傾国

空色の沼 -1

「やあ、ルルーシュ」
 親しげに声をかけてくる男を、ルルーシュは冷たい目で見た。
 なめらかな、この上なく金糸に近い髪に、空色の双眸は晴れやかだ。青い皇族の服は、彼の本来持つ気質を際立てていた。もう三十代の半ばに近くなるが、高貴さと同時に、無邪気さを感じさせる。その背後には、顰め面をしたまだ若い男が控えていた。護衛だろう。
 ルルーシュは貴族的な仕草で腰を落とし、皇族に対する礼を取った。
「クロヴィス殿下。お久しぶりでございます、再び謁見の機会を賜りまして、光栄の至りです」
「うん。じゃ、どこか二人きりになれるところに行こう」
 ルルーシュの言をほとんど無視して、クロヴィス・ラ・ブリタニアは彼の手首を握った。細いな、ちゃんと食べているか、などと呟きながら、遠慮もなくぐいぐいと引きあげる。腕だけが持ち上げられ、ルルーシュの膝が床に着いた。頬が少し歪む。
「殿下、」
 どうにか咎める響きを抑え、困惑した音を形づくる。もちろん、そんなことで、クロヴィスが止まるはずはない。聞こえない素振りで、親しげな命令を下す。
「すまないが君、部屋を用意してくれたまえ」
「は、すでに準備できております」
 息を潜めて待機していた下士官が畏まり、案内に歩き出す。ルルーシュは軽く息をついて立ち上がり、離された腕の乱れた裾を直してから、威厳のない足取りで下士官に続くクロヴィスの斜め後ろに従った。背後にクロヴィスの護衛官が追ってくる気配がある。
「こちらで」
 やがて、奥まった一室に辿り着いた。他の部屋と比べて、一回り扉枠が大きい。蝶番も、流線的なフォルムの優美なものである。しかしルルーシュは、それが、ただ据え付けのものと取り替えられただけの、見せかけを取り繕ったものに過ぎないことを知っている。
 こういった不自然には敏感なクロヴィスにも、おそらくはわかっているだろう。しかし、彼は頓着しなかった。軽薄さと優雅さと混ぜ合わせた不思議な笑顔で頷いている。
「ああ。この前とは違う部屋だな…あ、ジェレミア卿、君は別室で待っていてくれたまえ。それと、その荷物」
「私がお持ちいたします」
 寄こせと手を出すクロヴィスを遮り、困惑した顔の青年に向き直る。彼は少し渋ってから、主の催促する声に、ルルーシュに小脇に抱えていた荷物を渡した。中で何か、固いものがぶつかる音がする。それを、下士官が、好奇心を剥き出しにした目で見つめる。
「じゃあ、私たちが出てくるまで、誰も入らないように」
 無駄に皇族的な笑顔をふるまい、クロヴィスは腕を組んだ。ルルーシュは嘆息をかみ殺し、荷物を片腕に抱え直すと、扉を開いた。
「どうぞ、殿下」
「すまないね、ルルーシュ」
 白々しく礼を言い、開かれた四角の中にクロヴィスが入り込む。
 彼が室内に完全に身体を入れたのを見届けてから、ルルーシュは蝶番から手を離し、ゆっくりと閉じ始める隙間に、猫のように滑り込んだ。視界の端を、ジェレミアと呼ばれていた護衛官の、驚愕に見開いた目がよぎった。オレンジだな、と思う。
 そうして扉を閉め、振り返ったところに真っ先に目に入ったのは、大きな寝台だった。
 天蓋こそないが、シーツに皺はなく、ベッドメイクは完璧の様子である。枕脇には小花が散らされていた。サイドテーブルには、昼過ぎには無用の、傘がまろやかなラインを描く灯りが置いてあり、その足下には、色とりどりのガラスが立っていた。
 無骨な雰囲気がぬぐえない内装は、他の部屋と変わらない。しかし室内には、クロヴィスが好むと言われている、甘い花の香料が漂っている。
「……」
 ルルーシュは黙り込んだ。もとからあまり、口を開いてはいなかったが。
