傾国

空色の沼 -2

 昨晩降った雨の影響で、中庭は汚泥に呑まれていた。
 その周囲に設置された回廊は、重ねられた増設のために影になる場所が多い。日中からどこか寒々しく、密談以外に利用する人間を見かけることは稀だった。そのため、ルルーシュは、そこを好んで使っていた。
 基地の表から本来の勤務先である情報部に戻る途中、そこを通ると、中庭から溢れ出した泥水が、コンクリートの上まで流れ出していた。
 舌打ちし、泥を避けて壁沿いを歩いていくと、ちょうど進路に当たる廊下の端に、下士官が敬礼していた。気負いなく伸びた背筋はぴたりと静止し、身じろぐ様子もない。
 どけ、と言うわけにもいかず、仕方なく泥を踏み、その前を軽く声をかけて通り過ぎようとして、ルルーシュは立ち止まった。用心深く避けていた爪先に、小さく泥がはねた。
「…枢木」
「はい」
 すまして答え、彼はルルーシュを見た。
 緑色の双眸は平坦な光を宿している。濡れた表面に光が弾かれ、奥の感情が窺えない。見慣れた茶色い髪の下、硬い顔つきには、いつしかぎこちなさが消えていた。
 ルルーシュと相対するとき、彼はいつもこうだ。遠くから眺めていた輝きはそこにはない。それを思い知るたび、自分で踏み潰したものを思い、ルルーシュは悄然とする。
「何かご命令が?」
「え、いや」
 見つめる視線をどうとったのか、スザクは眉を寄せて尋ねてきた。とりあえず否定しておいて、しかし足を止めたからには何かを話す必要を感じて、ルルーシュは当惑する。
 しかし、彼が話題を見出す前に、上官の様子に頓着せず、スザクが口を開いた。
「珍しいですね、ランペルージ少佐がこちらにおられるのは」
 意外な言葉に、よく知っているな、と思いながら、ルルーシュは口ごもる。珍しいと言えば、彼から自分に話しかけてくるのも珍しい。本来なら許されない行為を叱責するつもりはなかったが、慣れないことに戸惑ったのだ。
「少し、用でな」
 仕方なく、言葉を濁す。
 スザクにはあまり、クロヴィスのことを聞かれたくなかった。彼は秘匿された部分まで、ルルーシュの事情を知っている。とは言え、非常に上に従順だし、それ以上に潔癖な性質だから、皇族に対して、その情報を利用してどうこうしようなどとは考えないだろうが――
「ああ…クロヴィス殿下が来られていたそうですね」
 意表を突かれて、ルルーシュは思わずまじまじと彼を見つめた。
 スザクは別段関心もなさそうに、真面目な顔を保っている。そのこめかみに添えられた手が静止を続けているのに、慌てて「休め」と命じる。スザクは手を下ろした。
 意図せず立ち話の様相になってしまったことに顔をしかめて、ルルーシュは呟いた。
「…知っていたのか」
「この基地最大のゴシップですから」
 にこりと彼は微笑む。ルルーシュに見せることは稀な、柔らかいものだ。それに目を細めて、ルルーシュは肩を落とした。
「…そうか」
 スザクは、本来、そういった基地の噂に詳しい人間ではない。むしろ、疎い。彼に伝わっているということは、基地の人間すべてが知っていると言っても、過言ではない。
 精神的な疲労に無様に背が曲がろうとするのを、ルルーシュはどうにか立て直した。
 また、上官や同僚たちに嫌味を言われるのだろう。クロヴィス殿下の寵愛はますます激しいようでだとか、私もお願いしたいですなだとか、そういった下劣な陰口を叩かれるのには慣れていたが、居心地がいいはずもない。無視すればするで、お高くとまって、などと言われるのだ。いったいどうしろというのだと、時折怒鳴りつけたくなる。
 しかし、クロヴィスが兄で、後見人だと明かすわけにもいかない。彼は、父方はもちろん、母方の血までが現皇帝の出身一族という、現在皇族のうちでももっとも由緒正しい血統書を持つ身なのだ――たとえ皇族でもっとも無能と冷笑されていても。仕方なくルルーシュは、現状に甘んじていた。
