傾国

STAGE 16 / Between the lines

一方通行

「お願いです、どうか…これを解いてください。誰にも言いませんから」
「……」
「お兄さまにも言いません、だから、」
「おまえうるさいよ!」
 マオはついに少女を怒鳴りつけた。少女はさっと口を噤む。
 はじめは、随分静かな少女だと思ったのだ。あの煩いルルーシュの妹とは思えないほど、彼女の心は落ち着いていた。数瞬の間、マオにしては珍しく、好感を持ったくらいである。しかし、マオが近づき、手を叩きながら声を掛けると、途端に彼女の心はざわついた。
 何かご用ですか、と言った声は凛としていて、顰められた眉には高貴ささえ感じられた。
 しかし、表面でどれだけ強がっていても、マオには、少女の心の内側がわかった。咄嗟に張り巡らされた警戒心は、檻のように堅牢で、彼女の兄のものに似ていた。
 少女の身体を固定した車椅子を後ろ向きにして引きずりながら、マオは舌打ちする。
 彼女の心には、今はほとんど、ルルーシュのことしかない。なだめる猫撫で声、困ったように諫める言葉、甘い叱責、慈愛に満ちた囁き。擦り切れた少年の笑顔。得体の知れない恐怖や、兄への謝罪の念、奥底に潜めた懐疑の心よりも、それらは大きかった。
 そしてその中に、芯のように通っているもの。
 ――お兄さま、お兄さま、お兄さま
 彼女の中に、もう、マオのことは一つもない。ただ、ルルーシュのことだけを考えている。
 マオはふと思いついて、車椅子から手を放した。ストッパーがかかっていない車輪が前後に滑り、車椅子は大きく揺れた。少女の華奢な肩が竦んだ。しかし、彼女の顔は、表面上は軽くしかめられているだけだ。風のない水面のように凪いでいる。
 ――お兄さま、お兄さま、お兄さま、
 少女の心の声は大きくなり、その他の雑音がどんどん消えていく。閉じられた瞼は、ぴくりとも動かない。
「気持ち悪いなあ、もう!」
 心が読めるとはいえ、マオには映像の断片と、言葉としての音を共有することしかできなかった。だから、ルルーシュのようにわかりやすくテキスト化できる思考の持ち主でなければ、混沌とした感情の色までは理解できない。
 ――人間なんて、やっぱり変態ばっかりだよ、C.C.
 彼女の声が入ったディスクをなくしてしまったことを、マオは後悔する。彼女の声を思い出そうとする。C.C.、C.C.、C.C.、彼女の優しく甘やかす声、驚いたように褒める声、くすぐったそうに礼を言う声を脳に再生する。
「誰にも言いません」
 再び口を開いた、少女の小さな懇願が聞こえる。
「だから、お兄さまに言わないで…」
 少女の声が邪魔で、マオは先ほど、彼女の口からガムテープを剥がすのではなかった、と思う。
 感覚の向こうには、ルルーシュが、妹を呼ぶ声があった。まだ最愛の少女の危機を知らないそれは、喜びと期待に弾んでいた。