「やあ、相変わらずだな」
 クロヴィスは愉快げに言うと、寝台を無視し、隅の窓辺に置かれたテーブルに向かった。さっさと腰掛け、手招く。
「ほらルルーシュ、早く来い」
「わかりましたよ」
 嘆息すると、ルルーシュは彼に従った。向かいに腰掛け、荷物をテーブルの上に置くと、彼が手をかけるよりも先に、クロヴィスがいそいそとそこから木製のチェス盤を取り出した。すでに使い込まれて、細かい傷だらけのものだ。
 了解があるので、色を決める必要はない。クロヴィスはすぐに自分の駒を持った。
「さて、私が白」
「私が黒ですね」
 淡々と確認し、互いに駒を並べる。
 すべての駒がそれぞれの位置に着くと同時に、クロヴィスは初手に、気負いなくナイトを動かした。ルルーシュは少し目を細めて、自分のキングに手をふれる。動かせはしないから、ただ、その木の王冠を撫でるだけだ。変わらない癖を微笑ましげに見守る視線が、少し鬱陶しかった。
「おまえ、今は何をしてるんだ?」
 ふとクロヴィスが尋ね、その無理やりにひねり出した陳腐さに、ルルーシュは渋面になった。既視感をおぼえたためである。それも、話し手と聞き手を逆にした形でだ。
 億劫に口を開き、応じる。
「…少佐です」
「この間来たときもそうだったな」
「そう簡単に昇進したりしません」
 素っ気なく答えてその話題を打ち切ろうとしたルルーシュだったが、クロヴィスは引き下がらなかった。
「バトレーに聞いたが、おまえ、本当なら将官になっててもおかしくないらしいじゃないか。上層部に睨まれているとか聞いたぞ」
 ルルーシュは憮然とした。
「…放っておいてください」
「なんなら私の名を出しても…」
 聞き分けのないことを言うクロヴィスに、ルルーシュは目を眇めた。紫の瞳が険悪になったのに気づき、彼は口を閉じる。
「話がややこしくなるだけです。いいから、放っておいてください」
 黒いクィーンを盤面に叩きつけると、クロヴィスは思わずといったふうに、白いルークを進路に置いた。その背後に現れた白のキングへの道を、ルルーシュは睨みつける。クロヴィスがたまに出すイレギュラーな悪手は、いつも彼を不機嫌にさせた。
 ルルーシュの正面で、うっかりした駒運びをどう挽回するかと盤面を見下ろしていたクロヴィスは、やがてぽつりとこぼした。
「あのな、我が妻が、この間、絵を燃やしてしまったんだ」
 突然の言葉に、ルルーシュは盤面に視線を注いだまま答える。
「ああ、もしかしてあの、禿頭の老人が雲から首を突き出しているあれですか? いい判断ですよ」
「あれは神だよ、ルルーシュ。それとは違う。東洋の、死後の世界を描いた絵なんだ。スミ、という黒い絵の具と、何か赤い絵の具で描かれていて、なかなか独特の趣があってよかったのに」
「へえ」
 ルルーシュには絵のことはさっぱりわからない。打てるのは、気のない相槌だけだ。
「彼女は、どうも、それが東洋の呪具だと思ったらしいんだな」
 あまりに萎れた声に、そこでルルーシュが顔を上げると、クロヴィスは、思っていたより打ちひしがれた様子で肩を落としていた。相当ショックだったのだろう。絵道楽だけは、この皇子が一貫して持ち続けており、世間から揺るぎない評価を受けている趣味なのだ。
 嘆息を押し隠し、ルルーシュは少しだけ柔らかい声を出した。
「…何もそれは世界に一枚というわけではないのでしょう? あなただって、あの女の前に、そんな大切なものを放置するわけがありません。燃やされてもいいものを置いておいたはずです」
「……」
「あの女が、あなたのその絵を燃やしたことが、悲しかったんですか?」
 うん、とクロヴィスは小さく呟いた。子供のような声だ。ルルーシュは重ねて問う。