 うなだれたルルーシュを見て、スザクは戸惑ったようだった。恐る恐る聞いてくる。
「…あの、ひょっとして、お嫌いなんですか?」
「は?」
 何を聞かれているのかが一瞬、判断できず、ルルーシュは彼を見返した。続く言葉をどう発すればいいのかわからず、舌を遊ばせているのに、先ほどの話題の続きだと気づく。たしかに、目的語を設定すれば、不敬になる質問である。
「ああ、まあ…嫌い、というわけではないが。しつこいからな、あの人は」
 ふ、と嘆息すると、彼は不愉快そうに眉を寄せた。
 こういうところがまだ我慢のきかない子供なのだな、とルルーシュは思う。先ほどの別れ際、クロヴィスに対しての言動を鑑みれば、自分も決して大人だとは言えないが、客観視点があるだけましだ。
 スザクは、おそらくは自覚がないのだろうが、拗ねた子供が何かをねだるような上目遣いになった。
「嫌なら嫌と、仰ればいいじゃ…いいではありませんか。あなたらしくない」
「…何を言っている、枢木」
 それこそ規律を守る彼らしくないと思いながら、ルルーシュは彼を見た。童顔を目一杯に歪めているのを見て、苦笑する。普段から自分のわがままにつき合わされているのだ。皇族のわがままが気にくわないのかもしれない。
 皺の寄った眉間に指を伸ばして揉みほぐしてやると、スザクは奇妙な表情になり、顔を引いた。
 その嫌気を隠さない様子が、まるで十数分前の自分を見ているようで、ルルーシュは再び、倦怠を感じる。指を引きながら、できるだけ疲れを出さないよう諭した。
「あの人は俺の兄である前に、皇族だぞ。そんなことをすれば、不敬罪で首が飛ぶ」
「え? あ、ああ」
 彼は瞬いた。気を張って硬くしている顔が、幼さを垣間見せる。
 それを見てから、ルルーシュはふと、気疲れに瞼を伏せた。
 軍務のために寝不足の身体では、クロヴィスの相手は辛かった。彼は皇族としては、決して悪い部類ではないが、いかんせんルルーシュとは人種が違う。彼と会うと、いつも倦怠感が全身につきまとうのだ。
 それに、何より彼は、ありとあらゆる意味で、ルルーシュの生命線を握っていた。逆らうことなどできない。さらには、彼はルルーシュの感情を逆撫ですることがうまい。と言っても、本人はそれを意図しているわけではないのだろう。要するに、相性が悪いのである――ルルーシュの側から見れば。たまに癇癪を起こしても見逃してもらえるのはありがたいが、まず苛立たせないようにふるまってほしいものだと思う。勝手な要求ではあるが。
 スザクが窺う声音で呼びかけた。
「ランペルージ少佐?」
「ああ…つまらないことで引き留めてすまなかったな。もう行っていいぞ」
 ルルーシュは口の端に無理やり笑みを浮かべ、手を振った。視線で中庭を差す。
「俺はもう少し、ここで休んでから行く」
 上官と道行きを同じくするのは嫌だろうと気遣ったつもりだったが、スザクは動かなかった。その代わりに、ルルーシュの様子に何を思ったのか、彼は控えめに申し出てきた。
「あの、今晩、爪、削りに行きましょうか?」
「…いいのか?」
 彼のほうから言い出したのははじめてで、おかしな言い方だと冷静に考えながらも、ルルーシュは目を見張った。あの時間は、たしかにルルーシュにとってはある程度癒しになるものだったが――同時に幾ばくかの緊張を強いられもするが、しかし、彼には精神的な負荷を与えるだけのものだとは、さすがにわかっていた。
 スザクは微妙に目を逸らしたまま、唇を尖らせた。幼い顔立ちが強調される。
「ええ、まあ、空いてますし」
「何か予定があるなら、別に、構わないぞ」
 一応の遠慮をしてみせる。すると相手はむっとした様子で、挑むような口調で返答した。
