。内心で彼女に感謝の言葉を捧げ、今度は慎重に、彼女に合わせて早足に歩き出す。
 いつもなら、校門を出てからしばらく歩き、裏門を使って、高等部から直接研究室に出入りしないように心がけている。しかし正門を出たセシルは、構わず、高等部の向かいに足を向けた。スザクは周囲を見回し、視線がないことを確認して、彼女の後に続いて道路を渡った。
 スザクの行動に気づいたセシルが、足を止め、苦笑して待っていた。
「そこまで慎重にならなくてもいいのよ?」
「いえ…ですけど、決まり事ですから」
 セシルは困ったように眉を寄せながら、それを悟られまいとしてか、笑みを深くした。何か言いたげに唇を震わせ、しかし何も言わず、再び歩き出す。守衛室の前を通り、廊下を少し進んだところで、彼女は声を上げた。
「ああ、ロイドさん」
 スザクはその声を追って、前方を見た。見慣れた姿は、茫洋として立っていた。その隣に、彼には似つかわしくない、軍服の、固い雰囲気の男が二人いた。名誉ブリタニア人の顔を見て、露骨な侮蔑の表情を向けてくる。スザクは息を呑んだ。
 不吉に上下に浮つく音が鼓膜を打ち付ける。
「やァ。遅かったね、処刑人くん」
 短い階段の上に待つ白衣の裾が、光る刃のように翻った。

真白い絹

 姫様も酷なことをなさる、とダールトンは桃色の髪を見下ろした。
 本国では、持ち主と侍女たちと、ときに姉によって手入れされ、常に艶やかだったその長い髪は、今、乱れを隠し持っている。緊張しているのだ。ろくな知識を与えられないまま、慣れない記者会見に挑もうとしているのでは、無理もないかもしれなかった。端正な横顔は、少し青ざめている。
「…あ、の、それはつまり…前総督が、どうお考えになって、そうなさったということですか?」
 蕩々とまくし立てられた、把握しておくべき兄皇子の業績を、聞き逃したのか、性質の違いゆえに理解できなかったのか。ユーフェミアは白い頬に血を上らせて、不安げに男に尋ねた。男は、侮蔑を笑顔の裏に隠し、言葉だけは丁寧に、子供にするような説明に切り替える。屈辱に、桜色の唇がそっと噛まれたのが、ダールトンからは見えた。
 ユーフェミアに政治の心得がないことは、学生の身分を捨てて表に顔を出してきて以降、国民に伝わっている。姉皇女の溺愛までは漏れていないにしろ、帝王学の教育を受けず、ただ慈愛と高潔さだけしか持ち合わせていない少女だとされていた。
 しかし、彼女は皇女の象徴でもあった。コーネリアが型破りなこともあってか、その優しい気質は強調された。年若くうつくしい容姿を持つ、姫という言葉がこれ以上なく似つかわしいユーフェミアは、国民の憧憬を多く集めている。
 ダールトンにとっての姫はコーネリアただ一人だったが、その彼でさえ、ユーフェミアは侵しがたい少女だと思う。多分に、彼女を盲目的に愛おしむ主の影響を受けているのかもしれないが。
「――では、そのとき、前総督は…」
「副総督。クロヴィス前総督のことは、もうよろしいでしょう」
 立て続けのユーフェミアの質問を、男はややうんざりとして打ち切った。
「あの方は生前から、ご自分のアプローチの仕方というものを心得ていらっしゃいました。何もこれ以上、悲しい思い出を増やすこともありません」
 義兄がなそうとしていたことへの理解を深めようとする少女の生真面目さを一蹴し、彼はユーフェミアをさりげなく詰った。
 そして、次の瞬間に、竦んだ。
「館長。…読み方に文句をつける記録紙は、いずれ身を滅ぼすとは思わぬか」
 蒼白になった男に眼光を緩め、ダールトンは軽く、鼻を鳴らす。所詮、一つの手段しか知らない、卑しい男である。クロヴィスは媚びられるのが好きだったのだろうが、新たな総督はそうではないのだと、いい加減、学ばせるべきだろう。
 ユーフェミアの視線を感じ、顔を合わせて目礼すると、淡く染まった眦に、少し穏やかさが戻ったようだった。その顔が必要なのだと、ダールトンは安堵する。
 平和的な式典には、ユーフェミアはうってつけの存在だった。
 今は、一人の皇子の無惨な死をうつくしく飾るために、彼女の憂いを帯びた足取り、沈痛な表情や震える声が欲されていた。それを求められていると、知ってか知らずか、ユーフェミアは理想的な、悲しみに沈む姫を体現している。
「これだけ、お聞きしたいのです。前総督は、もともとどのようなお考えで、芸術週間を…」
 必死に言葉を探りながら発言する彼女の、その頭蓋の中身までが問われることは少ない。
 ユーフェミアに徹底的に不足しているものは、彼女の誠意や努力ではなく、期待だ。
 そのことに、ダールトンは、多少同情の念を抱かないでもない。ユーフェミアが様々なことを考えていることは、彼にもわかっていた。ギルフォードはどうだか知らないが、コーネリアも、少しはわかっているだろう。彼女はただ、その事実を直視しようとしていないだけだ。
 考えることは悪くない。
 ダールトンはそう思っていた。うつくしい絹のように、外気に触れないよう、大切に保護されてきたものができるのは、それくらいだからだ。小鳥が籠の中で、夕食の餌に思いを馳せる程度の思慮であれば、そしてその浅慮自体に満足するならば、それを許しもしよう。
 ただ、忘れてはならないことがある。
 絹は、優しく、柔らかく、うつくしい。そして同時に、破れやすく、汚れやすいものだということを。
 時折、主の白い絹が汚れたときのことを、ダールトンは憂慮する。女たちがそれをどう扱うのか、彼は知っている。しかし、コーネリアがどう扱うのかは知らない。そもそも、主がハンカチを持ち歩いているのかも、わからない。
「…貴婦人のハンカチとは、洗濯するものか。それとも、取り替えるのだろうかな」
 思わず漏れ出た呟きを、聞こえないだろうと踏んでいたユーフェミアが受け取ったらしい。ふっくらとした唇にぎこちない微笑が浮かべられ、掠れた囁きが無骨な耳に届けられた。
「そう言えば、お姉さまはときどき、ハンカチを引き裂いてしまうんですよ」