傾国

STAGE 12 / Between the lines

かわいそうなワンピース

 開けたクローゼットの中に服は少ない。
 休日にも部活と生徒会で、あまり着飾ることもなかった。でも、少し肌寒い季節になっても肌を露出できるのは部活で鍛えているおかげだし、他の女子よりも多くルルーシュに会えるのは生徒会のおかげだ。少し損をしている気分になったことはあるけれど、深く後悔したことはない。
 柔らかな素材のワンピースを手に取る。手紙の封を破ってチケットを見たとき、二人で歩いているところを想像したとき、真っ先に浮かんだ服だ。まだ、着ているところを、家族以外に見せたことはない。胸を強調するデザインは、友達に見せるにも少し恥ずかしいのだ。けれど一目で気に入って、母と二人結託してねだった。苦笑しながら、父が買ってくれた。
 ふと、視界に入る色が褪せた。鈍痛がこめかみを刺激する。
 足がもつれ、ふらりと座り込んだ。剥き出しの足に絨毯の固い毛が当たって、気持ちが悪い。立ち上がって、椅子かベッドに座りたいけれど、身体が動かない。
「だいじょうぶ…」
 連絡をくれた人も、綴りが違うとか、言っていた。だからきっと別人だ。すぐに父は見つかって、そうしたら、謝罪する彼に、今からデートをするんだからと宣言して慌てさせてやるのだ。
「親ばかなんだから、お…」
 呼びかけようとして、口を噤んだ。
 気がつくと、ワンピースの腰のあたりを強く掴んでいた。慌てて放すと、シルクの素材は、さすがに皺にもならず、すまして元のなめらかさを取り戻した。まるでルルーシュのようだ。たしかな存在感を持って、けれどどうしてか手応えのない少年。
 不安が胸をよぎる。この服で、本当にいいだろうか。制服以外の格好を見せたことはあまりない。彼は、何か言ってくれるだろうか。
 試着したときに鏡に映した胸元を思い出し、もう少し無難なものにしようか、という迷いが出てくる。この服に合う鞄や靴はあっただろうか、さすがに腕を出すわけにはいかない季節だから、何か羽織るものも必要だ。
 立ち上がり、クローゼットの中を物色する。上着、これは、ああそうだこれも父が買ってくれたものだった。ワンピースと一緒に。だからこれでいいだろう。鞄は、これはあまりものが入らない。何か予想外のものを買ったりもらったりしたときに困るかもしれない。けれど、小さくてかわいい。女の子らしくていいだろう。どうせ、持っている小さな鞄は、これくらいなのだ。あとは学校や部活で使う大きな鞄しかない。靴、靴は、どうしようか。合う靴がなかった気がする。やっぱりだめだ、ワンピースなんて。
 でも、この服でないといけない。これは父が買ってくれたものだ。
 クローゼットを漁る手を止めた。おかしなことを言っている、と思う。父が買ってくれた服だから、なんだと言うのだろう。父はこれからも服を買ってくれるだろう。娘の成長に、喜びと、少しのさびしさを滲ませながら。
 いつか、彼に、恋人を紹介するのはもう少し待ってくれと言われたことがあった。
 恋人ではないけれど、ルルーシュは、来てくれるだろうか。あのとき聞いた彼の声は戸惑いを含んでいて、はっきりとした承諾ではなかった。しかし、チケットをちゃんと受け取って、その後なんの連絡もないのだ。来てくれるはずだ。
 そうだ、それなら、遅れるかもしれないと、連絡をしておかないといけない。
 傍に落ちている携帯を手に取り、慣れた手順で番号を呼び出す。発信のボタンを押そうとして、指を止める。電話は嫌だ。見たくない。通話口から出てくる声を聞きたくない。
 携帯をベッドに放り投げた。ルルーシュへの連絡は、もう少し後でいい。
 電話はしなければいけない。でも、彼の言葉は聞かないようにしなければ。ただ、遅れるとだけ伝えるのだ。断る隙を与えてはいけない、と思う。それを見つければ、きっとルルーシュは。
「ルル」
 ワンピースを着ていくから、お願いだから、私を待っていて。