かぶりもの同盟

 今日も果敢につれない相手を構っていたスザクが急に立ち上がり、カレンは瞬いた。両脇を抱えて持ち上げているアーサーが、唸るように鳴く。
「どうしたの?」
 スザクははっとして彼女を見下ろし、何度か口を開閉してから、結局煩わしげに閉じた。振り切るように顔を上げる。
「ちょっとルルーシュに聞きたいことがあったの、思い出して…」
「なんだよ、また二人だけでさあ」
 リヴァルが拗ねて唇を尖らせた。彼は、ここのところ友人が、自分が連れ出す場所以外で楽しんでいるらしいことを不満に思っているらしい。
 カレンには、いったい彼がどうしてそのようにルルーシュに執着するのかがわからない。彼には憧れるような価値はないと、すでに断じた。シャーリーが胸を焦がすほどの男ではないし、リヴァルが思っているほど大人でもない、と思う。
「あ、さっきのこと告げ口すんなよ!? 俺まだ死にたくない、ルルーシュくんは器用だから、すごい技術を持ってそうだなあって言ってたって言ってくれよ!」
 慌ただしく生徒会室を出ようとするスザクの背に向けて、不意にリヴァルは、余裕を崩した演技で頓狂に叫ぶ。先ほどから様子のおかしいニーナがまた、ひぇ、と浮ついた音を漏らす。カレンはそんな二人がおもしろく、リヴァルの言葉が、カレン・シュタットフェルトが眉を顰めるような内容であるにも関わらず、思わず小さな声を出して笑ってしまった。
 しかし、スザクはそれには構わず、うん、と曖昧に頷いて扉を閉めた。
「…なんだ、あいつ」
 拍子抜けしたリヴァルがぶすくれた声を出し、大人しい女子と、大人しく装う女子は、そろって首を傾げた。
 手の中で、アーサーが身じろぐのに気づき、カレンはその少し重い身体を床に下ろす。くったりとくずおれる柔らかい生きものに、どこか恐れにも似た気持ちが込み上げた。
 スザクは、どうしてああも、この猫に嫌われるのだろう。
 彼に対して、一方的な確執は多々あるが、カレンはその点では、スザクに同情していた。スザクが猫に、一種の夢のようなものを抱いていることは、少し見ていればわかる。それが何かはわからないが、しかし、彼のあまりに相手に報われない想いを見ていると、自分と重ねてしまうのか、カレンは物寂しいような気持ちになるのだった。
「…どうして枢木くんに懐かないのかな、君は」
 指を差し出しながら、カレンは気づいた。
 そういえば、この猫に、彼女は構ったことがなかった。常に、誰かが構っているところを、後ろや隣から眺めていたのだ。
 ナナリーやミレイ、ルルーシュには、どちらかと言えば、アーサーは進んで寄っていく。シャーリーやリヴァル、ニーナには、彼らが呼べば応じる。スザクにはまったく見向きもせず、それどころか、ときには攻撃をしかける始末だ。
 しかしカレンは、寄ってこられたことも、自分から構いに行ったことも、なかった。今も、スザクがあまりに無謀な挑戦をしようとしていたから、ストッパーとしてつき合ってやっていただけなのだ。
 ――この猫、私のことをどう思ってるんだろう
 ぼんやりと、ぱたぱたと揺らされる尻尾を見つめて考えていたカレンは、油断しきっていた。そのため、指先に鋭い衝撃が走ったときも、咄嗟に腕を引くことしかできなかった。
「たぁッ!!」
 口をついたのは、病弱な少女が上げるにしては、乱暴な悲鳴だった。
 見ると、指先に獣の歯形がついている。それが何者によってつけられた傷であるか、まさかわからないはずがない。
「ちょっ… 嘘でしょ、」
 ――枢木スザクではあるまいし!
 自分の、手のひらを返すような思考にも気づかず、呆然として、カレンはアーサーを見る。スザクに対するときほどではないものの、その暗い色の体毛は静電気を帯びたようにぴりぴりとしていた。衝撃に、彼女は固まった。
「カレンさん? どうかした?」
「! な、なんでもない!」
 振り返ったニーナが不思議そうに聞いてきて、カレンは慌てて、傷ついた指を隠した。

彼らの瞼の外

 セシルは退出する少女を先導した。
 見事な金髪に覆われた、色気のあるふっくらとした顔立ちや、高校生とは思えない質量の胸を、ロイドは今や一顧だにしなかった。画面に向かい、ピアノの演奏よりも縦横無尽に指や腕を動かして、愛するナイトメアを守るための数式を打ち込んでいる。
 セシルは彼を疎ましげに見やってから、少女に笑顔を向けた。
「お送りします」
「ありがとうございます」
 少女は軽く頭を下げた。帽子の広い鍔がひらりと揺れ、波打つ。鮮やかな色のスカートが、優雅な動きで翻された。彼女を見ない男をじっと見据え、うつくしく微笑む。
「それでは、ロイド伯爵。またぜひ、ご機会を」
「う〜ん、はいはい。じゃあねぇ」
 ロイドは目を細めて、口元だけを笑みの形にした。返事にもなっていない。
 右手が自然と拳をつくろうとしたが、さすがに少女の前で、伯爵を殴るわけにもいかない。セシルは耐え、握り込まれた指を開いた。
 今回の見合い――見合いと称されたこの遭遇は、彼女にとっても青天の霹靂だった。今朝、ロイドの元にコーヒーを運んだ際に、客人があると聞かされたのだ。そうして迎えたのは、無機質な金属しかないスペースから浮いた、華やかに着飾った少女だった。
 唖然としたセシルは、客人の口から、ようやく、その訪問の真意を知ったのだ。
 彼女が知る限り、今までロイドに、見合い話が持ち上がったことはない。彼はすでに、自らが爵位を継いでおり、家のうちには彼以上の権限を持つものはいない。そのため、上から命じられるということはない。さらには異端者として、貴族社会から弾き出されている節もあったので、婚約の話など降りかからなかった。だからセシルは、この男は一生独身のまま、莫大な財産を研究に注ぎ込み続けるのだろうと思っていたのだ。
 廊下を歩きながら、自分がそんな立場にないことを知りつつも、セシルは思わず頭を下げた。
「…すみません、こんなところに」
「あら、ここ、私の学園ですよ」
 少し後ろを歩いていた少女はくすくすと笑う。不愉快に感じた様子はないが、セシルは慌てた。そうだ、彼女は、この学園の理事の孫なのだった。
「すみません! 散らかしてしまっているので…」
「軍部の実験なのでしょう? 当然のことですから、気にしてません」
 貴族の娘としては快活な少女だった。それに幾分か気を和らげ、セシルは呼びかけた。
「あの、アッシュフォード嬢」
「あ、ミレイでけっこうです。ずっと学生をしていましたので、そんなむず痒い名前で呼ばれるのは恥ずかしくて」
 少女は眉尻を下げた。
「では、ミレイさま。ロ、…アスプルンド伯と、どうしてまたこんな席を?」
 その呼称にも視線をさまよわせたミレイは、後半の言葉を聞いて、ああ、と苦笑した。
「もともと、ロイド伯爵がこちらの大学部に間借りの話を通されたでしょう。母がそのとき、強引にねじ込んだ話なんです。伯爵にとっては、ちょっとした義務みたいなものなんでしょうけれど…うちは必死で」
 語る声には、どこか倦怠感と諦念が滲み出ている。セシルは困惑し、はあ、と吐息で返事をした。
「でも、本当に、ユニークな方なんですね。ちょっとおもしろかったな…と言ったら、不敬でしょうか?」
 ミレイは笑った。その笑声は、どこか無理に作りだしたような響きだ。
「その…僭越ですけれど」
 目の前にいる少女が、かわいがっている少年同様、ただの背伸びした高校生に見えて、思わずセシルは苦言をこぼした。ロイドとのつき合いは長い。その経験が言わせたのだった。
「お止めになられたほうが、よろしいのでは? あれだけでもおわかりになったと思うんですけれど、…あんな人ですから」
 きょとんとしてセシルを見てから、ミレイはうっすらと笑んだ。大人びた苦さが、艶めいた唇に浮かぶ。
「大丈夫です。人扱いされないのも、視界に入れてもらえないのも、慣れてますから」