「特にありませんから」
「そ、そうか。なら」
 悪いことを聞いたかと思いながら、衝動のままに頷きそうになって、ルルーシュははっとした。スザクがあまりにあっさりと提案したことが、彼にその懸念を抱かせた。
「枢木、おまえ」
「はい」
 従順に部下は応じる。その様子は、ルルーシュには、どこか諦めたような様子にも見えた。自発的な発言と思ったが、知らず強制するような言葉を口にしていたのではないかという危惧も芽生える。
 ルルーシュは恐る恐る尋ねた。
「…俺の部屋に来ることでだな、どんなことを言われているか、知らないのか」
 彼はきょとんとした。緑の目が、まっすぐに上官を見返す。その仕草はまさしく子犬のもので、ルルーシュは思わず自室に持ち帰りそうになったが、ぐっとこらえる。
 しばらくして、彼は気まずそうに俯いた。
「あの…いいえ、知りません」
「そうか」
 ルルーシュは頷いた。案の定だと、自嘲混じりに苦笑する。
「では、教えてやろう。色狂いの雄狐のイヌだとか、男妾の稚児だとか、そういうことを言われているんだ。おまえは」
「……は」
 部下は目と口を開いた。
 噂に疎い彼のことだ、耳に入れたこともなかったのだろう。彼の周囲には比較的良識派が集まっているから、彼らが噂をカットしていたのかもしれない。そういう、庇護欲をそそるような部分がこの青年にはあった。
 彼の周囲の人間たちが、自分とスザクの関係について苦言を持っていることを、ルルーシュは知っている。機会を見て数度投げられたそれを、聞こうとはしていなかったが、潮時なのかもしれないとは思わせられていた。彼らの言葉にではなく、スザク自身にだ。
 わかっていたこととは言え、好意を感じている相手から苦行のように接されるのは、いい気分ではない。はじめは浮かれていた時間も、スザクの硬化と軟化を繰り返す態度に伴って、いつしか気鬱を運んでくるようになっていた。
「だから、今日はいい」
 言うまでもなく、来る気は失せているだろうが、念を押す。
 スザクはためらいがちに、ルルーシュの様子を窺った。
「でも」
「それに、しばらくは忙しいしな」
 ルルーシュにあまり直接的に構ってこないはずのクロヴィスが、昇進について口に出した。ということは、いずれ、上から通達が来て、この小さな基地を出ることになる可能性は高い。現在の基地の最高責任者は中佐で、ルルーシュが昇進するのは、彼にとって好ましい状態ではないからだ。
 それに、スザクにしても、一兵士として軍功を立てている。いつかはある程度の地位を得られるはずで、そのときは口添えをしてやりたいと、ルルーシュはずっと考えていた。しかしそれには、基地を出てからでは遅い。近いうちに、動き始めておかなくてはならなかった。
 本人にも、それとなく匂わせておくべきだろうと判断し、ルルーシュは瞼を伏せた。
「…いつか言おうと思っていたが、もう、おまえも昇格してもいいころだ。そろそろ…」
 そこでためらい、頬に垂れた髪を掻き上げる。顕わになった左の首筋に、風が当たって冷たい。
「そろそろだな、」
「少佐」
 唐突に、手が、ルルーシュの首もとに伸びてきた。
 ルルーシュは身体を跳ねさせ、無意識のうちに後ずさった。足下で泥水が跳ね、靴の内側に染みこんでくる。冷たい。二の腕にざっと鳥肌が立ち、背中に冷や汗が滲む。
 全身から血が引いていった。その手が皮膚を這い回った感触を、忘れたわけではなかった。
「…なんだ」
 平静を装った声は震えていた。対するスザクの声は、異様なほどに落ち着いていた。
「動かないでください」
「な、やめろ、」
 手入れがないために花の一つもない中庭には、浅い沼ができあがっていて、降りてきた空の色を映している。スザクの手から身をかわして、ルルーシュは咄嗟に、そこへ足を踏み入れた。防水の切れた布の継ぎ目から、冷気が実体とともに足を汚す。
