傾国

STAGE 15 / Between the lines

皇子と駆落ち

「失礼しました」
 祖父の部屋を出て、静かな廊下に身を置くと、ミレイは嘆息した。
 ミレイの煮え切らない態度に業を煮やした母は、ついに、一方的に見合いの日取りを知らせてきた。焦りながらもどうにか抗弁しようとした孫を、いつも黙って見ている祖父が、ふと憐れむように見た。それで、ミレイは、もう何も言えなくなってしまったのだ。
 古びた贅沢な装飾を両脇に従えて、ミレイは廊下を歩く。
 歩き出した当初は勢いよかったその足取りからは、次第に日頃の颯爽とした雰囲気が消えていく。それに気づいて、ミレイは一度足を止めた。深呼吸をし、それから、思い出したように憤然と歩き出す。ローファーの踵が、クラブハウスの廊下のものよりも質のいい絨毯を何度も踏みつける。泥でも踏んで、引き返してきてやろうか、と八つ当たりのように思う。
 苛立ちが限界に達しようとしたとき、りりん、と鈴の音がして、ミレイははっと自分の身体を見下ろした。その僅かな音だけで、すぐに音は途切れる。
 立ち止まり、素早く小さな機器を取り出して見ると、メールが届いていた。差出人の欄を見なくても、誰からのものかはわかる。鈴の音に設定してあるのは一人だけだ――優秀な副会長からだった。
 彼は電話が嫌いで、メールはそれ以上に嫌っている。もっともそれは、親しい人間に限られたことで、親しくない人間には、むしろメールでしか応対しない。彼にメールアドレスを教えたのはいつだったか、ミレイはもう思い出せないが、彼の携帯嫌いを知らなかったころは、いくら待ってもメールが来ないことにいらいらしたものだった。
 今はむしろ、鈴の音が鳴るたびに悄然としてしまう。その内容はたいていが、生徒会の仕事に関係したことだからだ。本当に、つまらないメールしか送ってこない少年だった。リヴァルを見習え、と言いたくなる。
「はいはーい、サボり魔の副会長さんは、今度は何のご用でしょうかっと」
 落ち込んでいく気分を叩き直すために呟きながら受信箱を開くと、そこには、話があること、時間ができたときにクラブハウスに寄ってほしいことが、素っ気なく書かれていた。あいさつも、ご機嫌窺いも、何もない。自分から会いに来ようかという気遣いの心もない。
 ミレイは眉を寄せ、次いで、盛大に溜息をついた。
 ――この子に、恋をしていると思ったこともあった。
 はじめて会ったときは、整った顔立ちと高貴な雰囲気、上品で気遣いに長けた姿に、年下とわかっていながら胸を高鳴らせた。小娘だったのだ。
 亡くなったと知らされたときは、しばらく呆然として眠れなかったし、再会を果たしてからは、殴りつけるように話しかけ続けた。そのころには、男に理想を映す時期を過ぎて、ミレイも図太くなっていたから、どれだけ冷たい対応をされても平気だった。
 最後のメイドも彼の妹にやった。妹以外を視界に入れることの少ない彼を、自分の力で笑顔にさせようと必死だった。
 ミレイは、素っ気ないメールを見る。無機質な画面に浮かぶ、アルファベットの羅列からは、彼の考えは窺えない。あのころから数年の時を経て、彼は今、笑顔を浮かべる。しかしそれが、ミレイの努力の甲斐あってのことなのかは、彼女にはわからない。
 あのころの昂揚はとうに消えて、彼を見て胸に射すのは、ただ、むなしい郷愁だけになっている。彼との間にある、薄い絆。ともすれば、リヴァルやシャーリー、彼の友人たちとのつながりよりも希薄な糸。
 それを切ってしまえば、この肌寒いような寂しさから、逃れられるだろうか。
 携帯を構え直し、今から行く、と負けず劣らずの素っ気ない言葉を打ち込んでから、ミレイは逡巡した。親指が薄いボタンの上をさまよい、やがて余計な一文を打ち始める。
 ――駆落ちの誘いなら、いつでも乗るからね
 二人くらいなら養ってみせよう。そう思って、苦笑した。第三者を連れた駆落ちなど、聞いたことがない。しかし、あの少女を置いていくことなど、彼はもちろん、自分にだってできはしないのだ。その理由は違うものだが。
 もう一度全文を読み、それから、追加した部分を消して、ミレイはメールを送信した。