はじめの雨粒

「変わらないものはない。…か」
 自分で言った言葉を反芻する。
 ミレイは腰をひねり、腰掛けた椅子を回転させた。彼女を乗せたまま、椅子はくるくると回転する。すうっと重苦しいものが頭に降ってくる。本格的に酔わないうちに、床に長い足をかけて止まった。
 変わらないものはない。そして、変わることもない。
 世界には因果というものがある。何かが変わるのだとしたら、それには、必ず落ちたひとしずくがあるのだ。そのしずくを落とすことになる原因は、常に人の奥底に眠っている。
 変化を恐れるから、ミレイはその根元となるものを探る。つまり、人を観察する。
 例えばニーナだ。少し遠い部屋の向こう側、俯いている横顔をそっと窺う。彼女の、子兎のような怯えは、手のひらから感じたこともある。しかし、長い付き合いになるが、ミレイには彼女の内面はいまだに覗けない。それは、近しさがかえって阻害しているのかもしれないが、ニーナが、ミレイを受け入れているようでいて、彼女を拒否しているのではないかと感じることがある。すべて、勝手な見解ではあるけれど。
 視線に気づかない姿から、視線を逸らす。
 誰でも、何かを隠し持っている。そのすべてを窺い知ることは、誰にもできない。
 ミレイは腹を押さえた。中に納まっている内蔵。足をつけた惑星と同じように、それがいつも動いていることを、その勤勉さと同じほどに意識し続けることはできない。
 ――ある、一人の女が死んだとき。
 ミレイはその意味がわからなかった。自分がその後、どうなるのか、考えもせず、すべてを享受していた。その女によって、彼女の世界が支えられていたことを知らなかったのだ。
 そんな彼女の認識に留められることなく、世界は急速に変化し、彼女はその落差に一度引き裂かれた。きれいではないけれど贅沢なドレスは取り上げられ、強制的に出されていたパーティに、今度は参加を禁止された。友達が何人も消えたし、かわいがっていたお洒落なメイドは暇を取り、ミレイに不敬に手を振って去った。
 底辺にまで転落したわけではない。衣食住に不自由したことはなかったし、生まれ持った容姿や才能は、栄光と共に奪われるものではなかった。けれど、すべてが鬱陶しいほどに眩しかったあの頃の光は、今でも時折夢に見る。それは決して、彼女に幸福感を運びはしない。思い出すと、腹に溜まる怒りや空しさ。
 いつもはそれを、叫び声に乗せて散らかしてしまう。不意に叫び出す癖は、生徒会のメンバーには、注目を集める術として呆れと共に受け入れられているが、本当は、褒められたものではないと、ミレイは恥じている。子供の癇癪が、多少形を変えただけのようなものなのだから。
 不意に沸いた叫びを吐き出すべく、すっと息を吸って、しかしミレイは、再び傍らの横顔を窺う。小作りな頭は癖の強い髪に覆われて、表情が窺えないが、ぼんやりと呆けていることはわかる。彼女の思索に、ミレイは入っていないらしい。
 絞り出すように溜めた息を吐いて、窓の外に視線を流した。
 少しだけ、今世間を騒がせている、ゼロのことを思った。何を考えているのかは知れないが、この学園に、何も持ち込んで欲しくない、と思う。仮の寝床。母の思惑や、戦いの匂いに少しずつ浸食されていることに、自分の無力を思う。しかしここでなら、ミレイは好きなもの、離れてほしくないものたちに、迷惑な愛情を示したり、手を伸ばしたりすることができる。ささやかに、守ることもできる。牙を持つ獣だって、ここでは気を休めることができるだろう。日だまりのような場所。
 けれど暴力的な改革は、いつも予測不可能だ。はじめの雨粒が、どこに落ちるか、わからないように。
「…降りそうね」
 曇り空を見上げて、ミレイは呟いた。ニーナは、何も答えなかった。