 無言で駆け抜けようとすると、襟首を掴まれ、引き戻された。呻きながら、その慣性を利用して、今度は反対の方向へ行こうとする。しかし柱の脇をすり抜ける前に、腕を捕らえられた。
「やめ、っ」
 容赦なく追い詰められ、喉がしゃっくりのような音を立てた。背中が柱に当たる。その揺るぎなさが、今は恐怖を呼んだ。それ以上後退できないという事実に、脚が震え出す。
「枢木ッ」
 上がった声はみっともなく裏返り、咎める響きにもかかわらず、女の悲鳴のようだった。ルルーシュはそれを恥じ、淡く頬を染める。それをなんと思ったのか、スザクはほんの少しだけ、柔らかい声を出した――ルルーシュの気は少しも晴れなかったが。
「何かついてますよ」
「は」
 皮膚の硬い指が、襟に隠れた首筋を撫でた。頸動脈の辺りに、少し太い親指が、拭い取るようにふれる。首を半周した四本の指は、髪の生え際に差し込まれ、項から肩へと撫で下ろされた。
 悪寒が背筋を駆ける。首は動かなかったから、目だけで左右を見、人が来ることを期待したが、あいにく声すら届きそうになかった。もともと、人気のないのを好んでそこを通っていたのだから当然だ。
 部下の眼差しが自分に向けられているのが、今は恐ろしく、彼の目を直視できない。このまままた、あの夜のようなことになるのかと、頭をよぎった考えに腰から下が震えた。
 しかし最悪の想像は現実にはならず、腕は呆気なく退けられた。
「あ…、…すまない、な?」
 本当にただ何かついていたのをとろうとしていたのかと、ルルーシュはほっとして、詰めていた息を吐く。
 だが、その気が緩んだところに、互いの顔の前に、汚れをぬぐった指が突き出された。過剰な反応を反省しようとしていたルルーシュは、再び息を呑み、硬直する。
 人差し指にとられた粘液らしいものが、親指との間で擦り合わされ、短く糸を引いた。澄んだ桃色が、淡く白を得て泡立つ。鼻先で強烈な甘い匂いが立ち、瞬く間に脳にまで充満したそれに、ルルーシュは小さく喘いだ。息苦しい。
「なに…」
「これ…裏宿で売ってる女性用ジェルですね。けっこう高いんですよ」
 呟くと、彼は汚れた指をそのままに手のひらを開き、いきなりルルーシュの顔の横についた。だん、と破裂するような音がして、首が自然と竦む。後頭部で頭髪が、壁にこすれて乾いた音を立てる。
 それに紛れて、耳に、指を引きずる小さな音が届いた。尉官の制服に包まれた腕が、少しずつ下がってくる。こめかみと耳を掠め、それに合わせて、スザクの顔が近づいた。その表情を窺う余裕はない。
 ルルーシュは喉からか細い声を上げた。
「さわるな…ど、け」
 ようやく動いた手が、茶色い袖を掴んだ。軽く引くが、力は入らず、なんの抑止力にもならない。
 しかし、スザクは腕を止めた。
「行きますから、今晩」
 代わりにひそりと囁きが落とされ、ルルーシュの応えを待たずに、気配が離れる。薄暗く陰が落ちた幼い顔立ちの中、睨みつけるように一度、緑が光る。
 呆然と見送る中、スザクは足早に回廊を出て行った。少し遅れて、走るような速さになった足音が、反響してルルーシュの耳に届いてきた。それが聞こえなくなるまで、ルルーシュは動かなかった。
 やがて視線を転じて壁を見ると、なすりつけられた桃色の粘液で、灰色の壁は黒く濡れていた。立ちつくして、ルルーシュはその小さな黒が次第に乾いて消えていくのを見ていたが、しばらくして目を逸らした。
 それが、自分のすべてを否定するもののように見えた。
「…こんなはずじゃ、」
 泥水の中に突っ込んだ爪先が、いつの間にか忘れていた冷たさを訴えてくる。青い中庭を眺めやり、ルルーシュは途方に暮れた。