またあとで

「もう大丈夫だよ、ナナリー」
 拘束された少女から少し離れた地点に着地して、スザクは素早くナイフをしまった。床に接触した足裏に衝撃が響くのを堪えて、息を整えた後、声を掛ける。
 ナナリーは答えず、身じろぎもしなかった。ただ、柔らかい流線を描く眉が少しだけ不安げにひそめられ、それで、スザクの声が届いていることは知れる。
 彼女は、兄が言い含めた言葉を忠実に守っているのだった。今、彼女が何かをしゃべれば、監視カメラの向こうにいる誘拐犯にも伝わるだろう。あからさまに様子がおかしければ、不審に思われることは間違いない。だから、スザクが解体に成功しても動いてはいけないと、ルルーシュは妹に指示したのだ。
 今、自分たちは犬のようだと、スザクは唐突に思う。
 ルルーシュの二匹の犬。絶対的な愛の庇護下にあり、彼の優しさを拒まない限りただ慈しまれる獣になることができたなら、それはスザクにとっては、ある意味、幸福なことだったかもしれなかった。
 しかし、ルルーシュが優しく穏やかな声で妹に語りかけたその傍らで、スザクは、彼が口元に伸びるマイクを落ち着かない様子でいじっていたのを見ていた。強ばった肩が時折、何かを思い出すかのように震え出すのも、朝からは考えられないほどに憔悴しきった彼の、下瞼にできた暗がりも。
 目の前の少女を励ましていたいと考えると同時に、彼の隣にいてやらなければ、と眉を寄せる。
「ごめんね、ナナリー。ルルーシュが連絡くれるまで、そのままで我慢して」
 ナナリーは答えないが、きゅっと唇を引き結んだ。それを了解の印ととり、スザクは息をつく。
「咲世子さんが来るまでは、ここにいたいんだけど…、ルルーシュのところに行くよ」
 本当は、ルルーシュには、咲世子が来るまでナナリーに付き添っていろと言われていた。
 しかし、今、彼がどんな人間と対峙しているのか、スザクにはわからない。面識があるらしいルルーシュは、暴力を奮われるという可能性をあまり考えていないようだったが、腕っ節があるとは言い難い、今は銃の携行もしていないだろう彼だ。たとえどんな相手だろうと、危険がないはずがない。そのことが、スザクの焦りを誘う。
 おそらくはナナリーも、スザクが兄の傍に付いていることを望んでいるはずだった。
 少女はかすかに頷く。そして、ほとんど口を動かさずにしゃべった。動かない身体、小作りな整った容貌から、その様子はまるで腹話術の人形のように奇妙だったが、彼女の手の温かさを知っているスザクには気にならなかった。
 水音に消えそうなさえずりを、スザクは正確に聞き取る。
「――お兄さまを、どうかお願いします、スザクさん」
 彼はじっと、不安に耐える少女を見た。
 ナナリーは細い睫を震わせている。視力が飛び抜けていいスザクには、その目尻にうっすらと滲む水が、弱い光を弾いていることまでがわかった。無力な少女は、人並み以上の恐怖にさらされながら、兄を信じて泣かなかった。そして今も、自分よりも、兄を心配している。
 この兄妹に心労をかける者を、スザクは憎んだ。
 軍人でも、生徒会のメンバーでもない、ただのスザクに何かを頼むのは、もう、この兄妹くらいだろう。スザクはそう思う。だからこそ、たとえ服務規程に違反したとしても、二人を助けたかった。
 そのとき、場違いにも、ルルーシュからの夕食の誘いを思い出した。承諾したときの、彼の明るい顔。ナナリーが寂しがっている、という言葉。
 ――今日の夕飯は、二人と一緒に食べるのだ。
 それを思いだし、スザクはふと、心から微笑んだ。
「うん、任せて、ナナリー。行ってきます」