「あの女が嫌いですか?」
「…いや、そんなことはないけれど。彼女は私に合わない」
 二十代の終わりに妻を迎えて以来、彼はずっと、同じことを言い続けている。それはたしかに事実だが、もともと、足りない部分を補い合うようにと縁組みされた二人だ。趣味も主義も、合わないのは当然である。
「…ああ、どうして彼女は私に口出ししてくるんだ。放っておいてくれればいいのに…」
 この魅力がいけないのだろうかと肩を落とすクロヴィスに、ルルーシュは冷たい視線をやった。彼は、義兄が言うことがまったくの事実であることを知っていたが、自分で言われると、さすがに同意する気も失せる。
「では、宰相閣下に取りなしを頼まれてはいかがですか」
「ルルーシュ、意地の悪いことを言うな」
 クロヴィスは拗ねたような目で見返してきた。彼は、すぐ上の義兄を苦手にしているのだ。
 はあ、と吐息で返答してから、ルルーシュは数秒、目を閉じた。どうして、年上の男の我が儘と愚痴を聞いて、慰めてやらなければならないのだろう。
 あの部下も、自分と話しているとき、こんな気分なのだろうか。そう思うと、気が落ち込んだ。
「そう言えば、ルルーシュ。あの下士官、ちゃんと部屋の前から消えていると思うか?」
 クロヴィスがふと、興味深げな目を扉のほうへ向ける。
 皇族にそんな野暮をするほど暇な人間はこの基地にはいないだろうと思いながら、ルルーシュは応じる。
「さあ、聞き耳を立てているかもしれませんね。喘ぎましょうか?」
「…ははは!」
 目を丸くしてから、クロヴィスは高らかな笑声を上げた。
「なかなか言うようになったが、おまえには情緒というものがないな。もう少し勉強しなさい」
「けっこうです。殿下こそ」
「ん? …あ」
 しばらく盤面を眺めてから、クロヴィスはむっと唇を引き結び、眉を寄せた。それから、情けなく嘆息して、白のキングを倒した。小さな音がして、王冠が黒い騎士の足下に触れる。
「参った。おまえ、容赦がないな」
「もう少し、考えなくてもよろしいので?」
「ふん。次回の課題にしておこう」
 鼻を鳴らすと、傷のない指が、乱暴に駒を片づけ始めた。
「一戦でいいんですか?」
 それを手伝いながら、少し拍子抜けして、ルルーシュは首を傾げた。一戦目はいつも、肩慣らしのために行うものだった。クロヴィスは、訪ねてくれば、半日以上滞在するのは当たり前で、長いときには泊まりがけで対戦することもある。時にはルルーシュの絵を描くために数日籠もる。基地側も、クロヴィスの来訪を聞きつけて、そのつもりで準備をしているのではないか。
「今日は視察の帰りだし、ジェレミアは煩いんだ。――そうそう、シーツを乱しておかないとね」
 クロヴィスはチェス盤をまとめる。案外慣れた手つきで荷物をつくると、立ち上がった。
 チェスでの意趣返しをしようという魂胆なのか、楽しげに寝台に向かう。サイドテーブルに置かれたいくつかの瓶を見つけて、彼は首を傾げた。様々な色と形の、丸みを帯びたガラス製のそれを手に取る。
「ルルーシュ、濡らしておいたほうがいいと思うか?」
「…好きにしてください」
 ルルーシュは扉横の壁に背を預けたまま、呆れて彼のすることを見守った。
 絵画に造詣の深いクロヴィスの手によって、室内は、芸術的に、事後の風景へと塗り替えられていく。枕脇の小花は床に落とされ、踏みつけられた。数度、優雅に殴られ仇のように抱きしめられた枕はくたびれ、たっぷりと含まれた羽根が少しシーツに紛れる。敷布の裏にたくし込まれたシーツは、引き出され、皺をつけて丸められた。
 仕上げと言わんばかりにシーツに垂らされた、ねっとりとした液体から立ち上り混ざり合う数種の匂いに、ルルーシュは顔を歪める。
 しばらく下賤な作業に勤勉に働いてから、クロヴィスは物足りなげに室内を見回した。
「熱気と湿気が欲しいところだな」
「窓を開けて換気した設定にすればどうですか。…もういいでしょう、俺は先に出ますよ」
「あ、待て」
 わざわざ駆け寄るようにして、窓の掛けがねを外して開くと、クロヴィスは蝶番に手をかけたルルーシュの隣についた。彼の詰襟に指を伸ばす。少し濡れたままの爪が首を掠り、冷たい。ルルーシュは小さく喉を鳴らす。
「おまえ、襟元を乱しておかないか」
「あなたの娯楽にそこまでつき合えません」
 ルルーシュはふれる手を、首を振って凌いだ。
「…仕方がないな。私が乱すか」
 そう言って、本当に首周りをくつろげた男に、ルルーシュは額を抑えた。悪趣味にも程がある。
 扉を開けると、やはりクロヴィスは、さっさと外へでる。結局彼は、一度も蝶番に触れなかった。誰もいない廊下を見て少しつまらなげな顔をしてから、振り返る。
「もちろん、見送ってくれるだろう、ルルーシュ」
 言われずとも、それをしなければルルーシュは、いい口実を得たとばかりに不敬罪でまた処分される。
「了解しました」
 そう言って、先導して歩き出すと、クロヴィスがすかさず文句をつけてきた。
「もう少し、腰がだるそうな歩き方はできないか? 私が下手だと思われたらどうする」
「どうもしませんよ」
 周囲に人がいないことを確認してから、ルルーシュは吐き捨てた。
 その響きが殊更冷たいのに、クロヴィスは少し黙った。きゅう、という不審な音にルルーシュが振り返ると、彼は孫に暴言を吐かれた祖父のような傷ついた目で見てきていた。ルルーシュは、腹の底から怒りが沸き上がるのを止めることができなかった。散々人の神経を逆撫でしておいてから、被害者面をして、と思う。
 無視して、そこらに敬礼していた下士官を捕まえ、護衛官の控え室に連絡を入れさせると、正面玄関に向かう。クロヴィスは、時折益体のないことを話しかけながらも、従順に着いてきた。人目があるので、それには仕方なく答えながら、ルルーシュはさりげなく足を速めた。
 頼み事をした下士官は随分行動の素早い男だったようで、二人が玄関に辿り着いたときには、すでに車は待機しており、クロヴィスの護衛官が主を待っていた。
 くるりと振り返り、ルルーシュは短く送る挨拶を述べる。
「それでは、殿下」
「…ああ」
 悄然とうなだれたままそこへ向かおうとして、クロヴィスはふと、振り返った。
「なあ、ルルーシュ」
「は、なんでしょうか」
 畏まった声を出すルルーシュに頓着せず、クロヴィスは晴れた空の瞳を、晴れさせたまま尋ねた。
「手紙を出せばどうだ。おまえたちは…」
「クロヴィス殿下」
 少し高い声で遮ると、ルルーシュは慇懃に微笑んだ。
「…ああ、なんだい」
 クロヴィスが瞬く。
 ルルーシュは腕を貴婦人のようにかざし、車の前に突っ立つ護衛官と、彼によって開けられた後部座席のドアを示した。
「ジェレミア卿が待っておいでです。ご機嫌よう、このような小汚い場所に、二度とおいでなさらぬよう」
「いいや、また来るよ、ルルーシュ」
 クロヴィスは何も聞かなかったかのように朗らかに義弟の名を呼ぶと、ゆっくりと身を翻した。
 控えていた護衛官が、何事かと囁く。それに悠然と首を振って、金と白と空色に身を包んだ男は車の中にその色を隠した。護衛官の双眸が、不敬を咎めるようにこちらを睨もうとして、クロヴィスの呼ばわりを受けて慌ててその後を追う。
 それを少し呆然として見て、その車の排気が空気に消えてから、ルルーシュは舌打ちした。